第十章 約束

 ひんやりとした空気が肌を撫でる。祐真はゆっくりと目を開けた。


 周囲は薄暗く、何も見えなかった。かすかにオイルのような臭いが鼻をついた。


 だが、肌で感じる空気で、ここが屋内だということがわかった。なぜか自分は夜に、知らない室内で寝転んでいるらしい。


 しかし、どうしてそのような状況下に自身が置かれているのか理解できなかった。なぜだろう。何かあったっけ? 下校途中だったような気が……。


 祐真は記憶を手繰り寄せた。霧のようにおぼろげだった思考が、徐々に晴れていく。自身がアスファルトへ倒れ込んだ光景が、脳裏へと蘇った。


 祐真は慌てて、体を起こそうとした。だが、上手くいかなかった。手足が上手く動かせないのだ。自由が利かず、両方の手足が、固まったようになっている。


 麻痺をしているのではなかった。手錠のようなもので拘束されているのだ。


 力を込めて破壊しようとするが、全く歯が立たなかった。こちらにはまだ、肉体強化の魔術がかかっていたはずだが……。手錠が頑丈ではなく、どうやら花蓮の手により解除されてしまったらしい。


 祐真は花蓮の姿を探した。だが、近くに人の気配はない。薄暗い空間が広がっているのみだ。


 視界が正常に戻るにつれ、少しだけ、辺りの風景が見えるようになってきた。工作機械のような物体や、タンクのような物の輪郭が確認できる。どうやら自分は町工場のような場所にいるらしい。オイルのような臭いの正体は、ここが工場のせいなのだろう。


 しばらくの間、身動きが取れない状態で、祐真は途方に暮れた。肝心の花蓮はおらず、不安のみが募っていく。孤島に一人取り残された気分だ。


 十分程ほど経った頃か。足音が聞こえてきた。


 「起きたみたいね」


 花蓮だ。彼女がようやく姿を現した。ゆっくりと、こちらに近づいてくる足音が工場内に響く。


 祐真は目を凝らし、花蓮の姿を確かめた。


 花蓮は制服姿ではなかった。フード付きのローブのようなものを着用している。まるで、ファンタジー映画に出てくる魔導師のようだ。


 祐真が凝視していることに気づいた花蓮は、ローブの裾をつまみ、軽く持ち上げた。


 「どう? 似合ってる?」


 花蓮は首を傾げ、からかうように訊く。


 祐真は何も答えず、花蓮のローブを見つめた。何だか、嫌な雰囲気を感じる。重火器を前にした時のような、凶暴な力が放たれている気がした。


 「その格好はなに?」


 祐真がかすれた声で質問する。花蓮はあっさりと返答した。


 「勝負服」


 「勝負服?」


 花蓮は後頭部のほうに垂れているフードを掴み、被った。顔がすっぽりと覆われ、顔が見えなくなる。


 フードの中から、花蓮の声がした。


 「そう。勝負服。あなたと同居しているインキュバスがこれからここにやってくるから、彼を駆除するために用意した装備よ」


 祐真ははっとした。リコがここにやってくる? どうなっているのだろう。それに、そもそもなぜ、花蓮はリコのことを知っているのか。


 祐真の表情から、花蓮は心情を察したらしい。答えてくれる。


 それは、とても単純なものだった。


 「あなたのスマートフォンを調べて、彼と連絡を取ったの」


 なるほど。それなら確かに、簡単にリコの素性を知ることができるだろう。リコとはスマートフォンで、連絡を取り合っているからだ。


 「あなたを捕らえたことをインキュバスに伝えたら、彼、とても動揺していたわ。電話越しでもわかるくらいに。邪悪で淫らな化け物のくせに、一人前に召喚主を心配しているのね」


 花蓮はおかしそうに、くつくつと笑った。邪な笑い声。花蓮のほうが禍々しい生き物のように思えた。


 「リコは強いぞ。きっとお前は負ける」


 リコの強さは目の前で確認済みだ。まさか、花蓮がそれ以上の実力を持つとは思えないが……。


 祐真の警告に、花蓮は噴出した。眉を八の字に歪め、馬鹿にした口調で言う。


 「私がインキュバスごときに負けるわけないじゃないの。あなたの大切な淫魔が殺される様を黙って見ていなさい」


 花蓮は本気で、リコを殺せる確信を得ているようだ。それほど自分の腕に覚えがあるのだろう。


 祐真の心情に、不安の影が差す。リコは勝てるのか。そして、自分はどうなるのだろう。


 「きたみたいね」


 花蓮は祐真のそばから立ち上がった。工場の入り口のほうを見る。


 祐真も顔をそちらに向けた。工場の開け放たれた扉の前に、リコがいた。


 「祐真!」


 リコの悲痛な声が、工場内に響く。入り口から差し込む月明かりのお陰で、リコが血相を変えていることがわかった。


 「リコ!」


 祐真は叫んだ。リコは祐真の姿を確認し、顔色を変えた。


 リコは静かにこちらへ近づいてくる。燃え上がる直前の炎のように、怒りを孕んでいる様が見て取れた。本当に祐真の身を案じているらしい。


 祐真はそこで、花蓮がノーリアクションであることに気がつく。先ほどから無言なのだ。己の勝利を信じて、意気軒昂としていたのに。


 祐真は、花蓮の様子を伺った。


 花蓮はフードを被った顔で、ただじっと、リコのほうを微動だにせずに向けていた。


 まるで蛇に睨まれたカエルのような……。





 花蓮は、ゆっくりと近づいてくるインキュバスを見ながら、恐れ慄いていた。足元から、震えが這い上がってくる。


 あの怪物は一体、なんなの?


 リコの姿を捉えた瞬間から、花蓮は悟っていた。常軌を逸した魔力の多さに。


 淫魔に限らず、精霊や悪魔も魔力の多寡や強さはピンきりである。これまで花蓮が対峙し、狩ってきたインキュバスも同じだ。苦戦した相手もいれば、楽に狩れた奴もいる。


 自分は、それなりの実力を持つ術士である。強い術士は、相手を見ただけで、センサーのようにある程度強さが把握できる。


 その目で直接確かめたリコは、まさに尋常ならざる相手だった。通常のインキュバスの何人分に相当する魔力の量だろうか。量だけではない。質も並外れていた。


 「し、信じられない……」


 花蓮は唖然と呟く。全身に鳥肌が立っていた。魔獣の群れにでも遭遇した気分だ。いや、それ以上だ。セラフィム以上の、神聖生物クラスの……。


 しかも、注視する部分は他にもあった。自分は強力な『鼻』を持っている。その嗅覚が、リコから放たれるある『匂い』を感じ取っているのだ。


 花蓮が動揺している間にも、リコは近づいてきている。このままではまずい。食い止めなければ。


 花蓮は手を前に突き出した。そして自身の黒魔術を発動させる。最初から最大パワーでいかないとやられてしまうだろう。


 巨大な黒蛇が、リコの周囲に出現した。しかし、リコは一切気にすることなく、リングへと向かうボクサーのように、こちらを睨みつけながら進んでくる。


 黒蛇たちはリコへと飛びかかった。蛇共は、大きく口を開け、牙を剥き出しにしている。本来なら、獲物は為すすべなく、ネズミのように丸呑みにされてしまうだろう。


 だが……。


 リコへと喰らいつく直前、黒蛇たちは風を切るような音と共に、一瞬にして消し飛んでしまった。どんな魔術を使ったのか知らないが、日本刀で撫で斬りにされたかのようだ。黒蛇共は、装甲車の機銃掃射すら、無傷で耐え凌ぐ防御力を誇るというのに。


 花蓮は手を突き出し、再度、蛇たちを作り出す。今度は倍の二十体ほど。


 だが、それすらも出現の直後に殺されてしまう。もはや、黒蛇共は何の役にも立たなかった。


 花蓮は舌打ちをすると、指を鳴らした。同時に、リコを囲むようにして、複数の黒い塊が現れる。卵形の、巨大なカプセルのような形状の物体だ。全部で七つ。


 出現した黒い卵たちはすぐに弾け、中から人影が姿を見せた。


 全て人間である。しかも男。スラックスやパーカーを着ている者もいる。


 これは花蓮が『確保』した人間たちだ、黒蛇に飲ませ、そのあと魔術により洗脳、操作ができるようにしてある。


 ほとんどが、花蓮をナンパないしは誘惑してきた男たちだ。性欲に頭を支配された下劣なクズ共。ゆえに、彼らの身を案じる必要は皆無である。


 花蓮が手を振ると、夢遊病者のような男たちは、一斉にリコへと襲い掛かった。彼らは花蓮の魔術により肉体も強化されてある。ただの人間よりだと思って油断していると、八つ裂きにされるだろう。


 とはいえ、黒蛇に比べると戦闘力は心許ない。


 狙いは別にあった。


 もしも、このインキュバスが、襲われたとはいえ、やすやすと人を殺す真似をするのであれば、花蓮の隣で見守っている祐真の心情を著しく害するはずだ。


 そうなった場合、二人の関係は瓦解。確実にこちらが優位の状況へ持ち込めるだろう。


 殺されなければよし、殺されても良し。男たちはいわば、リコの抵抗力を抑えるための枕木。生きた肉の捨て駒だ。


 男たちはリコへと触れようとする。花蓮は被っているフードの中から、思わず笑みを零した。


 だが。


 花蓮は、頬を痙攣させた。操られている男たちは、糸が切れたかのごとく、一斉にその場へ倒れ込んだのだ。肝心のリコは、どういうことか、予備動作すら全く取っていなかったのに。


 彼らは見事、かけられていた魔術を解除され、気絶させられたのだ。


 花蓮は唖然していた。自身の魔術が次々と、ハエを払うよりも簡単に打ち破られる様が信じられなかった。こんな相手、初めてだ。


 リコは花蓮の眼前へと迫る。窓から工場内に差し込む月明かりを受け、リコの青い目が、飢えた狼のように鈍い光を放つ。


 氷水をかけられたかのように、花蓮の背中に冷たいものが走った。腹の底から恐怖が噴出する。


 「そこで止まりなさい! さもなければ、あなたの召喚主を殺すわ」


 花蓮はナイフを取り出し、隣で拘束されたまま寝転んでいる祐真の首筋に突き付けた。このナイフは、刃の部分に毒が仕込んである。ただの人間ならば、切創を負っただけで、即座にあの世行きだ。


 花蓮の警告を聞き、さすがにリコは立ち止まった。だが、目はこちらを射殺さんばかりに鋭い。召喚主を拐われた挙句、人質にされ、ナイフまで突き付けている現状、心底怒りに燃えているようだ。震えんばかりの殺気が、空気を震わし、瘴気のように憤怒の臭いが花蓮の鼻をついた。


 「そのままじっとしていなさい」


 花蓮は祐真にナイフを突きつけたまま、そう叫ぶ。もうこれしか方法は残されていなかった。まともにやり合ったら、こちらに勝ち目がないことは明白なのだ。


 それに相手は、性欲の権化たる淫魔。情けも容赦の必要もなかった。


 リコが動きを停止したことを確認した花蓮は、右手は祐真にナイフを突きつけたまま、左手を使い、魔術を発動させる。


 「抵抗したら、祐真君を殺すからね」


 花蓮はリコの左右に出現させた黒蛇を、リコへとけしかける。黒蛇はリコに食らい付く。これで終わりだ。あとはリコを飲み込んで、自由を奪えばこちらの勝ち。


 そこで花蓮は目を見開く。リコへ喰らい付いた黒蛇に異変が起きた。まるで見えない大きな殻にでも包まれているかのように、蛇はリコを飲み込むことができないのだ。


 やがて、蛇は力尽きたように霧散した。残ったもう一体の蛇がリコの体に絡み付き、締め上げようとするが、それも限界を超えて圧力をかけた風船のように、弾け飛んで消滅する。


 「抵抗するなって言ってるでしょ!」


 花蓮は絶叫に近い声で叫ぶ。恐怖でヒステリーを起こしそうだった。頭では、蛇がやられたのは、リコの抵抗によるものではないと気づいていたからだ。


 「僕は抵抗していないよ」


 リコは暗い顔で答える。


 彼の反論は正しい。彼は決して抵抗などしていなかった。こちらの魔術は全てリコが『無抵抗状態の』まま、莫大な魔力により、一方的に阻まれてしまったのだ。


 花蓮は左手で、魔力の塊を弾丸のように飛ばした。実際の火器よりも殺傷力は高い魔術だ。普通の人間なら、当たれば即死するほどの攻撃力がある。


 だが、魔力の塊はリコの体に当たっても、岩にBB弾を撃ち込んだ時みたいに、簡単に弾かれてしまう。当然、彼は無傷。


 花蓮は歯噛みをした。手の施しようがなかった。この時点で、こちらのほとんどの攻撃は通じないことが証明されてしまったのだ。


 化け物め。私の魔術が通じないだと? ありえるのか? そんな淫魔が。もう残された魔術は一つのみだ。それすら通じなかったら――。


 それに、莫大な魔力と淫魔の醜悪な臭気に混じって、漂うこの匂いは……。


 花蓮は心の中で首を振った。今はそれどころじゃない。眼前の脅威を排除しなければ。


 こちらの生半可な攻撃が通じないとなると、取るべき方法は一つだ。


 花蓮は祐真にナイフを突きつけたまま、指示を出す。


 「リコ、あなた自害しなさい。従わなければ祐真君を殺すわ」


 直後、冷徹な表情だったリコの顔色が、初めて青ざめたように感じた。強い動揺の色が垣間見える。自身の命が危険に晒されたからというよりかは、祐真の身を案じてのことだろう。


 やはり相当この召喚主のことが大切のようだ。もしかすると、こちらの要求はすんなり通るかもしれない。


 すなわち、リコは、祐真を守るために自らを殺す――。


 倒れた状態の祐真が、下方で何事か叫ぶが、手で口を塞ぎ黙らせる。余計な茶々を入れられたくなかった。


 リコは今、まさに命の選択に迫られているのだ。邪魔をするべきではない。彼がさっさと死を選ぶ瞬間を期待しよう。


 「早く死になさい! 祐真君の命がどうなってもいいの?」


 花蓮はリコを煽った。できるだけ早期に決着を着けたかった。この化け物と長時間相対するのは、恐ろしく、そして危険である。


 佇んでいたリコは、悲しそうな顔になった。観念したのだろうか。いい加減死んでくれ。


 「早く自害しろよ! 薄汚い淫魔め!」


 そう叫んだ時だった。背後に気配を感じた。同時に、薔薇の花のような香りが鼻腔をつく。


 花蓮はとっさに背後を振り返った。それから、目が見開かれる。


 背後にいたのは、一人の少年だった。銀色のメンズノーブルショートの髪で、とても美しい容姿をしている。絵画から抜け出たきたような……。


 花蓮は即座に気づく。こいつも淫魔だ。反吐が出るような臭気を振り撒く下劣な生き物。


 花蓮がとっさに攻撃しようと手をかざした瞬間、腹部に強い衝撃を受けた。





 それまで隣でナイフを突きつけていた花蓮が、突如現れたユーリーの蹴りを腹部に受け、吹き飛ばされる様を祐真は見た。


 花蓮は、吐瀉物を撒き散らしながら、天井付近まで吹き飛ばされる。フードははだけ、激痛に苦悶する花蓮の顔があらわになった。


 ズタ袋のように地面へ落下した花蓮は、なおも嘔吐を続けながら、町工場の薄汚れた床の上を転げ回った。


 「へえ。すごいね。そのローブ。殺すつもりで放った一撃なのに、頑丈じゃないか」


 ユーリーは微笑みながら、のた打ち回る花蓮へ軽々しい口調で告げる。


 それからユーリーは、こちらへ向き直ると手を伸ばしてきた。


 「祐真君。大丈夫かい?」


 ユーリーは、祐真を拘束している手錠に手を触れた。手錠は刃物で切断されたかのように、一瞬でバラバラになる。


 「あ、ありがとう」


 祐真は手を擦りながら立ち上がり、礼を言う。ユーリーは朗らかに微笑んだ。


 「祐真君のためなら、お安い御用だよ」


 ユーリーは熱を帯びた視線を向けてくる。祐真の首筋に、チリチリとした感覚が生じた。


 「そこまでだ。ユーリー。援護は感謝するが、どうして君がここに? 接近を禁止したはずだが」


 リコが駆け寄ってくる。元はといえば、敵である。ユーリーを警戒している様子が見て取れた。


 「……祐真君に救援を要請されたんですよ」


 戦った際のトラウマがあるのか、リコに対し、目を逸らして答える。


 「祐真が? なぜ?」


 リコはそう言いながら、こちらの体に手を触れた。怪我がないか確認しているらしい。そのあとで、顔をのぞき込んでくる。


 祐真の脳裏に、教室の光景と、それから彩香の姿が浮かび上がった。どうやら彩香はちゃんと『お願い』を聞き届けてくれたようだ。


 ちょっと前、学校で今日の授業が全て終わりを迎えた頃。祐真はリコにLINEでメッセージを送った。内容は花蓮について。


 そのあと、再度メッセージを送信したのだが、それはリコに対してではなかった。


 祐真は彩香に連絡を取ったのだ。内容は、ユーリーの助力を請う依頼である。


 花蓮の予想外の行動に警戒した祐真は、保険としてユーリーを選定した。万一、自分に何かあり、リコだけで対処できない事態になっても、インキュバス二人がかりならば、容易に解決できるであろうと踏んで。


 幸い、花蓮は、彩香と淫魔の関係性を知らない。花蓮からスマホをチェックされた際、彼女が気がつかなかったのもそのお陰だろう。


 ユーリーは、負傷の療養で遠征中であった。しかし、花蓮が祐真を拉致したことは、ユーリーが祐真の元へ駆けつけるまでに、充分な時間を生んでくれた。


 祐真の目論みは、ギリギリのところで功を奏したのだ。


 「なるほど」


 祐真の短い説明を聞き、リコは目を細めてユーリーを見る。ユーリーは気押されながらも、弁明を行う。


 「だから僕は、あなた方との取り決めを破ってはいないんですよ。あくまで祐真君から頼まれただけなので」


 祐真も庇う。


 「リコ。ユーリーの言う通りだよ。俺が頼んだ以上、彼は悪くない」


 リコは首肯する。納得したようだ。


 「わかったよ。祐真がそう言うのなら認めるよ。今回だけは特別に、祐真に近づくことを許可しよう。それに、まだ終わっていないしね」


 リコがそう言い終らない内に、弾丸のようなものが飛んできて、リコの眼前で火花を散らしながら弾けた。


 祐真は弾が飛んできた方向を見る。いつの間にか、悶え苦しんでいた花蓮が立ち上がって、こちらを睨んでいた。腹部を押さえ、苦しそうに呼吸をしている。立ててはいるものの、相当深刻なダメージを負っているようだ。


 「インキュバス共め! 私を無視するな!」


 深手の転校生は怒鳴る。血が混じった唾が飛び散った様が見て取れた。


 「祐真君も解放されたし、もう君に勝ち目はないよ。諦めな」


 ユーリーは花蓮にそう告げる。だが、花蓮は聞く耳を持っていないようだった。蛇蝎のごとく嫌悪しているインキュバスが二人になったことで、憎悪がピークに達しているらしい。


 花蓮は手をかかげた。祐真は、周囲に風圧が発生したことを感じ取る。それから、熱風。


 たちまち三人の周囲は、凄まじい炎で包まれた。まるで焼夷弾でも投擲されたかのようだった。工場内の暗闇が払われ、火炎の煌々とした光がまぶしく、祐真は目を細める。


 だが、全く問題はなかった。ドライヤーの風のような熱風は感じるものの、それ以上の熱は感じない。炎も三人の元までは届いていなかった。


 本来、花蓮は、炎の塊をこちらにぶつけるつもりだったはず。おそらく、二人の力によって、熱と炎が遮られているのだろう。


 やがてリコは腕を一振りした。すると、たちまち炎は、ロウソクを吹き消した時のように、簡単に掻き消えた。


 「ちくしょう!」


 自身の火炎の魔術が効かないことを悟った花蓮が、血相を変えてそう叫ぶ。すでに激昂状態に陥っているようだ。


 花蓮は再び手をこちらへかかげた。攻撃続行の証だ。彼女に諦める意思がないことは、表情から受け取れた。


 それを見たリコが、一歩前へ出る。どうやら、彼自身が迎え撃つつもりらしい。


 「気をつけてください。腐っても彼女は退魔士。結構強いですよ。それに、あのローブはやっかいだ」


 背後のユーリーがそう忠告する。


 「問題ないさ。これで片をつける。祐真を拉致したことを死ぬほど後悔させてやるよ」


 リコは振り返ることなく、花蓮を直視したまま答えた。


 手をかかげている花蓮の手元に、黒い塊が生じた。黒い塊は少しずつ大きくなっていく。やがて、人間がすっぽりと入れるくらいの巨大な球体と化した。


 花蓮が何事か呟いた。





 「ブラック・ラベージ」


 花蓮はそう呟くと、手元にあった魔術をリコへ向けて放つ。


 これが花蓮の持ち得る最強の黒魔術だった。黒い塊の分子一つ一つが、触れた物を破壊する性質を持っている。地面に向けて撃っても、掘削機のように抉りながら突き進むほどだ。


 無論、人が飲み込まれればひとたまりもない。それが淫魔とて、同じ。生半可な魔力や防御魔術では、防ぐことなどできないはずだ。


 そう。そのはず……。


 ブラック・ラベージは、やがてリコを飲み込んだ。さあ、そのまま死ね。


 花蓮は、リコを凝視した。黒い球体に飲み込まれたまま、反応がない。もちろん、姿はも見えない。そばにいるユーリーと呼ばれていた新手の淫魔も、無表情で眺めているだけだ。


 もう一人いるのだ。頼む。攻撃が通じてくれ。


 花蓮は強く祈った。大切な人質だった祐真に逃げられ、この攻撃すら通じないとなると、もう選択肢は、逃げるのみだ。淫魔を前に、それは屈辱である。


 リコに襲い掛かったブラック・ラベージが、大きく胎動した。獲物を飲み込んだ蛇のような動き。相手の命を捕らえたサイン。花蓮は確信する。リコは球体の中で消し飛んだのだ。


 私の勝利である。


 花蓮が喜んだのも束の間、ブラック・ラベージの黒い球体は、風船を割ったかのように派手に弾けた。黒い霞が、空中へと拡散し、消滅する。


 中からは、リコが泰然とした様子で現れた。一切合切、傷一つ負っていなかった。花蓮の最強の魔術が、呆気なく打ち破られてしまった証である。


 花蓮は唖然とした。恐怖が足を震えさせ、動揺が襲い掛かる。つい膝を付きそうになった。


 恐怖と動揺は、重篤な隙を作る。戦闘でのその基本ですら、失念してしまうほどに、リコの力は強大であった。


 本来ならば、すぐにでも逃げるべきだったのだ。脱兎のごとく、プライドを捨てて。


 花蓮が自覚した時には、すでに遅かった。花蓮は目撃する。リコが指を鳴らした姿を。


 次の瞬間、花蓮は宙を舞っていた。町工場の天井と床が、ぐるぐると回っている。


 何をされたのかはわからない。ただ、リコが指を鳴らした直後、衝撃波のようなものを全身に受けた気がする。彼の魔術か、それとも単純に、魔力の塊を放っただけなのか。いずれにしろ、尋常じゃないほどの威力だ。


 着用していたはずのローブが、ボロ布のようになって千切れ飛んでいた。ああ、私の勝負服。魔術にも物理にも強いのに。これを着て、幾多の淫魔や魔物を葬ってきたはずなのに。


 花蓮は落下し、無造作に放り投げられたゴミ袋のように、無造作に地面へ叩き付けられる。幸い、まだ命はあるようだ。自慢の勝負服は、かろうじて花蓮の命をギリギリのところで守ってくれたらしい。しかし、意識は朦朧とし、全身の骨が砕けたかのように痛む。


 花蓮はそれでも逃げようとした。地面を這いずりながら、生きるために外を目指す。


 目の前に人影があった。見上げると、ユーリーが静かな目こちらを見下ろしていた。


 ユーリーの手がこちらへ伸ばされる。額に触れられ、魔力が流し込まれた。意識を失う瞬間、花蓮は懐に入れていた魔具を手で握り潰した。


 手の平の中で魔具が発動し、消滅したことを確認した花蓮の視界は、暗闇に閉ざされた。




 ユーリーに額を触れられた花蓮が、地面へと伏した姿を見て、祐真は決着がついたことを確信する。


 「死んだの?」


 祐真が隣にいたリコへ質問した。


 「気絶しただけだよ」


 リコは飄々とした様子で答えた。


 ユーリーが気絶した花蓮を抱えて、二人の元へ戻ってくる。それから、地面へと乱雑に下した。


 花蓮は、コートの下に喜屋高校の制服を着ていた。見慣れたその制服すら、先ほどのリコの攻撃により、ボロボロに崩れている。胸がかすかに上下していることから、リコの言うように、彼女が生きていることは確かのようだ。


 「これからどうするの?」


 祐真は、花蓮を顎でしゃくる。このまま放置しても脅威は去らないだろう。かといって、警察に突き出すことも不可能である。


 すると、リコはこちらの肩に手を乗せ、囁くように言う。


 「大丈夫。手を打ってあるから」


 リコはニヒルに笑ってウィンクを行った。





 十数分後。姿を現したアネスに、祐真は驚いた。同時に、リコを召喚した晩の記憶と、恐怖心も蘇る。


 「お久しぶりですね。羽月祐真君」


 アネスはハスキーボイスで挨拶を行い、頭を下げた。肩までかかった艶のある髪が、絹のように揺らぐ。


 顔を上げたアネスは、こちらの体を舐め回すように見た。とても熱い視線だ。


 「しかし、相変わらず素敵な方ですね。どうしてもあなたを欲しくなってしまう」


 アネスは吐息を漏らしながらそう言うと、こちらへ一歩足を踏み出した。恐怖を覚え、祐真は後ろへ後ずさる。


 リコが、二人の間に立ち塞がった。


 「捕縛部隊さん。今日のあなたの標的は祐真ではないでしょ」


 リコは、怒りをあらわにしていた。背中越しにでもはっきりとわかる。湯気でも出さんばかりに、アネスに敵意を向けていた。


 アネスは一瞬だけ動きを止め、苦笑する。


 「冗談ですよ。あなたの召喚主には手を出しません。今はまだ」


 それからアネスは、床に倒れている花蓮に顔を向ける。


 「この女が報告のあった発覚因子の対象者ですか。なんでも退魔士だとか」


 「ああ。そうだよ。連絡した時に伝えたように、当該事項十七条に接触するはずだ」


 リコの言葉に、アネスは頷いた。


 「一旦この者を持ち帰って、審議しましょう。該当するようなら、それなりの罰則を与えます」


 淫魔の世界に連れて行かれ、有罪判決が下された場合、至る道は一つ。


 淫魔たちによる陵辱の日々だ。性の玩具となり、穴という穴を犯される――。花蓮のように、性に対して極めて拒否感がある者にとっては、この上もない地獄だろう。


 花蓮のそばで佇んでいたユーリーが、言葉を添える。


 「僕も証言者になれる。必要があったら言ってくれ」


 アネスはユーリーと向き合った。


 「まさかあなたも絡んでいるとは。ユーリー」


 ユーリーは肩をすくめた。どうやら、二人は既知の仲らしい。


 「祐真君に頼まれたからね。これほど素敵な人からのお願いを断るなんて、淫魔にはできっこないでしょ」


 ユーリーは、発情した猫のような目でこちらを見てくる。


 「ええ。わかります。本当に美味しそうな人だ」


 アネスも、リコから警告を受けたばかりなのにも関わらず、ご馳走を前にした飢えた人間のごとく、蕩けそうな瞳になる。


 二人の淫魔の熱がこもった眼差しを受け、祐真は以前、アネスや古里に襲われた光景を思い出す。背筋が冷たくなった。


 リコが、小さく息を吐く。空気が一瞬、震えたような気がした。


 二人は気圧されたように祐真から目を逸らすと、気まずそうな様子をみせた。


 「と、とにかくこの退魔士は私が回収致しますので」


 アネスは、床で伸びている花蓮を担ぎ上げた。花蓮はまだ当分起きる気配はなさそうだ。


 立ち去り際、アネスはリコとユーリーに対して忠告を飛ばした。


 「今回はあなた方の味方になりましたが、次はわかりませんよ。依然、あなた方と召喚主の方たちには、『ペナルティ』が存続していることをお忘れなきよう」


 アネスはそう言うと、背を向け、町工場の出口へと歩いて行った。





 アネスがこの場を立ち去ったあと、祐真はユーリーに対し、再度礼の言葉を述べた。


 「ユーリー、ありがとう。横井さんにもよろしく言っておいて」


 彩香の協力あっての結果だ。感謝の意を伝えるのは当然だし、あとで埋め合わせの必要もあるだろう。もっとも、リコ同様、彩香に関しても、こちらに対する要求が少し怖くもあるが……。


 「わかりました。伝えておきます」


 ユーリーは、天使のような笑顔で答えた。そして、婀娜っぽい流し目をこちらに送ってくる。


 祐真は目を逸らした。全身が、むず痒い。同性愛の淫魔のしつこさは、やはり相当なものだ。


 やがて、ユーリーもこの場を立ち去った。


 祐真はリコと二人っきりになる。少しだけ、気まずい雰囲気がそよ風のように流れた。


 祐真が口火を切る。


 「リコごめん。リコの忠告を無視して、花蓮にアプローチを仕掛けてしまって……。その結果がこの体たらく。リコを危険に晒してしまった」


 祐真は頭を下げる。素直な気持ちを吐露したつもりだ。本当に悪いと思っている。あまりにも軽率な行動だった。


 祐真の態度に、リコは慌てふためいた。ひらひらと手の平を振る。


 「き、君は悪くないよ。祐真。花蓮から呼び出しを受けた時、彼女から話を聞いたけど、仕方なかったと思う。僕ももっと丁寧に説明すればよかったし……。それに、自分の策略で窮地を脱したじゃないか。だから謝らないで」


 祐真が悪いにも関わらず、リコは泣きそうになっていた。日本人とは別種の鼻筋の通った顔が、悲痛に歪んでいる。


 祐真の身を案じていたことと、祐真から数少ない素直な謝罪を受けたことによる、感情の奔流が湧き起こったためだろう。祐真のことになると、リコは平常心を失うのだ。


 おもむろに、リコはこちらを抱き締めてくる。熱い抱擁。祐真は抵抗せず、身を任せた。


 リコは抱きついたまま、顔を付ける。リコは震えていた。どうやら泣いているようだ。


 祐真は抱き返した。


 「本当に、本当に無事でよかった。僕、祐真が連れ去られたと聞いて、不安で不安で」


 顔を埋めたままそう呟くリコの声は、くぐもっていた。


 祐真は頷く。


 「本当にごめん」


 祐真もリコの肩に顔を埋めた。薔薇のような良い香りがする。とても優しく、懐かしい匂い。


 祐真はそこでふと、あることに気がついた。リコがこちらを抱き締める力が、どこか弱いことに。


 気のせいかもしれない。だけど、なんとなく、リコが疲弊しているような、そんな印象を受けた。




 そのあと、戦場となった町工場をリコが魔術を用い、『証拠隠滅』を行う。破壊された床や壁が元通りになり、散らかった部分も綺麗になる。このような事後工作も『ペナルティ』を受けないための必要な措置だ。


 『証拠隠滅』が完了し、二人は町工場を出ることにした。離れたところに、花蓮に洗脳された男たちが倒れているが、リコ曰く、放置していても問題ないとのことだ。命に別状はなく、記憶も失われているため、いずれ起きて勝手に帰るという。


 懸念がなくなった祐真は、リコと共に、町工場を後にした。それから、星空の下、アパートへと向かう。


 出てから気づいたが、町工場は、街外れの一角にある静かな立地の場所にあった。喜屋高校とも住宅街とも随分と離れた位置にある。


 『認識阻害』の魔術があるのに、わざわざ花蓮がこの人里離れた場所を選んだのには、おそらく、時間稼ぎの目的があったからに違いない。リコの居場所がわからない以上、可能な限り、人の居住地エリアから離れる必要があるのだ。


 逆にそれが仇となってしまったが。


 アパートへと帰還した祐真は、すぐにシャワーを浴びた。全身、ドロドロだった。

 シャワーから出ると祐真は、即座に床へと着く。夜も遅く、死ぬほど疲れていたため、たちまち祐真は泥のように眠った。





 翌朝、祐真は大きな懸念事項があったことを思い出した。


 花蓮の残した悔恨極まるトラブル――。クラス中を敵に回してしまった点について。


 祐真は、先に起きていたリコに、それを話す。しかし、彼は飄々とした様子で言った。


 「そのことについては、心配しなくていいよ」


 呆気に取られた祐真の頭を、リコは秋晴れのような笑顔で撫でる。昨夜、祐真が感じたリコの『疲労』については、現在、感じ取れなかった。もしかすると、祐真の勘違いだったかもしれない。


 祐真はリコに言葉の意味を尋ねたが、いくら訊いても「行けばわかる」の一点張りだった。


 祐真は不安に包まれながらも、登校を行う。


 学校に到着した祐真は、そこで、リコの発言の真意を知った。


 とあるニュースが耳に飛び込んできたからだ。


 それは、花蓮が転校したという内容だった。理由は、電車で痴漢の冤罪を他者にふっかけ、金銭を脅し取ろうとした罪が発覚したためらしい。


 花蓮はセクハラや痴漢冤罪の常習犯で、被害にあった男性が大勢おり、今回、そのことが露呈したという。肝心の花蓮は退学届けが提出されたあと、行方をくらませているようだ。


 被害者は、喜屋高校内にもいて、祐真もその一人となっている。そのため、昨日の『暴行未遂事件』は祐真が冤罪を被っており、あくまで被害者に過ぎないという『事実』がすでに広まっていた。


 祐真は狐につままれた気持ちになる。おそらく、リコによる、魔術を使った情報操作の見技なのだろう。


 教室に入るなり、昨日祐真に絡んできた裏塚が謝罪してくる。


 「昨日はすまなかった。羽月が被害者だったんだな。変に絡んでごめん」


 裏塚は、手を合わせて頭を下げる。心底申し訳ないと思っているようだ。


 祐真は教室を見渡す。昨日とは打って変わって、祐真に対する嫌悪や敵視の雰囲気は嵐のあとのように、微塵も感じない。


 完全に祐真の疑惑は晴れているようだ。


 祐真は一安心した。これで憂患は一気に解消されたことになる。平穏無事な高校生活が戻ってきそうだ。


 祐真が安堵したところで、謝罪を終えた裏塚が、思い出したように言葉を継いだ。


 「そういや、羽月って喧嘩強いのな」


 「え?」


 祐真は、裏塚の顔を見る。彼の瞳は輝いていた。


 「俺ってさ、結構ボクシングの成績良いんだ。そんな俺をあっさり打ち倒すなんて、普通はできっこないよ」


 あの時、祐真の体にはリコの魔術、『コルプス・フォード』がかけられていた。裏塚に暴力を振られた際、クラスメイトたちの前で、つい発動させてしまったのだ。


 「あ、ああそうかな」


 説明に苦慮し、祐真はしどろもどろになる。なんだか嫌な展開になりそうな気がした。


 裏塚は言う。


 「羽月。ボクシング部に入ってくれよ。お前ならインターハイなんて余裕で優勝できると思うよ」


 「いや、遠慮しておく」


 祐真は即座に断った。なんてことだ。魔術を使ったせいで、注目を浴びる結果になってしまった。もっとも、あんな超人的な強さを見せ付けられれば、否が応でも意識するのは当然だろうが。


 「そう言わずに。お前の強さならプロだって難しくないぞ」


 裏塚は食い下がる。


 それから朝のSHRが始まるまで、裏塚の勧誘は続いた。最終的には渋々諦めた様子をみせたが、またこの先、折に触れては勧誘が行われるかもしれない。


 SHRを経て、授業が始まっても、祐真の気分は晴れなかった。せっかく花蓮の一件が解決したと思ったが、また面倒事が発生しそうだった。


 祐真の懸念は的中した。


 最初の休み時間、祐真は大勢のクラスメイトに囲まれた。


 「災難だったね」


 「変に疑って悪かったよ」


 「風川さんとんでもない人だったんだね」


 クラスメイトの皆は、口々に花蓮の一件に対する同情の意見を述べた。

それから、祐真の『強さ』についても触れ始める。


 「何か格闘技でもやってたの? めっちゃかっこよかったよ!」


 クラスメイトの女子が、目をキラキラさせながらそう訊いてくる。これまで、祐真のことなど歯牙にもかけていなかった女子だ。


 祐真は気恥ずかしくなって、目を逸らした。同時に、不安に包まれる。このまま目立ってしまったら『ペナルティ』の懸念が増加してしまう恐れがあった。


 「いや、何もやってないよ。それに、裏塚の件はただの偶然だよ。たまたま手が当たっただけのこと」


 祐真が否定するが、クラスメイトたちは納得しないようだった。次々に持て囃すような言葉を口にしてくる。


 祐真は困り果てた。




 二年一組の教室の中で、羽月祐真が複数のクラスメイトに囲まれ、誉めそやされている光景を、古里清春は戸口に立って見つめていた。


 古里はぎりりと、歯噛みを行う。祐真の困惑気味の表情が鬱陶しかった。オタクのクソガキが、大勢の人間から称賛されている事実が気に食わなかった。


 古里は、ここにくるんじゃなかったと後悔する。祐真がボクシング部の男子生徒と揉めたらしい、ということを聞きつけてここにやってきたが、どうも期待外れのようだ。忌々しい祐真のクソガキが孤立していることを望んでいたのに、まるで正反対の現象が起きている。


 古里は二年一組の教室に背を向け、歩き出す。癖になっている肩を揺らしながら歩く歩き方。すれ違う他の生徒も、こちらの姿を確認するなり、野生動物を避けるように道を空けてくれる。


 そう。こいつらは自分を怖がっているのだ。やはり、俺は一目置かれる人間である。


 にも関わらず、あのガキは易々とそれを打ち破ってきた。喧嘩ではほとんど負け知らずの自分を。おまけに、この高校の頭である菅野さえ一蹴して。


 どうやら、教室の状況から察するに、あいつはボクシング部の男も負かしたらしい。となると、紛れもなく、あいつは腕っ節が強い男、という結論に達してしまうのだ。


 あんな貧相なクソガキなのに。なぜもって、あれほどの強さを発揮できるのだろう。以前から不思議でならなかった。本当に格闘技に精通しているのか。


 古里はB棟を出て、C棟にある図書室へ向かう。


 今の時間、図書室は無人だ。昼寝をするに打って付けの場所である。嫌なものを目にしたあとで気分が悪く、だだでさえ低い授業に対するモチベーションが、すでに煙のように霧散していた。


 古里は図書室へと到着し、扉を開けた。静まり返った図書室内に、扉の音が響き渡る。


 古里は図書室の奥へと進んだ。目指すは、隅に設置された腰掛けのソファ。読書用に用意されており、二人までなら座れるほど長さがあった。


 図書室の木製の椅子は硬くて寝づらい。ここはソファが一番だ。


 古里は、図書室の中央を突っ切った。それから、棚の間を抜け、奥を目指す。大きく取られた窓からは、煌びやかな朝日が差し込んでいる。とても長閑な雰囲気だ。


 そこで、古里はふと立ち止まった。そばにある本棚に目が止まったからだ。


 一見すると、何の変哲もない本棚だ。科学のコーナーらしく、分厚い図鑑や専門書が並べられていた。


 そこに、赤い本があった。辞典くらいのサイズと厚さ。背表紙には、英字か何かの日本語以外の文字が、金色で書かれてある。


 この本棚では異質なデザインだが、特筆するべき本ではない。しかし、妙に古里は気になった。


 古里はその本に手を伸ばした。

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