第十三章 シシー・デバテーデレン・マッキンタイア

 シシーは夢を見ていた。


 人間の住む世界ではなく、かつて、自分が人ならざるモノが住む世界で生活していた頃の夢。


 それは、まだ幼い時のものだ。人間でいうと、小学校低学年くらい。当時、シシーは学校に通っていた。


 その学校は、淫魔だけではなく、妖魔や悪魔、果てや人間の魔術士などの他種族が共に通う、ナショナリズム的な側面が強い学校であった。


 多種族が入り混じる学校生活において、種族間トラブルは、息をするくらい至極当然の出来事だ。相性の悪い種族などは、区分措置などの考慮はあるものの、むろん、限度があった。


 時折、他種族同士の暴行、あるいは殺し合いに発展する場合もあった。


 とはいえ、その中でも、淫魔種に対する扱いは悪いものではなかった。なにせ、絶世の美貌を誇る種族である。しかも、天性の色情狂でもあった。種族は違えど、サキュバス、インキュバス共に、大勢の者が自然と虜になっていた。


 それは同性愛者だろうと見境がなく、まさに入れ食い状態である。


 幼いとはいえ、性を謳歌するシシー。何人もの生徒と性交を行い、瑞々しい精を吸い続けた。


 シシーにとって、学校は楽園だった。


 ただし、唯一、例外として自身に惹かれない種族がいた。それは、同種族であるインキュバス種である。


 当たり前といえば当たり前だ。淫魔は他者の精を吸う存在。淫魔同士惹かれ合うことは、根源的な部分であり得ないことだ。


 特に、自身の性質と正反対のインキュバス――同性が性愛対象であるゲイのインキュバス――に対しては、互いに水と油のごとく、一切合切、魅惑されることはなかった。


 ゆえに、と言っていいだろう。ある意味、ゲイのインキュバスは、魅了を武器にするサキュバスにとって(互いに)天敵とも言える存在なのだ。


 今はもう名前も忘れたが、一人のインキュバスがいた。そいつはゲイで、手当たり次第に男を漁ってる人物だった。美貌も芸術品のように美しく、淫魔の中でも群を抜いていた。


 シシーはそいつが気に食わなかった。シシー自体、サキュバスの中でも上位クラスの容姿を誇っており、他の淫魔より多く生徒を『食べる』ことができていた。


 しかし、そいつのせいでシシーの『取り分』が減る実情があったのだ。女のシシーよりもゲイのインキュバスにほだされ、シシーの元から離れていく男も少なくなかった。


 シシーはいつしか、そのインキュバスに恨みを抱くようになっていた。


 とはいっても、美貌や魅力では到底勝ち目はなく、相手のほうが魔力が多いため、戦闘でも敗北は濃厚だった。もしもこれが他種族ならば、相性などで覆せる部分があるかもしれないが、同種族の淫魔同士の問題だ。魔力や淫魔としての資質の差が、そのまま雌雄を決する根幹となる。ゆえに、どのような方法を用いようと、シシーにとって、そのインキュバスを越えることは到底不可能といえた。


 着実に積もっていく憎悪と恨み。やがて、それらは汚濁として入り混じり、黒い渦となってシシーの胸の内を満たした。


 シシーは不倶戴天の敵に対し、一計を案じることにした。元より、到底勝ち目のない相手である。取れる手段は限られる。むしろほとんどないだろう。しかし、それでもシシーは模索した。そこには、サキュバスとしてのプライドがあったのかもしれない。


 やがて浮かび上がる名案。当時、そのインキュバスには、特に入れあげている相手がいた。人間で、今は詳しくは覚えていないが、魔術士だが妖術士の男子生徒だった。


 シシーからしてみれば、その男子生徒のどこが魅力的か理解できなかった。容貌は地味で、身長も特に高いわけではない。性格も暗かった。サキュバスのみならず、大抵の種族の女からも惚れられることはない弱い男だろう。


 しかし、不思議なことに、その男子生徒はゲイのインキュバスからは、すこぶる人気だった。シシーが把握しているだけでも、学園内にいるゲイのインキュバスの大半が、彼に惹かれた末、告白しているようだ。


 特に妙な点が、その男子生徒はゲイではないことだ。


 おそらく、彼は異性愛者だっただろう。しかし、それを一番魅力的なインキュバスが、相手にされないにも関わらず、アタックを続けているというおかしな構図が生まれていた。


 シシーはそこをアキレス腱と見做し、目を付けた。


 シシーは行動に移す。その男子生徒がゲイだろうが、異性愛者だろうが、男なら自身のサキュバスとしての魅了が通じると予測して。


 実際、シシーの姦計は功を奏した。男子生徒は手篭めされた。


 ――かと思われた。


 しかし――。





 シシーははっと目を開けた。コンクリートに似た無機質な天井が、視界一面に広がっている。


 『虚構空間』。


 自身が作り出した空間に、現在自分がいることをシシーは思い出した。と同時に、その空間がハッキングされ、管理下から離れてしまったことも動画のコマ送りのように思い出す。


 シシーは体を動かそうとした。途端、電撃のような激痛が腹を中心に、全身へと広がった。


 おそらく、リコから強烈なボディブローを食らったようだ。そして、相当離れたところまで吹き飛んだらしい。


 「シシー!」


 清春が駆け寄ってくる。どうやら気絶したのはほとんど一瞬で、攻撃を受けてからさほど時間は経過していないようだ。


 「大丈夫か?」


 清春が、凛々しい顔を不安そうに歪め、のぞき込んでくる。


 清春に心配をかけさせてはいけない。


 シシーは無理に笑顔を作り、体を起こした。腹部が裂けそうな痛みが走るが、何とか我慢する。どうやら致命傷までは至っていないらしい。


 「おい……」


 清春は心配そうに声をかけてくる。シシーはにこやかに笑みを浮かべた。


 「大丈夫。なんともないわ」


 シシーは視線を前方に向けた。リコのそばに、祐真が立っている。祐真は完全に我に返っており、緊張した面持でこちらを見つめていた。


 サキュバスの魅了を自力で解除した『あり得ない』彼は、無事、インキュバスの元に戻ったようだ。


 それはつまり、もう召喚主を人質に取る作戦が使えないことを意味していた。すなわち、掛け値なしに、こちらの敗北が確定してしまうのだ。


 シシーは唇を噛んだ。この空間はハッキングされ、解除できない。脱出は容易ではないだろう。もうこちらは蹂躙される未来しかなかった。


 その時、リコが祐真を残し、こちらへと向かって歩き出した。余裕綽々の面構え。すでに勝ちを確信していることが透けて見えた。


 リコはある程度近づくと、口を開く。


 「この部屋に入る前から、君の行動はあらかた予想がついた。祐真に魅了をかけることも。だから、予め、祐真の唇にプロテクトを仕込んでたんだけど、まさか手の甲にキスするとはね」


 背後で置き去りにされている祐真が、自身の唇に手を触れた姿が見えた。多分、ここに入る前に、リコから唇に触られたかどうかしたのだろう。その時、魔術をかけられたのだ。こちらが察知できないくらいの、微細な力で。


 もしも、ダイレクトに祐真の唇をシシーが奪っていたら、その時点で勝負はついていたのだ。おそらく、その魔術はカウンターの性質を持っていたはずだから。


 キスは防ぎつつ、こちらを仕留める算段だったのだろう。しかも、全く悟られないよう完璧に隠蔽して。


 リコは言葉を続ける。


 「別にプロテクトを見破っていたわけではないんだろ? どうして唇を狙わなかったんだい?」


 シシーは視線をリコに戻し、顎を引いて怯む。寒いところにいる時のように、歯が鳴った。


 理由は祐真が好みではないからだが、今それを言っても無駄だ。下手をすると、こいつの機嫌を損ねる可能性すらある。このインキュバスは、恋愛の好みも、シシーの価値観とは大きく離れているのだから。


 脳裏に、かつての記憶――先ほどみていた夢――の映像が、動画の早送りで流れる。


 光が明滅した。はっとする。この二人はあの時のゲイのインキュバスと、男子生徒の……。


 シシーは口を開いた。


 「私、前に多種族が入り混じる大きな学校に通ってたことがあって……」


 思わず、言わないではいられなかった。


 「その学校に、ある男子生徒がいたわ。その男子生徒に惚れているゲイのインキュバスもいて……」


 突如、語り始めたシシーに対し、清春が訝しげな顔をみせる。


 「シシー、何言ってんだ?」


 困惑しているようだ。当然だろう。今はそれどころではないからだ。生き死にの瀬戸際である。


 しかし、それでもなお、シシーの語りは止まらなかった。


 「その男子生徒はゲイではなかったわ。一方、惚れているインキュバスは、淫魔の中でも群を抜いて美しく、能力もずば抜けていた」


 偽物の空間内に、自身の声が響く。歌姫のような美声、と前に清春に褒められたことがあるが、今や恐怖と緊張で枯れかけていた。


 今、聴客は気絶しているユーリーをのぞき、三人。リコと祐真も、何事かと黙って聞いていた。


 「私はそのインキュバスが気に食わなかった。だから自らのサキュバスとしての能力を使って、男子生徒を篭絡しようとした。けれど……」


 そう。問題はそれからなのだ。目論見通り、彼を手中に収めたあと――。


 「あの時、私の策は上手くいったわ。でもその男子生徒は……」


 「それまでだ。シシー」


 リコが、シシーの話を制止した。切りつけるような口調に、シシーはとっさに口をつぐむ。


 「少しお喋りが過ぎたね。お転婆なサキュバスさん」


 リコは警告を発する。有無を言わせない圧力があった。シシーはそれ以上言葉を発せられず、無言になる。


 リコは、一歩、こちらに近づいた。


 「君の過去の話はさておき、一ついいかい?」


 さらにリコは一歩近づく。シシーの胸の内に、湧き水のごとく恐怖が生まれた。


 シシーの胸の内を察しているのか、はたまた頓着すらしていないのか、リコは平然としたまま、言葉を発する。


 「サキュバスが出てくる展開は意外だったけど、別に誰かから指示を受けたわけではないんだろ?」


 リコの質問の意味がわからなかった。私がこの世界に顕在化したのは、清春が召喚したためだ。それは、この男も知っているはず。


 シシーは理解できないまでも、曖昧に頷いて返す。


 リコは満足そうに笑みを浮かべた。


 「よかったよ。じゃあ遠慮なく事を進められるね」


 リコは人差し指を立てたあと、言葉を続ける。


 それは、身の毛もよだつような、ぞっとする冷たさが込められているものだった。


 「君が祐真の唇を狙わなかった理由はわからないけど、キスしたのは許せない。例え、手の甲だとしてもね。僕だって祐真にキスしたことないんだから」


 リコは心底、悔しそうな表情を浮かべた。背後にいる祐真も、複雑な顔付きになっている。リコの誘惑に日々、苦労している様が見て取れた。とはいえ、そもそも、召喚した淫魔からの誘惑を拒否すること事態、有りないのだが。


 シシーが無言のままでいると、リコは手を銃の形に形作り、こちらに向けながら言った。


 「だから、これから君たちに『おしおき』をするね。この空間は僕の物になったし、祐真をこれ以上、危険な目にあわせたくないから」


 シシーは唾を飲み込んだ。まずい。リコは本気でこちらを殺す気だ。ぜめて清春の安全だけは確保しなきゃ。でも、どうやって……。


 すると、シシーの前に、清春が立ち塞がった。リコが向けている指先と視線を、遮断するかのように。


 「さっきからオメー、偉そうな口きいてんな。調子に乗ってんじゃねーぞ」


 清春は激昂していた。背中だけでも、怒りに打ち震えている様子が伝わってくる。まるで虎だ。やっぱり、清春はものすごくカッコいい。これがまさに私の召喚主。


 清春は懐からある物を取り出した。伸縮式のナイフだ。清春は、ボタンを押して刃を伸ばす。


 今、清春が手にしているナイフは、清春自前のものだ。ゆえに、虚構空間の影響を受けない。


 しかし、リコに通じるとは到底思えなかった。こいつは化け物だ。現代の重火器も意に介さないだろう。


 けれども……。


 シシーは足を踏み出し、清春の隣に並んだ。それから、両手に魔力を集中させる。


 「シシー、お前……」


 清春が驚いた顔をした。


 「清春。死ぬ時は一緒だからね」


 両手の魔力は、すでに燃え盛る炎のように漲っていた。隣に清春がいることと、覚悟をしたことで、一瞬、勝てそうな気さえしてくる。


 「俺は死ぬ気はないからな」


 清春は自信満面に豪語した。彼ははじめから、勝つ気でいたようだ。強力なインキュバスを前に。


 清春はそういう男だ。私を召喚したのだから、当然だろう。


 シシーは静かに息を吐いた。リコに視線を戻す。


 リコは冷たい笑みを形作った。





 まさに一方的だった。


 シシーと古里のタッグが形成され、戦闘が開始された。


 今まで何度か目にしたバトル漫画のような光景。祐真は、固唾を飲んで見守っていた。


 今回は、これまでの戦闘の中で、特に悲惨だった。


 シシーと古里は、さすが召喚主と淫魔というべきか、阿吽の呼吸で連携を取ってきた。シシーは魔術を使い、古里をサポートしつつ、攻撃を行う。


 古里のほうは、本人の頭のレベルを反映してか、猪突猛進を徹底し、リコへと襲い掛かっていた。


 もとより、結果は見えていたのだ。この部屋に入った瞬間から。リコがハッキングし、シシーが作り上げた虚構空間を手中に収めてから。


 少なくとも、シシーはすでに覚悟していたのだろう。


 まず、二人の攻撃は、一切、リコには通じなかった。それでもめげずに攻撃しようとナイフを振り上げた古里が、トラックにでも跳ねられたように、吹き飛ばされた。

 シシーはとっさに古里の背後に回り込み、受け止めることに成功するものの、それが仇となった。


 シシーは、瞬時に肉薄してきたリコの殴打を、もろに顔面へと受ける。強風の時の空き缶のように、シシーは真横へと転がっていった。


 倒れ伏し、身動きをしなくなるシシー。だが、リコは攻撃を止めなかった。


 奪い取った虚構空間の能力を使い、巨大な鉈やハンマーなどを作り出す。それをシシーに対し、使用した。


 いくつもの凶器が、生き物のように動き、シシーを襲う。シシーは無防備のまま攻撃を受けた。


 全身を切り刻まれ、骨を砕かれるシシー。血と肉片が辺りに飛び散った。絶叫がこだました。


 それを見ていた古里が、何事か叫びながらリコへと突進するものの、無駄だった。彼は見えない巨大な手でつかまれたかのように、宙へと持ち上げられると、そのまま地面へと叩きつけられた。潰されたカエルのような声を発し、昏倒する。


 そこへ再び攻撃を加えようとするリコを、祐真は制止した。


 「リコ! ストップ!」


 リコは動きを止め、不思議そうな顔でこちらを見つめる。


 「どうしたの祐真」


 「それ以上やると死んでしまう」


 リコは首を捻った。


 「この人たちは僕らの敵だよ。シシーは君の手の甲にキスしたし、古里は散々君を侮辱したじゃないか」


 「……二人が死んでしまうと、赤い本の所在がわからなくなるぞ」


 今のところ、例の召喚返しの本は、この二人からのヒントしか手掛かりはないのだ。それに、いくら敵とはいえ、一方的に痛めつけられる姿を見るのは抵抗があった。


 「そうだったね。祐真には目的があるもんね。……多分、無駄だと思うけど」


 リコは、やむを得ないといった風情で、手を下し、身を引いた。不満顔だ。祐真の制止を完全に納得していないらしい。


 いつになく冷酷なリコの姿に、祐真は面食らっていた。リコは、これまで戦った敵にも容赦なく攻撃を加えていたが、今回は特に熾烈な気がする。


 祐真の手の甲を、シシーの唇に奪われたことが、よほど気に食わないらしい。怒り心頭なのだろう。


 リコが矛を収めたところを確認し、祐真は倒れている古里へ近づいた。とにかく、今は眼前の殺人をやめさせることと、情報収集が先決だ。


 祐真は膝をつき、古里の顔をのぞき込む。彼は白目を剥いており、完全に意識を失っていることがわかった。


 目を覚まさせるために、祐真は古里の頬を叩く。反応なし。死んでないことは瞼の痙攣ではっきりしていた。


 何度か強めに頬を張ることで、ようやく古里は目を覚ました。はっとしたように、顔を上げる。


 「お、お前……」


 状況を理解したのだろう、古里は眉間に皺を寄せ、こちらを睨んでくる。


 祐真は言う。


 「ちょっと質問がある。お前がサキュバスを召喚する際に使った赤い本の件についてだ」


 「赤い本……」


 古里は怪訝な面持ちになるが、すぐに思い当たったのだろう、なにかに気づいた様子をみせた。


 ビンゴのようだ。祐真は頷き、核心に触れる。


 「赤い本をどこで手に入れた?」


 可能なら、有益な情報が欲しい。長い憂患を解決するほどのもの。リコと共に過ごすことで巻き込まれる尾異常事態は、もうこりごりだ。


 古里は無言で返す。こちらの期待を裏切り、何も答えないつもりなのか。


 祐真は言う。


 「教えれば、命は助けてやる」


 心のどこかで、まるで悪役みたいなセリフだなと思う。現在の状況を客観的に見ても、こちらが悪者である。


 古里は、それでも答えない。猿のような下卑たニヤけ顔を作った。


 「お前みたいなオタクに、誰が教えるか馬鹿」


 そして、こちらに向かって唾を吐きかけてくる。とっさのことで祐真は避ける行動を取れなかった。唾が浴びせられる。


 が、寸前で唾は空中に停滞し、逆に古里の方へとテープを巻き戻したように返っていく。


 自身の唾を浴びた古里が、小さく呻いた。


 「言ったろ祐真。無駄だって」


 リコが悟った口調で言う。どうやらリコの虚構空間の力で、古里の唾を弾き返したらしい。


 祐真はため息をついた。


 リコが忠告したとおり、期待した自分が愚かだったようだ。所詮、こいつは原始人並みに知能が低いヤンキー。通じる言葉は存在しないのだ。


 この調子では、シシーも同様だろう。祐真はシシーが倒れている場所に、目を移した。


 そこで祐真は硬直する。リコからの攻撃を受け、満身創痍で倒れ伏しているはずのシシーが、消えていた。


 祐真はとっさに、リコのほうへ振り向いた。いつの間にか、リコの背後にシシーが立っていた。全身血まみれで、手足も糸が切れたように、垂れ下がっている。骨折しているためだ。


 しかし、それでも立っていられるのは、魔術か何かで部分的に修復したお陰なのだろう。そして、古里に気を取られている隙を突いて、リコの背後に回り込んだ。


 「リコ!」


 祐真が言葉を発すると同時に、シシーは腕を振った。


 「死になさい」


 シシーの振った腕は、リコの横顔へと直撃した。激しい殴打だ。リコは先ほどのシシーと同様、真横へと吹っ飛ぶ。それから、地面へと転がった。


 祐真は唖然とする。これまでの戦闘で、リコが受けた攻撃の中では、一番大きいかもしれない。


 祐真はリコの元へ駆け寄ろうとした。そこで目の前にシシーが立ち塞がる。


 シシーの顔は鬼気迫っていた。傷つき、血濡れになった黒豹。彼女は追い詰められていた。


 「この際、プライドは抜きよ」


 シシーは祐真の腕を取り、引き寄せる。それからシシーは、祐真の股間に手を伸ばした。


 シシーの狙いが祐真は理解できた。性器に触れ、直接魅惑をかけるつもりだろう。魅了に対するウィークポイントであるため、おそらく、男なら効果覿面のはず。


 祐真はそれでも抵抗できなかった。サキュバス性質ゆえか、為すがままだ。


 シシーの艶かしい手が、股間に触れる寸前だった。彼女の動きが止まった。シシーは眉根を寄せる。そして、顔を上げた。


 「あなた、やっぱり……」


 シシーは目を見開く。瞳の奥に、怯えがあった。まるで怪物の姿でも目撃したかのように。


 どうしたのだろう。祐真が疑問に思った時には、すでに事は起こっていた。


 唐突に、眼前のシシーが『消えた』のだ。祐真は息を飲む。すぐにわかった。シシーは攻撃を受け、吹き飛ばされたのだ。一気に肉薄したリコの手によって。


 リコの頬には、かすかに血が滲んでいた。シシーの殴打は、的確にリコへダメージを与えたらしい。今まで多くの敵と交戦し、どんな攻撃を受けても、かすり傷一つ負わなかった強いインキュバスのはずなのに。


 「リコ、大丈夫?」


 祐真は心配になって尋ねる。リコは頬の血を拭うと、穏やかな笑みを作った。


 「大丈夫だよ。ちょっと油断しちゃっただけ」


 そして、リコは遠くで倒れているシシーを見る。シシーは吹き飛ばされた影響で、壁へと激突し、そのまま倒れ込んだようだ。


 身動きはしておらず、もうこの時点で決着がついたことが確信できた。シシーは起き上がってこないだろう。


 「シシー!」


 古里が、傷だらけの身体を、ゾンビのように這いずらせながら、シシーの元へと向かった。思えば、ユーリーを含め、今この空間にいる者で無傷なのは、自分一人だ。もっとも、それは、リコが守ってくれたお陰なのだが。


 「あの二人はどうするの?」


 シシーに縋り付く古里を顎でしゃくり、祐真はリコに訊く。リコは肩をすくめた。


 「殺したい、って答えたいところだけど。祐真は納得しないよね」


 「まあね。殺すことはないんじゃないかな」


 「彼らはアネスに任せるよ」


 ここでまた捕縛部隊か。祐真たちにとっても敵なのだが、案外、ここにきて、連続で役に立っている存在だ。


 祐真は大きく息を吐き、偽物の天井を見上げた。


 一件落着、といえるのだろうか。少なくとも、これで高校を襲っているGL化現象は止まるはずだが。


 祐真は古里とシシーを見つめる。淫魔と召喚主の男女。彩香と祐真に復讐を果たそうと画策した連中。


 結局、志半ばで、夢は潰えたものの、遺恨は残した。そして、有益な情報はこちらは得られなかった。例の赤い本の情報を。


 つまるところ、骨折り損のくたびれ儲け。損しかしていなかった。


 祐真は、大きく嘆きたい気分に襲われた。




 そのあと、やってきた捕縛部隊の手によって、古里とシシーは拘束された。シシーは意識を消失しており、古里も満身創痍。赤子の手を捻るよりも容易く、事を終えていた。


 アネスいわく、シシーと古里両名は、裁判にかけられるとのこと。BL化計画による淫魔及び、淫魔術拡散の露見リスク拡大の容疑らしい。


 このあたりは、ユーリーと彩香も過去にやっているため、ユーリーたちがお咎めなしなのは、リコの手によるちょっとした工作が入っているのかもしれなかった。


 すでに死に体だったユーリーは、アネスらによって介抱された。命に別状はないらしく、しばらくの間療養すれば、無事復帰できるとのこと。


 一通りの手続きが終わり、虚構空間は解除された。


 現れる本物の空間。


 そこは、ゲーム機や雑誌が散乱する狭い部屋だった。おそらく古里の遊ぶ場所だったのだろう。娯楽室のような雑多な雰囲気が漂っていた。


 祐真たちは部屋を出て、玄関に向かう。侵入した当初は、人並みの広さを持つ家に感じたが、今こうして見てみると、なんとも古くて狭い古民家ということがわかる。


 祐真たちは、主なき城と化した家からも出た。すでに日は落ち、夜の冷ややかな空気が漂いだしている。


 アネスたち捕縛部隊は、すでに古里たちを連れて、いち早く退散していた。祐真たちも帰路へとつく。


 二人は、夜空の中、閑静な住宅街をゆっくりと歩きはじめた。今の時刻なら、終電にも間に合うだろう。


 祐真は小さくため息をついた。色々あって、非常に疲れていた。身体が泥になった気分だ。ただでさえ、非日常が連続しているのに、ここにきてサキュバスである。誘惑はされるし、散々であった。


 祐真は無言で、歩き続ける。隣を歩くリコも同様だ。普段なら、祐真がそばにいるだけで饒舌に話してくるのだが、不思議に今は無口である。


 リコも疲れているのだろうか。


 祐真が疑問に思い、質問しようとした。その時だ。


 リコは貧血を起こしたかのように、ふらりと前のめりに倒れた。かろうじて膝をつき、地面にぶつかるのは避けられたものの、結構心配になる挙動である。


 リコも疲れているのだろうか。超人無敵のこいつですら、今回の戦いは堪えたのかもしれない。


 「リコ、大丈夫?」


 祐真は声をかける。変に心配すると、自分を受け入れたものと見做し、誘惑をしてくるため、祐真は滅多なことではリコの身を案じる言葉はかけなかった。


 だが、今はそれどころではない気がする。


 「ああ、平気さ」


 リコは、地面に膝をついたままそう答えた。顔は爽やかスマイル。しかし、どこか顔が青ざめているように見えた。


 「だけど……」


 祐真は眉根を寄せ、リコの顔を覗き込もうとする。すると、リコはゆっくりと立ち上がった。


 「ふふ。祐真が心配してくれてる。演技した甲斐があったね」


 リコは、お茶目な様子で、ウィンクを行う。悪戯した子供のような口調だ。


 「え、演技?」


 祐真は唖然とする。せっかく心配したのに、今のが演技?


 「祐真から心配されたくて」


 リコは舌を出す。祐真はかっとなった。


 「ふざけるなよ! 本気で心配したんだぞ」


 なんて奴だ。祐真はそっぽを向いた。


 「ごめんごめん。でも心配してくれて、本当にありがとう。嬉しかったよ。アパートに戻ったら、美味しい晩ごはん作ってあげる」


 リコは、言いながら、こちらのほっぺを突っつく。祐真はリコの手を振りほどいた。


 と同時に、祐真の腹が鳴る。夕食の時刻はとうに過ぎている。今さらながら、空腹であったことを祐真は自覚した。


 「お腹の音、聞こえたよ。祐真。可愛い」


 リコのうっとりとした声に、祐真は嫌気が差した。


 「もう知らん」


 祐真は、リコよりも前に立って歩き出す。リコが宥めながら、後ろに続いた。


 リコの声を無視しつつ、祐真は疑問に思う。


 あれが本当に、リコの演技なのだろうか。祐真の目には、そうは見えなかった。実際に目を丸くするくらいには、迫真さがあった。


 とはいえ、今は平然としている。考えすぎなのかもしれない。元々こいつは、そういう下らない真似をする奴なのだ。


 それに、ずっと心に引っ掛かっているものがあった。シシーとの戦いで起きた現象。


 隣まで追いつき、いまだ弁解をしているリコへ、祐真は質問する。


 「なあ、リコ。シシーから俺が魅了をかけられた時、どうして勝手に解除されたんだ? サキュバスの魅了ってそう簡単には解けないんだろ?」


 質問されたリコは、一瞬目を細めた。だが、すぐに紳士のような、穏やかな表情になり、肩をすくめる。


 「さあ。多分、シシーの魅了の力が弱かったんじゃないかな」


 「そうなのか? ユーリーを倒すくらいには強いサキュバスなんだろ?」


 「戦闘能力の強さと、魅了の強さは別だから」


 そういうものなのか。祐真は釈然としないまでも、納得するしかなかった。


 元々、その時は魅了の影響で記憶が曖昧になっており、具体的な事象を把握していない事実もある。これ以上、言及する理由もなかった。


 「それよりも……」


 リコは、口角を上げ、悪戯っぽく笑う。


 「さっき、祐真が心配してくれたのは、僕を受け入れてくれる気になったからだよね。じゃあ、アパートに戻ったらさっそく」


 「却下」


 祐真はぴしゃりと言い放つと、リコを置いて早歩きで進んだ。やっぱり、リコはリコだ。節操のないインキュバス。心配して本当に損した。


 リコは叱られた子供のように、泣きそうな声を上げながらついてくる。


 やがて、二人は駅へと到着した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る