第十四章 新たな脅威

 シシー&古里ペアが仕掛けた全世界GL化計画は、翌日になると綺麗さっぱり解除されていた。


 案の定、術にかかった生徒を筆頭に、全校生徒全員の記憶から、全世界GL化計画のことは何事もなかったように消去されていた。


 これも、BL化計画時と同じく、感染型の淫魔術のせいで、無症状の者でも解除と共に記憶から消去されるメカニズムが働いたものと思われた。


 今回は、彩香も影響を受けていた。同性愛者になり、クラスメイトの女子と愛を育んでいたものの、今日の朝には術発動以前の関係へと、何の余韻も残すことなく戻っていた。


 すでに、BL化計画の時に経験済みだった祐真は、特に動揺することなく受け入れることができていた。


 トラブルが一通り過ぎ去り、祐真は台風のあとのように、気分爽やかに朝のホームルームを迎えた。平穏な日常が再び訪れたのだ。


 ちなみに元凶である古里は、行方不明という扱いだ。元より、素行の悪い不良。行方をくらますなど珍しいことではないし、日頃の行いから登校してこなくても誰も気にはしなかった。むしろ歓迎する者さえいるだろう。


 ただ、友人の鴨志田だけは別だった。BL計画時の古里の記憶が蘇り、疎遠になっているとはいえ、鴨志田のほうは記憶は蘇っていない。つまり、友情は存続しており、そのため、消息を絶った古里を、彼は本気で心配しているようだ。


 しょうもないヤンキーであろうと、友人は大切らしい。


 唯一、事実を知っている祐真だったが、当然ながら、鴨志田はおろか、誰にも伝えていなかった。彩香にもだ。もっとも、ユーリーは巻き込まれたため、そのうち彩香に真実が伝わる可能性はあった。それが彩香にとって、どれくらい影響があるのかは、今のところ予測のしようもなかったが。


 日常に戻った中、祐真は友人たちと何気ない会話を楽しむ。『全世界BL化計画』が解決した直後と同様だ。


 ここ直近で、トラブルが続出している。さすがにもう起こりえないだろうと、祐真は思った。


 そして数日後。祐真の耳に、転校生の話が舞い込んできた。




 「転校生?」


 直也からその情報を聞いた時、祐真の脳裏に、風川花蓮の姿がよぎった。


 退魔士の女。リコの命を狙い、俺を拉致した奴。結局、リコの強大な力に圧倒され、敗北してしまった。そのあと、やってきた拘束部隊に連行されてしまう。


 花蓮の行く末については、祐真の耳に入ってきていない。情報源はリコかユーリーくらいだが、リコは知っているのか知らないのか、訊いても教えてくれず、ユーリーとはそもそも接触がないため、祐真が情報を得る術はなかった。


 そんな折、転校生の話である。さすがに花蓮の件と何かしら繋がりがあるはずがないが、完全な否定もできない。


 なにせ、ここ連日、異常事態ばかりが発生しているからだ。


 「どんな人?」


 祐真の質問に、星斗が鼻の穴を膨らませて答える。


 「女子らしいよ。しかも、可愛いんだって」


 デジャブ。確か花蓮の転校時も、似たような会話をした記憶があった。


 そろりと、不安が斜陽のごとく、祐真の心に差した。こんな下らない共通点だけで、転校生を怪しむべきではないが、懸念させるには充分な材料といえた。


 よほど、不安げな面持ちをしていたのだろう。直也が気をうかがうように、上目使いで訊いてくる。


 「祐真。もしかして風川さんの一件のことを思い出しているの?」


 「あ、ああ別に……」


 星斗が口を挟んだ。


 「まさかお前、今度の転校生も同じだと思ってんのか? ないない。変な疑いをかけられて散々だったのはわかるが、そうそうあんなヤバイ人はいないぞ」


 星斗は呆れたように手を振った。


 風川花蓮の手による、レイプ冤罪事件。花蓮がリコを仕留めるために実行した姦計だが、見事に祐真の学校における地位を底まで転落せしめた。


 幸いリコのお陰で事なきを終えたが、脅威そのものであった。また同じようなことが繰り返されれば……。


 とはいえ、確かに、星斗の主張通りかもしれない。いくらなんでも、連続して転校生が危険な存在である確率など、ゼロに等しいだろう。しかも今回は、花蓮の時のように事前に遭遇しているだとか、そういった『前フリ』すらないのだ。


 この不安は、ただの杞憂。


 「そうだよな。考えすぎだよな」


 祐真は頷き、無理に己を安心させた。




 「それでは転校生を紹介します」


 担任教師の声が、教室に響き渡った。


 翌日のことである。直也の言う通り、転校生はやってきた。


 大勢のクラスメイトたちが注目する中、転校生は教室の扉を開け、中へと入ってくる。


 転校生の姿を認めるなり、生徒たちから歓声が漏れた。教室の端から「可愛い!」と呟く声も聞こえてくる。


 祐真は転校生を凝視していた。思わず、唾を飲み込む。


 転校生は教卓の前に立ち、緊張しているのか、肩肘を張った状態で、黒板に名前を書いた。


 「か、影山沙希といいます。ど、どうかよろしく」


 景山沙希と名乗った転校生は、ペコリと頭を下げた。大きな二つのお下げが、ふらりと揺れる。


 祐真は沙希に目を奪われていた。とても可愛い。色白で、遠くからでもきめ細かい綺麗な肌をしている女の子だ。大きな丸眼鏡をかけており、おっとりとした容貌を持ち、なんだかふわふわとした柔らかい感じと、日向のような暖かな雰囲気がある。


 体型は標準的なものの、注目すべきは胸だ。制服のブレザー越しにでもはっきりとわかる、何かを訴えるかのように突き出た巨乳。


 沙希は顔を上げると、おどおどとした様子で、右往左往している。祐真は沙希のそんな姿から目を放せなかった。


 「えーじゃあ、影山さんの席はそこだね」


 担任教師は、教室の一角にある机を指差した。そこはかつて、風川花蓮にあてがわれた席だ。トラブルによる急な転校で、席を片付ける余裕がなかったため、現在も残っていた。


 それを丁度よいタイミングで、今、流用されたのだ。


 「あ、はいっ」


 沙希は挙動不審者のように動揺しながら、頭を下げ、示された席へ向かう。教室中の皆が視線を注いでいた。


 歩く度に、沙希の豊満な胸が揺れる。女子は転校生に対する純粋な好奇心のみでの注目だが、男子は違っていた。本能によって、沙希に目を奪われているのだ。


 祐真も同様だ。沙希を見ていると、ドキドキした。サキュバスであるシシーと相対した時も魅力を感じたが、それとはまた感覚が違っていた。


 やがて沙希が席につくと、朝のホームルームが開始された。





 休み時間。祐真は星斗と直也に宣言する。


 「俺、影山さんに惚れたかもしれない」


 祐真の突然のカミングアウトを聞き、二人は顔を見合わせた。それから、同時に吹き出す。


 「突然、何を言い出すかと思えば。お前じゃ無理だぞ」


 「うーん、気持ちはわかるけど、高嶺の花じゃあ……」


 二人も沙希に対して、魅力的な印象を抱いているようだが、すでに諦観を決め込んでいるらしい。


 現に、沙希の席を囲んでいる人の輪には、三人共加わっていなかった。花蓮の時と同様、『陰キャ』の宿命であり、転校生の女子を歓迎し、質問攻めする真似などできないのだ。


 もっとも、花蓮とは違い、沙希の場合、なぜか囲んでいるのは男子ばかりで、女子はあまり近づいていなかった。遠巻きに物珍しそうに眺めているだけ。花蓮の時と何が違うのか。


 「しかし、お前、ああいう女子がタイプなんだな。エロゲじゃあ、もっとロリ系が好きだったじゃないか」


 「現実とゲームの好みは違うだろ」


 否定した祐真だったが、内心、自分でも意外だった。沙希に対して、これほどまで、心を奪われるとは。


 「でも確かに素敵だよね。影山さん。なんと言っても、あの胸は破壊力がありすぎる」


 直也が沙希のほうを見やる。沙希は、自身を囲んだ大勢の男子からの質問に対し、困惑しながらも必死に答えていた。


 おっとりとした顔が、狼狽した様相をあらわにしているのも、彼女の魅力だと思った。とても柔らかい。まるで母親のような。


 「まあ、どうあがいても俺らじゃあ手の届かない相手だから、こうやって眺めているだけにしよーぜ」


 星斗が、祐真の肩を叩いた。





 大勢の男子に囲まれながら、影山沙希は戸惑っていた。まさか成人してから高校に通うハメになるとは思いも寄らなかったし、こうして男子から囲まれることも想定外だった。


 男子が寄ってくる理由は、ほとんど性欲で占められていることは『肌』で感じていたが、この際、気にしないことにする。それよりも大事な『任務』が自分にはあるのだ。


 沙希は自身の目的を再度、頭に思い浮かべた。


 このクラスに、淫魔と繋がりがある人物がいる。すなわちそれが召喚主なのだが、そいつを探し出し、淫魔もろとも『処理』するのが退魔士である自分の目的であった。


 同じ推進派メンバーである花蓮を『どうにかした』淫魔。その淫魔というおぞましい存在を召喚した憎き人間。淫魔を現世へ呼び出すことは万死に値する。これは花蓮と共通した理念だ。必ず探し出し、花蓮の所在を聞き出したのち、最大の苦痛を与えて殺してやる。


 業火のような決意を胸に秘め、影山沙希は喜屋高校にて、年甲斐もなく高校生に扮しているのだ。


 だが、しかしと思う。一体、召喚主は誰だろう。


 沙希は男子からの質問を受け流しながら、教室の中の様子を伺った。


 一見、何の変哲もないクラスだ。若草のような青春溢れる明るい空間。自分が高校生だった時、通っていた学校の風景とさして変わりない。違うとすれば、こうして自分に男子が集まってきていることくらいだ。


 当初の計画では、簡単に判別できる算段だった。花蓮の嗅覚ほどではないにしろ、自分の『肌』にかかれば、容易に召喚主を看過可能だからだ。しかし、どういうわけか、一向に突き止められない現状に直面していた。


 このクラスを探り当てたのは、同じ推進派メンバーの磯部美帆である。もしかして間違っているのか、との疑心が頭をかすめるものの、思い直す。美帆の手腕は確かだ。淫魔や召喚主の所在を見誤ることなど、あまり考えられなかった。 


 つまり、この教室にいる召喚主は、何か特別な方法を使って、自分の正体を隠匿しているのだ。退魔士である自分すらも欺く方法で。


 「影山さん、どうしたの?」


 沙希を取り囲んでいた男子が、目敏く訊いてくる。教室内の様子を伺っていたことが気になったらしい。


 「な、なんでもないよ。賑やかだなって」


 少し緊張しながら、沙希は適当に誤魔化す。いくら年下とはいえ、人と話すのはやはり苦手だ。年齢に合わない転校生役など、何の因果かと思うほど苦痛である。


 「うちのクラスは静かなほうだよ。オタクみたいな人多いし」


 説明をしていた男子は、教室のある一部を顎でしゃくった。そこには確かに、見た目からして『オタク然』とした男子が三名、たむろしていた。


 その三人も、こちらを気にしている感覚が肌を通して伝わってくる。今、自分を囲んでいる男子たちと同じく、転校生の『少女』に興味深々なのだ。


 特に三人のうち中肉中背の男の子からは、温風のような熱い感情の波が感じ取れた。おそらく、こちらに対し、恋慕の心を抱いていてしまったのだろう。


 「影山さんみたいに可愛い人だとあんなオタクには興味ないだろうけど」


 長身で、鼻筋が通っている男子生徒が、自信ありげに言う。まるで自分なら、いくらでもチャンスがあるかのような風情だ。


 「う、うーん。どうだろ」


 目下、自分の目的は召喚主を探り当てること。オタクとかどうでもよかった。その観点で言えば、あの三人は、淫魔とはどうも繋がりがないような気がする。


 現在、沙希の席の周りにいる男子生徒たちも同様だ。蒸気のように噴き出す性欲しか感じられず、淫魔の気配は微塵も掴めなかった。


 淫魔を召喚していれば、確実に精を吸われている。そのため、対魔士の自分なら簡単に判別できるはずだ。しかし、そのセンサーに引っかかる者がこの教室には見当たらない。


 なぜなのだろう。わけがわからなかった。


 沙希は、慣れない学校生活と共に、大きな課題に直面し、困惑の色を隠せなかった。




 数日が経過したものの、相変わらず召喚主の捜索は困難を極めた。一向に正体を掴めないのだ。


 現在寄ってくるのはこれまで同様、性欲旺盛な男子だけ。しかも日増しに数は増えていっている。困ることに、別クラスの男子生徒もやってきているらしい。


 沙希は、慣れない学校生活に四苦八苦しながら捜索を続行した。恥ずかしかったが、できるだけ大勢の人と接し、自らの『肌』を利用して召喚主を突き止めようとした。幸いなことに、男子が寄ってくる今の状況は好都合といえた。


 しかし、召喚主の候補者は男とは限らないのだ。女子、すなわちインキュバスを召喚した女召喚主の可能性も充分あった。そのため、女子に対しても捜査の触手を伸ばす必要があるのだ。


 だが、ここで少しだけ問題が生じる。当初からそうだったが、女子生徒たちが全くといっていいほど接触してこないのだ。好意を向けたり、集まってくるのは男子のみ。女子は大抵遠巻きにこちらを眺めていたり、授業などで会話が必要な時も、よそよそしく接してきていた。


 ゆえに、女子生徒に対しての捜査は進展が芳しくなかった。


 反面、沙希の肌は、彼女たちの照りつくような視線を感じ取っていた。沙希は彼女たちの真意をおよそ理解していた。


 やがて、その予想が正しかったことが、沙希の眼前に一つの事実としてあらわになる。


 放課後の出来事だ。沙希は転入において残った最後の手続きを職員室で終わらせたあと、教室に戻った。


 すでに帰宅時間を大幅に超えた教室には、ほとんど誰もいなかった。隅のほうの席で、女子数名がたむろしているだけ。どうやら談笑をしていたようで、教室に入ってきた者が沙希だと認めると、水を打ったように静かになった。


 沙希は嫌な雰囲気を肌で感じながら、自身の席へ向かう。そして、通学鞄に手を掛けた。その時、居残っていた女子たちのうち一人が、近づいてきた。予想通りの行動だ。


 「ねえ、あんたさ、ちょっといい?」


 不躾な物言いで、女子が寄ってくる。底意地が悪そうな細い目に、小柄な体。確か川崎江実かわさき えみといった名前だった気がする。


 「な、なに?」


 沙希はどもりながら訊く。胸の中が、墨汁のような黒い色で満たされていくのを実感した。


 「なに、じゃねーよ。お前、転校生のくせに調子乗ってんじゃねーぞ」


 江美は沙希の机を叩くと、上がったまなじりで睨んでくる。


 沙希が気がつくと、いつの間にか残りの女子も集まってきていた。どうやらこの女子たちが居残っていた理由は、談笑ではなく、沙希が目当てだったようだ。


 思えば、通学鞄はずっと席のフックに掛けてあった。そこから沙希が残っていることを判別したのだろう。


 「お前、むかつくんだよ。おどおどしているくせに、なに悪目立ちしてんだよ」


 唾を飛ばしながらそう喚いたのは、二宮春奈にのみや はるなだ。ぽっちゃり体型の女子である。


 「そ、そう言われても……」


 沙希はどぎまぎしながら答える。恐怖は微塵もなかったが、動揺しているのは確かだ。人から詰められるのは、いくら虫のように楽に殺せる者が相手でも、心が波立ってしまう。


 「あんた、男子に好きなだけやらせてるんでしょ? 便器みたいに。だからあんなに人気なんだ?」


 もう一人の女子、井口優実が、こちらの胸を見ながら罵ってくる。下卑たな笑みが、三人の女子から沸き起こる。 


 この女子三人は、どうもこちらに嫉妬しているらしい。肌で感じずとも、態度でわかる。転校してきたばかりの女に、人気が取られたのであれば、気に食わないのは当然であろう。


 しかし、この女たちが本格的に逆襲しようと考えたのは、沙希の性格が関わっていると思われた。引っ込み思案で、おどおどしている性格の女子。もしも、これが花蓮のようにはっきりとした性格なら、仮に男子から人気が出ても、強い反感を持たれることはなかったはずだ。


 なんて損な性格なのだろう。沙希は己の運命を嘆いた。思えば、幼少期から不快な思いをしてばかりである。


 だが、しかし――。


 沙希は心の中でほくそ笑んだ。今に限っては都合が良かった。この性格の陰で『駒』が、自ら蜘蛛の巣へと飛び込んできてくれたのだから。


 こちらを囲んでいる女子三人の顔が曇った。怪物でも目撃した時のような、恐怖が滲んだ表情。


 どうやら思わず、笑みが漏れてしまっていたらしい。多分今の自分は、かなり邪悪な様相を呈していることだろう。追い詰めたはずの白兎が、毒牙を晒したかのように禍々しい片鱗を垣間見せた瞬間である。


 いけないいけない。これ以上、新芽のような乙女たちを怖がらせては駄目だ。大切にしないと。なにせ、これから散々利用される道具になるのだから。


 「お、お前なんなんだ?」


 江美が怯えた様子で訊いてくる。声が震えていた。


 沙希は一旦間を置くと、表情筋を駆使し、可能な限り華やかな笑みを形作った。


 それから――。


 二年一組の教室内に、小さな悲鳴が響き渡った。





 「転校生の女の子?」


 「そう。転校生の女子」


 祐真は首肯し、言葉を繰り返す。


 夕食時、祐真は影山沙希のことについて、リコに話をした。二人の間にあるテーブルには、リコ手製の食事が並んでいる。


 「少し前にうちのクラスに転校してきたんだ」


 祐真は肉じゃがを箸で摘むと、口へ運んだ。熱がしっかり通ったじゃがいもの、柔らかい身から甘い出汁が零れ出て、思わず舌鼓を打った。


 「どんな子?」


 リコは、味噌汁の椀を持ったまま質問してくる。なぜか神妙な面持ちだ。


 「けっこう可愛い子だよ」


 祐真はじゃがいもを咀嚼しながら、沙希の容姿を脳裏に思い起こした。


 日向のようなおっとりとした容貌。そこらのグラビアモデルを遥かに超える大きな胸。白くてきめ細かい肌。


 沙希の姿を思うだけで、静かに心臓が高鳴った。彼女が素敵な女子だと強く思う。いまだ、一度も会話などしたことないが……。


 ふと我に返ると、リコが渋面でこちらを見つめていた。


 「ふーん、つまり祐真はその女子のことが好きなんだ」


 「べ、別に好きってわけじゃあ……」


 図星を突かれ、祐真はあたふたと訂正する。


 「だから黙っていたんだ?」


 リコは咎めるような視線を向けた。


 沙希の件を話す結果になったのは、リコから質問を受けたためだ。夕飯が始まるなり、最近何かあったのかと、疑問を呈された。


 祐真自身、普段と変わらない態度のつもりだったが、どうも沙希のことが頭の隅にあったらしく、無意識に行動に出ていたようだ。


 「黙っていたわけじゃないよ。別に殊更伝えるべき出来事ではないってだけ」


 実際、当初から祐真は、沙希のことをリコへ教えるつもりはなかった。だが、変に詰められたせいで、思わず口に出してしまったのだ。言ったあとで後悔したが、すでに取り消せない。


 リコは味噌汁の椀を置き、疑い深げに目を細める。どうも沙希のことが気に食わないらしい。


 「その影山って女子と話をしたの?」


 「いや、してない」


 「向こうは祐真のことどう思っているの?」


 「どう思うも何も、道端に落ちている空き缶か何かとしか見てないんじゃないかな?」


 悲しいことに、これが現実なのだ。容姿が優れているわけでも、勉強ができるわけでもない弱い男。方や相手は、転校するなり人気を掻っ攫った可愛い巨乳女子。比較すら無礼に当たる相手だろう。


 そもそも、異性として魅力ゼロのオタク然とした祐真を好きになる酔狂な女子など、この世に存在しようがなかった。


 「そうかな? 祐真みたいな素敵な男の子、女子が放っておくはずがないと思うけど」


 リコの真面目なもの言いに、祐真はため息をついた。


 「何もわかってないな。お前はインキュバスだからわからないだろうけど、人間には好みってものがあるんだぜ。俺のことを魅力的に思う女子なんかいないって」


 祐真が放つ悲しい事実に対し、リコは心底不思議そうな顔をみせた。


 「こんな素敵な人なのに?」


 リコは、切れ長の目で、こちらを凝視してくる。それには、強い恋慕の情が込められており、祐真は背筋がむず痒くなった。


 「ま、まあともかく、俺とは大して接点がないんだから、気にする必要はないよ」


 会話を打ち切るつもりで、祐真はそう言い切った。リコは少しの間、何かしら深く考えていたようだが、やがて顔を明るくさせた。


 「そうだね。僕は祐真を信じているよ」


 変な物言いだが、リコは納得してくれたらしい。祐真は胸をなでおろした。


 会話が一段落したところで、祐真は付け合せのサラダを口に運んだ。しかし、安心するのが早かった。会話はまだ終わっていなかったのだ。


 「もしも祐真がその女の子を好きになっていたら、僕は絶対その子を許さないから」


 祐真はサラダを口に入れたまま、リコを見つめる。リコは真剣な眼差しを祐真へ注ぎながら、身を乗り出し、こちらの肩に優しく手を置いた。


 「だから、祐真はその子のこと気にしちゃ駄目だよ」


 リコの手からは、熱情のような嫉妬が伝わってきた。おそらく、祐真の本心をある程度察しているらしい。


 「……うるさいな。心配は必要ないって言っただろ」


 祐真は、リコの手を振り払った。


 祐真は、サラダを飲み込みながら思う。確かに自分と沙希が今後仲良くなる可能性はゼロに等しい。そのため、リコの心配は杞憂に過ぎないが、もしも、と考える。


 もしも、沙希と接点を持ったとしても、リコがいるこのアパートには連れてくることはできないだろう。


 ペナルティのリスクもさることながら、リコの嫉妬心により、沙希の命まで危ぶまれるからだ。




 翌朝。祐真は普段よりも早く起きて、アパートを出た。リコは昨夜の夕食時の出来事など忘れてしまったかのように、普段通りに接してきていた。


 朝食もいつもと変わらず、美味しくてバランスが取れたもの。祐真はしっかり完食する。これも普段通り。ただ、少し違うのは、リコがあまり朝食に手を付けていない点だ。やはり、昨夜の祐真の話の影響で、食欲が沸かないのだろうか。


 アパートを出たあとは、高校へ直行する。少し早めの登校なので、通学路は比較的空いていた。特に用事があったわけではないが、こういうのも新鮮で気持ちがいいと思う。


 祐真は晴れ渡った朝の空を見上げ、大きく息を吸った。澄んだ空気が肺腑の奥に流れ込み、浄化されたかのように気分がすっきりとする。


 今日はいいことがありそうだ。


 祐真は息を吐きながら、確信を持った。




 最初に異変に気づいたのは、教室に入ってからだ。下駄箱からここまでは特に変わった様子はなく、早朝の静かな校舎が存在しているだけだった。


 教室に入るなり、祐真は眉をひそめた。奇妙な光景が目に飛び込んできたためだ。

 教室の隅のほうの席で、男女が座っていた。言わずもがな、二年一組のクラスメイトだ。もちろん見覚えはある。


 問題なのは、二人の態度だった。まるでここがカップル喫茶でもあるかのように、手を握り合い、身を寄せ合って座っているのだ。デート中そのものの雰囲気であった。


 祐真は目が点になりながらも、自分の席へ向かう。二人があまりにもあからさまに乳繰り合っているため、祐真は、目が話せなかった。二人は、祐真が教室に入ってきたことにも気づかない様子で、自分たちの世界に没頭していた。


 祐真は自分の席に通学鞄を置き、周りを見渡す。ここまで堂々としているなら、他のクラスメイトも注目していることだろうと踏んだ。


 現在、登校を終えて教室にいる者たちは、あの二人の行動について、どう思っているのだろうか。


 そこで、祐真は硬直した。予想もしない光景が広がっていたのだ。


 今まで気がつかなかったが、教室内のあちらこちらで、似たような光景が展開されていたのだ。


 いずれも男女ペアで、仲良くいちゃついている。早朝であるため、クラスの人数そのものが少ないが、ほとんどの者がそうだった。ちょうど、クリスマス時期の公園がこういう感じだ。


 祐真は唖然と立ち尽くす。別世界に迷い込んだ気分だ。今が早朝の教室のせいだろうか。実は、朝早い教室は、祐真の知らないピンク色の世界が広がっていたということかもしれない。


 が、もちろんそんなわけがないだろう。祐真の頭に中で、明滅する光があった。


 おそらく、これは、また『面倒くさい』事象が関わっているに違いない。


 彩香&ユーリーペアが引き起こした全世界BL化計画。それを模倣し、リコを殺害するために古里&シシーペアが仕掛けた、全世界GL化計画とも言うべき策略。


 今回の奇妙な光景も、それらの事象に類似していた。はじめに目撃した時のインパクトも同じである。


 二度あることは三度ある。すなわち、現在、起きているこの渋谷駅前のような状況は、また何者かの姦計が水面下で動いていることの証左なのだ。


 とはいっても、祐真の思い過ごしの可能性もまだ否定できないが……。本当に、この高校の早朝がデートスポットとして機能しているだけで、特に人知を超えた力などは働いていない事実もあり得る。


 仮にそうなら、陰キャとしては少々悔しい事実ではあるが、淫魔や退魔士と争うよりは、かなりましのはずだ。


 少なくとも、これから周辺の環境に注視は必要だと思った。




 二日が経ち、祐真の推測は見事に的中を遂げた。


 先日の朝に目撃した男女ペアが乳繰り合う光景。それらは、急速に学校中に広まっていた。 


 祐真の周囲の人間もその変化に気づくほどだ。星斗や直也も、急に増えた男女のカップルに驚きを隠せないでいた。


 「なあ、この学校ってこんなにリア充多かったっけ?」


 星斗がクラスに何組かいる男女のカップルを見ながら、呆然と呟く。


 「そんなことないと思うけど……。ちょっと前まで普通だったし」


 直也も、丸い目をさらに丸くし、面食らっていた。


 動揺している友人二人を尻目に、祐真は歯噛みをする。これは、紛れもなく魔術が関わっている現象だ。当初はまだ疑う余地が残っていたものの、ここまでくると確信を通り越して、怒りすら沸いてくる。


 つまり、この高校に存在するのだ。魔術を使い、今の異様な光景に仕立て上げた犯人が。


 祐真は教室の中の様子を伺った。


 『カップル』が成立している割合は、大体クラスの半分ほど。BL化計画やGL化計画の時とは違い、異性同士であるため、『カップル』が成立していない生徒も残り男女半分となる。


 先ほど、教室の外を確かめてきたが、他のクラスも似たような感じだ。ただ、なぜかこのクラスが一番、男女のカップルが多いように思えた。


 祐真は忍ぶようにして、二年一組のクラスメイトの顔を一人一人見ていく。


 推測だが、このクラスが発端だと思われる。数もさることながら、一番最初に『男女カップル』を目撃した場所でもあるからだ。


 ということはつまり、このクラスにおいて、カップル化していない人物が、仕掛人ということになる。


 それは誰だろう。そして、何者なのか。


 と考える前に、やはり一人疑うべき存在がいる。そいつは、カップル化せず、友人たちと周囲の環境に困惑を見せていた。


 祐真はその人物に話を聞くことにした。




 「だから私じゃないって!」


 横井彩香が、廊下の隅で力強くそう言った。


 「だけど、今のところ君が第一容疑者だ」


 祐真の言葉に、彩香は慌てながら訊いてくる。


 「なんで私なの?」


 「君には前科があるからな」


 デートスポットのように、廊下にも溢れている男女カップルを見ながら、祐真は答える。頭の中で、ふと前にも同じやり取りをしたなと思う。


 「そんなわけないじゃない。私だったら、男女のカップルなんて作らないわ」


 彩香は、真剣な眼差しで否定した。嘘をついているようには見えない。


 「私ならやっぱり男同士のカップルしか見たくないわ」


 彩香は真面目な顔で、はっきりと伝えてくる。祐真はため息をついた。


 「……まあ、そうだろううね。横井さんが犯人なら、異性同士のペアにはならないか」


 カマを掛けたつもりだったが、やはり彩香の仕業ではないようだ。ある程度予想していたことである。


 彩香はほっとした表情をみせた。


 「でしょ? 私も正直、困惑してるんだ」


 祐真は尋ねた。


 「今の現象に、心当たりはある?」


 彩香は制服のスカートの裾を弄りながら、眉根を寄せた。


 「うーん、ないかなあ。あったらもう羽月君に伝えてるよ」


 「……ユーリーは今どうしてるの?」


 シシーとの戦いの際、人質になり、重傷を負ったユーリーだったが……。


 「この前、用事があるからって、泊りがけで出ていったよ。理由は教えてくれなかったけど」


 彩香は心配げに表情を歪め、そう言った。


 どうやら、ユーリーは、シシーとの戦いで負傷した旨を彩香に話さなかったらしい。ということは、つまり、彩香は自身がGL化した事実をいまだに知らないことになる。


 なにせよ、今は彩香のそばにユーリーがいないことは確かのようだ。


 「そう」


 これで彩香が主犯である線は、ほとんどなくなったと言っていいだろう。つまり、手掛かりゼロの状態に戻ったのだ。


 彩香ではないのなら、一体、誰だろう。前回は魔道書を偶然入手した古里の仕業だったが、今回もまた同じように、魔道書を手に入れ、淫魔を召喚した者がいるということなのか。


 祐真は彩香に質問した。


 「女子の様子はどうなの?」


 彩香は人差し指を顎に当て、うーんと唸る。


 「やっぱり困惑している人多いかな」


 「カップルになった女子から話を聞いたことある?」


 「うん。聞いたことあるよ」


 「なんて言ってた?」


 祐真が聞くと、彩香は複雑な表情を浮かべた。


 「それがちょっと不思議なところがあって……」


 「不思議なところ?」


 「うん」


 彩香は周囲に視線を走らせたあと、声を潜めるようにして話し始める。


 「なんでも、カップルが成立したのは、全部女子のほうから告白したかららしいよ」


「女子のほうから?」


 祐真は眉根を寄せる。


 「そう。私が聞いた話なんだけどね、その女子、急に彼氏が欲しくなって、告白しようと決めたんだって」


 「なんだよそれ」


 友人が少なく、彩香以外に女子の知り合いがいない祐真にとって、初耳の話だ。通常の告白の場合、男女どちらからでもなされる可能性はあるが、今回、学校中に――彩香が聞いた限りの――生まれたカップルの全てが、女子からの告白が発端なら、そこには何かカラクリがあることの表れである。


 「それにね」


 彩香は、こちらに身を寄せると、なぜか恥ずかしそうに自らのショートカットの髪をかき上げ、言葉を発する。シャンプーの甘い匂いが鼻腔をついた。


 「一部の女子たちの様子が変なんだ」


 「変というと?」


 彩香の挙動を怪訝に思いながら祐真は訊く。


 「えっとね」


 彩香は言いにくそうに口ごもりながら、続けた。


 「女子たちがなんだかエッチになってるんだ」


 祐真は耳を疑った。


 「なんだって?」


 「だから、何人もの女子が発情したみたいに、男子を求めるようになってるの」


 彩香の白かった頬は、少し赤くなっていた。


 「……」


 祐真は愕然とする。女子と接点がないため、気がつかなかったが、背景では、そんな異常事態が展開されていたのか。


 そして確信する。この現象は淫魔術の特徴とほぼ一致することを。


 「ねえ、これってやっぱり淫魔の仕業なの?」


 彩香は尋ねてくる。かつて自分が仕出かした行為と類似しているため、当然推察できる結論だ。祐真が彩香を疑った理由も同様である。


 「おそらく、それしか考えられない」


 祐真は爪を噛んだ。また非常に面倒な事態に陥りそうで嫌気が差す。こうも淫魔が絡んだ出来事が続くと、精神が参ってしまいそうだ。


 しかし、と思う。淫魔術と酷似しているが、今回の件は、どこか違和感があった。これまでいくつかの淫魔術を見てきたからこそ感じる齟齬。それが何なのか掴めず、頭が酸素不足の時のように、くらくらした。


 あるいは、祐真の思い過ごしか。


 「私は大丈夫かな……」


 彩香が不安そうに呟く。思えば、彩香も突然、発情するような変貌を遂げる可能性があるのだ。


 「……わからない。けど、できるだけ他の人との接触は避けたほうがいいだろうね。いざとなったら、学校を休みのも手かもしれない」


 感染型の淫魔術は、接触によって伝播する性質を持っていた。回避したければ、学級閉鎖のように、学校を休むのも一つの方法だろう。


 いずれにしろ、今回もBL化計画時やGL化計画時同様の警戒は必要だ。


 彩香はしばらく思い悩んでいたが、やがて納得したのか顔を上げた。それから、何かに気づいたように言葉を発する。


 「でも……、女子が今みたいな状態なら、羽月君も告白受けるかもね」


 祐真ははっとする。虚を突かれた思いだ。確かに祐真も男子である以上、告白の対象になる可能性があった。


 今までそのことを示唆できなかったのは、祐真が女子からあまりにももてない存在であるためだ。完全に思考の埒外の事象であった。


 もっとも、それでも、祐真に好意を寄せる女子がいるとは思えない。いくら相手が、淫魔術にかかっていようとも。


 しかし、万一、女子から告白を受けた場合、自分はどうするだろうかと考える。淫魔術が原因だとしても、嬉しい部分はあるかもしれない。


 とはいえ、そもそも犯人の存在や目的、淫魔の所在も未だわかってないのだ。その上、女子が告白に至る過程すら判明していない。現時点で『期待』する必要はないだろう。


 「まあ、その時はその時さ」


 祐真は肩をすくめた。あまりに情報不足で、未知数の状況。何も判断はできなかった。


 すると、彩香が祐真の顔を覗き込んできた。何かを期待するかのように、目がきらきらと輝いている。


 「望月君は女子からの告白をオッケーしたら駄目だよ」


 「なぜ?」


 彩香の唐突の催促に、祐真は面食らう。こちらの身を案じているのだろうか。確かに、淫魔術に侵されている人間と接触したら、こちらも『感染』する恐れがある。


 彩香は首を傾け、子供のように無邪気に笑った。


 「祐真君にはリコさんがいるんだから」


 「リコが? どういうこと?」


 なぜリコの名前が出てくるのだろう。理解できない。


 彩香は相変わらずキラキラさせた目をしたまま、顔の前で祈るように両手を組んだ。


 「だって、羽月君とリコさん、運命の人じゃない。これほどお似合いのカップルはいないよ」


 祐真はため息をつきたくなった。まじめな話をしていたと思ったら、またこれだ。この女の頭には、BLのことしかないのか。


 彩香は興奮が昂じてきたのか、息を荒げながら続ける。


 「そもそも羽月君は、女の子と付き合うより、男の子付き合ったほうがいいと思うんだ。守ってくれる王子様的な存在? そんな人がお似合いだと思うよ。だから、やっぱりリコさんと結ばれるべきなんだって」


 彩香は鼻息荒くまくし立てる。好きな漫画を語る腐女子のような有様だ。


 祐真は大きく息を吐き、彩香に背を向けて、その場を離れる。背後から彩香の拗ねたような声が聞こえたが、足は止めなかった。


 もう話は充分したし、休み時間も終わる。彩香は放っておいて、教室に戻ったほうがいいだろう。


 複数の男女カップルで溢れる廊下を、祐真は進む、頭の中には、先ほどの彩香の会話の内容が渦巻いていた。 


 祐真自身が告白される可能性。彩香はそれを示唆した。実際、祐真のような男を好きになる女子はいないだろうが、妄想は膨らむ。


 もしも、告白してくるなら、誰だろう。そう思った祐真の脳裏に、影山沙希のふわふわとした容姿が幻影のように浮かび上がった。


 沙希から告白された場合、仮に淫魔術に感染する恐れがあろうと、おそらく、夢中で首を縦に振るだろう。その先、どんな破滅が待っているのか関わらず。


 少なくともこれだけは言える。相手が沙希だろうと、他の女子だろうと、告白された場合、リコに知られることだけは避けなければならない。なぜなら、彼の嫉妬を買うからだ。

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