第十二章 相対

 「シシー・デバテーデレン・マッキンタイア?」


 リコは、大鍋に炒めたジャガイモや人参を投入しながらそう繰り返した。キッチンの天板に乗っている材料を見る限り、今日はビーフシチューらしい。


 学校が終わるなり、祐真はいち早くアパートへ帰宅した。それから開口一番、リコへ一連の流れを報告したのだ。


 「ああ。よりによって古里が淫魔を召喚してたんだよ」


 リコは料理の手を止めず、話を聞いていた。続いては牛肉とたまねぎが投入される。ゆっくりとかき混ぜられると、キッチン中にビーフシチューのまろやかな香りが漂い始めた。


 「あいつは召喚したサキュバスを使って、俺たちを殺すらしい。それだけじゃなく、横井さんやユーリーまで狙ってるんだよ」


 リコはかき混ぜる手を止め、ガスコンロの火を弱めた。それから、こちらに体を向ける。


 「ユーリーはどうしてるの? 彩香がそんな状態なんだろ?」


 祐真は昼休み、自身が取った行動を思い起こした。


 「それが……、連絡つかないんだ」


 「連絡が?」


 リコは彫刻のような端正な顔に、複雑な表情を浮かべた。


 「うん。スマホで電話を掛けたんだけど、一切繋がらない。もしかして、何かあったのかも。ユーリーが無事なら、横井さんが淫魔術にかかるはずがないんだし」


 リコはエプロンを外しながら、質問を行う。


 「彩香はなんて言ってる?」


 「横井さんには何も訊いてないよ。だって、クラスメイトの女子とめちゃくちゃラブラブだったから、分け入り辛くて」


 淫魔術の効果のせいで、今や彩香はGLの局地と言うレベルにまで達していた。人目も憚らず、楓と乳繰り合っているのだ。


 「そうか。なかなかに厄介な展開になってきたね」


 リコは飄々とした口調で言う。


 「なに余裕ぶってんだよ。サキュバスが敵として現れたんだぞ。古里も敵意剥き出しだ」


 祐真は憤慨した。


 「わかっているさ。ちゃんと深刻に受け止めてるよ。まさかサキュバスが出てくるとは思ってなかったし」


 リコは宥めるように手を振る。


 リコはどこか、新手であるサキュバスや古里の存在よりも、サキュバスが現れたことそのものに危惧を覚えている節があった。


 相手が誰だろうと、敵が現れることを危険視しているのだろうか。


 いずれにしろ、十全な対処をしなければならない状況だ。


 祐真は質問する。


 「これから俺はどんな行動を取ればいい?」


 古里から直接宣戦布告されたのだ。今までどおり、様子見のままでは諸々手遅れになるだろう。


 リコはガスコンロの火を完全に止めると、腕を組んだ。


 「とりあえず、防御魔術は施したままだとして……」


 リコは細い顎に手を当て、思案する仕草を取る。


 「そのサキュバス――シシーだっけ――を排除しないとね」


 排除とは、穏やかではない単語が飛び出した。


 「殺すのか?」


 「ああ。それしか方法はなさそうだ」


 現状を考えると、もっとも手っ取り早い手法であるため、仕方ないかもしれない。だが、少し残忍であるような気もする。


 「ユーリーの時は殺さなかったじゃないか」


 リコは、わかってないなと言わんばかりに、首を振った。


 「相手はサキュバス。祐真まで誘惑される恐れがあるからね。早めに消えてもらわないと」


 リコの本心を知り、祐真はげんなりとする。さすがの自分でも、敵だと知っている相手に誘惑されるヘマはしないだろう。


 そう思った直後、映像が差し込まれるかのごとく、祐真の脳裏にシシーの姿が思い起こされた。


 アフロディーテを思わせる抜群のプロポーション。小動物のように大きくて、蟲惑的な目。全身から放たれる性欲の権化のようなオーラ。


 祐真はふと気つく。いつの間にか、シシーが目の前に現れていた。彼女は、ボンテージ風の衣装に見え隠れする自身の巨乳をゆっくりと撫で、こちらへ誘うようなまなざしを向けてくる。


 祐真は唾を飲み込み、シシーに近づく。シシーの褐色の肌がくっきりと見え始めると同時に、祐真の鼓動が著しく早くなった。


 シシーは胸元をはだけさせ、ビキニのように面積の狭いパンツをゆっくりと下げる。見てはいけないと思いつつも、自然と祐真は目を奪われた。祐真は、シシーの体に手を伸ばした。


 はっと我に返る。リコが肩に手を置いていた。信じられないことに、リコとの会話の最中、トリップしていたようだ。


 いや、トリップというよりかは幻覚、妄想の類か。あまりにもリアルで、生々しかった。


 今もまだ心臓の鼓動が早鐘のように鳴っている。


 「祐真。大丈夫?」


 リコが肩から手を離しながら、気を使うように訊いてくる。


 祐真は目を瞬かせ、小さく頷いた。寝起き直後の気分だ。


 「祐真。僕の言ったとおりだ。やはりサキュバスの魅了の影響を受けているね」


 「魅了……?」


 祐真はぼんやりと尋ねる。


 「うん。魔術とも違う、淫魔なら当たり前に備わっている力だ。僕と一緒だからわかり辛いけど、インキュバスもサキュバスも、存在そのものが人間を魅了するからね」


 祐真は屋上で、シシーと初めて出会った光景を思い出す。


 直接目にした時も、発情した雄犬のようにそそられたが、脳裏に思い起こすだけでも心を奪われてしまっている。もしも今、実際に本人が目の前にいたら、祐真は我慢できずに飛び掛っていることだろう。


 初めて実感する。淫魔の恐ろしさ。退魔士である花蓮が淫魔を異常に敵視していたが、少しだけ気持ちが理解できた気がした。


 「やはりサキュバスは危険だね。僕の祐真がたぶらかされる前に早めにしないと」


 「なんで俺が、お前のモノみたいになってんだよ」


 祐真は、お笑い芸人のように突っ込む。お陰で、若干、心に落ち着きが戻ってきた。リコもわざと祐真のために軽口を叩いた雰囲気があった。


 その直後だ。心が平静になったせいか、とある疑問が頭に湧き起こった。


 祐真は質問する。


 「そう言えば、淫魔が死んだ場合、ペナルティってどうなるんだ? 淫魔の正体がばれても、相手が召喚主ならペナルティの心配はないだろ。けれど、もしもそのあと、召喚した淫魔が死んで、契約解除された場合、そのペナルティは有効になるのか?」


 リコは小さく首を振る。


 「いや、そうはならないよ。契約解除されたとは言え、『元』召喚主なんだ。ペナルティの対象にはならない。むしろ、淫魔の情報を少しでも漏らそうなら、即座に捕縛対象になったはず。その辺りは通常の召喚主よりも厳しくなっていた気がする」


 「じゃあ仮にシシーが死んでも、古里からこちらの情報が漏れる心配はないんだな」


 「うんそうだね。懸念する必要はないと思うよ」


 祐真は、一安心する。大きな問題点であるペナルティに関しては、古里との戦いおいて足枷にはならなそうだった。


 心に世湯ができた祐真は、話を戻した。


 「それで、リコ。シシーを殺すみたいな発言をしてるけど、具体的にどうするんだ?」


 「そうだね。いくつか方法はあるけど」


 リコは、再びコンロの火を点ける。ビーフシチューが煮沸し始めた。


 「やっぱり僕が直接出向いて、実力で排除する」


 リコは物騒なことを口走りながら、ビーフシチューをかき混ぜた。香ばしい匂いが部屋中に広がり、祐真のお腹が鳴る。話に夢中で意識していなかったが、すでに夕食の時刻に差し掛かっていた。


 「直接? 大丈夫なのか?」


 「ああ。僕の強さを忘れたのかい?」


 忘れたわけではない。こいつは『最強』と自称するだけあって、強さは折り紙つきだ。それはユーリーの件や、花蓮の件で証明済みである。


 しかし、どこか漠然とした不安を祐真は覚えていた。


 「忘れてはいないけど……。どうやってシシーの居場所を突き止めるんだ?」


 「今回は全世界BL化計画の時と違って、相手の正体はすでに判明している。いくらでも探る方法はあるさ。古里を尾行するとかね」


 リコはおたまでビーフシチューを掬い、皿に盛りつけ始めた。


 「そう……。ならいいけど」


 祐真はなおもリコがシシーの元へ殴り込むことに、乗り気ではなかった。理由はわからないが、嫌な予感がするのだ。


 祐真はユーリーのことに言及する。


 「ユーリーはどうして、連絡付かないのかな?」


 「さあね。何かあったかもしれないし、偶然このタイミングで急用ができていなくなったのかもしれない。よくわからないな」


 リコはビーフシチューを注ぎ終わった。そろそろ食事の時間だ。


 リコは祐真と正面から向き合う。真面目な顔付きだった。


 「とにかくシシーについては早急に手を打とう。明日さっそく動くよ」


 リコはそう言った。




 喜屋高校で蔓延するGL化現象は、悪化の一途を辿っていた。相当数の女子生徒がカップリングを成立させ、まさに百合の坩堝と化していた。


 これも彩香に復讐を考える古里の謀略によるものだ。彩香一人のために、高校中を平然と巻き込むテロのような攻撃。元々、あの猿はクズである。罪悪感など微塵もないのだろう。


 散々彩香に『百合』を味わわせて、そのああとで殺す、という算段である。古里にとっては、自身のプライドのほうが大勢の人間の心体よりも大事なのだ。


 そして、古里が昨日ぶちまけた抹殺計画には、自分も含まれていた。むしろメインディッシュとして、テーブルの中央に添えられていた。


 しかし、それも近日中に終わると思われた。リコが終止符を打ってくれるはずだ。


 祐真は今日一日を無難に過ごした。古里がちょっかいをかけてくるかと思ったが、昨日以来音沙汰なしだった。シシーと共にこちらを殺す機会でもうかがっているのだろうか。


 それから、祐真は、彩香へユーリーのことについて質問を試みた。淫魔術に侵されてからは、彩香は楓とずっと一緒で付け入る隙がなかったのだが、昼休み、かろうじて一人になったところを狙い、接触を果たす。


 「ユーリー? さあ知らない。この間から帰ってきていないけど、どうでもいいでしょ。むしろ、ユーリーがいないお陰で楓を部屋に呼べて良かったわ」


 彩香はあっけらかんと答える。ユーリーのことなどすでに露ほども気にしていない様子だ。


 「帰ってきてないって、何かあったのか?」


 祐真が訊くと、彩香は鬱陶しそうに顔を歪めた。細い眉が寄る。


 「だから、知らないって。もうユーリーのこといいでしょ?」


 彩香はすでに目線を祐真から逸らし、スマートフォンを弄り始めていた。一瞬だけチラリと見えたが、スマートフォンの待ち受け画面は、楓とのツーショットだ。友人としてではなく、明らかに恋人同士として撮られた写真。


 祐真は最後に質問した。


 「横井さん。全世界BL計画はどうなったの?」


 「BL計画? ああ、もうそんなものどうでもいいわ。今の私には楓がいるもん。そもそもBL自体興味がなくなったし」


 祐真は耳を疑う。あれほどBLに夢中だった彩香が、BLを否定するなんて。淫魔術は相当根深く彩香を洗脳したらしい。


 祐真が二の句を告げないでいると、楓が戻ってきた。どうやら職員室に行っていたらしい。プリントを持っている。


 楓は彩香の前で立ち竦んでいる祐真を、怪訝な表情で見る。


 「羽月君、ここでなにしてるの?」


 祐真は楓の質問には答えずに、二人に背を向け歩き出す。楓は虫を見るような目で、こちらを見つめていた。


 自分の華奢な背中に二人の視線が刺さっていることを感じながら、幽霊のように歩いた。


 以前にも感じたことだが、淫魔術はやはり相当強力な魔術だ。彩香をあそこまで変えてしまうとは。


 できる限り早く喜屋高校の惨状を解決しなければならない。彩香をはじめ、女子生徒たちも不憫だし、後手後手に回ると、何が起きるかわからない恐怖もあった。


 祐真は心にそう決心しながら、浮ついた足で星斗たちの元へ向かった。





 放課後が訪れ、祐真は学校をあとにする。手や腕を組んで歩く複数の女子生徒たちに混ざって、通学路を歩き、学校最寄のコンビニへ入った。


 店内を探すわけでもなく、目当ての人物はすぐに見つかった。


 ファッション雑誌のコーナーだ。そこに、一人の長身の男がいた。薄手のチェスターコートに、パーカーを合わせたコーデ。どこかのモデル事務所から抜け出てきたような雰囲気がある。髪の毛はいつもと違って黒色だが。


 「お待たせ」


 祐真はリコへ声をかけた。


 「例の人物はどうだい?」


 リコはオーバル型のサングラス越しに、こちらを見やる。


 「玄関を出る時、下駄箱を確認したけど、まだ学校にいるよ」


 「そう。じゃあ校門近くで待機しようか」


 リコは読んでいた雑誌をラックへと戻し、身を翻す。近くにいた制服を着た二人組みの女の子が、目を奪われたかのように、リコを凝視した。


 リコと共にコーナーを離れると同時に、背後から、二人の女子の色めき立った声が聞こえてくる。


 リコと共に出かけるのは久しぶりなので、こいつが衆目を集める存在であることをすっかり忘れていた。


 「尾行大丈夫なのか?」


 今さらだが、こんなに目立つのでは、尾行には不向きではないだろうか。


 リコは悠然と頷く。


 「問題ないよ。ちゃんとカモフラージュ用の魔術をかけるから」


 詳細はわからないが、リコには算段があるらしい。


 祐真はリコと並んで、コンビニを出る。すぐにリコが手を繋ごうとこちらの右手を握ってくるが、祐真は虫を追い払うようにして、振り解く。


 そして二人は、来た道を引き返す形で、喜屋高校を目指した。


 買い物途中の主婦や、小学生、それから下校中の喜屋高校の生徒たちとすれ違う。その中には当然、女子生徒同士のカップルも多かった。学校の外でも淫魔術の影響は続いているのだ。


 そこで、祐真はあることに気がついた。すれ違う人々が、誰もこちらに目を向けていないことに。衆目を引くリコが隣にいるのにも関わらず。


 あまりにもあからさまなので、祐真は魔術の効果だとすぐに理解した。どうやら、コンビニを出たと同時に、リコが発動させたらしい。


 だが、そこには不思議な特徴がいくつかあった。透明人間のようにこちらが見えていないのではなく、ちゃんと認識はされているらしいのだ。すれ違う際には、こちらをしっかり避けているのだから。


 ただ、まるで祐真とリコが看板や石ころであるかのように、薄い反応を示していた。自分が、彼らや彼女たちの意識の埒外に立った感覚を覚える。


 「どうなってんの?」


 祐真は隣を歩くリコに尋ねた。


 「簡易認識阻害。言うなれば、対象者をものすごく興味のない存在として認識させる魔術だね」


 「見えてはいるんだな」


 「うん。姿が消えたわけじゃないからね。例えると、ものすごく影の薄い人間の究極みたいな魔術さ。これで尾行が容易くなる」


 「姿を完全に消せる魔術はないの? 透明人間みたいに。そっちのほうが尾行には打ってつけだと思うけど」


 「もちろん、そんな魔術はあるよ。けど、簡易認識阻害の魔術よりも強力なので、今回のように相手にサキュバスがいる場合、気取られる可能性が高いんだ。サキュバスであるシシーは、魔術因子に敏感のはずだし」


 色々な事情を考慮して、リコは今の魔術を使うことに決めたらしい。少なくとも、簡単に見破られる恐れはなさそうだ。


 しばらくすると、二人は喜屋高校の校門へたどり着いた。いまだ大勢の生徒が下校のために門を通過している。


 祐真とリコは少し離れた位置で、校門を見張った。向こうからはもろに目に付く位置なのだが、簡易認識阻害の魔術のお陰で、一切、意識されることはなかった。


 張り込むこと十分ほど。目当ての人物が姿を現した。


 肩を揺らしながら歩く長身の男。制服を着崩し、下品に染めた金髪もあいまって、周囲から非常に浮いて見えた。


 「きたよ。古里だ」


 祐真は校門を通る古里を指し示す。


 「ふうん。聞きしに勝る下品な男だね」


 思えば、リコは古里を直接目にするのはこれが初めてだった。以前、使い魔を通して接触はしているが。


 「鴨志田はいないみたいだね」


 仲良しの鴨志田は今日も一緒ではなかった。全世界BL計画時の記憶が蘇ったせいで、どうしても拒否感が生まれてしまうのだろう。


 その点はかわいそうではある。彼も被害者といえるからだ。もっとも、同情など消しゴムのカスほども湧かないが。


 「念のため、少し距離を置いて追跡しよう」


 リコは、こちらに囁くようにして言う。


 祐真は頷き、一定距離に古里を見据え、後を追い始めた。





 尾行をはじめて少し経ち、どうやら古里は、電車を使って通学しているらしいことが判明した。


 彼は、高校最寄の駅へ足を踏み入れた。祐真とリコもそれに続く。


 周囲には喜屋高校の生徒をはじめ、一般の利用客も多く、魔術がなくとも、尾行が発覚する恐れはなさそうだった。


 古里はプラットフォームに立った。左手はポケットに突っ込まれ、右手はスマートフォンを弄っている。


 今のところ、こちらの存在に気づいた気配はない。シシーから何かしらの魔術を施されているならば、探知されるおそれがあるが、その様子もなさそうだった。もっとも、古里が何かしらの魔術を身に着けていたら、リコがいち早く察知しているだろう。


 少しだけ違和感があった。古里は宣戦布告をした身である。ある意味、交戦中とも言える状況なのだ。にも関わらず、無用心が過ぎる気がした。


 やがて、上り列車がやってきて、古里は乗り込んだ。祐真たちも一車両空けて、同じく乗り込む。


 しばらく列車に揺られた。一車両空いているものの、リコが――手段は不明だが――常に古里の動向を把握しているため、見失う恐れはなかった。


 数駅通過したのち、列車は木更津駅へ到着した。そこで古里は下車する。祐真たちも他の乗客に混ざって降りた。


 古里はプラットフォームから改札を出て、緑の窓口を通過する。外へと通じるコンコースを渡り、構外へと出た。


 後をつけながら、祐真はてっきり、古里の住む場所が木更津近辺だと思っていた。だからこの駅で降りたのだと。


 しかし、その予測は外れることとなった。


 古里はタクシー乗り場を通過すると、その先にあるパチンコ店へ吸い込まれるようにして入っていった。


 祐真は立ち止まり、茫然とまだ明るいにもかかわらず、煌びやかに輝くネオンを見上げた。


 「パチンコか……」


 祐真は歯噛みする。店内まで追いかけてもいいが、結局、なすすべがないだろう。つまるところ、古里が勝つなり負けるなりして、パチンコを止めない限り、待つしかないのだ。


 この期に及んで、あの猿は、余計な時間をかけさせる。


 「観念して待つしかないね」


 リコも溜め息混じりにそう言った。


 「もしも、別の出口から外へ出たら?」


 「大丈夫。ちゃんと彼をイーグルアイでモニタリングしてるから」


 リコは聞き慣れない単語を口にした。おそらく、古里を監視している魔術か能力なのだろう。


 祐真は観念して、近くにあるフェンスに身を預けた。背後は駐車場であり、フェンスが長く延びている。場内には、様々な車が駐車されてあった。


 祐真は息を吐き、海のように澄んだ空を仰ぎ見る。


 一体どれほど時間がかかるだろうか。パチンコ店は、二十三時まで開店していると聞いたことがある。まさかそれまで待たなければならないのか。


 古里&シシー戦の駆け出しは、のっけから不調のようだ。祐真は、これからの行く末を予期しているかのように感じた。





 「出てきたよ」


 隣にいたリコの言葉に、祐真はスマートフォンから顔を上げた。


 パチンコ店の入り口から、古里が出てくる姿が目に入る。


 心を読む魔術が存在するかどうかは不明だが、今の古里の様子を見る限り、そんな大層な能力がなくても、彼の心情を察知することは容易かった。


 古里は普段にも増して肩を怒らせながら、不機嫌そうに大股開きで、歩道へと足を踏み入れていた。


 祐真は、スマートフォンの時計をチェックする。時刻は十八時前。大体二時間くらいで、彼は有り金を全部すったらしい。いくら持っていたかはわからないが、ギャンブルの恐ろしさを垣間見た気がした。


 「行こうか」


 リコがサングラスを掛け直しながらそう言う。祐真もフェンスから離れ、歩き出す。


 古里は、駅のほうへと向かっていた。やがて、見えてきた木更津駅へ再び入る。やはり、あいつの居住区はここではないようだ。


 古里は改札を通り、ちょうどやってきた列車に乗り込んだ。祐真たちも先ほどと同じように、一車両空けて古里の後に続いた。


 今度の列車の旅は、すぐに終わった。


 古里は木更津駅の次の駅である巖根駅で降降りた。この地域にはあまりきたことがないが、住宅地が多い場所として認識していた。


 多分、この地区に古里の住居があると考えて間違いないだろう。ようやく、あの男の住む場所がわかるのだ。不本意ながらも因縁が続いたヤンキーの住処。


 古里は駅を出て、正面にあるロータリーを越えた。それから住宅街のほうへ向かって歩いていく。


 ちょうどラッシュアワーの時刻だった。多数の通行人が歩道を行き交っている。リコがいるため問題ないが、もしも祐真一人なら古里を見失っていただろう。


 しばらく追跡は続く。日は傾き、夜の帳が降りようとしていた。


 やがて、古里は一つの民家へ辿り着いた。二階建ての日本家屋。色褪せた屋根瓦と、薄くなった外壁が印象的だった。


 中に誰かいるらしく、窓からは明かりが漏れている。


 古里は玄関を開けて、家の中へと入っていく。祐真は立ち止まった。


 目の前の表札をチェックする。そこにはくっきりと『古里』の文字が書かれてあった。


 この家が、古里の家であるのは確からしい。あいつの家族構成は不明だが、少なくともシシーは同居しているはずだ。


 これからどうするか。


 祐真は隣にいるリコへ、意見を問うように目線を投げかけた。今回の追跡劇の発案者である。率先して対処法を提供するべきだろう。


 リコは意図を読み取ったらしく、かすかに頷く。


 「安心して。ちゃんと考えはあるから」


 「やっぱり中にシシーはいるの?」


 「間違いなくいるね。魔力の気配がするから。それに、彼は家族と住んでおらず、シシーと二人暮らしみたいだ」


 古里の家族背景の事情はわからないものの、元々奴は一人暮らしの模様だ。シシーを召喚し、二人暮らしになったということだ。その点は、祐真や彩香と似通っている。


 そして、それは裏で動きやすいことの証拠でもあった。


 「それで、これからどう行動するの?」


 「正面から堂々と乗り込む」


 ダイレクトな答えに、祐真は目を丸くした。


 「正面から? 大丈夫なのか?」


 「うん。下手に策を弄するより、そっちのほうが手っ取り早いからね」


 「勝てるの?」


 リコはにやりと笑った。真珠のような歯がのぞく。


 「勝てるよ。ただ、思ったより魔術の量が多いのが気掛かりだけど」


 リコは相手が住む建物の外観からだけでも、魔力の量がわかるらしい。


 「それって、シシーが予想より強いかもってこと?」


 「うーん、どうだろ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 リコは曖昧な返答を行う。いずれにしろ、大した問題ではないということか。


 「まあ、とりあえず乗り込もう」


 リコはそう言うと同時に、古里の家の玄関へ向けて足を踏み出した。扉を開け、中へと入る。


 祐真は面食らいながら後に続く。相手が敵とはいえ、他人の家に許可なく入るのは、なんだかドキドキした。


 玄関内部は、何の変哲もない土間となっていた。脱ぎ散らかされたスニーカーや、通学の靴が散乱している。その中に、女性物らしきヒールが発見された。


 古い家特有の、枯れた木材のような臭いが鼻をつく。古くて安い賃貸用の物件を借りているのだろう。


 古里が一人暮らしにもかかわらず、一軒家に住んでいることに疑問があったが、おそらく、アパートなどでは古里のような人種は周囲に迷惑をかけるため、彼の親が取り計らった結果かもしれない。


 リコは靴のまま廊下へ上がる。祐真も通学靴を履いた状態で足を踏み入れた。


 なんだか、強盗でも働いている気分になる。そもそも、もう現時点で立派な不法侵入なのだ。下手をすると退学処分もあり得る犯罪。勢いに任せて乗り込んだが、今さらながら不安の影が胸中に差し込んでくる。 


 家の中は静まり返っていた。先ほど古里が入っていったばかりだが、どこにいるのだろう。この家はさして大きくはないため、今すぐ鉢合わせしてもおかしくない。あるいは、とっくに侵入に気づかれていても不思議ではなかった。


 リコの施した魔術は、今の状況で古里やシシーと相対した場合でも、誤魔化せるものなのか。


 リコは廊下を進み、途中にあるガラス戸を開けた。中は居間になっており、ソファとテーブルが設えてあった。キッチンは対面式ではなく壁付け。意外に片付いているのは、シシーと同居しているためか。


 ここにも人の気配はなし。リコは居間から目を逸らすと、廊下を進んだ。祐真も後を追う。


 ちょうど階段に差し掛かった時だ。なにか音が聞こえた。ぼそぼそとした話し声。最初はテレビの音かと思ったが、人が会話する時のものだと気づく。


 扉越しに聞くような、くぐもった声だった。


 発生源は二階だ。リコも気づいているらしく、二階へと続く階段を上り始める。祐真も後ろから上るが、案外階段を踏む音が大きく、ひやりとした。


 二階はいくつか部屋があった。音がするのは一番奥の部屋からだ。


 リコはその部屋の前まで行くと、立ち止まり、扉に付いている真鍮の取っ手をしばし見つめた。どうしたのだろうと思い、祐真は質問しようと口を開きかける。


 そこで、リコはこちらに振り返った。そっと開きかけの祐真の唇に、人差し指を当てる。


 「静かにね。祐真」


 リコは穏やかにそう言った。祐真はリコのしなやかな指の感触を唇で感じながら、かすかに頷く。


 そして、リコは警告するように言う。


 「祐真。これから先に広がる光景に驚かないでね」


 リコの意味深な言葉に、祐真は眉根を寄せた。意味を訊こうと口を開きかけると同時に、リコは目の前の扉を開けた。


 その時だ。祐真は扉の中の光景を見て、目を疑った。


 扉の中は、広い部屋となっていた。一口に部屋が広い、といえば別におかしくはないが、その規模が明らかに『異常』なのだ。


 古里の家の二階にある奥の部屋は、地下室のような無機質な空間となっていた。広さはおよそ、学校の教室ほどか。天井も同じくらい。


 明らかに二階の面積よりも広い空間だ。まるで別世界に繋がっているかのようだった。


 絶句している祐真は、リコの背中越しに、あるものを見つけた。すでにリコも入った直後から、凝視していた場所だ。


 目の前に広がる灰色の空間の、ちょうど中ほど。そこに人がいた。


 二人おり、うち一人はこちらに対し、背を向けているが、残る一人は、こちらに正面を向けていた。


 異様な姿で。


 祐真は、目を見開く。その人物はユーリーだった。色白の銀髪の少年。インキュバスらしく、人の断りを越える美貌の持ち主だ。


 しかし、いまやその容貌は無残にも崩れていた。


 ユーリは天井から吊り下げられている鎖に、両手を上げた状態で縛られ、捕虜のように拘束されていた。


 上半身は裸で、ここから見てもひどく痛めつけられていることがわかる。特に顔が無残で、試合後のボクサーのように膨れ上がっていた。


 まさに拷問の風景だ。


 「ユーリー!」


 祐真は思わず叫んでいた。目の前にいたリコが、横目でチラリとこちらをうかがう様子が確認できた。


 ユーリーは祐真の声に反応しなかった。意識がないのか、頭をうな垂れ、電池の切れた人形のように微動だにしない。


 まさか、死んでいるのか。祐真は唇を噛み締める。なぜユーリーがここにいるのかわからないが、とんでもない出来事に巻き込まれたのはわかった。


 「リコ!」


 祐真は、リコへユーリーの安否を尋ねる。かつて敵対していたとはいえ、協力した仲だ。死ぬ姿は見たくない。


 「生きてるよ」


 リコが、祐真の心情を読んで答える。


 祐真がほっとすると同時に、ユーリーのそばにいた人物が、ゆっくりと振り返った。すでに誰なのかは後姿でわかっていた。


 古里だ。部屋着なのか、色褪せたジャージを着ている。肝心のシシーは姿が見えなかった。


 「よお。ようやくきたか」


 古里はチンパンジーのように歯をむき出しにして笑う。驚いた様子が全くなく、すでに二人がここに侵入してくることを予期していたような風情だ。


 古里は、言葉を続けた。


 「今、パチンコで負けた鬱憤をこいつで晴らしてたんだ」


 古里は、鎖で拘束されているユーリーを顎でしゃくった。そして、いつの間にか手にしていた木刀を振りかぶり、ユーリーの胴体を叩く。


 麻袋を殴ったような音と共に、ユーリが大きく揺れた。鎖が擦れる硬質な金属音が部屋中に響く。


 祐真は目を逸らした。人が無残にも暴力を振るわれる光景には、やはり強い抵抗がある。同時に、ちらりと、古里はどこから木刀を取り出したのだろうと疑問が浮かんだ。


 「どうだ? 楽しそうだろ。お前らもやるか?」


 古里は木刀をこちらへ差し出し、愉快に訊いてくる。


 祐真たちは無言で返した。古里は再びユーリーを殴ろうと、木刀を振りかぶる。

 「やめろ!」


 祐真は思わず叫んだ。古里はピタリと動きを止め、挑発が成功した時のように、痛快そうに顔を歪めた。


 祐真は質問する。


 「なぜユーリーにそんな真似を?」


 「こいつには、屈辱を味わわされた恨みがあるからな。全世界BL化計画とやらの首謀者なんだろ?」


 どうやら古里は、自身の復讐のためにユーリーをボコボコにしているらしい。

 「どうやってユーリーを捕まえたんだ?」


 祐真が訊くと、古里は手に持った木刀を軽く振り、ユーリーへ先端を突き示した。


 「そこはあれよ。俺のシシーがやってくれた。シシーはこいつを簡単に捕まえてきやがんの」


 やはり、シシーの手が及んでいるらしい。古里の説明どおりならば、少なくともシシーの実力は、ユーリーを上回るとみて間違いないだろう。


 しかし、肝心のシシーの姿が見えないのは不気味である。それに、この空間は……。


 「この場所はなんなんだ?」


 祐真の声が、地下駐車場のような無機質な空間に響く。古里はにやけたまま、答えなかった。


 くそ。重要なことはだんまりか。


 祐真は、再度問い詰めるかどうか逡巡する。そこで、別の声が聞こえた。


 「虚像空間、だろ?」


 無言だったリコが口を開いた。また聞き慣れない単語。どうやらリコは、この空間への知識があるようだ。


 「へえさすがインキュバス様。ちゃんとお見通しだな」


 古里がおちょくるように口笛を吹いた。


 「きょ……? なにそれ」


 祐真は、目の前にいるリコの背中に向かって尋ねる。リコは横目でこちらを見た。


 「虚像空間。つまるところ、ここは仮想現実世界みたいなものさ。シシーが魔術で作り出したんだろうね」


 「この空間が幻?」


 「正確には実数空間として、顕在化しているから存在はしているよ」


 理解不能の説明に、祐真は首を捻る。頭が追いつかない。しかし、この部屋が魔術で作り出された空間で、なおかつ実在していることはわかった。


 「危険じゃないの?」


 リコは古里のほうへ顔を戻した。


 「危険だよ」


 古里が、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってきていた。背後のユーリーは放置したままだ。


 古里は肩を揺らしながら、顎を突き出すような格好で言う。


 「そこのガキが淫魔を召喚していたことは知っていたけど、まさかインキュバスとはな。つまりホモだったわけか」


 召喚のシステムをシシーから聞いているのなら、当然の解釈だろう。男なのにインキュバスが召喚されたのならば。


 今のタイミングでわざわざ否定する必要はないが、誤解されたままなのは癪だった。


 「違う」


 祐真は首を振る。


 「俺は同性愛者じゃない」


 古里は眉根を寄せた。


 「はあ? ホモじゃないのに、インキュバスが召喚されるわけねーだろうが」


 古里はリコの目の前までやってくる。


 「まあ、お前がホモかどうかなんてどうでもいいわ」


 古里は肩をすくめる。


 「お前と、この淫魔を殺すことに違いはねーからな。散々煮え湯を飲まされた礼だ」


 口は笑っているものの、目は本気だった。古里は殺しにかかるつもりのようだ。


 祐真は古里の手元を見て、はっとする。先ほど手に持っていたはずの木刀が消えており、かわりに鉄パイプのような金属の棒を持っていた。


 瞬時に持ち替えた、というわけではなさそうだ。木刀は床のどこにも落ちていない。そもそも、はじめからおかしかった。本来手にしていなかったはずの木刀を、いつの間にか携えていたのだから。


 つまり、この空間の特性は……。


 こちらの思考を読んだように、リコが説明を行う。


 「その通りだよ祐真。この空間は行使者や行使者が許可した人物が、好きに物体を作り出せる空間だ。もちろん、限度はあるけどね。高等魔術の部類に入る魔術だよ。シシーはかなり優秀なサキュバスだね」


 リコは感心したように言う。


 なんという便利空間。同時に脅威は極め付きということか。


 古里は、鉄パイプを振り上げた。それから振り下ろそうとする。


 リコは、人差し指を軽く振った。すると、鉄パイプは、銃弾にでも当たったかのように、古里の手元から弾け飛んだ。


 古里は手を押さえながら目を丸くするが、すぐにニヤけた顔になると、再び手を振り上げた。


 祐真は目にする。素手のはずの古里の手に、中空から掻き出すようにして、手斧が現れるのを。


 物体を好きに作り出せるこの異空間の脅威を、垣間見た気がした。どの程度まで再現できるか不明だが、相当厄介そうだ。


 古里は出現させた手斧を、リコに対し、一切加減することなく、勢いよく振り下ろした。


 リコは微動だにしない。


 しかし、手斧はリコに当たる寸前、ブロック菓子のように砕け散る。


 同時にリコは指を鳴らした。古里は、透明人間にでもタックルされたかのように、背後へと勢いよく押し出された。


 古里は、間を取るようにそのまま後ろにステップバックする。


 「へえ、インキュバス様もなかなかやるもんだな」


 古里は、自身の体を払いながら、感心した声を上げた。


 祐真は二人のやり取りを見て、やきもきしていた。突如開始されたバトルもさることながら、リコが手加減していることを察知していたからだ。


 リコはとても強いインキュバスである。古里など、軽く一蹴できるはずだ。なんなら、殺すことも容易い。


 それなのに、どうしてすぐにでも打ち倒さないのだろう。相手がただの人間だから? そうだとしても、殺さず無力化くらいはできそうである。


 祐真の不安をよそに、二人は依然、対峙したままだ。リコはあくまで無表情だが、古里は泰然自若の構えだ。


 古里は手を前に突き出した。手元へ新たに現れたのは、黒光りする握り拳サイズの物体。最初はテレビのリモコンかと思った。


 だが、すぐに違うと気づく。古里が持っていたのは、銃だった。回転式ではなく、アメリカの警察官が持っているようなオートマチックの拳銃である。


 祐真は驚愕する。魔術や淫魔などの尋常ならざる存在を日々目にしているものの、本物の銃を見るのは初めてだ。


 そんなものまで作り出せるのか。だが……。


 古里は手に持った銃をリコへ向けて発砲した。爆竹を鳴らしたような炸裂音が、虚像空間内に響き渡る。一発ではなく、三発ほどだ。手馴れた様子から、今まで何度か撃った経験があることが見て取れた。


 耳をつんざく発砲音に、祐真は身をすくめる。一方、銃弾を受けたはずのリコは身じろぎ一つしない。古里を正面に見据えたままだ。


 そこで、祐真は目撃する。リコの眼前に、パチンコ玉のような物体が浮いているのを。そしてそれらは、電池が切れたように地面へと落下し、硬質な音を立てて転がった。


 古里はその様子を見て、再び発砲する。だが、同じように弾丸は空中で停止した。見えない壁に阻まれるかのごとく。


 祐真は納得する。当然だろう。容易く人を即死させる魔術すらリコには通じないのだ。ましてや彼は人知を超える存在。対人用の銃火器など、猛獣にエアーガンで立ち向かうようなものだろう。


 元より、この結果は、火を見るより明らかだ。


 古里は銃弾が効かないことを悟ると、手に持った銃を捨てた。そして、降参と言わんばかりに、厳しい顔を歪め、両手を上げる。ホールドアップだ。


 祐真は怪訝に思う。度を越えるほどのプライドの塊であるヤンキーが、こうも簡単に降参するとは。


 祐真たちは、古里にとって不倶戴天の敵である。彼が吐露していたとおり、何としても殺したい相手のはずだ。


 それとも何かあるのだろうか。例えば、油断させてから襲いかかるだとか。


 そうだとしても、そんな子供だまし、リコに通じるとは到底思えないが……。


 ふと古里はこちらへ目を向けた。彼と目が合う。


 少しの間だけ二人は見つめ合った。祐真は目を逸らせないでいた。


 ……あるいは、リコではなく、俺を攻撃するつもりなのかもしれない。祐真はぼんやりとそう思った。しかし、こちらにはリコがかけてくれた魔術がある。その目論見は無駄に終わるだろう。


 祐真は古里と視線を交わしたまま、ふとある違和感を覚えた。


 古里の瞳には、黒い炎が宿っていた。ヘドロのような薄汚い闇。獲物を狙う野生の獣を思わせた。


 そこで祐真はぞくりと背筋を震わせる。古里の狙いに気づいたのだ。


 「リコ……」


 祐真はリコの名を呼んだ。しかし、遅かった。


 誰かの手が、こちらの右腕を取った。祐真は反射的に振り返った。


 そこにシシーがいた。アイドルのような整った目がキラキラと輝いていた。


 とても可愛らしく、いじらしい。祐真が息を飲んでいると、シシーは身を乗り出した。


 シシーは、ゆっくりとこちらの右腕を持ち上げると、手の甲へ口づけを行った。




 シシーは、祐真の手の甲から唇を離した直後、祐真が完全に魅了されたことを確信した。


 ユーリーとかいうインキュバスを使った『撒き餌』は功を奏したらしい。無事、羽月祐真はこちらの手に落ちたのだ。苦労して計画を立てた甲斐があった。


 シシーはまず、祐真と召喚された淫魔を討伐するために、ユーリーを狙った。横井彩香が召喚した淫魔だ。元々、ターゲットの対象だったし、召喚主がいない今、手薄であった。加えて、利用できると踏んでいた。


 無事にユーリーを捕縛できたシシーは、次に清春の部屋に虚構空間を作り上げる。すぐにでも、祐真たちのほうから接近してくると予想していたからだ。


 シシーの狙いは的中し、祐真と淫魔は見事、『蜘蛛の巣』にかかった。


 この虚構空間は、シシーの手の平の上も同然。無論、淫魔は召喚主に対し、なにかしらの魔術を施しているだろうが、虚構空間は、それすらも解除する仕組みを与えられる。それこそ、予め虚構空間に対し、なんかの対抗措置をしない限り、看過は不可能なのだ。


 もちろん、事前にわかるわけがないし、仮にその対抗措置を施せば、こちらにも伝わる。現時点で、その様子はないことから、彼らは完全に罠に掛かったのだ。


 もはや、こちらの勝ちはゆるぎない。


 シシーは、熱に浮かされたかのように、ぼうっとしている祐真を見て、ほくそ笑んだ。離れた所にいる清春も、勝利を悟ったのか、口角を上げている。


 ああ、いとしの清春。あなたのために、二人のインキュバスを敵に回し、その上で、一人の召喚主を手中に収めたのよ。あとでたっぷり『ご褒美』を貰うわね。


 元々、この男子生徒はシシーの好みではなかった。パッとしない容貌に、地味な性格。人間の女にも、もてない人種だろう。精も美味しそうではなく、そのため、吸う気もなかった。


 しかし、無理してよかった。


 とはいえ、色々と不思議な少年である。清春が言及したように、インキョバスを男が召喚したのなら、その男は同性愛者であるはずだ。


 いくらゲイだろうと、サキュバスから直接キスされれば、男である以上、魅了にかかる。淫魔とはそういう存在なのだ。異性愛者の男が、インキュバスにキスやレイプをされれば、魅了を受け、ゲイに落ちるのと同様に。


 だがしかし、祐真は違っていた。キスしてわかったが、祐真はゲイではないのだ。完全な異性愛者である。


 どういうことなのだろうか。なぜ、男の異性愛者なのに、インキュバスが召喚されるのか。


 まあいい。不可解であることに変わりはないが、手中に収めたのは確かだ。プラグマティズム的に考えよう。


 シシーは、虜になっている祐真から目を逸らすと、残されたインキュバスのほうに目を向けた。『リコ』と呼ばれていた男だ。


 しかし、と思う。このインキュバス。まさか、規格外の化け物とは……。


 シシーは、驚愕を覚えていた。はじめこのインキュバスを目にした際、あまりの魔力の多さに、呼吸すら忘れていた。


 当初、相手がどんなインキュバスだろうと、余裕で勝てる算段だった。自分は淫魔の中では上位に位置するほど強いからだ。


 しかし、その自信はこのインキュバスを見て、脆くも崩壊した。


 万全を期すため、先に『成敗』したユーリーを餌にし、こちらの存在を誤魔化して罠に嵌めたが、上手くいってよかったと思う。心底、運に恵まれていたのだと確信した。もしも、まともに対峙していたら……。


 シシーは、リコの体から放たれる、膨大な魔力の量を再度確認し、足を震えさせた。


 戦々恐々、とはこのことか。だが、今は召喚主を人質にできるこちらが有利だ。


 シシーはリコへ声をかけた。


 「あなた一体、何者?」


 シシーの問いかけに、リコは何も答えなかった。チェスターコート姿のまま、こちらに体を向けている。オーバル型のサングラスの奥にある目は、氷のように冷たい。


 背筋にシビレのような恐怖が走る。これは本能だ。生物が本来持つ、危険を察知するセンサー。それが大きく刺激されていた。


 本来なら、対峙すらしたくない相手だ。しかし、清春のため、必ずこのインキュバスを排除しなければ。


 「いい? よく聞きなさい。あなたの召喚主は私の手に落ちたわ」


 シシーは、隣で惚けている祐真を顎でしゃくった。


 「だから諦めて、投降なさい」


 シシーはピシャリとそう言い放つ。召喚主を盾にされれば、相手の要求を飲むしかないのが、我々『召喚された魔の者』の最大の弱点である。それは、いくら強大な力を持つインキュバスであろうとも、同じであるはずだ。


 「シシー、めんどくせーから、今すぐそいつ殺しちまおうぜ」


 清治が、リコを挟んだ向こう側でそう主張した。


 「シシーなら余裕だろ。お前は最高のサキュバスなんだから」


 清春はそう言う。子犬のようにやんちゃで可愛らしい彼から褒めれると、嬉しさが腹の底からこみ上げてくるが、同時に、そう問屋が卸さない、というこの国の慣用句を、シシーは思い出していた。


 ぜひとも、清春の願いを叶えてやりたい。しかし、上手くいくだろうか。リコの大地を震えさせるほどの魔力を前に、シシーは唾を飲み込む。


 すると、今まで無言で二人のやり取りを聞いていたリコが、動き出す。


 リコは、肩をすくめ、両手を軽く広げた。それから、体を弛緩させる。力を抜いたのだ。


 彼の雰囲気から、完全に戦意が消失しているように見受けられた。


 シシーは眉根を寄せる。彼は白旗を揚げた、ということか。つまり、人質作戦が通じたということかもしれないが……。


 清春が口笛を吹き、歓声を上げた。


 「随分殊勝なインキュバス様じゃねーか。シシー、さっそく殺そうぜ」


 清春はナイフを手に出現させ、リコへと向けた。そして、そのまま体ごとぶつかるようにして、ナイフを突き出す。


 「待って! 清春!」


 シシーが忠告を発した時には、すでに遅かった。


 リコへとぶつかった清春は、動きを止めた。見ている限り、確実にリコへナイフは刺さったと思える動作だ。


 しかし、刺した当人の清春は、硬直したまま、眉根を寄せていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、リコの顔を見る。直後、清春は驚愕に包まれた表情を浮かべた。


 リコはこちらへ背を向けているため、彼の表情まではわからない。


 シシーは良くないことが起こったと思った。清春の元へが駆け寄ろうと足を踏み出す。


 その時、清春が言葉を発した。そこで彼の表情の意味を理解する。


 「なんで笑ってんだ。てめえ!」


 リコの足元には、血溜まりが出来つつあった。清春のナイフは、きちんとリコの体へ届いていたらしい。


 リコ自身が無抵抗を示したとおり、彼は魔術などで一切、防壁などの防御措置を取らなかったようだ。つまり、今現在、リコの体にはナイフの刃が深々と刺さっていることになる。


 「早く死ねよ」


 清春はナイフを抜くと、再び何度かリコの体を突き刺した。相変わらず、リコは一切、抵抗していなかった。


 リコの足元はすでにおびただしい血が広がっている。淫魔といえど、通常なら重傷のはずだ。


 大切な者を人質に取られた点と、無抵抗であることから、覚悟を決め、観念しているようにも見える。こちらの勝利だと、そう思えるほどに。


 しばらくすると、清春の動きが止まった。肩で息をしていることから、攻撃が充分だと判断したのではなく、疲れて中断したといった様子だった。


 清春が荒い息で叫ぶ。


 「なんで死なねーんだよ、お前!」


 清春は慄いていた。何度も刺しているはずなのに、リコがピンピンしているためだ。


 どうやら、このインキュバスには、虚像空間ごときで作ったナイフなどでは、太刀打ちできないらしい。


 「清春!」


 シシーは心配に駆られ、声をかける。清春はそれをかき消すような勢いで、怒鳴った。


 「シシー! お前もやれ!」


 清春は援護を要請してくる。清春は元々負けず嫌い。引くつもりはないようだ。


 シシーは頷く。清春の願いに対し、拒否は絶対にしたくなかった。


 シシーは、右手を掲げ、手の平に魔力を集中させる。


 すると、正面の中空に包丁のような物体が現れた。


 複数体あり、それぞれ、磁石で引き付けられているかのように、宙に浮かんでいた。


 『虚構武器』。この空間の特殊性質と、自身の魔術を利用して作り出された武器だ。元となった物体よりも、殺傷能力は桁外れに高い。


 シシーはリコに向かって、手を振る。刃物の群れは、誘導ミサイルのように、リコへと一直線に飛んでいった。


 さすがにリコは回避行動を取るだろうと、シシーは予測した。しかし、早くもその予測は外れることになる。


 リコは、虚構武器全てを全身へと受けたのだ。回避する素振りなどみせずに。


 すでにこの時点で、充分致命傷といえた。勝負有りのはずだが……。


 しかし、リコは微笑を浮かべる。体中から生け花のように刃物を生やしているものの、一切、ダメージを負っていないような風情だ。


 シシーは再び手を掲げ、新たな虚構武器を作り出す。次は成人男性の背丈ほどもある長大な剣だ。


 シシーは軽く指を振った。大剣は意思をもったかのように、リコへと飛んでいく。これで真っ二つにするつもりだった。いくら平然としてようと、両断されれば、絶命するはずだ。相手はゾンビではないのだから。


 大剣はリコへと襲い掛かった。リコはやはり動かない。微笑を浮かべたまま、チェスターコートのポケットに手を突っ込んでいる。


 大剣はリコに突き刺さった。そのまま一気に切り裂こうと、シシーは遠隔で大検を操作する。


 しかし、妙なことが起こった。リコへと突き立っている大剣が、ピクリとも動かないのだ。氷で固められたかのように、一切の操作が効かない。


 シシーが眉根を寄せた。その時である。リコはおもむろに指を鳴らした。


 驚愕の光景。シシーは目を見開く。リコの体にいくつも刺さっていたはずの虚構武器が、一瞬にして消え去ったのだ。白い粒子を散らしながら、花が枯れるように。


 よく見ると、刃物が刺さっていた肉体の傷も塞がっているようだ。地面へと流れ落ちていた大量の血液も、どういうわけか消えている。


 「何が起こったんだ?」


 清春が怪訝な声を上げる。シシーも当初は目の前で繰り広げられた現象について、理解不能だった。


 しかし、ただ単純に頑丈だとか、魔術によって傷が修復されたものではないことは察することができた。魔力が行使された痕跡がないからだ。


 シシーは、リコの落ち着き払った姿を見つめた。オーバル型のサングラスのせいで、表情が読みにくい。しかし、淫魔らしく確かな美貌を持っていた。このインキュバスは、容姿も通常の淫魔より、レベルが高いのだ。少しだけ嫉妬してしまう。


 そしてシシーははっとする。このインキュバスが仕出かした所業を推察できたのだ。


 傷が即座に塞がる現象。消失する武器。出血さえも消え去った。しかし、その際、魔術の使用は認められていない。


 導かれる答えは、一つだ。


 「あなたこの空間をハッキングしていたのね」


 シシーは唇を噛んだ。それしか考えられない。おそらく、この空間に入るなり、リコは即座にハッキングを行ったのだろう。創造主ですら気づかないほどのスピードと精密さで。


 ハッキングをしたら、この虚構空間は思いのまま。先ほどの清春とシシーの攻撃は、実はリコが作り出した幻影だったのだ。


 作り出したシシーすら騙せるほどの精度。それは、そのまま、この淫魔の実力を示していた。


 だが……。


 シシーは横目で祐真を見る。祐真は取り憑かれたかのように、こちらに視線を注いでいた。術中にはまったままの様子だ。


 ……しかし、この空間をハッキングしておきながら、どうして召喚主をサキュバスに襲われるがままにしたのだろう。いくらでも回避できたはず。


 こちらが空間内に潜んでいることを、見抜けなかったのか。


 「シシー、ハッキングってなんだ?」


 清春が訊いてくる。シシーは簡単に説明を行った。


 説明を聞いた清春は、驚愕の表情を浮かべる。


 「じゃあ、もう俺らに勝ち目はないってことか?」


 シシーは首を振る。


 「いいえ。違うわ。こっちには魅了させた召喚主がいる。この子を人質にすれば……」


 シシーの答えに、清春の凛々しい顔が弛緩する。ほっとしたようだ。


 「だから安心して清春。必ず私たち勝てるわ」


 清春ではなく、脅すつもりでリコへと向けて言葉を放つ。リコは冷静な風情のまま、微動だにしない。


 わかってる? あなた不利なのよ。


 「シシー、こいつ何者だ?」


 清春が質問を投げかける。シシーは首を振った。


 「わからないわ。こんな奴、知らない」


 そう。知らない。知らないはずだが、なぜかどこか見覚えがある気がする。しかし、それはなぜだろう。


 どこかで出会った? いや記憶にない。例えば『向こう』の世界でリコとすれ違ったとしても、これほどの魔力を有するのであれば、必ず印象に残っているはずである。


 それに、妙な点は記憶だけではない。他にもあった。高校の屋上で、祐真と相対した時にも疑問に思ったことだ。


 召喚主である祐真に、精を吸われた痕跡がない。そして、リコを見て、さらに確信する。


 『精を吸わない淫魔』。それは霞を食べて生きる人間と同様に、あり得ない存在だ。


 一体、何がなにやら、意味不明だ。このインキュバスは一体、何だろう。 


 シシーはリコを睨みつけた。


 「……とにかく、リコ。祐真を殺されたくなければ、観念してやられなさい」


 とはいえ、いくらこのインキュバスが強くとも、完全に無抵抗になれば、さすがに殺せるはずだ。


 その時、リコが何事か呟いた。


 「そろそろかな」


 シシーは怪訝な面持ちになる。何を言っているのか。ともかく、こいつをさっさと処理しなければ。


 シシーが攻撃を加えようと手を動かした瞬間だった。驚愕の現象が起きる。


 「あれ? リコ?」


 隣にいる魅了を受けているはずの祐真が、我に返った声を発した。


 シシーは目を見開く。信じられなかった。祐真を染め上げていたはずの『魅了』の効果が、完全に消滅しているのだ。いわば今は『素面』の状態である。


 夢から覚めたように、ぼんやりと右往左往している祐真を横目に、シシーはショックで、動くことが出来ずにいた。


 考えられるのは、インキュバスであるリコの仕業である。しかし、彼が何かアクションを行った形跡はない。そもそも、いくら強いインキュバスだろうと、そう簡単にサキュバスの魅了を退けられるわけがないのだ。


 つまり、この男子生徒は、自力でサキュバスの『魅了』から脱したことになる。しかし、それは有り得ない話なのだ。天地がひっくり返るほどの出来事。


 相手が男である以上、サキュバスの魅了に染まるのは、ごく自然の成り行きである。飢えた動物に餌を見せると涎を垂らして食い付くのと同様、本能に基づくメカニズムそのものなのだ。


 なのに、ましてや思春期の男子が、自力でサキュバスの魅了から脱することは、死者が生き返ることに相当するほど、不可思議な現象である。


 唯一の例外は、同性愛者のみだが、それはやはり、明確に否定できている。


 はじめて祐真と対峙した時の彼のリアクションから鑑みても、自明の事実である。紛れもなく、祐真は異性愛者だ。そもそも、同性愛者ならば、もとより、サキュバスの魅了にほだされる不始末など、当初から起こさないだろう。


 一体、なにがどうなっている?


 「おい、シシー!」


 清春が、離れたところから叫んだ。


 シシーは我に返る。いけない。清春に心配をかけている。彼を安心させないと。


 けれど、どうやって……。


 「俺は一体、何を……」


 正気を取り戻した祐真が、困惑した様子で辺りを見回していた。どうやら、術から脱した影響で、一部記憶の混乱が起きているらしい。


 ともかく、今一度、この子に術をかけるのだ。強大な淫魔相手に、召喚主を人質に取る戦法以外、手段はない。まともにやれば勝ち目はないのだから。


 シシーは、祐真に手を伸ばした。再び、魅了をかけるために。自力で魅了と解いたこの不可思議な男子を、再び手中に収めるために。


 突如、風圧が生じた。原因を知る間もなく、シシーの意識は、ブラックアウトした。

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