第十五章 影山沙希
さらに数日が経過した。淫魔術と思しき影響は、その広がりを留まることを知らなかった。日に日に構内のカップルは数を増していった。
そして、そお影響は、祐真の身近なところにまで迫っていた。
ある日のことだ。朝、祐真が登校し、自分の席で今後の対策を頭の中で模索していると、背後から声がかかった。
「おはよう祐真」
聞き慣れた声であり、星斗のものだとわかる。
おはよう、と返事をし、振り向いた祐真は口をあんぐりと開けた。
登校してきた星斗の隣には、一人の女子生徒が立っていたのだ。星斗とその女子生徒は、中睦まじげに腕を組み、幸せそうに顔をほころばせていた。
「せ、星斗。なんだよそれ」
祐真は慌てふためきながら、思わず立ち上がった。ドッキリでも仕掛けられたかのような気分に陥る。
「いやーなんだか告白されて、俺たち付き合うことになったんだ」
星斗は照れたように頭を掻き、隣の女子生徒と目配せし合う。どちらも初々しい仕草で、まさに付き合い始めたばかりの男女カップルといった風情だ。
「し、しかし……」
祐真は二の句が告げないでいた。もてないことでは祐真と双璧を成す星斗に、まさか彼女ができるとは。いや、違うだろ。これは淫魔術の仕業だ。だから星斗の実力ではない。だから、気落ちする必要はないのだ。だけど、もしかしたら、本当に星斗の実力で手に入れた彼女なのかもしれない。少なくとも先を越されたのは事実だ。なんてこと。
煮たぎった鍋のように、脈絡のない思考が頭の中を駆け回る。祐真は混乱していた。自分と同じレベルの親しい友人に、彼女ができたことで、祐真のプライドは大きく軋み音を立てていた。間違いなく、淫魔術が原因であるため、気落ちする必要はまったくないのだが、その思考にシフトする余裕が祐真にはなかった。
「というわけで俺たち向こうで話をするわ」
口をぽかんと開けたままの祐真を置き去りにして、星斗は女子生徒と腕を組んだまま去っていった。
しばらくの間、魂が抜けたようにその場に佇む祐真。出来の悪いドッキリでも仕掛けられている気分だ。
その時である。再び、背後から声がかかった。
「おはよう」
直也の声だ。ベストタイミングである。今しがた目撃したショッキングな光景を話し、気分を落ち着けよう。
祐真は振り返った。そして、絶句する。満面の笑みを湛える直也の隣には、女子生徒が立っていたのだから。
祐真は眩暈を堪えながら、直也に訊く。
「な、直也どうしたんだ?」
直也は恥ずかしそうに頭を掻くと、隣の女子生徒と見つめ合った。とても親しげな雰囲気が醸し出される。
「なんだか告白されちゃって、僕たち付き合うことになったんだ」
直也は、悪夢のような言葉を発した。
祐真は愕然としたまま、身動き一つできないでいた。
昼休みになり、祐真は屋上へとやってきていた。
昼食はすでに済ませてある。一人きりの弁当。星斗と直也は、それぞれ新しい彼女と昼食をとっており、祐真の席など寄り付きもしなかった。
祐真は空を見上げ、目を細める。本日は快晴なり。上空には澄んだ青色が海原のように広がっている。しかし、祐真の心は漆黒の闇に沈んでいた。
親しい友人が立て続けに、彼女を作った。これはショックなのだが、原因が淫魔術の可能性大なのだ。それだけ、邪悪な力が迫ってきている証でもある。
祐真はフェンス近くまで行き、運動場を見下ろした。当たり前だが、今は昼休み中なので、人っ子一人見当たらない。以前、ユーリーと戦った時の光景が自然と想起される。
祐真はリコの姿を思い出した。今のところ、この学校の現象について彼には話をしていない。確実に淫魔の仕業とは断定できなかったし、話すタイミングも掴めなかったためだ。
しかし、こうなってはもう黙っておくわけにはいかないだろう。今日アパートの戻ったら、即刻リコに報告だ。そして、対策を打ってもらおう。
祐真が決心し、再び空を見上げた時だった。背後で扉が開く音がした。誰かが屋上へと入ってきたのだ。
祐真は反射的に振り向いた。屋上に入ってきたのは一人の女子生徒だった。はじめは誰かわからなかったが、見覚えがあることに気づく。
屋上にやってきたのは、クラスメイトの女子だった。確か、川崎江実とかいう名前だったと思う。目が細く、やや底意地の悪そうな容貌の女だ。
江実は、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。おそらく、目当ては自分だ。一体、なんの用だろう。
祐真が怪訝に思っていると、江実は目の前で立ち止まった。それから上目遣いで見てくる。
「あの、望月君」
江実は口ごもりつつ、祐真の名前を言う。緊張しているようだ。
「何?」
祐真は返事をしながら、とある予感にとらわれていた。現在、学校を覆っている異常事態と、このシチュエーション。まさか……。
江実はぺこりと頭を下げたあと口を開く。それは祐真の予想通りの言葉だった。
「羽月君、あなたのことが好きになりました。付き合ってください」
江実は振り絞るような声を出す。演技でないことは、はっきりと伝わってきた。剥き身の好意だけがそこにあった。
この女子が告白したのは、淫魔術の魔の手に侵食されたためだ。本心ではない。淫魔術は本人の意思すら捻じ曲げて、好意の感情を抱かせる邪悪な洗脳システムなのだ。
祐真は困惑した。どうしよう。受け入れるわけにはいかないが、とっさに断る口実も思いつかなかった。なにせ、こっちはろくに女子から告白された経験のない陰キャなのだから。
祐真が返答に困窮していると、江実がゆっくりと歩み寄ってくる。哀しげな表情だ。祐真の戸惑いを、告白に対する拒否感であると受け取っているようだ。
「お願い。返事を聞かせて」
そして、江実はこちらの手へ腕を伸ばした。おそらく、手を握るつもりだろう。
祐真は反射的に身を引いた。江実の表情が曇る。細い目が、わずかばかり吊り上った。
「なんで拒否するの?」
江実は悲痛な声を上げ、再度こちらの手を握ろうとしてくる。
祐真は飛んできたボールを避けるような動作で身を捻ると、江実の手を避けた。
「ごめん。告白は受け入れられない」
江実が淫魔術にかかっているのなら、当然避けるべき相手だ。付き合うことはできない。触れられるのも。
江実はかっと目を見開いた。
「羽月君! 私の告白を断るなんて!」
江実は唾を飛ばしながら、叫んだ。
「ごめん」
祐真は頭を下げると、足を踏み出した。江実の横を通り抜け、屋上の出入り口に向かう。
「待って!」
江実が背後で叫ぶが、祐真は無視をした。幸い江実は追っては来ず、祐真は屋上を出ることができた。
最後に、祐真はちらりと背後を振り返った。江実はじっと俯き、肩を震わせている。泣いているのかもしれない。
少しだけ、祐真の中に黒い染みのような罪悪感が広がる。彼女が淫魔術に影響された結果とはいえ、告白を無下に断ったのだ。悪いと思う気持ちは生まれていた。
傍から見れば、青春ドラマの一幕だろう。だが、実情は違う。不可思議な力が根底に流れるノワールの世界である。
情けは無用である。一刻も早く、解決しなければ。
しかし、リコへの相談は待ったほうがいいかもしれない。江実の命に関わる恐れがあるからだ。
沙希に対して、あれほど嫉妬したリコである。祐真に告白してきた女子がいたと知ったら、何かしら敵意を持ってもおかしくはなかった。
少なくとも、今はまだリコに現状を報告するタイミングではないのだ。江実の今後の動向を見て、判断する必要があるだろう。
教室へと続く階段を下りながら、祐真はそう思った。
それからしばらくの間、江実のアプローチは続いた。毎日のように、祐真を『口説いて』くるのだ。
同時に、カップルの数も日を追うごとに増えていった。一生彼女なしの仲間だと思われた星斗と直也も、今ではすっかり『リア充』の仲間入りである。もっともそれが、淫魔術という不可思議な力の影響であることは、知る由もなかったが。
祐真は朝、登校するなり、変わり果てた学校の惨状に改めて目を見開いていた。
どこを見ても、男女のカップルばかり。人目も憚らず、乳繰り合っている。ここがカップル喫茶でもあるかのように。
現在、祐真のクラスでカップルになっていないのは、祐真と彩香、江実、あとは転校生の影山沙希くらいだ。
彩香は現状を危惧してか、今は休学中である。江実は祐真が断ったため、カップルが成立していないだけで、淫魔術にはかかっているだろう。
つまるところ、二年一組において、完全に無事だと言える者は、祐真を除いて一人しかいなかった。
祐真は、その者の姿を自分の席からそっとうかがう。
沙希は自分の席に座り、おどおどとした様子で周囲を見回していた。教室内で展開されているピンク色の世界に、戸惑いを隠せないでいるようだ。
これまでは、美少女転校生という理由で、多くの男子生徒から囲まれていたが、今は一人である。
沙希の象徴のような豊満な胸は健在で、ここからでも制服越しに確認できるくらいだ。おっとりした整った顔も、相変わらず素敵だ。
祐真は自分が沙希に見惚れてしまっていることに気づき、はっとする。いけない。これでは出歯亀ではないか。沙希に知られたら嫌われてしまう。
祐真は無理矢理に沙希から目を逸らし、机の天板を見つめた。しかし、と不思議に思う。
どうして沙希は無事なのだろう。あれほど大勢の男子に囲まれていたのに、誰も沙希を狙わないというのも妙な話である。転校生だから標的にされていないのか。
あるいは、沙希が召喚主なのだろうか。自分を除き、このクラスで唯一無事の存在だ。疑うのは当たり前である。
だが、転校早々、淫魔術を発動させる目的がわからなかった。そもそも、花蓮に続き、転校生がピンポイントで犯人という流れが何度も続くのも疑問である。
このクラスが発端であるのは祐真の間に過ぎず、他のクラスや学年では、まだまだカップル化していない生徒も多いため、安易に沙希を疑うのは早計かもしれない。
ともかく、このままでは非常にまずいだろう。いつぞやのBL化計画のように、いつ何時自分の身に危険が迫るかわかったものではなかった。すでに現状、目を付けられているのだから。
「おはよう羽月君!」
明るい声が聞こえた。声の主の姿を確認せずともわかる。江実が登校してきたのだ。
「……おはよう」
祐真はうんざりしながら江実に返事をする。江実は細い目をほころばせ、祐真の席の前に立った。
「どうしたの? 考え事?」
江実は顔を覗き込んでくる。祐真は顔を逸らした。
この女子のせいでリコに相談できないことは、痛感の極みである。江実のことを隠して伝えることも考えたが、逆効果だろう。確実に江実の件はリコの耳に入るはずだ。そうなれば、江実の身の安全は保障できない。
もういっそ、江実などどうでもいいではないかと割り切ることも可能だが、夢見が悪くなること間違いなし。操られてるとはいえ、好意を抱き、告白してきた相手だ。さすが見捨てることはできなかった。
「ねえ、羽月君。いい加減私たち付き合おうよ」
江実は幾度となく聞いた文言を口にする。祐真は肩をすくめ、首を振った。
「何度も言うけど、付き合えないよ」
祐真は断ったものの、江実は引き下がらず、しばらくアプローチを続けた。
だが、HRの時間が迫ると、残念そうな顔で席へと戻っていった。祐真はほっと胸をなでおろす。
HRが始まり、担任教諭の朝の伝達事項が行われる。最近増えている校内のカップル化現象について、注意喚起がなされた。
祐真は漠然と担任教諭の話を聞き流しながら、ぼんやりと考える。
この現象の犯人の目的を。
彩香は己の野望のために全校生徒をBL化させ、古里は復讐のためにGL化させた。両者には明確な違いがあり、前者は不特定多数が標的、後者は特定の人物が標的である点が挙げられる。
後者はより特徴的で、彩香を自身と同じ目にあわせるため、わざわざ全校生徒を巻き込んだテロ行為であった。
今回の一件はどうだろうか。特定の人物が標的なのか、無差別攻撃が目的なのか。
しかし、男女のカップルが発生するという現象に、なんの意味があるのだろうか。BL化やGL化などなら、何か特別な意味を感じるが、ただ男女のカップルが生まれているだけである。
犯人の意図が全くわからなかった。それに彩香が話してくれた、告白は全て女子生徒かのほうから行われる、という現象も今のところ理由不明だ。
現在、森に迷い込んだように、わからないことばかりだった。
「えー、そのため、未成年であなたたちは……」
担任教師の声で、祐真は現実に引き戻された。教師は、不良の素行を咎めるような強い口調で、蔓延している男女カップルの恋愛に対し、叱咤をしていた。
それに対し、クラスメイトたちはどこ吹く風だ。時折、カップリングが成立している者同士、目配せし合う始末。このまま放置していても、確実に解決しないことの表れでもあった。
祐真は頭を抱えそうになった。
数日が経ち、祐真へと行われていた江実のアプローチは鳴りをひそめた。やがて、次第に江実は祐真の元にやってこなくなり、別のクラスの男子と付き合い始めた。
言うなれば、見切りを付けられたのだ。だが、これでよかったと思う。淫魔術にかかるリスクが消えたのだから。少しだけ、寂しい気もするが。
しかし、これにてようやくリコに相談できるようになった。すでに江実は別の男とくっ付いたのだし、リコの嫉妬を買うことはないはずだ。今日にでも相談したほうがいいだろう。
そして――。
祐真は沙希へと視線を向けた。
これでこのクラスにおいて、休学している彩香を除き、カップルが成立していないのは二人だけとなった。
胸の奥で熱い想いが、ポップコーンのように弾ける。これを好機とし、沙希と親密になれるきっかけになるかもしれない。
あわよくば、あの魅惑的な巨乳すらも、我が手で……。
少しだけ、彼女と話をしてもいいかもしれないと思った。
影山沙希は、自分の席に一人の男子生徒が近づいてくるのを、肌で感じ取っていた。
羽月祐真。このクラスで数少ない、カップル化していない男。横井彩香も同じくカップル化していないが、彼女は休学中なので、効果が及ばないのは仕方がなかった。
「影山さん、ちょといいかな?」
祐真が正面に立った。沙希は今気がついたような演技を行い、はっと顔を上げる。そして、唇に手を当てた。
「う、うん。な、なに?」
どもるのは、演技ではなかった。実際、初めての話し相手であるため、緊張もしている。こればかりは自身の性質なので、どうしようもなかった。
祐真は、少し照れたように頭を掻きながら答えた。
「えっとさ、そんな大した用事じゃないけど……。このクラスで恋人ができていないのって、俺らだけだなって思って」
口ごもりながら、祐真は言う。
言動から、この地味な男子生徒が女子とあまり喋り慣れていない様子が伝わってきた。クラスメイトの評判通り、女子とは縁がない生き物なのだ。
肌で感じるこの男の感情からは、猿のような色欲の熱が伝わってくる。つまり、現状にかこつけて、こちらと仲良くなろうという算段なのだろう。あわよくば、肉体関係まで結びたいつもりらしい。
そして沙希は怪訝に思う。
現在、この学校に蔓延している現象は、『擬似淫魔術』とも言うべき魔術の効果によるものだ。いくら沙希が調査をしても、一向に姿が見えない召喚主。その邪悪な存在を探すために、発動させた術である。
洗脳魔術を改良し、沙希自身の『肌』を通して情報が集積されるよう調整してあった。つまり、この魔術に感染すると、感染者は、発信機のように自身の情報を、より詳しく沙希へと伝播してくれる存在になるのだ。
効果範囲が効率的に拡大するよう、感染者が欲情し、異性を求める性質を持たせた。そうなれば多くの生徒が接触を行い、沙希の元に情報がより多く集まるためだ。
洗脳魔術の一部分が変化し、さながら淫魔術のように振舞うのが、この魔術の特徴であった。
ただ欠点があり、沙希の力では女子のみが欲情の効果対象にしかできなかった。通常の淫魔術のように、誰も彼もを欲情させるほどの強力な洗脳能力は発揮できないのだ。
また、同性愛者に対しても効果がなく、感染すらしないのも特徴の一つだ。
そして、この羽月祐真は……、
「そ、そうだね。私も不思議に思ってるんだ」
沙希はそう答える。そして俯き、スカートから伸びる黒タイツに包まれた足を見つめなながら、考える。
なぜか、このクラスで沙希の魔術に感染していない唯一の男子。女子からアプローチがあったにもかかわらず、決して乗らなかった。
淫魔の召喚主なら、淫魔から何かしらプロテクトを施してもらっている可能性はあるが、この男が召喚主ではないことは、すでに確証済みだ。
淫魔を召喚すれば、召喚主は、確実に精を吸われる。その痕跡がない以上、この男は召喚主になりようがなかった。
かといって、こちらに劣情を催している以上、同性愛者である可能性も低い。
とても奇妙な男なのだ。こいつは。一体、なぜ無事でいられる? 洗脳魔術に感染していないせいで、情報も掴みにくいのも難点だった。
あるいは、羽月祐真が洗脳魔術にかかっていないのはただの偶然で、最初から、この教室ないしは、この高校に召喚主などいなかった可能性も否定できない。つまり、美帆の情報が誤っていたのだと。
そうなれば、こうして自分が適齢期を過ぎた高校生活を送っていること自体、茶番である。
「俺と影山さんがまだ誰とも付き合っていないのは、その、何か意味があるかもしれないね」
祐真は、たどたどしい口調ながらも、口説き始める。陰キャの身分でありつつ、渾身の勇気を出して意中の女にアタックしているつもりらしかった。視線は、こちらの胸と顔。それから黒タイツに包まれた足を順番に見やっている。
本来なら相手をすること自体馬鹿馬鹿しい男子だが、今の状況だとそうもいかない。目下、召喚主の当てが一切ないのだ。休学中の横井彩香は除くとして、このクラスでただ一人無事であるこいつの情報は、少しでも欲しかった。
いずれにしろ、今は捜査を断念することはできなかった。のこのこ帰っては、推進派の他メンバーから叱責を受けることだろう。
花蓮の身に危害を及ぼした『敵』を見つけるまでは、決して諦めるわけにはいかないのだ。
沙希は静かに微笑んだ。
「う、うん。私もそう思う」
そう答えてやると、祐真の表情は一変した。これまで機嫌を伺うような風情だったが、沙希の言葉を聞くなり、瞬時に顔をぱっと明るくさせた。おそらく、脈ありだと受け取ったらしい。
「えっとさ、よければ、今日一緒に帰らない?」
祐真はさらに押してくる。周囲のクラスメイトたちは皆、魔術の効果により、パートナーとのコミュニケーションに夢中で、ナンパするオタクには目もくれていなかった。若々しく、熱い偽物の恋心が、蔓延しているのみだ。
「う、うん。そうだね。一緒に帰ろう」
沙希は誘いに応じた。捜査を続ける以上、情報のないこの男を探るべきだと判断したためだ。
祐真の顔は、さらに嬉しそうに変貌する。『ナンパ』が上手くいき、天にも昇る気持ちになったのだろう。『肌』を通して、この男の喜びが伝わってくる。大げさなほどに。
おそらく、これまで一度も女を誘った経験がないせいだと思われた。生まれて初めて女を口説いた結果、良い成果を上げたのなら、この不自然なほどの喜びようも無理ない話である。
「そ、それじゃあ、放課後、呼びにくるよ」
祐真は緊張したようにそう言う。そして、手を軽く上げたあと、立ち去っていった。
祐真の背中を見送りながら、沙希は思う。
羽月祐真が召喚主の可能性はないはずだが、それでもこちらの魔術の効果が及んでいないのは事実であった。この男には何かあると断言はできないが、要因は探っておいたほうがいいだろう。
放課後、一緒に帰るとのことだが、念のため準備はしておいたほうがいいかもしれない。相手は人を殴った経験すらないような貧相なオタクであるため、よもや危険はないだろうが、用心するに越したことはない。
幸い、今回の任務は、敵地に潜入する作戦であったため、常に装備は整えていた。『勝負服』も、『武器』もいつだろうと使用可能だ。
そして、隙があれば、羽月祐真に自身の魔術を行使しようと思う。直接流し込めば、さすがに洗脳魔術にかかるはずだ。
この男はこちらの貞操を狙っている。そのため、二人っきりになるチャンスくらいは訪れるだろう。そこを狙えばいい。
沙希はプランを決めた。
放課後になり、生徒たちは三々五々、散り始める。そのほとんどが、恋人との同伴だ。まるで合コン会場のように、それぞれカップルが手を繋いだり、腕を組んだりして教室を出て行く。
沙希は少しだけ、自分の席で待機ををした。背後から、羽月祐真が近づいてくる気配を『肌』で感じ取る。
やがて祐真は声をかけてきた。
「お待たせ。行こうか」
祐真は目を合わせないまま、そう言う。恥ずかしさと不慣れさが混在した感情を、彼は放っていた。そのせいか、結構動揺もしているらしい。
「う、うん」
沙希は通学鞄を手に持ち、立ち上がる。それから歩き出した祐真のあとに続き、沙希も教室の戸口へと向かった。
人気を掻っ攫った転校生の女子と、地味で目立たない男子という異色の組み合わせ。本来、クラスの衆目を集めてもいいものだが、今は誰も目すらくれなかった。皆が自分のパートナーに心を奪われているのだ。推進派メンバーの退魔士たるこの影山沙希が行使した、強力な魔術の影響で。
祐真は教室を出て、廊下を進んでいく。すでに慣れてしまったのか、廊下でたむろしているカップルたちの群れにも怖気づくことはなかった。
やがて二人は下駄箱から玄関を出て、校門を通過する。周りの半分以上は、カップル化した生徒たちだ。並んで歩く自分たちも、おそらく傍から見れば恋人同士のように映ることだろう。
喜屋高校をあとにし、祐真と共に通学路を歩く。住宅街らしく、学生カップルが多い点を除けば、のどかで静かな夕刻である。
沙希は隣で無言のまま歩く祐真に尋ねた。
「ね、ねえ羽月君。私を帰りに誘った理由ってなに?」
この男が、下心剥き出しなことは百も承知だが、他に真意がある可能性もあった。
「特別な理由なんてないよ。朝言ったように、俺たちだけカップルができていないから、ちょっとした運命みたいなものを感じてさ……」
やはり、状況を利用して、こちらを口説くことが羽月祐真の狙いらしい。嘘をついていないことは肌を通して伝わってくる。
沙希は、頷くと、少し踏み込んだ質問を行った。
「羽月君、自分に恋人ができないことに何か心当たりある?」
「うーん。ないなあ」
祐真は腕を組んで、そう答えた。これも嘘ではないようだ。
「川崎江実さんからアプローチ受けてたみたいだけど、付き合わなかったんだ?」
「う、うん。素敵な女子だけど、ちょっと性格が合わなそうだったから、断ったよ」
祐真はバツが悪そうに、頭を掻きながら言う。沙希は僅かばかり目を細めた。
今の祐真の発言が嘘であると『肌』を通じて、確信できた。意中の女子の手前、取り繕っただけで、おそらく、単純に容姿が好みではなかったのだろう。確かに、沙希の目から見ても、江実は大して魅力のない女子だ。おまけに、性格も終わっている。
沙希は質問する。
「羽月君の好みの人ってどんな人?」
「えーっと、やっぱり影山さん見たいな人が俺のタイプだよ」
祐真ははっきりと伝えてくる。告白も同然の言葉だ。そして、これは嘘ではないことが、わかる。
「そ、そうなんだ。私、嬉しい」
沙希は好意的に返す。あくまでもお淑やかに見えるよう心掛けた。
祐真はぱっと顔を明るくさせ、喜びをあらわにした。これも演技ではなく、本音が感じ取れた。
しばらく、二人は無言で歩く。今は商店街に差し掛かっていた。周囲に大勢いた喜屋高校の生徒はまばらになっており、今は子供を連れた主婦や、老人が目に付いた。
祐真が言葉を発する。
「ねえ、今からちょっと別のところに寄って行かない?」
祐真は誘いを行う。同時に、彼の体からは、陽炎のような情欲が発せられていることに気がついた。
沙希は何となく悟る。おそらく、祐真は人気のない所へ誘って、あわよくばそこで………という目論見なのだろう。性欲旺盛な男子高校生らしい思考回路である。
沙希はチャンスだとばかりに、ほくそ笑みそうになる。
そうなれば、話は早い。彼の誘いに乗って、二人っきりの場所へ赴く。そこで少しばかり好意を示せば、彼はここぞとばかりに接触を図ってくるだろう。そこで魔術を流し込み、洗脳させる。
そこまでいけば最後、高校のカップル化した生徒たちと同様、情報が手に取るようにわかるだろう。なぜ彼が魔術に掛からなかったのか。
「う、うん、わかった」
沙希は祐真の誘いに、こくりと頷いて同意する。祐真は満足そうに笑みを浮かべた。
そのあと、沙希は祐真に導かれるままに、とある場所に向かった。
それは近場にある神社だった。
その神社は、名所などではなく、小さな丘の裏にある、寂れたような古い神社だった。日中も誰も訪れないような、見捨てられた場所――。祐真はそこに沙希を案内した。
神社は、木々に囲まれた狭い場所に建っていた。木立が高く、まだ夕刻にもかかわらず、日が沈んだように薄暗かった。
祐真は境内に足を踏み入れたあと、拝殿へと行き、二泊一礼する。目的はわからないが、今からお邪魔するための許可を求めたのだろうか。信心深い人間とは見えず、沙希は意外の感に打たれる。
やがて祐真はこちらに振り返った。周囲は穴倉のような暗さだが、目がぎらぎらと輝いているのが見えた。
「それで、影山さん」
祐真はゆっくりとこちらに近づいてくる。緊張のためか、手足がぎくしゃくとしていた。まるで不審者だ。
祐真の思考はすでに読み取っていたが、沙希は少しだけ身構える。よほど女子と行動することに慣れていないのか、不自然極まりない。
目の前まできた祐真は、自身の頬を掻きつつ、口を開く。
「今日の朝、俺たちちょっとだけ特別な関係になれるかもしれないって話、したじゃん? それは本気なの?」
今朝の会話では、そこまで突っ切った内容ではなかったはずだが、彼の中ではすでに既成事実ができあがっているようだった。
沙希はあえて訂正せず、静かに頷いた。
「う、うん。本気だよ。私も羽月君とはいい関係が築けそうだなって思ってたから……」
祐真はわずかばかり唇の端を上げた。肯定的な返答を引き出せたため。女を手篭めにできたと確信したようだ。
「そ、そうなんだ。だったら……」
祐真は意を決したように、一歩を踏み出した。そして、こちらの肩に手を伸ばす。肩を抱くつもりらしい。沙希はじっと待った。
彼がこちらに触れれば、魔術を流し込める。一瞬だけなら不可能だが、この流れでは長時間触れ合っていられるだろう。
この男が、洗脳魔術にかかったなら、あとは好きなだけ情報を取得できる。手の平の上も同然だ。
沙希は己の勝利を確信した。
しかし、ここで予想外のことが起きる。祐真は途中で手を止めたのだ。不思議に思って、顔を見てみると、祐真は尻込みしたように顔を強張らせていた。
ここにきて、怖気づいたらしい。
少し待っても、祐真は動こうとはしなかった。女慣れしていないことが、ここまで響いているようだ。本当にしょうもない男。
仕方ない。こちらから仕掛けるか。
沙希は、ふっと微笑むと、祐真へと抱き付いた。祐真はなすがままだ。動揺したのか、体を硬直させている。
沙希は抱き付いた状態で、己の魔術を祐真に流し込もうとした。これにてチェックメイト。色々面倒だったが、これでこの男の問題は解決だ。
沙希が勝ち誇った時である。沙希は目を見開いた。抱き付いたことで、祐真の思考が『肌』を通して伝わってきたのだ。
祐真が召喚主であること。パートナーであるインキュバスのこと。そして、彼の狙い。
沙希は、自身が『罠』に掛かったことを自覚した。
沙希から抱き付かれた瞬間、祐真は緊張と興奮で、体を硬直させた。その状態で、祐真は記憶を想起させていた。
数日前の話だ。
祐真へとアプローチを続けていた江実が、別の男へ鞍替えをした時。カップルが成立していない者が、休学中の彩香を除き、祐真と沙希だけになった時。
祐真は沙希に対し、アプローチをかけることを考えた。この期に乗じて、あわよくば、仲良くなれないかと画策したのだ。
だがしかし、一旦、その考えは保留にする。どうしても、気になる点があったためだ。
やがて放課後、アパートへ帰宅した祐真は、リコへと相談を行った。沙希に好意を抱いている部分は伏せて、学校の現状と、無傷である者の情報を伝える。
その結果、リコが出した答えは『影山沙希』はクロだというものだった。
驚愕する祐真だったが、リコの説明を聞き、納得せざるを得なかった。冷静になって考えると、やはり沙希には疑う余地がとても多い。沙希に対して恋慕の気持ちがあったため、無意識に怪しい部分をスルーしていたのだ。
リコはそのあとも説明を行う。リコの影山沙希への正体の推測は、退魔士の『推進派』メンバーとのことだ。高校で蔓延している現象も彼女の仕業で確定らしい。
てっきり、祐真は術の効果から、沙希がサキュバスである可能性を示唆したが、どうやら違うようだ。そもそも、使われている術は淫魔術ではなく、全く別の魔術とのことだ。
なぜなら、淫魔術と比べると、威力、精度共に低く、性質も異なるためだ。
ではなぜ、祐真だけが他の生徒に比べて、術の効果が現れなかったのか。もしも、これが本物の淫魔術ならば、話は違っただろうが、使用された魔術は、別物である。祐真に影響があってもおかしくはなかった。
それに対して、リコはウィンクを行い、モデルのようにクールな笑みを浮かべて言う。
「君にこっそりプロテクトをかけていたからさ」
祐真は虚を突かれた思いがした。一体、いつの間に? 以前も似たようなことがあったが……。
リコは簡潔に教えてくれる。
「前に君の肩に手を置いたことがあったろ? その時さ」
祐真ははっとする。そういえば、そんなことがあった気がする。転校生してきたばかりの沙希の話をした時だ。
「それって、こうなることを見越した結果なの?」
「まあね。一度あることは二度あるし、念のためさ。相手に気づかれないように薄いプロテクトだったけど、魔術の効果が低くて助かったよ」
リコは、肩をすくめる。
「だから、さすがに術士本人から魔術をかけられた場合や、完全に術中にはまっている者から、過度な接触があったら、さすがに魔術の影響を受けていただろうけどね」
もしも江実からのアプローチを受けていたら、今頃祐真も魔術にかかっていたということだ。自分が薄氷の上にいたのだということを、改めて祐真は認識した。
それからリコは、沙希が使用した魔術について、説明を始める。
高校で蔓延している魔術は、おそらく、沙希が情報を取得するための性質があるものらしい。
沙希は仲間である花蓮が行方不明になったため、探りにきた退魔士だが、敵の正体までは掴めていないことは明白であった。もしも、掴んでいたら、祐真はすでに篭絡されていることだろう。
そして、沙希は情報を取得するための魔術を流し、敵の所在を突き止めようとした。催淫の効果はあくまで副次的なもので、効率的に魔術が広まるよう付加したに過ぎなかった。
やがて、魔術にかかっていない者は、沙希と祐真だけになる。もしも、今日、祐真がリコに相談しなかったら、いずれ沙希は祐真へと接触を図り、直接魔術をかけられていたはずであった。
一通り説明を終えたリコは、最後にとある提案を行った。
それは――。
影山沙希は、全てを悟ったあと、背後に気配を感じた。抱き付いていた祐真から体を離し、とっさに振り向く。同時に全身に衝撃が走った。
気が付くと、沙希は宙を舞っていた。洗濯機の中にでも入ったかのように、視界が回転している。きりもみ状態だ。
殴られたとわかったのは、落下してから腹部に痛みが走った時だった。背後に現れた人物が、攻撃を放ったのだ。
沙希は、腹部を押さえながら立ち上がる。地面に落ちた眼鏡を拾い、掛けなおした。軽く咳き込み、殴られた箇所を確認する。
ダメージはあるが、致命傷ではなかった。幸い、制服の下に『勝負服』を着ていたため、軽症で済んだのだ。
沙希は、先ほどまで自分がいた場所に目を向けた。そこには、祐真の他、一人の男が立っていた。整った顔立ちの、日本人離れしたモデルのようなスタイルの男――。
沙希はかっと目を見開く。その人物の正体を、即座に理解したためだ。
間違いない。あいつはインキュバスだ。『推進派』メンバーの不倶戴天の敵。この世ならざる者。存在していてはいけない邪悪なる淫魔。
そして、沙希は頭の芯まで、真っ赤な怒りに覆われていた。溶岩のような、灼熱の感情が噴出する。
さっき、私は殴られた。あの忌まわしい存在から。汚物にも劣るインキュバスの手が、私へと触れたのだ。
沙希は、制服の袖で、殴られた腹部を激しく拭う。汚くて汚くて堪らない。糞便でも付着したような気分だ。淫魔から接触を受けることなど、あってはならなかった。
沙希は顔を上げ、インキュバスを睨みつける。インキュバスは澄ました顔で佇んでいた。隣の祐真は、不安げな様子だ。
そこで沙希は、ふと疑問を覚えた。色々と妙な点があるのだ。
現れた淫魔は紛れもなく、インキュバスである。いわば男の淫魔。
通常、淫魔は召喚主の性的興味に影響を受けて召喚される。女が性的対象の男なら、サキュバスが、男が性的対象の女なら、インキュバスが。
例外があるにせよ、概ね恋愛対象の相手が現れると解釈していいだろう。そして、同性愛者の召喚主にも同じことが言える。ゲイの男には、インキュバスが召喚されるのだ。
羽月祐真は男である。それで召喚されたのがインキュバス。客観的に見れば、羽月祐真は同性愛者だと判断していいはずだ。
しかし、祐真と数週間同じ教室で過ごし、『肌』を通して確信したことがある。彼は同性愛者ではないのだ。かといって、バイセクシャルでもない。完全な異愛者であった。
ではなぜ、彼の元にインキュバスが召喚されたのだろうか。何かの手違い? それとも、根源的な見落としがある? 皆目見当が付かなかった。
それから、祐真に精を吸われた形跡がないこともおかしなポイントだった。召喚主の精を吸わない淫魔などいない。一体、この二人の関係は、何がどうなっているのか。色々と、理解を超えていた。
しかし、これだけは言える。花蓮を抹殺したのはこいつらで間違いがない。そして、少なくともインキュバスのほうを排除しなければ、こちらの身も危ういのだ。
「花蓮をやったのはあなた?」
確信している内容だが、沙希は質問を行う。
二人は無言。インキュバスのほうは相変わらず、飄々とした様子だが、祐真のほうには動揺が感じ取れた。肯定したも同然である。
「どうやって花蓮を倒したの?」
花蓮は強力な術士だ。このインキュバスも強大な力を誇っている難敵であることは確かだろうが、花蓮が決して勝てない相手ではないと感じ取れる。『肌』を通してそれが伝わってくるのだ。こいつは『最強』ではない。
それにどこか、このインキュバスは長期間、不眠不休で働いたかのような疲労感を抱えているように見えた。簡単に言うと、弱っているのだ。
気のせいかもしれない。だが、少なくとも絶望的な力は持っていないことは確かである。『推進派』メンバーの退魔士ならば、何とか勝てる相手だろう。先ほどの不意打ちの一撃も、強力だったが、『勝負服』がなくてもやられてはいなかっただろう。
だからこそ、なおさら花蓮が敗北する説明が付かなかった。
それとも何かあるのだろうか。このインキュバスが最強格の退魔士を退けた理由が。
「まあいいわ。あなたたち殺してあげる」
御託はもう必要ない。さっさと処理してしまおう。標的が自ら姿を現したのだから。
年齢外れのスクールライフも、これにておしまい。
沙希は、ゆっくりと歩き出した。歩きながら、痛んだ制服を剥ぎ取り、脱ぎ捨てる。黒タイツも毟り取った。
中から、予め着用していた『勝負服』があらわになる。そして、さらに沙希は、通学鞄から『武器』を取り出した。不要となった通学鞄も捨て、それから『武器』を振り『引き伸ばす』。
これで準備万端。『淫魔狩り』の時間だ。
沙希は氷のような微笑を浮かべた。
サキュバスを召喚しようとしたら間違って最強のインキュバスを召喚してしまいました 佐久間 譲司 @sakumajyoji
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