幕間 退魔士たち

 横浜市にあるタワーマンションの最上階の部屋で、磯部美帆いそべ みほはダークグレーのアルモニアソファに座っていた。


 今現在、美帆が居住に利用しているこの部屋は、とても広い。4LDK。内装やインテリアも凝っており、訪れた者が一見するだけで、豪華絢爛、高級を体現した部屋だとすぐに理解できることだろう。


 一人で暮らすには持て余す物件だが、自分には必要な環境なのだ。私に相応しいランクの部屋。


 美帆は、目の前のテーブルに置かれてあるワイングラスを手に取った。それからゆっくりと、ルビーのように魅惑的な色をした赤ワインを一口飲む。


 シャートー・ラフィット・ロートシルトの熟成された甘酸っぱい味が口の中に広がり、美帆はため息をついた。


 やはりルイ15世が嗜んだと云われる『王のワイン』は格別だ。自分を高貴な存在へと昇華させてくれる。さながら小高い丘に登るかのごとく。


 美帆はワイングラスをガラステーブルに置き、ソファから立ち上がった。それから窓のそばに行く。


 窓は全面ガラス張りだ。下方で横浜を彩るネオンが、宝石箱のように煌いている光景が目に入る。


 美帆は、耳を澄ませた。すると、下界を歩く人間どもの足音が聞こえてくる。ばたばたと騒がしい下品な音。大勢の劣等な民衆が、投資家のために馬車馬のように働き、疲れた体で、みずぼらしい家へと帰っている最中なのだ。


 私はこいつらとは違う。彼らは貧民。私は崇高な存在。お前らを見下ろせるくらい、高貴な場所に立っているのだ。


 美帆は下界から目を逸らし、窓から離れる。その時だ。ガラステーブルに置いてあったスマートフォンに、着信を告げる音が鳴り響いた。


 この着信音は『特別回線』のものだ。通常の人間なら、聞き取れない可聴領域の音程を混ぜてある。自分のみが『聞ける』音だ。


 美帆はスマートフォンを手に取り、受話をオンにする。そのままスピーカーに切り替え、ガラステーブルに置いた。


 「もしもし」


 美帆は、再びアルモニアのソファに腰を下ろし、スマートフォンに話しかけた。


 スマートフォンのスピーカーから、遠慮深げな声が発せられる。


 『も、もしもし美帆ちゃん? ねえ今電話大丈夫?』


 この声は、美帆が属するチームの一人である女だ。自分と同じ、『推進派』の女退魔士。


 「大丈夫だけど、どうした?」


 この回線を使っているということは、おそらく『仕事』の依頼に違いない。そうでなければ、よほどの緊急の出来事があったということだ。


 美帆はほくそ笑む。これでまた金を稼ぐことができる。可能な限り、依頼主に対し、報酬額を吊り上げてやる。


 充分なインセンティブを確保できたら、あとは簡単。悪魔だろうと、魔獣だろうと、淫魔だろうとぶっ殺して仕事を即刻終わらせてやる。いつものことだ。私にはそれができる。


 美帆が勢い込んだ時、電話先の相手はどこか、ためらったような様子をみせた。なにか雰囲気がおかしい。しかし、スピーカーから聞こえてくる相手の『心音』は、平常時のままだ。動揺しているわけではないらしい。


 仕事の話ではないということか。それならば……。



 「なにかあったのか?」


 美帆が訊くと、相手はおどおどと答える。


 『う、うん。ちょっとね』


 相手の煮え切らない様子に、若干イラつきながら、美帆はテーブルの上のワイングラスに手を伸ばした。


 「だから、何があったかさっさと言えって」


 毎度毎度こいつは。引っ込み思案にもほどがあるだろう。


 恫喝したあと美帆は、ワイングラスを掴んで飲もうとする。そのタイミングで受話器から『答え』が聞こえた。


 『あ、あのね美帆ちゃん。えっとね、実は花蓮ちゃんがやられたみたいなの』


 美帆はピタリと動きを止めた。耳を疑う。花蓮が――同じ推進派のメンバーである――風川花蓮がやられた?


 「どういうこと?」


 美帆はワイングラスをテーブルへ戻し、立ち上がった。少しだけ、眩暈がする。自分は動揺しているのかもしれない。


 スピーカー越しに、挙動不審者のような声が響く。


 『リ、リーダーから聞いたばかりの話なんだけど……か、花蓮ちゃん、淫魔と戦って負けたみたい』


 美帆は息を飲んだ。


 「淫魔と?」


 あの性潔癖症とでも言うべき女が、この世で最も嫌悪している対象である淫魔と戦って負ける――。にわかには信じがたい出来事だ。


 「それで、死んだのか?」


 『そ、そこはわからないんだって。でも消息不明らしく、淫魔に連れ去られた可能性が高いみたい』


 淫魔から拉致された場合、辿るべき道筋は一つ。『向こう』の世界で待ち受ける陵辱の日々だ。身体を改造され、淫魔どもの性欲を解消するためだけの玩具となる。


 花蓮にとっては、殊更地獄の世界だろう。


 「相手の淫魔はどんな奴だ?」


 『そ、それもわからないらしいよ。ただ、花蓮ちゃんは、救助要請用の魔具を発動させたみたいだから、手掛かりはあるかもしれないんだって』


 「……」


 志帆はしばし、黙考する。


 花蓮がやられたとなると、相手はそれなりの強者なのだろう。自分ほどではないと思うが、彼女も退魔士としての実力は相当上位のはずだからだ。その上、花蓮には鋭い嗅覚がる。ちょっとした罠や魔術を看過せしめる力だ。おいそれと出し抜かれるほど脆弱ではないだろう。


 つまるところ、その花蓮をやった淫魔は、こちらとしては見過ごせない相手ということだ。魔を積極的に狩る『推進派』として。


 この『特別回線』の目的が、ようやくわかった。


 美帆は口を開く。


 「それで、リーダーはいつ召集を? そのための電話だろう?」


 電話口から、少しだけ乱れた心音が聞こえてきた。言いたいことを先に察せられて、気が弱い彼女の中に、動揺が生じたようだ。


 「う、うん。それが明後日だって。他のメンバーも全員声を掛けるつもりらしいよ」


 久々の全員集合か。ハンターたちの集いと言える。あまり嬉しくはないが、事が事なだけに、必要な措置だろう。


 美帆は立ったまま、ワイングラスを手に取り、中身を一気に飲み干した。


 シャートー・ラフィット・ロートシルトの味が、先ほどに比べ、苦味が増しているような気がした。

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