第九章 決断
「わあ、ほら祐真見て可愛い」
リコは、上空を静かに泳ぐ海亀を指差し、歓声を上げた。
祐真たちが現在訪れている、しながわ水族館は、休日のせいもあって、ラッシュ時の駅構内のように混雑していた。
特に、今二人が歩いている場所は、水槽トンネルといわれる狭い通路で、満員電車のように人が多い。注意して歩かなければ、他者とぶつかってしまうだろう。
だが、それでも天を覆う水槽の光景は、美しく壮大であった。まるで海の底を歩いているかのような不思議な気分になる。美景とはこのことかと思った。
水槽トンネルを抜け、次のエリアへ。この辺りのエリアは、クラゲが多く展示されているようだ。
祐真はリコと並んで玩具のように水中を漂うクラゲたちを見物していく。
手こそは繋いでいないものの、リコは恋人のように祐真のそばに寄り添っていた。距離は近いと思ったが、祐真は特段、拒否をしなかった。自分が提案した手前、ある程度は、リコの好きにさせようと考えていた。
「不思議なクラゲだね」
リコの声に従い、水槽を見てみる。リコのピアニストのような指が指し示す水槽には、クラゲは漂っていなかった。だが、底にイソギンチャクのごとく、ピンク色の大きな吸盤状の生物が張り付いていた。
「サカサクラゲだって。面白いクラゲもいるんだね」
リコは子供のように目を輝かせながら、感心した声を上げた。
それを祐真は横目でうかがう。リコは本当に楽しそうだ。まるで、好きな女子とデートでもしている高校生のような風情だ。よほど、祐真からの誘いが嬉しかったらしい。
祐真は視線をサカサクラゲに戻す。サカサクラゲは微動だにしないが、ちゃんと生きているのだろう。
ピンク色の不思議な生物を眺めながら、祐真は、この『デート』の話がまとまった時の会話を思い出していた。
「しながわ水族館?」
リコに、『デート』の行き先はどこがいいか尋ねた際、彼が口にした場所だ。
しながわ水族館は、名前の通り、品川区にある有名な水族館である。しながわ区民公園内に建設されてあった。
「どうして水族館?」
祐真が純粋に質問すると、リコはあっけらかんと答えた。
「なぜって、恋人に人気のデートスポットだろ?」
祐真は口をつぐむ。どうやらリコは、祐真の誘いを、本当に『デート』としてとらえているらしい。
喜びが勝っているせいなのか、祐真が唐突に提案した『デート』の誘いに対する疑問は、全く浮かんでいないようだった。言い訳を考えていたが、無駄に終わる。
祐真はリコの要望を承諾した。祐真としては、訪問先はどこでよかったため、よほど変な場所ではない限り、断る理由はなかった。
『デート』までの間、祐真は普通に日常生活を送った。学校では、あの時以降、花蓮は祐真に話しかけてくることはなかった(それでも、星斗や直也はこっそり、花蓮と連絡を取っているじゃないかと疑ってきていた)。
アパートでは『デート』に胸を躍らせているインキュバスとの、奇妙な同棲生活が続いていた。
もしも、花蓮の提案を受け入れたら、この『日常生活』は終わりを迎えるのだ。そして、元の『日常生活』が戻ってくる。難しいはずの『召喚還し』を行ってまで、求めている世界。
祐真は『デート』の当日まで、頭を悩ませていた。一体、自分はどうしたいのか。今の非日常を歓迎しているのか、それとも元の日常に戻りたいのか。
二つの疑問が、ぐるぐるとメリーゴーランドのように、脳内を回転していた。
「祐真、どうしたの?」
祐真ははっとする。リコが不思議そうに、こちらをじっと凝視していた。
「いや、なんでもないよ」
祐真は内心を悟られないよう、笑って誤魔化す。だが、それは麻痺したように、ぎこちないものになった。
リコはしばらく、こちらを見つめていたが、やがてふと微笑を浮かべると、祐真の手を取った。
「じゃあ、次のエリアへ行こうか」
リコは、祐真の手を引き、歩き出した。
午前は水族館内の観覧を行い、正午になると、二人は水族館内にあるレストランで昼食をとった。
午後は、イルカショーやアシカショーなどを見物する。最初は子供が見るようなイベントショーだと思い、気乗りしなかったが、ショーが始まると思いの外、楽しむことができた。可愛らしい動物たちの演技に、リコと共に祐真は、子供のような歓声を上げた。
やがて、夕刻が近づき、祐真たちは水族館をあとにする。
だが、二人はすぐに帰宅しなかった。水族館を出た足で、『しながわ区民公園』を散策することにした。
これは、祐真のリクエストによるものだ。リコは快く了承してくれた。
祐真はリコと並んで、区民公園内にある大きな池のほとりを歩いた。遊歩道上には、子供連れの家族が多く、明るい日差しも相まって、とてものどかな雰囲気が漂っていた。
そこには、悪魔やら、魔術などの超自然的な要素が介在する余地はないように感じる。少なくとも、今、隣を歩いているリコが、インキュバスである事実が、まるでフィクションであるかのような錯覚を覚えた。
二人はしばらくの間、無言で公園を歩く。幼稚園くらいの男の子と女の子が、はしゃぎながら、リコのそばを通り抜けた。そのうち女の子のほうが、長身のリコを見上げた。そして、目を奪われたかのように、はっとした仕草をとった。
リコが女の子に微笑むと、女の子は顔を赤くして、恥ずかしそうに顔を逸らし、先を行く男の子のあとを追っていく。それとほぼ同時に、大学生くらいのカップルとすれ違う。カップルはすれ違う瞬間、二人共一緒に、リコの姿に惹きつけられるかのように、凝視してくる。
水族館でもそうだったが、やはりリコの美貌は、周囲の人間の衆目を集めるようだ。中には、芸能人か、あるいはモデルなのかと、興味のあまり質問してくる人間もいた。
人間を魅了するインキュバスの面目躍如といったところか。ユーリーもそうだったが、外に出る度にこれでは、煩わしい部分もあるのではと思う。それとも慣れっこなのか。
祐真とリコは池を通過し、中央ゾーンへと足を運んだ。この辺りは草木などの自然が多く、キャンプ場も併設されてあった。一気に自然の匂いが立ちこめる。
祐真はその中をリコと共に歩く。やはり双方共に無言だ。かといって、リコは不機嫌ではない。祐真と一緒に歩けるだけで嬉しいらしく、鼻歌交じりである。
祐真のほうは、胸の内にある重りのようなわだかまりのせいで、会話に勤しむことができないでいた。今日、リコを『デート』に誘った目的。彩香のアドバイス。退魔士花蓮のことについて。
それらの文字が立体となって浮かび上がり、壊れた万華鏡のようにぐるぐると目の前を回る。一体、俺はどうすればいいのだろう。
「祐真、そこに座ろう」
祐真が苦悩していると、リコが唐突に提案してくる。リコは、広場の一角にある二人掛けのベンチを指差していた。
ちょうど疲れていたし、このまま当てもなく彷徨うのも時間の無駄なので、祐真は同意する。
リコが飲み物を買いに自販機へと向かったことを確認し、祐真はベンチに座った。
眼前の広場に目を向ける。広場はキャンプ場としても機能しており、時期なのも相まってか、いくつかテントが張られていた。一番近いテントの内部からは、子供のはしゃぎ声が聞こえてくる。
祐真はぼんやりと、広場の光景を眺めていた。思考が奔流となって、脳内を駆け巡る。
どのような話をすれば、リコとの関係について、見つめ直せるのか。いや、そもそも本当に必要なのか。もう花蓮側に付いて、リコを殺したほうがいいのではないか。断った場合、花蓮は敵に回ると言ってたし……。
祐真が思い悩んでいると、ジュースを買い終ったリコが戻ってきた。
「お待たせ」
リコはジュースをこちらに手渡し、祐真の隣に座る。渡されたジュースは、祐真の好きな銘柄だ。相変わらず、リコは確実に祐真の好みを選択していた。
プルタブを開け、中身を飲む。オレンジジュースの甘酸っぱい味が、口の中に広がった。隣のリコも、缶コーヒーを飲んでいる。
祐真は静かに、息を吐く。ジュースを飲んで、少し落ち着いたものの、祐真は会話のきっかけを掴めないでいた。どう切り出そうか。下手をすると、このまま何も話せずに終わりそうだ。
するとリコが唐突に質問してくる。
「さて祐真。僕に何か話があるんだろ?」
祐真はかすかに頷く。やはり、リコは全てお見通しのようだ。突然祐真が『デート』に誘った時点で、何かあると疑念を抱くのが普通である。当初からリコは、そのような様子をみせなかったが、密かに疑問を感じていたらしい。
リコのほうから話を振られたため、祐真は少しだけ話しやすくなった。背中を押されたような気分だ。
同時に考えも纏まり始めた。自分が一体、どうしたいのか。完全には答えは出ないものの、ちょこっとだけわかった気がした。
祐真は一拍間を置いて、口を開く。
「リコはさ、前に俺に言ったよね? 運命がどうとか」
「うん」
「それってどういう意味?」
祐真の質問に、リコは爽やかな笑みで応じた。
「そのままの意味さ。君は必ず僕を受け入れる。それだけのことだよ」
「……俺には全然その気がないんだけど」
「今はそうでも、いずれ変わるさ」
リコはなぜか、確信を持っていた。
「わけがわからないよ」
祐真は目を逸らす。普段からリコが口にしている下らないセクハラ発言の一つかもしれない。それにしては、やけに自信があるようだが。
少なくとも、もうこれ以上訊いても進展はなさそうなので、話を変えることにする。
「リコはさ、ものすごく強いんだよね?」
「うん。強いよ」
リコは臆面なく肯定した。
「でもさ、もしも俺が敵に回ったとしたら、リコはどうする?」
リコは愚問だと言わんばかりに、悠々と肩をすくめた。
「何の問題もないよ」
「どうして?」
「僕の敵になるなんて選択、祐真がするわけないからね」
リコは、絶対的な根拠があるかのように断言を行う。祐真は目が点になった。
「なんでそう言い切れる?」
「祐真のことなら何でもわかる。君は僕を絶対裏切らないよ」
いまいち説明になっていないような気がするが、リコは本心を述べているらしかった。心底祐真のことを信頼しきっているということだろうか。
リコは、優しげな眼差しをこちらへ注いだ。祐真は俯く。
いまだに自分の中にあるわだかまりの答えは出ない。だが、時化のように祐真の心を覆っていた靄が、少しずつ晴れていくのを感じた。
気がつくと祐真は口を開いていた。話し始める。退魔士、風川花蓮との間にあった出来事を。
話を聞き終えたリコは、薄く笑みを浮かべた。
「ダイレクトに祐真のところへ乗り込んでくるとはね。やはり推進派の連中はやることが派手だねえ」
リコは感心したように言う。随分と余裕のようだ。
「いいのか? そんな悠長に構えていて」
「まあね。それで祐真はどうするんだい? 退魔士のほうに付くのかい?」
リコは茶化すように、上目使いをする。祐真は首を振った。
「そのつもりはないよ」
「そうか。ならもう安心さ」
リコは缶コーヒーを飲み干した。
「本当に大丈夫なのか? 相手はけっこう強そうだったぞ」
彼女が披露した魔術を思い出す。黒い漆黒の蛇。リコは確かに強いだろうが、花蓮を上回るのかどうかの判別はできなかった。
「戦闘面については、全く問題ないよ」
「花蓮は今までにも淫魔を何人か倒したことがあるようなことを言ってたぞ」
「僕を他の淫魔と同じとは思わないで欲しいな。……けれど、戦闘以外の面では対処する必要があるね」
「どういうこと?」
「相手のアプローチ次第では、面倒なことになりそうだってこと。人間の退魔士だし、推進派ならなおさらだ」
やはり、万事解決というわけにはいかないらしい。
祐真はリコから顔を逸らし、目の前のキャンプ場に視線を向けた。
一つのテントの前で、父親と小学校低学年生くらいの男の子が遊ぶ姿が目に映る。追いかけっこをしているようだ。子供の歓声が耳に響く。
同時に、料理の香りも辺りに漂い始めていた。そろそろ夕飯の時刻なのだ。意識すると途端にお腹が空いてくる。
「具体的にはどうするんだ?」
祐真リコのほうへ顔を戻し、訊く。
リコはウィンクを行った。
「いくつか対策があるんだ。アパートに戻ったら、教えてあげるね」
そう言ったあと、リコはベンチから立ち上がった。それからこちらの正面に回ると、ピアニストのような綺麗な手を伸ばしてくる。
「これでまた僕らは共闘関係になった。共に頑張ろう」
リコは握手を求めてくる。祐真は一瞬だけ迷ったが、やがて同じように手を伸ばし、リコと手を握り合った。
休み明け。祐真は登校を行った。
通学路を歩きながら、頭の中で、リコが『デート』のあと、アパートで話してくれた内容を反芻していた。
リコはこれからについて、いくつか対策を講じてくれた。だが、実際に役に立つのだろうか。
不安に包まれながら、祐真は学校へと到着した。
教室に入ると同時に、花蓮が話しかけてくる。
「待ってたわ。羽月君。それじゃあ行こうか」
祐真が登校してくるまで談笑していたらしく、クラスメイトの女子たちが、離れたところでこちらを見やっていた。
祐真のすぐそばで、星斗と直也も、複雑な表情を浮かべて立ち竦んでいる姿が目に入る。どうやら、登校してきた祐真に声をかけようと近寄ってくる最中だったようだ。内容は多分、祐真がラインのメッセージを返信しなかった件についてだろう。
祐真は机に鞄を置くと、首肯した。
花蓮は言う。
「ついてきて」
祐真は花蓮に促されるまま、教室を出る。その時教室にいたクラスメイトたちは全員、好奇の目をこちらに注いでいた。星斗と直也も同様だった。
花蓮は、廊下を進み、階段へと向かって歩く。今回も屋上へと赴くらしい。道中、廊下ですれ違う他生徒たちは、ほとんどが、目を奪われたかのように、花蓮へと視線を注いでいた。
階段へと差し掛かり、上りきったあと、花蓮は、屋上の扉を開けた。途端に、燐光のような朝日が正面から当たる。祐真は目を細めた。
屋上に出た花蓮は、静かに進んでいく。祐真も続いた。やがて花蓮は、前回と同じ位置に立ち、こちらに背を向けたまま、フェンスを掴んだ。
下方に広がる運動場を見下ろしながら、花蓮は訊く。
「この間の答えを聞かせてもらえるかしら?」
花蓮はこちらを振り返った。かすかに口角が上がっている。余裕の表情。祐真の答えが、自分にとって良きものだと確信している様子が伝わってくる。
祐真は花蓮を正面から見据えた。リコの姿が脳裏へ浮かび上がる。まるで隣にいるかのように、力強さを感じた。
祐真は宣言する。はっきりとした口調で、訓辞を読み上げるかのごとく。
「風川さん、戦おう。俺たちと」
花蓮は表情をほとんど崩さなかった。たおやかな笑み。まるで清楚アイドルのよう。だが、瞼がわずかに痙攣した様を祐真は見た。
しばらく時間が流れる。屋上を抜ける風の音のみが、耳に届いていた。花蓮は笑みを浮かべたまま、何も言わない。
宣戦布告を受け取った、ということか。
祐真はそう確信した。
祐真は踵を返すと、花蓮を残し、歩き始める。そして、屋上を出た。背中に、ずっと花蓮の冷たい眼差しが突き刺さっていることを感じていた。
大事なのはここからだった。退魔士・風川花蓮の出方。祐真が宣戦布告を行い、彼女が敵に回った以上、より一層注視する必要が生まれた。
一体、どんな手を使ってくるのか。
祐真の予想では、一切こちらに関わらず、陰で諜報員のように動いてくると思われた。祐真側の淫魔の存在を突き止めることができていない現状、下手に接触しないほうが無難だと考えるはずだ。
ならば、これまで同様、単独での隠密行動が最右翼といえるだろう。
しかし、祐真の予想は大きく外れることとなった。花蓮は思いも寄らない行動をとったのだ。
「祐真君、一緒にご飯食べよう!」
昼休みになり、祐真が星斗たちと一緒に弁当箱を広げていると、花蓮が明るく話しかけてきた。
「え……」
油断していた祐真は、言葉を失う。敵対したばかりなのに、むざむざ相手に近寄ってくるなんて、この女は何を考えているのか。
祐真の両隣にいる星斗と直也も硬直し、絶句しているようだ。こちらは祐真とは違う意味なのだろうが。
「隣、座るね」
花蓮は近くにあった椅子を引き寄せると、星斗の隣に強引に座った。それから手に持ったピンク色の弁当箱を机に置く。女慣れしていない星斗は、おどおどと異常なほど挙動不審な様相を呈した。
現在の光景を、近くにいる生徒たちが注目していた。普段、花蓮と一緒に昼食をとっている何人かの女子生徒たちも、嫉妬するような目線を向けている。
祐真はそれに気づいていた。
祐真は内気であるため、衆目の中、下手に花蓮を拒否する声を発することができなかった。
祐真のそのような性質を知っているのか、花蓮は遠慮することなく、平然と接してくる。
「祐真君のお弁当、とても良い匂いがするね。おいしそう。自分で作っているの?」
花蓮は、祐真が広げているリコが作った弁当箱を指差した。中身はから揚げやウィンナーなどのオーソドックスな内容だ。特筆するようなものではないが、インキュバス手製であるため、なにか引っ掛かる部分でもあるのだろうか。
「あ、ああ、まあね」
無視しようかと思ったが、祐真は反射的に答えてしまう。
花蓮も、自らの弁当箱の蓋を開けた。中身は玉子焼きやウィンナーなど。祐真や他の二人の弁当と大して内容物は変わらなかった。退魔士と言えど、普通の人間と食べ物は変わらないらしい。
花蓮は自身の弁当に箸を付けながら、お喋りを始める。リコが作った弁当のことは、すでに関心の埒外のようだ。特に何かに気づいたわけではないようだ。
「さっきの英語の抜き打ちテスト、難しかったよね」
花蓮は極々普通の、友人たちと交わすような会話を行う。
スクールカーストにおいて、最下層に属する三人の男子と、転校してくるなり、すぐさま上位に君臨した美少女転校生。
奇妙な組み合わせの食事会に戸惑いながらも、星斗と直也はとても嬉しそうに相槌を打っていた。
しかし、祐真だけは用心深く、花蓮の様子を探っていた。
意図がまるで読めなかった。宣戦布告後、こうして接触してきた以上、何かしらの戦略かと考えられるが、こちらの友人を巻き込んでの昼食に花蓮側のメリットがあるとは思えない。
それとも、祐真の腹を探るためのコンタクトか。にしては、もっと他に良い方法があるはずだ。まさか仲直りしたいという魂胆ではあるまい。
「祐真君大丈夫? 箸が止まっているみたいだけど……」
祐真ははっとする。花蓮が大きな目を瞬かせながら、こちらを見ていた。
花蓮は祐真と目が合うと、屈託のない笑顔を浮かべる。
「早く食べないとお昼休み終わっちゃうよ」
「あ、ああ」
祐真は曖昧に頷き、箸を動かした。ウィンナーをつまみ、口に運ぶが、なんだか味がしない。花蓮の読めない言動に、調子が狂ってしまう。
祐真の不安をよそに、花蓮はなおも楽しげに会話を続けていた。
それからというものの、花蓮は祐真に対し、頻繁に接触してくるようになった。祐真が朝登校すると、必ず声をかけてきた。休み時間、祐真の席までやってきては、話題を振ってくる。放課後になれば、一緒に帰ろうと催促してきた。
花蓮がそのような真似をすれば、当然話題になる。噂の転校生の美少女が、地味なオタク男を狙っているらしいぞと。
しばらくすると、祐真は廊下を歩くだけで、他の生徒から指を差されるようになった。下駄箱やトイレで突き刺さるような視線も感じた。中には、嫉妬心を剥き出しにして、すれ違いざまに悪態をつく男子生徒もいた。
祐真と共に行動している星斗と直也は、必然的に花蓮と接する機会が増えたため、この状況を歓迎しているようだが、祐真にとってはメンタル的にひどく堪えるようになった。
これが何でもない通常の間柄の話なら、祐真もひどく喜んだことだろう。自分に可愛い女の子が興味を示してくれるのだから。
だが、実情は違う。花蓮は敵なのだ。一般人とは違う退魔士と呼ばれる存在。リコの命を狙う者。
その事実を祐真と彩香のみが知っている。外野で騒ぐ連中や、嫉妬の目線を投げかける連中は何も知らず、ただの色恋沙汰だと思っているのだ。
そのような状態がしばらく続いた。リコが以前施してくれた『対策』は一部機能しているものの、花蓮の予想外の行動により、まだ全ての効果が発揮される段階まではいっていなかった。
心配になった祐真は、リコに花蓮の行動について相談をした。こちらはどのようなアクションを取ればいいのかと。
祐真はてっきり、リコは方針を変更してくるかと思っていた。だが、違っていた。彼は、簡素な答えを用いた。
「このまま様子見でいいと思うよ」
料理中であったリコは、世間話の相談に答えるかのように、あっさりと伝えてくる。トンカツ用のキャベツを切る小気味良い音が、台所に響いていた。
リコは、花蓮の行動を大きく受け止めていないようだ。しかし、祐真は不安だった。
「俺にとっては、あまり気分の良い状況じゃないんだけど」
リコは、動かしていた包丁の手を止めた。
「心配することはないよ。少しの辛抱だから。それに、何度も言うように、相手は祐真の命まではとらないから」
「命まではとられなくても、学校での立場が悪くなったら、それだけで俺は終わりなんだよ」
こいつは高校生の学校におけるセンシティブな人間関係を知らないらしい。ちょっとしたきっかけで、坂道を転がるように、カーストの底に落ちてしまうのだ。もっとも、祐真自身、カーストは最下位に近いのだが……。
しかし、それでもまだ人間扱いのレベルは保っていた。底まで落ちれば、それすら比べ物にならないくらいの冷遇が待っているのだ。
「可愛い女の子に付き纏われるようになっただけで、立場が悪くなるのかい?」
リコは不思議そうに訊く。
祐真は頷いた。
「少し目立つだけで絡む連中はいるんだよ。それでも、花蓮が本当に俺の彼女とかになれば、話は違ってくるけど、今みたいな中途半端な状態が一番困る」
花蓮は敵であるため、当然交際まで発展することはないはずだ。今の状態が関の山といえるだろう。
つまり、これが花蓮の目的かもしれない。言うなれば、祐真の精神を削る戦法。
しかし、そうだとしても何だか温い気がする。今のところ、祐真のほうは大した痛手を負っていないのだ。不愉快な環境に変化したのは確かだが。
「しばらくの我慢さ。待てば、いずれ解決するよ」
「前言っていた『対策』ってやつか? 本当に大丈夫なんだろうな」
「もちろんさ」
リコはキャベツの千切りを再開した。小気味の良い音が耳を貫く。背後からは、テレビの音声が聞こえた。夕方のニュースの時間らしい。
「本当にお前の予想通りの結果になるのか?」
祐真は以前、リコが教えてくれた『計画』を思い出しながら訊く。随分と、花蓮の行動が違ってきている気がするが、大丈夫なのか。
祐真の質問に、リコは肩をすくめた。愚問だと言わんばかりだ。
「問題なしだよ祐真。推進派の連中は必ず『そう』なんだから」
リコは前も同じことを主張していた。
「だったら、リコが言うように、今の状況に耐えるしかないってことか」
「そうだね。今しばらく、我慢が必要だ」
リコはコンロにかけていたみそ汁の火を止めた。蓋を開け、味見をする。リコは満足そうな表情を浮かべた。
「だから祐真。これだけは約束して」
みそ汁の味見を終えたリコは、真っ直ぐ祐真を見た。
「絶対に、自分から花蓮にアプローチしないようにしてくれ」
祐真はリコの真剣な表情に気圧されたが、やがて静かに首肯した。
「おはよう! 祐真君」
翌日の朝、登校した祐真を花蓮は待ち構えていた。
祐真が席へと着くと同時に、元気に挨拶をしてくる。祐真はげんなりしながらも、適当に返事をし、椅子に座った。
花蓮は祐真の反応などお構いなく、隣の席に腰掛け、積極的に話を振ってくる。それを祐真は上の空で対処した。
しばらく時間が経ち、クラスが賑やかになってきた頃、誰かが祐真の脇腹を小突いた。
「ねえ、その態度、風川さんに失礼じゃない?」
声のほうを見ると、クラスの女子が目の前に立っていた。三つ編みの小柄な女の子。今まで会話を交わしたことがなかったが、確か花蓮の『取り巻き』の一人だったはず。
三つ編みの女子は、極めて不愉快そうにこちらを見下ろしていた。
「風川さんが話しかけてるじゃない。どうして応じないのよ」
三つ編みの女子は、まるでこちらが悪いことをやったかのように咎めてきた。祐真は呆気にとられる。
「羽月君みたいなオタクに、こんな素敵な人が話しかけてくることなんて本来あり得ないのよ。光栄に思うべきところを、あなたは不意にしているのよ」
三つ編み女子は、差別的な発言とも取れる言い方をする。祐真は口をつぐんだ。花蓮は涼しい顔で成り行きを見守っていた。
そこで、新たな女子が隣に立つ。
「亜紀の言う通りよ。羽月君、ちょっと調子に乗ってるんじゃない?」
こちらは少し背の高いおかっぱの女子だ。バレーボール部の佐竹とかいう女子だったと思う。
亜紀と呼ばれた女子は、なおも追撃行った。
「間抜け面していないで、何か言いなさい。あなたは風川さんの大切な時間を奪っているのよ」
花蓮が一方的に絡んできているにも関わらず、なんて言い草だと思った。俺のほうこそが被害者だ。
しかし、祐真はそれを口にすることができなかった。元来自分は内気であり、ましてや討論なんて、もっての他。しかも相手は女子二人。
とはいえ、反論はできないまでも、この二人の叱責が、どうやら嫉妬によるものらしいということはわかった。
祐真は困り果てる。恐れていたことが起きたようだ。これまでも、他クラスの男子生徒からすれ違いざまに文句を言われることはあったが、こうして面と向かって非難をされるのははじめてだ。
祐真が尻込みしていると、チャイムが鳴り響いた。目の前の女子二人が残念そうな表情を浮かべたのを見て、祐真はほっとする。どうやら上手くかわせたようだ。ナイスタイミング。
亜紀と佐竹は、この場を離れていった。隣の席に座っていた花蓮も、意味深な目をこちらに向け、自身の席へ戻っていく。
同時に、担任教師が教室に入ってきた。そこで祐真は初めて、クラスの皆がこちらを見ていたことに気がついた。
面倒な展開になったと祐真は思った。
朝の出来事を皮切りに、祐真に対する『非難』が加速したのだ。
次の休み時間も、花蓮は祐真の元へやってきた。そして、親しげに接してくる。だが、今回はコブ付だ。取り巻きの女子が侍女のように後ろに控えていた。
祐真が少しでもそっけない態度を取れば、非難が飛んだ。祐真は下手に逆らうことができず、渋々花蓮との会話に付き合うしかなかった。
だが、花蓮とのコミュニケーションは本来ならば、避けるべき事態だ。この女は敵である。話をすればするほど、こちらが不利になってしまうだろう。
そのような状況が続き、やがて五時限目が終わりを迎えた。今日は六時限まで授業がある。今が今日最後の休み時間だ。
祐真はそこで耐えきれずに、花蓮を呼び出すことにした。
呼び出す場所は、祐真たちのクラスがあるB棟の端にある倉庫を選んだ。屋上と違って、短時間なら、誰も入ってくる恐れがない場所だ。
祐真はそこで、花蓮に真意を問い質すことにした。一体、何が目的なのか。戦う気があるなら、さっさとやり合おうと。
もしもそこで、花蓮が挑発に乗り、魔術を使って攻撃をしてくるなら、むしろ歓迎だ。リコの狙いは功を奏すことになる。
祐真は考えた。そうではないか。こちらからのアプローチはリコに厳禁されているものの、結果、狙いが同じなら構わないはずだ。わざわざ相手が動くのを待つ必要は皆無と言える。
もうこの針のむしろのような環境は、嫌だった。早く花蓮との戦いに蹴りをつけたい。そうすることが、祐真とリコにとって、ベストの選択だと思った。
しかし、その考えは、後になって、祐真の逃げだということが実感できた。苦しい環境から逃奔し、楽したいだけの負け犬の愚行。
リコのアドバイスを遵守していれば、蛇のように迫っていた脅威を看破できたはずなのに。
祐真は、クラスメイトたちが近くにいる中、花蓮に声をかけた。話があると。
祐真の言葉を聞き、花蓮は女神のように白い歯を見せた。
目の前の鉄扉を開ける。途端に埃っぽい臭いが鼻を突いた。
倉庫の中に入った祐真は、電灯のスイッチを押し、明かりを点ける。常夜灯のようなオレンジ色の光が倉庫内を照らすが、光度が低いらしく、薄暗い。
祐真は奥へと進む。倉庫内は、教材や、文化祭で使ったであろうよくわからない残骸が積まれてある。しかし、乱雑ではなく、スペースも結構あった。
背後から続いて、花蓮も入ってくる。そして後ろ手に扉を閉めた。
密室になったことで、祐真は強い圧迫感を受けた。薄暗さも相まってか、地下室にでも閉じ込められた気分になる。
祐真は不快感を覚えながらも、花蓮のほうへ振り返った。花蓮は飄々とした顔をしている。これから先の展開を予期しているのか、余裕綽々の様子だ。
花蓮が口火を切る。
「それで話ってなに?」
祐真の胸の鼓動が、かすかに早くなった。愛の告白でもするかのような気分に陥るが、全く質が違うものである。
これは、不安と恐れによる緊張だ。自分は敵を前にして、怯えている……。
祐真は唾を飲み込み、咳払いをした。それから、花蓮に伝える。
「いい加減止めて欲しいんだ。俺に絡むのは。もしも戦う気なら、ちゃんとした場所でやり合おう」
花蓮は何も答えなかった、悠然とした表情を崩さない。ちゃんと聞こえたのだろうか。
祐真は質問を重ねた。
「一体、何が目的なんだ? お前の行動に何の意味が?」
祐真が言い終わると同時に、花蓮はある行動に出た。それは、予想もしていなかったものだ。
花蓮はおもむろに、自身のブレザーのボタンを外したのだ。そして、中に着ているカットソーのボタンを外し始める。
祐真が呆気に取られているうちに、花蓮は胸元をはだけさせた。ピンク色のブラジャーがあらわになる。小柄な体にしては不釣合いなくらい豊満だ。
祐真は状況が飲み込めないまま、花蓮の胸元を凝視した。この女は何のつもりだろう。アプローチか? 性的な行動を忌避しているんじゃなかったのか。
混乱に見舞われながらも、祐真は花蓮に真意を問い質そうとした。
そこで花蓮が先を制する。
花蓮は突然、短く悲鳴を上げたのだ。狭い倉庫に、ハウリングしたかのように高い声が響く。
直後、花蓮ははだけた胸元を押さえ、倉庫を飛び出して行った。
残された祐真は、茫然と立ち竦む。意味がわからない。目の前の展開に着いていけなかった。今自分の顔を鏡で見たら、アホみたいな間抜け面をしていることだろうと思う。
だが、少し間を置くと、足元から震えが這い上がってきたことが実感できた。顔が青ざめ、息が荒くなる。
今の状況を客観的に見れば、一つの結果に行き着く。すなわちそれは……。
自分は花蓮の、敵の罠にまんまとはまったのかもしれない。
祐真は慌てて鉄扉を開け、倉庫を出た。廊下へ足を踏み入れると同時に、周りにいた生徒が責めるような眼差しを向けてきたことに気づく。
祐真が歩き出すと、近くにいた生徒が野良犬でも避けるかのように、さっと退いた。窓際にいた二人の女子生徒が、こちらを見ながらヒソヒソと話をしている。
祐真は息を飲む。思った通りだ。先ほどの花蓮の行動を目撃した生徒たちは、皆『誤解』をしてしまったらしい。
祐真は俯きながら歩き、その場を離れる。とてつもなく悪い予感がした。
急ぎ教室へ向かう。休み時間なので、複数の生徒とすれ違うが、誰もがこちらを非難の目で見ている……ような気がした。
教室へ舞い戻った祐真は、勢いよく扉を開けた。
その途端だ。教室中にいたクラスメイト全員が、一斉にこちらを見た。
祐真は電撃を喰らったかのように、その場に立ち竦んだ。集まった視線には、非難と嫌悪の感情が濃く込められていた。
教室の隅を見る。一足先に戻っていた花蓮が、泣きじゃくりながらクラスの女子に慰められている姿が目に映った。
手の平に汗が滲み、心臓の鼓動が不規則に刻み始める。猛烈な不安が大波のように押し寄せた。
嫌な予感が的中したようだ。
祐真が佇んでいると、一人の生徒が近寄ってきた。男子生徒だ。長身の優男風の容貌。裏塚健一という名前のボクシング部の生徒である。
「なあお前。風川さんになにしてんだよ」
裏塚はチンピラのように顔を凄ませながら、こちらに詰め寄った。古里の姿と重なる。
「……俺はなにもしてない」
かすれた声が出る。ひどく喉が渇いていた。
「嘘つくなよ。お前、風川さんを呼び出しただろ。そこでお前が何もしなきゃ、風川さんがあんな風になるわけないだろ」
裏塚は、花蓮のほうを顎でしゃくった。
ひとまず否定したものの、これで祐真の言い分が通じないことが判明した。
ひどく困る。どうすればいいのか。痴漢冤罪と似たようなもので、こういった場合、男の証言は脆く頼りないものとなる。
なおも威嚇する動物のように睨み付けてくる裏塚と、教室中の視線を受け、祐真は硬直していた。足が震える。
花蓮がわざわざこちらが誘い出すまで待ったのも、信憑性を増すためだろう。狙いは功を奏し、見事祐真を『暴行犯』に仕立て上げたのだ。
しかし、これが花蓮の本当の狙いだとして、意味の為す所はなんだろう。祐真の立場を悪くするためなのか。それにしては、遠回りな方法にも感じる。
離れたところで、星斗と直也が不安そうにこちらを見つめている姿をとらえた。二人は咎めるような目線を送ってはいない。一応、祐真の潔白を信じているらしいことはわかる。女子グループの中にいる彩香も同じだった。
「おい。聞いてんのか? なんとか言えよ」
裏塚は、祐真の肩を掴んだ。ボクシング部らしい逞しい腕だ。力強さを感じる。
祐真は裏塚の言動を聞き、いくつか確信を得た。おそらく、この男は祐真の不手際に乗じて、花蓮の気を引こうと画策しているようだ。さながら痴漢を撃退する正義の味方のごとく。
祐真は、裏塚の手を振り払った。
「だから、言ってるだろ。俺は何もしていないって」
祐真がそう言い終わるのとほぼ同時だった。
裏塚は唐突に祐真の顔面を殴打した。ボクシングをやっていることを裏付けるように、ストロークが極めて短い一撃だ。見事、祐真の顎の下を捕らえていた。
状況を見守っていたクラスメイトたちの中から、どよめきが湧き起こる。
もしも、これが『普通』の人間なら、一瞬で昏倒していたかも知れない。だが、今祐真は『普通』ではないのだ。
裏塚は小さく呻き、右手を押さえた。以前の古里と同じリアクション。再び彼の姿と重なった。
肉体強化。リコが花蓮用の『対策』として施してくれた魔術のうちの一つだ。
魔術にかかれば、相手がボクシング部だろうと、屁でもない。赤ちゃんから殴られたほうが、まだダメージはある。
ゆえに、肉体強化が施されている以上、以前と同じように、相手が人間ならば、暴力的な危機にさらされようとも、容易く凌げるはずだ。
しかし――。
祐真は、ひどくうろたえていた。裏塚が原因ではない、あの女の、花蓮の本当の狙いが判明したからだ。
「お前、なんなんだ?」
人を殴り慣れているであろう、裏塚は怯えたような目で見上げてくる。教室中の生徒たちも、驚きの表情を向けていた。
祐真は焦りながら、花蓮のほうを確認する。花蓮は、こちらを凝視していた。
花蓮の目が、獲物を捕らえたように、鋭く光っている様を確かに見た。
祐真の脳裏に、リコとの会話が蘇った。
「攻性防壁?」
リコとの『デート』のあと、アパートへと帰った祐真は、テーブルを挟み、リコから説明を聞いた。
「そう。攻性防壁」
彼はテーブル越しに、聞き慣れない単語を繰り返した。祐真は質問する。
「なにそれ」
リコは答える。
「祐真、君は休み明け、花蓮に『答え』を伝えるだろう? 自分のほうに寝返ると確信している彼女に、宣戦布告の言葉をね」
リコはテーブルに腕を置き、手の上に顎を乗せた。
「君から宣戦布告をされたあと、花蓮はその日のうちにアクションを取るはずだ。それが何なのかは今の段階では不明だけど、敵対した君へ必ず動きを仕掛ける。その『対策』のための魔術さ」
「魔術?」
祐真はリコが淹れたお茶を一口飲むと、そう訊く。リコはかすかに頷く。
「祐真。以前、君にかけた魔術を覚えているかい?」
「うん。肉体が強化されるやつだよな」
脳裏に、実習棟のトイレで古里から受けた暴行の光景が再生された。それから、屋上で菅野とやり合った光景も。
あの時は、少しの痛みも傷も受けなかった。相手は、それなりの腕力と腕っ節を持つヤンキーであるにも関わらず。まさに奇跡の見技だ。
リコは言う。
「あの魔術、『コルプス・フォート』と少し性質は似ているけど、メカニズムが違う魔術だ」
祐真は少しだけ身を乗り出して、質問する。
「どんな魔術なんだ?」
「言うなれば、カウンターみたいなもの。相手が魔術を使ってきた場合、予め設定されたこちらの魔術が自動で発動する仕組みになっている」
いまいちピンとこず、祐真は首を捻る。
その姿を見て、リコは微笑んだあと、説明をした。
「つまり敵が魔術を使ってきたら、反撃する魔術だよ」
「予め設定された魔術ってどういうこと?」
「性防防壁は、特定の魔術をカウンターとして設定できるんだ。それを事前に仕込む」
「仕込むって、どんな魔術を?」
「今回は、相手の情報を解析できる魔術を設定するつもりだ。現状、花蓮の魔術は未知数だからね。解析できたらもう丸裸も同然さ」
「具体的にはどう使うんだ?」
リコは目の前にある湯飲みを持ち、お茶を飲んだ。そしてテーブルに下すことなく、見せ付けるようにして目の前に掲げた。
「まずは祐真の体に攻性防壁の魔術をかける。さっき言ったように、魔術を受けると、相手の肉体情報や魔術を解析できる魔術だ」
リコは手に持った湯飲み茶碗を、温めるようにゆっくりと撫でる。
「それから、花蓮が君に魔術を行使してくるまで待つ。そうなれば攻性防壁が発動して、花蓮の情報は全てこちらのもの。あとは煮るなり焼くなり好きにできるって寸法だ」
「ちょっと待てよ」
リコの提案に、祐真は口を挟んだ。聞き捨てならない。
「大丈夫なのか? つまり、俺が魔術を喰らうわけだろ? その時点でアウトじゃないのか」
リコはウィンクを行った。
「問題ないよ。そのための『攻性防壁』だ。一種のバリアも兼ねているから、魔実に対しては、強い抵抗を持つ。祐真は無傷さ」
祐真はとりあえず、安心する。さすがに魔術を身に受けるほどの覚悟はなかった。
祐真は質問する。
「そう簡単に花蓮は使ってくるかな」
「使ってくるさ。推進派はそんな連中だ。いずれ業を煮やし、強硬手段をとってくる」
リコは湯飲み茶碗をつんつんと突いた。すると、竹に刃物を入れたかのように、二つに割れた。
「花蓮には、匂いを嗅ぎ分ける妙な力があるぞ。もしかしたら気づかれるかも」
リコは薄く笑った。氷のように、澄んだ表情。
「花蓮のその嗅覚の能力は確かに脅威だ。攻性防壁の存在に気づけるかもしれない。それでも、時間が経てば、必ず攻撃してくる。それくらい『彼女たち』は、いかれてる奴等さ」
リコは割れた湯飲みをぴったりとくっ付ける。湯飲みは、まるで接着したように元の形へと戻った。
リコは湯飲みをテーブルに置く。
一応、今のところ、リコの説明は理解できていた。祐真が把握した範囲で考えれば、花蓮との戦いは、なんとかなりそうな気配があった。
しかし、リコの次の言葉で、どうやらそれは希望的観測であったことが判明する。
「だけど、攻性防壁にはいくつか欠点があってね」
「欠点?」
リコは首肯した。
「一つが、魔力を持ってる人間には施せないこと。自身の魔術との『ノイズ』が発生してしまい、使い物にならなくなるからね」
祐真は納得する。だから、ユーリーとの戦闘の際、リコは自身に対し、行使しなかったのか。
「そしてもう一つが、攻撃性がある魔術しかカウンターできないこと。たとえば、例の感染型の淫魔術みたいなものには無防備となる」
これも理解できた。彩香の『全世界BL計画』の時に、リコが攻性防壁を施さなかったのも、これが理由なのだろう。
「わかったよ。けど、そこまで問題がある内容じゃないね」
リコは首を振った。
「欠点はまだ他にもあるんだ。最後の一つが、なかなかに面倒でね」
「面倒? どんなもの?」
リコは答える。
「話自体は単純なんだ。魔術じゃない攻撃を受けた場合、攻性防壁が解除されてしまう点だ」
今まで着いていけていた祐真の理解が、こここにきて、幻想のように歪む。
「なんだよそれ」
「攻性防壁は相手の魔術をガードし、魔術で返す性質がある。そのメカニズム上、魔術とは違う――例えば普通の人間に殴られるみたいな――攻撃を受けた場合、魔術回路が簡単に壊れてしまうんだ」
「人間の攻撃で?」
「そう。攻性防壁は便利な分、とても脆くて繊細な魔術なんだよ」
「つまり、花蓮から殴られては駄目ってことか」
リコは首を振った。
「言ったろ。普通の人間からだって。退魔士や魔術士みたいな魔術を持った人間は、常に魔力を体に帯びさせている。それなりの術士なら、気取られないよう隠せるけど、それでも魔力を体に纏っていることに変わりはない。だから、素手だろうと攻性防壁に攻撃した場合、結局魔術で攻撃したことと変わりはなく、反撃を受けるハメになる」
「それなら、あまり問題はないんじゃないか? 人から殴られるなんて状況、そうそうないんだし」
祐真の脳裏に、古里の姿がよぎった。あいつのような人間は例外だろう。それに、もう連中は手出ししてこないだろうし。
つまるところ、花蓮への対策は、もう充分な水域に達しているのではないのか。少なくとも、向こうの攻撃に対しては、すでに無敵なのだ。
しかし、リコは認めなかった。
「そう言い切れないのが、人間の魔術士や退魔士との戦いさ。特に推進派はどんな手を使ってくるかわからない。だから、リスクは承知で、肉体強化の魔術も一緒にかけておくよ」
祐真は釈然としなかったが、それでも頷いた。警戒し過ぎな気もするが、リコのアドバイスには従っておいたほうがいいだろう。
祐真は冷めたお茶を飲み干し、部屋のほうへ目を向ける。テレビの近くに飾ってある美少女フィギュアたちが、祐真を女神のように見守っていた。
祐真がリコに視線を戻すと、リコは、静かに話し始めた。
「だから祐真。気をつけて欲しい。くれぐれも花蓮にアプローチを行っては駄目だ。最初に説明した通り、花蓮に宣戦布告を行ったあと、彼女は何らかのアクションを取ってくる。それに反応してはいけない。耐え抜くんだ。そうすれば、花蓮は必ず魔術を行使してくる。そうなったらこちらの勝ちだ」
リコは、まっすぐにこちらへまなざしを向ける。
祐真は首肯した。
祐真を殴った手を擦る裏塚を見下ろしながら、祐真は自身が窮地に立ったことを自覚した。
今まさにこの状況が、花蓮の目論見通りの展開だった。多分、先ほどの裏塚の殴打により、リコが施した攻性防壁は消えてしまったに違いない。幸い、もう一つの魔術『コルプス・フォース』のお陰で、肉体的ダメージは全くなかったが。
「てめえ、武道か何かやっているな?」
裏塚は、右手を押さえながら立ち上がった。どうやら、この男は、祐真の先ほどの魔術による防御を、武道の技術によるものだと見做したらしい。
裏塚は、怨嗟の表情を浮かべていた。自分のストレートパンチが通じなかった怯えよりも、屈辱のほうが勝ったようである。どうしても祐真が気に食わないようだ。
元より、祐真はカースト下位のオタク。自分よりも格下と思っている相手に、ボクシング部である自身のパンチが通じなかったのだ。怒りに満ちて当然なのだろう。
裏塚は、こちらへ踊りかかった。再度祐真を殴り倒す腹積もりらしい。
当初は避けようと思っていた。だが、祐真はつい反射的に動いてしまう。
祐真は裏塚の拳を寸前で振り払った。魔術による力が強すぎて、裏塚の拳が腕ごと大きく弾かれる。
裏塚はもんどり打って倒れた。そばにあった椅子が、派手な音を立てて転がる。見物していたクラスメイトたちの中から、ざわめきの声があがった。
祐真は目を瞑りたくなった。つい勢い余ってしまった。面倒なことになりそうだ。こんな大勢の前で、魔術の要素を見せてしまっては、ペナルティの危険さえある。
そして、それ以上に――。
花蓮に視線を向ける。彼女は、なおも食い入るようにこちらを見つめていたが、祐真と目が合うと、まるで勝ち誇ったかのように笑みを浮かべた。
下方から声が聞こえる。
「お前、なんなんだよ……」
床に倒れていた裏塚が、情けない声を出す。すでに戦意は消失しているようだ。花蓮によいところを見せる、という彼の目論みは脆くも崩れ去ったことになる。もっとも、花蓮の目的を知っていれば、どの道叶わぬ夢だっただろうが。
チャイムが鳴った。今日最後の授業が始まる。
裏塚は立ち上がり、逃げるようにして、自分の席へ戻っていった。
花蓮の様子をうかがうと、彼女は泣き顔を擦りながら、席に着席していた。どうやら教師には伝えるつもりがないらしい。策略の一部なのか、これ以上騒ぎ立てる考えはないようだ。周りにもそう説明したようで、花蓮を慰めていた連中も、席に着いていた。
教室に教師が入ってきて、今日最後の授業が始まる。
祐真は上の空で授業を聞いていた。時折、周りからの視線が槍のように突き刺さってくるのを感じる。当然だろう。暴行犯扱いに加え、ボクシング部の男相手に、大立ち回りをしたのだから。
祐真は頭を抱えたくなった。このままでは不味いと思う。リコが施した攻性防壁が消失し、魔術に対して無防備になったのだ。それだけではない。コルプス・フォート、つまりは肉体強化の魔術を身に纏っていることすら、花蓮に知られてしまったのだ。
すでに、圧倒的不利な立場に立たされたと判断していいだろう。
この時点で、祐真たちの策のほとんどが、破綻してしまっているのだ。
なんて愚かだと思う。祐真がのうのうと花蓮にアプローチをしたがために。再三に渡るリコの忠告も無視する形となった。
だが、まだ詰んではいないはずだ。今のところ、花蓮からの直接的な攻撃はない。学校が終わったら、すぐにアパートへと帰り、リコに状況報告を行えば、彼が何か対策を講じてくれるはずだ。
とにかく、すぐに逃げないと。
今日最後の授業は、テレビの中の出来事ように進行した。逼迫した状況下のせいで、ほとんど頭に入ってくることはなかった。
やがてチャイムが鳴り、授業も終了する。短い休憩時間が訪れるが、先ほどの裏塚の一件のせいだろうか、誰も話しかけてこなかった。
祐真はそこで、リコにLINEを送った。内容は喫緊の用ができたため、すぐに帰宅する、という旨だ。そして、少しだけ考え、もう一通、メッセージを送る。
それから担任教師が教室に入ってきて、SHRが開始された。
単印教師による連絡事項が言い渡され、同時に中間テストの話も行われる。すっかり忘れていたが、もうそんな時期らしい。
それも終わりを迎え、クラス委員の掛け声による、帰りの挨拶が行われた。これにて、今日の日程は全て終了である。
祐真は通学鞄を手に取ると、急いで席を離れた。足早に戸口へ向かう。少しでも早く、アパートに戻らなければ。戻って、リコへと報告だ。それに、花蓮と同じ空間にいることすらもう危険だった。
やはりというべきか、裏塚の件で皆恐れているらしく、教室を出ようとする祐真を咎める者はいなかった。視線は感じるものの、話しかけてくる人間は皆無である。花蓮も、今のところ、何も動きはない。
祐真は、教室を出て廊下へ足を踏み入れる。無論、誰も追ってはこなかった。星斗や彩香も着いてくる真似はしないようだ。
祐真は廊下を進み、他の生徒と共に、下駄箱を通過した。
今周りにいる連中は、おそらく皆が帰宅部なのだろう。祐真と同様、部活動にも、自習にも興味を持たない自堕落な生徒たち。今はむしろ、仲間がいるようでありがたかった。
祐真は校舎を出て、校門を通り抜ける。祐真は横目で、チラリと喜屋高校の白い校舎を確認する。
予想外にも、障害なく学校を出ることができた。花蓮は追ってくることも、姿を見せることもなかった。どういうわけか、こちらに手出しをするつもりはないらしい。どうしてだろう。すぐでも攻撃を仕掛けてくると予想していたが。
もしかすると、罠に掛かったという懸念は祐真の思い過ごしかもしれない。そもそも、花蓮は祐真が攻性防壁を張っていることすら察知しておらず、倉庫での一件は、ただ祐真の立場を悪くするための作戦だった――。
それならば、嬉しい誤算だ。このままアパートへ戻って、リコと作戦を練り直そう。
遠ざかる学校を背に、祐真がほっと胸を撫で下ろした時だった。
視界が一瞬陰った。電灯が消えたかのような感じだ。かと思うと、全身が硬直した。体が、電撃を受けた直後のように、痺れる。
祐真は前のめりに倒れた。幸い、かろうじて腕は動いたので、顔面をガードし、地面に打ち付けることは防げたが、もうその時にはすでに腕すら硬直していた。
何が起きた? まるで全身が麻痺をしたみたいだ。
祐真はあえぐようにして、倒れたまま、見える範囲で周囲を確認する。
そこで息を飲む。周りで下校中の他の生徒たちは、まるで祐真が目に入っていないかのように、何事もなく歩いていた。生徒だけではない。買い物途中の主婦と思しき女性や、下校中の小学生なども、同じようにアスファルトに倒れている祐真など目もくれなかった。
この光景は、記憶にある。類似の現象を前にも経験した。魔道書探索の際、木更津で花蓮と邂逅した時の出来事――。
『認識阻害』。確か、そのような名前の魔術だった気がする。周囲の人間に、自分たちの姿や行動を認識されなくする魔術。
それに、現在、祐真の身体を襲っている麻痺のような現象。これももしかして……。
「ごめんね。先回りして、術を張っちゃった。もう攻性防壁は解除されたみたいだし」
頭上から声がする。もはや首すら動かせなかったが、姿を確認しなくても誰なのかわかった。
やはりこの麻痺も花蓮の魔術によるものらしい。彼女はこちらの策を見抜き、攻性防壁を強引な方法で解除させ、こうして魔術による罠を張っていたのだ。
「だけど、随分と迂闊だったわね。あんな簡単な誘導に引っかかるなんて。匂いでかけていた魔術が攻性防壁と気づいたけど、こうも簡単に事が進むなんて思わなかったわ」
花蓮は愉快そうに言う。それから言葉を続けた。
「もしも、祐真君があっさり罠に掛からなかったら、多分私は我慢できずに、あなたを攻撃していたと思うわ。迂闊な祐真君に感謝だね」
祐真は己を心底呪った。リコのアドバイスに従い、待ってさえいれば、こちらが勝っていたのだ。
祐真は何か言おうと口を開くが、池の鯉のように、パクパクと喘ぐばかりだった。麻痺は祐真の言葉さえ奪っていた。
その様子を見ていた花蓮は、勝ち誇ったように、両の手を叩くとニッコリと笑う。
「それじゃあ、祐真君。あなたを使わせてもらうわね。淫魔駆除のための駒として」
花蓮がこちらに手を伸ばすと同時に、祐真の意識は遠のいた。
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