第八章 提案

 転校生である風川花蓮は、すぐさまクラス中の人気者となった。SHRが終わるなり、たちまちクラスメイトに囲まれ、質問責めに合う。


 花蓮はお淑やかに微笑みながら、クラスメイトたちの質問に一つ一つ丁寧に答えていた。


 その光景を祐真は、星斗や直也らと共に、遠巻きに眺めていた。


 「いいなー皆。話ができて」


 輪に入るきっかけを失した星斗は、頭の後ろで手を組み、口を尖らせる。


 「仕方ないよ。俺らみたいな地味な男子は、お近づきにもなれないさ」


 直也が諦めたような口調でそう言う。二人共、美少女転校生と関われず、SHR前の興奮はどこかに飛んでいってしまったようだ。今は、告白に失敗した時のように、テンションががた落ちである。


 「だけど本当に可愛い人だなー」


 星斗は、キラキラと愛想を振り撒く花蓮の横顔を見ながら、ため息をついた。


 「そうだね。性格も良さそうだし」


 直也が同意する。二人共、すっかり花蓮に惚れてしまっているようだ。


 祐真は、その二人の会話に入る余裕がなかった。大きな動揺があったからだ。


 なぜ、彼女がこのクラスに転校を? 偶然? そんなわけがない。昨日今日の話だ。確実に狙いは自分である。


 祐真は、クラスメイトたちと談笑する花蓮を見つめる。今のところ、こちらに接触しようとする気配はないが、時間の問題だろう。いずれ必ず、何かしらのアクションを取ってくるはずだ。


 その時が訪れるのが恐ろしかった。わざわざ転校までしてきて、祐真と接触しようとするのなら、それなりの用があるだろう。祐真にとっては、リスクしかない展開である。


 「祐真も惚れちゃった?」


 直也が、二重の目を瞬かせながら、こちらの顔をのぞき込んでくる。花蓮を見つめていたことに対し、誤解したようだ。


 「そんなんじゃないよ」


 祐真は手を振って否定する。


 違うんだよ皆。騙されないで。あの女はとても危険な奴なんだ。ナンパしてきた男たちを魔術で加害する退魔士なんだよ。もしかすると、あの二人は死んでしまったかもしれない。


 それだけじゃない。リコを殺すために、こうして俺のクラスにまで転校してきたハンターなんだ!


 心の声が、喉元まで出そうになる。皆に、警告したかった。花蓮が、普通の人間ではないことについて。


 もちろん、そんな真似をするわけにはいかない。やったら最後、即座に『ペナルティ』が課せられることだろう。自殺行為に等しい所業だ。


 今現在、祐真ができることといえば、静観し、その時が訪れるのを覚悟すること以外なかった。





 昼になると、花蓮の話題は学校中に広まった。アイドルのように可愛い転校生がやってきたのだ。皆が興味を惹かれるのは当然といえた。


 昼休みには、他クラスの生徒や、上級生、下級生の生徒たちが、花蓮を一目見ようと押しかけてくる。


 教室の廊下には、人だかりができ、トラブルでも発生したかのように、騒々しい様相を呈していた。


 渦中の花蓮は、そのような中にいても決して動じることなく、晴れやかに対応を行っている。まるで人のあしらい方を熟知している芸能人のようだ。


 祐真たちは、相変わらず遠巻きに様子を眺めているだけだった。星斗や直哉も、花蓮に強く興味を惹かれているものの、自ら関わっていくことには尻込みしているようだ。


 やはり所詮、自分たちは『陰キャグループ』の一員に過ぎないと、認識するシチュエーションである。


 もっとも、今の祐真にとっては、そのほうがありがたいのだが。このまま一切関わりを持たず、学校生活を送ることができれば、文句の付けようもない。


 そして、当然ながらそう問屋が卸さないのは、自明の理であることも祐真は認識していた。


 その時がやってくる。


 五時限目の休み時間。相も変わらずクラスメイトたちに囲まれていた花蓮は、ふいに席を立つと、こちらに向かって歩いてくる。


 「風川さんどうしたの?」


 今日一日ですっかり花蓮の取り巻きになった女子の一人が、背後からそう声をかけた。だが、花蓮は耳を貸すことなく、そのままこちらへ向かってくる。同時に、祐真の中にあった不安が、増大していく。


 花蓮の思いがけない行動に、教室中の視線が集まっていた。廊下で花蓮を見にきていた他のクラスの生徒たちも、どうしたのだろう、という不思議な顔で、花蓮の姿を目で追っている。


 「お……」


 花蓮が近づいてくると、隣にいる星斗と直也が緊張し始めたことが、手に取るようにわかった。


 やがて、花蓮は祐真の目の前に立つ。


 「羽月君、ちょっと話いいかな?」


 花蓮はミディアムヘアの髪をかき上げながら、そう言った。


 星斗と直也が、驚いた顔で、こちらを見つめる。教室中の視線が、祐真に注がれた。


 やはりきたか。祐真は唾を飲み込む。本当に厄介なことになりそうだ。どうしても断りたかった。


 祐真は答える。



 「……もしも、拒否したら?」

 静まり返った教室に、祐真のかすれた声が広がった。周囲の人間のほとんどが、こちらの言葉を聞いているはずだ。


 「無理矢理にでも一緒にきてもらうわ」


 花蓮は、きっぱりと言い切った。


 すぐに、教室のあちらこちらから、ざわめきが聞こえ始めた。皆、困惑と、好奇心が入り混じった表情をしている。


 学校中の話題となっている美少女転校生が、一人の地味な男子生徒に話しかけたことが、相当不思議に映るのだろう。しかも、どこかお互いの関係性をうかがわせる内容であるため、なおさら興味が惹かれるようだ。


 「なあ、なんで風川さんがお前に話しかけてんだよ。どうなってんだ?」


 星斗が祐真の袖を引っ張った。当事者でもないのに、とても混乱している様子だ。


 「……」


 祐真は答えられない。説明のしようがないのだ。そして、どうやってこの状況を切り抜けようかと頭を抱えたくなる。大人しく従い、ホイホイと話に付き合うのならば、『ペナルティ』のリスクが増えるだけだろう。


 祐真が言葉を失っていると、花蓮がこちらを見下ろしながら、冷静な口調で言う。


 「色々思うところはあるかもしれないけど、とにかくお話をしようよ」


 花蓮は、お姫様をエスコートする王子様のごとく、手を差し出す。周囲のクラスメイトたちから声が漏れた。


 祐真は花蓮の華奢な手を見つめながら、悩む。どうするべきか。このままでは埒は明かない。かといって従うのも避けたかった。


 すると、隣にいた星斗が肘でこちらの脇腹を小突いた。


 「なにぼーっとしてんだ。風川さんが誘ってんだぞ」


 祐真は周りを見渡した。クラス中の視線が、自分に突き刺さっている。その中には彩香もいた。


 一切女と縁がなさそうな、地味な男子と、それに関わろうとする美少女。あり得ない組み合わせが、どうしても注目の対象となるのだ。


 祐真は一気に、居心地の悪さを感じた。全員から銃でも突きつけられているような錯覚を覚える。今、自分はこのクラスの中で、格好の興味の的となっているのだ。


 祐真は花蓮の手を取ることなく、勢いよく立ち上がった。隣にいる直也が身を引く。


 「わかった。いくよ」


 花蓮はにっこりと、向日葵のような笑顔を作った。




 そのあと、祐真と花蓮は一緒になって、教室を出た。身体中に、クラスメイトたちの視線を感じながら。廊下に出ても、それは同じだった。廊下にたむろしていた他クラスの生徒たちも、どこかに向かおうとしている祐真たち二人を興味深そうに眺めている。


 「こっちよ」


 花蓮は、祐真を促す。祐真は周囲の視線を遮断するように、少しだけ顔を伏せて花蓮の背後に付き従った。


 少し歩くと、視線は途絶えた。さすがにあとを追ってくるような真似をする生徒はいないらしかった。


 「どこまでいくんだ?」


 祐真が前を歩く花蓮の背中に尋ねると、花蓮はチラリと振り返った。


 「屋上」


 しばらく時間が経ち、二人は屋上の扉を開けた。秋の少し乾いた風が、肌を撫でる。


 太陽が全身を包み、祐真は目を瞬かせた。花蓮は何も言うことなく、屋上の端まで歩く。祐真はあとに続いた。ふと、最近よく屋上に用があるなと思う。


 花蓮は屋上の縁に張り巡らせてある緑色のフェンスまで近づくと、大きく深呼吸を行った。


 「あー、息苦しかった。思春期の高校生たち特有のリビドーにまみれた匂い、閉口しちゃう」


 花蓮は、限界まで水中に潜って出てきた時のように、開放感溢れる声でそう言い、身体中を手で払った。


 祐真は質問する。


 「なあ、お前の本当の年齢って、いくつなんだ?」


 外見的には、高校生に見える。そのため制服姿も全く違和感がない。むしろ、小柄で華奢な点を鑑みると、見る人によっては中学生でも通用するかもしれなかった。


 花蓮は悪戯をした子供のように、口角を上げ、人差し指を唇に当てた。


 「秘密。女の子に年齢を聞くもんじゃないよ」


 祐真はため息をついた。まあいい。こいつの年齢を知ったところで、大して意味はないだろう。実際、高校生より上なのは、間違いないはずだし。転校してこれたのも、退魔士としての権力か魔術を使っただけのはずだ。こちらが気にする部分ではない。


 大切なのは、ここからだ。


 祐真は無言になる。花蓮も流れを察したのか、真剣な表情に変わった。

 一陣の風が、二人の間を通り抜ける。


 花蓮は口を開いた。


 「前にも言ったけど、あなたが淫魔と繋がりがあることはわかっているの」


 祐真は身構えた。やはり、狙いはそこか。頭の中に、『ペナルティ』の文字が明滅する。


 花蓮は、教師が授業するように、ゆっくりと説明を始める。


 「前に、この高校で起きた集団酸欠事故があったでしょ? それを手掛かりに学校を調べて、あなたが淫魔と関わりがあることを掴んだの。そして、退魔士のネットワークを利用してあなたを調査した」


 花蓮は、自身のミディアムヘアをかき上げる。


 「けれど、あなたの所在は把握できなかった。そこで、私はさらに確信を持ったわ。淫魔が情報統制をしているに違いないって。そして、予め覚えておいたあなたの『匂い』を元に、駅を張って、一昨日、あなたを特定して、尾行したってわけ」


 なるほどと思う。リコの予測はほとんど的中していたようだ。理解できない説明もいくつかあるが。


 花蓮はリコの予防線のせいで、詳細までは特定できておらず、駅を張っていたのだ。それに、祐真は容易く引っ掛かったらしい。


 祐真は無言のままだった。言葉が思い浮かばなかった。


 さらに花蓮のターンが続く。


 「だけどね、おかしいことばかりなんだ」


 花蓮はそう言うと、体の向きを変え、目の前にあるフェンスの金網部分を掴んだ。ここからは、運動場がよく見える。


 「私はてっきり、あなたがサキュバスを召喚して、毎日性欲の限りを尽くしていると思ってたわ。でも前回あなたと会って、わかったの。あなたからはサキュバスの臭いがしない。サキュバスを毎日抱いているのなら、色濃く臭いが残るはずだから」


 花蓮は、刺すような鋭い眼差しをこちらに向けた。


 祐真は唾を飲み込み、訊く。


 「前から訊きたかったけど、お前がよく言うその『匂い』だとかって一体、なんだ?」


 花蓮は腕を組んで、悩ましげな顔をした。


 「うーん、いわゆる私の『能力』ってやつかな。固有能力?」


 はっきりとは理解できないが、おそらく退魔士や魔術士だからこそ身に付けている力に違いない。そして、性質から察するに、猟犬のように『匂い』を嗅ぎ分ける力があるようだ。


 花蓮は一度息を吐くと、言葉を継いだ。


 「……とにかく、私はあなたがサキュバスを召喚していないとわかった。なら、インキュバスを召喚したのかもと思ったけど、それもなんだか妙なのよね」


 話が次第に、核心を突いていくの感じた。やはり、けっこう厄介な相手だ。


 「結局、サキュバスを召喚しようと、インキュバスを召喚しようと精を吸われるのは同じだから、臭いは感じ取れる」


 花蓮はこちらに一歩近づいた。


 「だけど、あなたからは一切、そんな臭いはしなかった。けど、インキュバスの臭いは微かに感じる。ねえ、どういうこと?」


 花蓮はこちらを見据えた。太陽が瞳に反射し、ギラギラと獲物を前にした獣のように輝く。


 祐真は身体を強張らせる。どうしようかと考えた。言い逃れできるだろうか。それとも黙秘を続けたほうがいいか。


 少しだけ、時間が過ぎる。押し黙ったままの祐真を花蓮は見つめていた。


 やがて花蓮は諭すように言う。


 「ペナルティのことを危惧しているのなら、その必要はないわ」


 「なぜ?」


 花蓮はすぐには答えず、空を一度見上げた。つられて、祐真も空を見る。雲ひとつない清涼とした青い空間に、大きな鳥が飛んでいた。鳶だろうか。この辺りは多いのだ。


 「ねえ、祐真君」


 祐真が顔を戻すと、花蓮はフェンス越しに運動場を見下ろしていた。


 花蓮はこちらを見ないまま、話を続ける。


 「淫魔の存在ってさ、邪悪だと思わない?」


 「邪悪? どういうこと?」


 「あいつらって、人間を性の対象としてしか見ていないのよ。頭の先から足の先まで、醜い肉欲で彩られている存在」


 唐突に何を言い出すのか、と思ったが、祐真は少し考える。


 確かに、花蓮の主張は同意する部分あった。『ペナルティ』の内容を聞けば、自ずと感じてしまうだろう。人間を性処理の道具と化するのだから。


 そして、アネスやユーリーも多分に漏れない。祐真を陵辱しようとしたり、手篭めにしようとしてきた奴らだ。その時の恐怖や不安を忘れてはいなかった。


 そしてリコ――。あいつは……。



 祐真は質問する。

 「お前が淫魔を狩る理由が、それなのか?」


 花蓮はこちらに顔を向け、当然と言わんばかりに頷いた。


 「そうよ。性欲の権化たる淫魔が、この世界に存在することに私は耐えられない。性欲なんて醜悪で汚らわしい欲望、持っているほうがおかしいもん」


 少し、話が妙な方向へ進んできている気がした。祐真は論駁する。


 「……でも性欲なんて人間にもあるだろ。お前にだってさ」


 祐真がそう言った途端だ。それまで、平静であった花蓮の様相が、一変した。


 「はあ? なに言ってんの? 私に性欲なんてあるわけないじゃない。下等動物じゃないんだから。変な言い掛かりは止めなさい」


 花蓮は声を上げて、激しく激昂する。唾の飛沫が飛ぶ様が見て取れた。


 どうやら失言だったようだ。だが、それでも祐真は言う。怯んでいては相手のペースに飲まれてしまうだろう。


 「お前がそうでも、世の男は性欲まみれだぞ。インキュバスほどじゃないにしろ。それはいいのか」


 花蓮ほどの美貌なら、いくらでも男は寄ってくるはずだ。あの時、ナンパしてきた男たちのように。その辺りは、どう対処しているのだろうか。


 花蓮は薄く笑った。


 「いいわけないわ。もちろん、性欲むき出しの男なんて決して認めない。特に、その性欲を私に向けた場合、徹底して罰を与える。まさに『ペナルティ』ね」


 花蓮を口説こうとした二人の男たちが、黒い大きな蛇に飲み込まれる光景が脳裏に蘇る。


 「あの男たちはどうなったんだ? 殺したのか?」


 花蓮は両手を広げ、肩を上げた。


 「さあ。性欲の匂いを振り撒く男共のことなんて忘れたわ」


 どうにも、花蓮は性的なものに対し、強い忌避感を持っているようだ。それも相当、常軌を逸したレベルで。淫魔を敵視する理由も、退魔士だからというよりかは、そういった自身の性質が起因となっているのだろう。


 花蓮は、まっすぐこちらを見つめた。


 「それで話を戻すわね。あなたが『ペナルティ』のことを危惧しているのはすぐに理解できた。当然よね。淫魔の存在が発覚したら性奴隷だもの」


 花蓮は、こちらに歩み寄ってくる。


 「そこで相談」


 「相談?」


 「ええ」


 花蓮は目の前までやってきた。そして、ぐっと顔をこちらに近づける。花蓮のほうが背が低いので、自然に見下ろす形となった。


 なんだか、甘い香りが鼻腔をつく。少しだけ、胸の鼓動が高鳴る。


 花蓮は、祐真を呼び出した目的の核心部分に触れた。


 「祐真君。あなたが召喚した淫魔を私が殺してあげるわ。だから、こちら側に付きなさい」





 花蓮の提案に、祐真は面食らう。


 「そっちに付くって、具体的には何をすればいいの?」


 「あなたが持っている情報を全て渡せばいいわ。あとは、必要な時に動いてもらう」


 「……」


 祐真は答えに窮した。 


 花蓮は諭すように説明を行う。


 「さっきも言ったけど、あなたが『ペナルティ』を危惧している事実はわかっている。そして、それは淫魔が存在する以上、決して逃れられないわ。『召喚還し』するか召喚主、もしくは淫魔が死なない限りね。でも『召喚還し』はとても難しい方法。だって、極希少な魔道書を手に入れないといけないから」


 祐真は、無言で花蓮を見つめ返した。今のところ、彼女が言っていることは事実であった。


 花蓮は話を続ける。


 「祐真君から精を吸われている臭いがしないことの理由はわからないわ。けれど、それを含めてあなたの反応を見ると、召喚した淫魔に対して特別に感情を抱いているとは感じないのよ」


 花蓮は祐真から離れ、腰の後ろで手を組んだ。


 「だから、さっきの提案に戻るわけ。祐真君が召喚した淫魔を私が殺してあげるわ。あなたの協力があれば、それは容易い。結果、あなたが『ペナルティ』の被害を被る心配もなくなるし、平穏無事な人生が戻ってくる。これは祐真君にとっても有益な提案じゃない?」


 花蓮は天真爛漫な笑顔を向けた。


 祐真は俯いて、しばし黙考する。


 確かに、彼女の提案は祐真にとって、渡りに船だろう。もしも、リコが死んだ場合、『ペナルティ』に纏わるリスクは消滅する。それに、毎日のように行われるリコからのセクハラに対し、辟易しなくて済むのだ。


 まさに本望である。ここ数ヶ月、祐真を悩まし続けた憂患が一気に解消されるのだ。本来なら一も二もなく、賛同するべき事柄であろう。


 リコは強い。ユーリーとの戦いで判明した事実だ。殺すなら軍隊くらいは動員しなければならないかもしれない。花蓮も魔術が使え、強いかもしれないが、どれほど対抗できるかは不安が残る。


 しかし、彼女が述べたとおり、祐真が協力すれば、リコを刺すのは容易だろう。つまり、今こそが、花蓮にとっても、祐真にとっても淫魔の首を取れる千載一遇のチャンスであるということだ。


 そして、彼女がこういった『取引』を持ち掛ける理由の背景には、リコの情報を一切得られていない証でもあった。花蓮がいまだに祐真が召喚した相手を『淫魔』と呼称している以上、召喚対象がインキュバスかサキュバスかの区別すら付いていないのだ。おそらく、焦りもあると思われた。


 だが、祐真は彼女の提案を受け入れる気が起きなかった。なぜだろう。望む世界が訪れるチャンスが目の前に到来したはずなのに。


 腰が引けている祐真の様子を見て、花蓮は首を捻った。


 「どうしたの? 悩むほどのことじゃないと思うけど。相手は邪な欲望を抱く魔のモノなんだよ。絶対に駆除しなきゃ」


 祐真の脳裏に、リコの姿が思い起こされる。


 毎日、祐真の食事を作るために台所に立つ後ろ姿。古里たちから恐喝を受けた際、本気で心配をしてくれた目。ユーリー、彩香ペアが仕組んだ『全世界BL化計画』の時の彼のナイトのような勇姿。


 祐真にとっては不本意とはいえ、リコは常に自分を助けてくれていた。リコが祐真へと向ける感情は、紛れもなく本物であろう。


 その時、授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。とても長い休み時間に感じた。


 祐真は花蓮に言う。


 「少しだけ考えさせてくれ」


 花蓮は不敵な笑みを浮かべて頷く。


 「わかったわ。来週まで待ってあげる。ただし、これだけは覚えておいて。あなたが淫魔側に付くのなら、私を敵に回すということを」


 花蓮は脅すように、宣言した。





 そのあと、二人は教室へと戻った。幸い、まだ教師はきていなかったが、クラスメイトたちは皆、席に着いていた。


 そのため、扉を開けるなり全員の視線を浴びる結果となった。


 何の接点もなさそうな美少女転校生と、オタクの男子。二人は突如教室から出ていき、チャイムが鳴ってから戻ってきた。何をしていたのだろう。二人に向けられる視線には、強い好奇と羨望の感情が込められている。


 授業が始まってからも、周囲の視線を強く感じた。まるで悪いことでもやったみたいだ。


 だが、祐真はさほど気にならなかった。花蓮の提案について、頭が一杯だったからだ。お陰で授業も上の空である。


 そのような状態のまま、六時限目が終わりを迎え、今日全ての授業が終了した。

 SHRまでの短い休み時間が訪れる。


 その隙を狙って、星斗や直也が花蓮との関係性について訊きにきた。二人だけではない。普段は祐真に興味すら示さない男子も、事情が知りたいらしく、席までやってくる。


 「なんであんな可愛い子がお前に話しかけたんだよ」


 「風川さんとどんな関係?」


 「さっきどこに行ってたの?」


 驟雨のごとく浴びせられる質問に、祐真は一切答えなかった。やはり説明なんてできないし、花蓮の提案の件でそれどころじゃなかった。


 クラスメイトたちはしばらく問いかけていたが、祐真が無反応を貫くと、やがて悪態をつきながら三々五々、席を離れていった。


 そして、SHRも終わり、放課後になる。なおも事情を聞きたそうにしている星斗たちを放っておいて、祐真は即座に教室を出た。


 足早に学校をあとにする。だが、すぐに帰路に着く気分にはなれなかった。胸の中にわだかまりがあった。これを解消しない限りは、部屋へは戻れない。おそらく、リコはすぐに察するはずだ。


 祐真はアパートがある方面へは向かわず、大貫地区にある公園へと立ち寄った。


 祐真はあてもなく、公園内をぶらつく。園内は結構広く、ブランコなどの遊具や、健康器具などが複数設置されてあった。それらを、小学生や老人たちなどが利用している。


 祐真はできる限り、人がいない場所を探し、一つのベンチに座った。そして、スマートフォンを取り出し、チェックする。


 星斗からラインが届いていたが、祐真は無視をした。おそらく、花蓮に関する質問だろう。答える義務はない。


 祐真はスマートフォンをポケットに戻し、足を組んで思案にふける。


 目の前を、花蓮が発した言葉が文字となって、幻想のように渦巻いていた。


 『あなたが召喚した淫魔を私が殺してあげる。だからこちら側に付きなさい』


 彼女は、確かにそう言った。そして、その提案に自分は即答することができなかった。結果的に自分が望む環境が戻るというのに。


 その根源が、自分にもわからなかった。なぜ、自分は迷ったのか。


 祐真は、ぼんやりと公園内の光景を眺めた。小学生たちがはしゃいで騒ぐ声が、ここまで聞こえてくる。


 何の変哲もない、日常の風景。自分が直面している非現実的な悩みと、ひどく乖離している気がした。


 祐真は顎に手を当て、俯く。もしも、リコが死ねば、そのさながら漫画やアニメの世界のような、おとぎ話の出来事とは無縁となるのだ。


 しかし、その世界を想像してみても、心が躍ることはなかった。なぜだろう。俺はリコが邪魔者だと思っているのに……。


 そこで、祐真はふと目の前に誰かが立っていることに気がついた。思考に集中していたせいだろう、全く察知できなかった。


 顔を上げて、人物を確かめてみる。祐真はあっと声を上げそうになった。


 目の前に立っていたのは、彩香だった。


 彩香は、腰に手を当て、膨れっ面をしていた。


 「もう、すぐに教室を出て行くんだから、探すのに苦労したよ」


 彩香は咎める声を出す。


 「何の用?」


 祐真は彩香を見上げながら訊く。『全世界BL化計画』を阻止して以降、彩香と話をするのははじめてであった。


 「風川さんについて。あの人と何かあったでしょ? もしかして、彼女、魔術関係者?」


 「……」


 祐真は口をつぐむ。彩香の質問は的を射ていた。やはり勘が鋭いと思う。とはいえ、彩香は祐真の背後関係をほとんど知っているため、帰結としては推察し得るものではあるが。


 「座っていい?」


 彩香は祐真の隣の空間を指差した。祐真は逡巡する。今は誰とも話したい気分ではなかった。しかし、このまま一人で抱え込んでいても、解決しないことは明白だ。


 祐真は不承不承、頷く。彩香はスカートを整えると、祐真の隣に腰掛けた。


 すぐに彩香は核心に触れる。


 「風川さん、祐真君になんて言ったの?」


 ショートカットの下にある彩香の清楚な顔が、心配そうに形作られている。元々、彩香は保母さんのような面倒見の良い女の子なのだ。本気でこちらのことを案じているのだろう。BLのことさえ抜きにすれば、善人の部類である。


 祐真は、本当のことを伝えるかどうか一瞬迷ったが、結局、彩香が唯一無二の相談相手なのだと思い、話すことにした。


 経緯を聞いた彩香は、眉根を寄せた。


 「やっかいな相手が現れたものね」


 ついこの間まで、自分がその対象であったことなど忘れたかのように、彩香は呟いた。


 彩香にとって『全世界BL化計画』は、元々悪行だとは認識していない証左でもあった。


 祐真はふと疑問に思う。


 「そういえば、ユーリーはどうしているの?」


 彩香は、以前、ユーリーとアパートで同居していると語っていた。自分を狙っていたインキュバスのことなど思い出したくもないが、所在は把握しておいたほうがいいだろう。


 「ユーリーは今はいないよ。ちょっと前から遠征」


 「遠征?」


 彩香は頷く。黒いショートカットの髪が若草のように揺れた。


 「そう遠征。リコさんから受けた傷を癒すために、男の人を漁りに遠くに行っているよ」


 「……」


 ユーリーは、リコと違って人間から精を吸わなければならない。そうしないと、栄養を得られないし、魔力も尽きてしまうのだ。そして、ユーリーはゲイのインキュバス。精を吸う対象は男に限られる。


 リコから受けた傷を癒す目的での遠征ならば、転地療養といったところか。


 それから、祐真は彩香の話を聞き、一つだけ納得するものがあった。


 花蓮の件についてだ。彼女は、祐真が淫魔との接点があることを即座に見抜いてきた。にも関わらず、似たような環境にいるはずの彩香については、何も察せられなかった。


 それは、現在、彩香の身近に淫魔や魔術の類が存在していないからなのだ。


 「それで、羽月君はどうしたいの?」


 彩香は話を戻す。考え込んでいた祐真は、はっと我に返った。


 「自分でもわからないんだ。確かに、リコを『召喚還し』して元の日常の戻ることが、俺の目的なんだけど……」


 それは、リコが死んでも叶えられる。祐真が協力すれば、花蓮が手を下してくれるのだ。


 だが、二の足を踏んでしまう自分がいた。


 「なんで応じなかったのか、自分でもよくわからないんだ。『ペナルティ』の危険も理解しているのに」


 話を聞いていた彩香は、腕を組んだ。ブレザー越しに、胸が強調される。


 「祐真君がペナルティを危惧する気持ちはすっごいよくわかるよ、私だって、嫌だもん。淫魔相手の性欲処理人形になるんだよ。地獄そのものだよね」


 彩香は寒さに凍えるように、腕を擦った。そして、なぜか、神妙な表情になる。


 「でも、祐真君のパターンみたいに、男の人がインキュバスたちに捕まって、性の玩具にされるのは、ものすごくいいシーンかも。結局、全てを諦めて、何もかも受け入れる展開は、BLとしてはありがちだけど、相手の人数がとても多いなら……」


 彩香は、受験勉強の問題に頭を悩ませるかのごとく、真剣に独り言を呟いていた。祐真は、呆れ返る。また性懲りもなく、この女子は……。


 祐真の怪訝な顔が目に入ったのだろう、彩香は我に返ったように咳払いを一つすると、人差し指を立てた。


 「とにかく、祐真君にとって、一番良い道を選ぶべきだと思うんだ」


 「ということは、リコの情報を全て渡して殺してもらうのがベストってこと?」

 彩香は首を振る。


 「祐真君の環境ではなくて、祐真君の気持ちにとって、一番良い道だよ」


 「それがわからないから、相談してるんだよ」


 彩香は悩ましげに首をかしげた。


 「祐真君は、リコさんと一緒に暮らしていて、楽しくないの?」


 彩香の質問に、祐真は一瞬、言葉に詰まるが、すぐに返答を行う。


 「楽しくなんかないよ。いつも貞操を狙ってくるし、ストレスばっかり」


 「そうなの? 私の目から見る限り、二人は仲良さそうだったけど」


 「そんなことないだろ。誰があんな奴と……」


 祐真はついむきになって反論する。ゲイのインキュバスと仲睦まじげなんて思われたくなかった。俺は、あいつと違って、同性愛者ではないんだぞ。


 彩香は祐真の反応に訝しげな表情をするが、やがて、何かを悟ったかのように、微笑んだ。


 「祐真君、自分の気持ちを素直に信じていないんだね」


 「どういうことだ?」


 彩香は、何も答えず、黙って公園内に目を向けた。祐真も、そちらを眺める。


 相変わらず、小学生が遊具で遊ぶ光景や、老人が歩く姿が目に映る。中学生や、高校生などの学生服姿の人間も、ちらほら増えてきていた。


 祐真はふと思う。今、こうして彩香と二人で話をしている姿は、他の人間からどう見られているのだろうか。


 やがて彩香は答える。


 「風川さんから、返事の時間を貰ったんでしょ? だったら、リコさんとの関係を今一度見つめ直してもいいと思うよ」


 「見つめ直すもなにも、はじめから俺はあいつのことなんか……」


 彩香は遮るようにして言う。


 「あんなことにはなったけど、私はユーリーと暮らしていて幸せだよ。……ねえ、知ってる? ユーリーから聞いたんだけど、召喚って、自分にとって運命の相手が現れるらしいよ。だから、必ず相性が良いんだって」


 近い話をリコから聞いたような気がする。だが、認めたくはなかった。あんなインキュバスが、自分の運命の相手だなんて。


 そもそも、リコを召喚するはめになったのは、祐真が召喚方法を間違えてしまったためだ。本来なら、絶世の美女で、なおかつグラマラス、男の誰もが陶酔するほどの魅力あるサキュバスが召喚され、新婚夫婦のように、情熱的な日々を過ごしていたはずだ。


 彩香が口にした『運命の人』についての駄弁を、祐真は認めるつもりはない。しかし、彼女の提案については、一考する価値があると思った。まがりなりにも、祐真とリコは、召喚主と召喚された淫魔の関係なのだ。多少なりとも縁がある証であろう。


 それに、これまで何度も助けてもらった経験もある。『ペナルティ』のリスクもあるが、リコのお陰で危機を脱した事実は否定できないのだ。


 彩香が言うように、リコとの関係を見つめ直してもいいかもしれない。


 「わかった。ちょっと考えてみるよ」


 祐真は、彩香にそう答えた。




 そのあと、祐真は彩香と別れ、アパートへと直帰した。リコは部屋におり、祐真の帰宅を待ちわびていた。


 「お帰り祐真。少し遅かったね。今日は六時限だろ? 何かあったの?」


 リコはエプロン姿で、心配そうに質問する。


 祐真は返答をせずに、しばしリコを見つめた。リコは怪訝な面持ちになり、首を傾げる。


 「どうしたんだい? 僕の顔に何か付いてる?」


 祐真は目を逸らした。リコとの関係を見つめ直す。まるで恋人か夫婦が直面するような問題だが、彩香が言ったように、現状、自分たちには必要な課題だろう。


 しかし、何と言うべきか。


 こちらの様子がおかしいと気づいたらしく、リコは眉をひそめた。


 「何かあったの? もしかして、例の退魔士の件かい?」


 リコは即座に、正鵠を射た。ずばり事実そのものだ。


 しかし、祐真は、本当のことを伝えるつもりはなかった。退魔士が、リコを排除するために、祐真を引き込もうとしている事実などは。


 少なくとも、今はまだ。


 祐真はリコと向き直った。そして、祐真はリコに提案する。彩香と話をし、導き出した考え。


 「リコ、今度の休みの日、どこかに遊びに行こう」


 リコははじめ、何を言われたのか理解できなかったようだ。水晶のように澄んだ目が、何度か瞬いた。やがて、大きく見開かれる。


 「本当かい? 祐真。まさか君からデートの誘いがくるなんて……」


 リコは感極まったように、咽び泣いた。予想以上のリアクションだ。リコが『デート』だと解釈しているのは少し癪に障るが、これほど大げさだと、かえって祐真のほうが戸惑ってしまう。


 「お、おいちょっと反応凄すぎないか? 遊びに誘っただけだぞ」


 リコは、顔を手で覆いながら、強く首を振った。銀髪が揺れ、水面のように煌く。


 「ううん。祐真が誘ってくれるだけで、僕はこの上もなく幸せだよ。死んでもいいくらい。これはあの時みたいに……」


 リコは、涙混じりに何事か呟く。声が掠れているので、何を言っているのか聞き取れなかったが、心底喜んでいることは伝わってきた。


 祐真は、呆れながらも、つい笑みを零す。それから、ため息をついた。全く、毎度このインキュバスは……。


 「それで、リコ。答えは?」


 リコは顔を上げた。涙で、顔がぐちゃぐちゃだ。


 リコは涙を拭い、はにかむと言った。


 「もちろん、了承さ」


 こうして、次の土曜日、リコとの二度目の『デート』が予定されたのだった。

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