第五章 淫魔術

 リコは、この高校の男子生徒が次々に同性愛へ覚醒していったことを、『感染型』の淫魔術のせいだと説明した。


 『感染型』とは、その名の通り、人を媒介にして、次々と連鎖的に作用が広まっていくタイプの魔術らしい。


 「淫魔術を用いた今回の『感染型魔術』には、二つの感染経路がある。一つは、単純な接触。もう一つは粘膜同士の接触だ。前者の肌が触れ合う程度の接触なら、感染力は低い。けれど、それでも回数を重ねれば、感染してしまう。後者の粘膜同士の場合は一発でアウト。即座に魔術が発動してしまう」


 つまりは、空気感染はしないが、極端に感染力の強いウィルスのような性質を持つということか。


 リコの説明に、祐真は少し不安になる。


 「さっき古里に触られてしまったけど……」


 制服の中の蝙蝠は答えた。


 「心配ないよ。一度や二度の接触なら簡単に感染はしないさ。でも体には残るから、蓄積され続けるとマズイ。一定量を越えると発症してしまうからね。まあ。この蝙蝠がいる以上、ガードできるから、もう蓄積されないよ」


 祐真はホッとする。突然不本意に、性的指向を変えられるのは避けられたようだ。


 「でも、よくこの高校の異変に気がついたね」


 蝙蝠を介して、リコが小さく笑ったことがわかった。


 「昨日、祐真、感染者に肩を触られただろう?」


 祐真は思い出す。確か星斗に肩を叩かれた記憶があった。


 「ああ」


 「だから気がついたんだ。魔術の因子が付着していたからね。さっき古里から触れられた分も含めて、家に帰ったら、取り除いてあげる」


 「わかった」


 祐真はそう返事をすると、その場にしゃがみ込む。今は、屋上への出入り口が設置されている塔屋の裏側にいた。ここは他の棟からは死角になり、面している部分は運動場であるため、身を出さない限り、自分の姿が他者から目撃される心配はなかった。


 「それで、首謀者はどこの誰?」


 誰にも聞こえないはずだが、祐真は思わず声をひそめて話しかける。


 「そこまでわからない。だけど淫魔であることは間違いないよ」


 祐真の予想に反して、淫魔の仕業なのは確からしい。


 祐真は、根本的な部分を質問する。


 「そもそも、その淫魔術ってなんだ?」


 「他者を魅了したり、精力を増強させたり、感度を増したり、淫魔が生まれつき保有している魔術のことだよ」


 実に淫魔らしい能力だった。確かに、淫魔の性質さえ知っていれば、何となく出所は掴めそうだ。


 祐真は続けて質問する。


 「廊下で言ってた、使っている魔術が違うってどういうこと?」


 「僕が使っているのは黒魔術。攻撃したり、肉体を強化したりできる。その一環で、かけられた魔術もある程度なら、攻撃して解除できるよ」


 「なるほど」


 祐真は相槌を打つ。そして、不思議な感覚に襲われる。魔術やら黒魔術という単語が当たり前のように交わされると、ゲームの中の登場人物になったみたいだ。


 リコは続けて言う。


 「淫魔の中にも淫魔術、黒魔術など複数の魔術が使える者もいるから、要注意だ」


 「それで、淫魔はどこにいるの? 学校に潜んでいるとか」


 「わからない。生徒や教師に扮して入り込んでいるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、確かなことは、術者を見つけて解除させるか殺すかしないと、このパンデミックは収まらないということ」


 突然の物騒な言葉に、祐真は眉をひそめる。


 「……どうやって見つけるんだ?」


 「この蝙蝠越しに淫魔を見れば、僕なら判別が付く」


 「それだけでいいのか」


 「うん」


 背中の蝙蝠はそう答えた。


 リコは、さらに言葉を付け加える。


 「だから、祐真。君がこの件を解決に導くんだ。そうするしか道はない」


 リコの突然の申し出に、祐真は困惑する。そんなことが自分にできるだろうか。何せ学校中を巻き込んだトラブルだ。荷が重い気がする。


 こちらが尻込みしていると、リコは諭すようにして言った。


 「これは君にしかできないことだよ。淫魔と協力できる祐真だけの役目だ。僕も最大限力を貸すから」


 「……わかった、やってみる」


 この現状は、淫魔術により、無理矢理作られたものだ。言い換えれば、男子生徒たちは、望まず性的指向を変えられたことになる。そこは解決してあげたかった。


 それに、このままでは自分は確実に孤立するだろう。そのような学校生活は望まなかった。


 蝙蝠から、警告する声が聞こえる。


 「ただ、くれぐれも慎重にいこう。相手の淫魔はともかく、淫魔術に操られていようとも、生徒たちや教師たちに僕の存在を知られたら、アウトだから」


 「わかった。気をつけるよ。……それで、どうすればいい?」


 「さっき言った通り、これは淫魔の仕業だ。そしてそれは蝙蝠越しでも、僕が見れば判別が付く。だから今日はできるだけ大勢の生徒を僕に見せて。君の制服に隠れたままチェックするから」


 「わかった」


 「僕が周りに気づかれないよう注意しながら、声でアシストするね」


 休み時間や、昼休み、放課後を使えば、相当な数の生徒をチェックできるはずだ。面倒だが、そう難しくはなかった。そして、リコの方法で淫魔が判別できるのであれば、上手くいって、今日中に相手の淫魔を特定できる可能性が高い。


 「了解」


 「元凶である淫魔を見付けても、何も手を出さないでね。下手に刺激すると危険だから。それに、向こうはこちらが淫魔を探していることを知らないから、特定できるだけでもこちらが優位に立てる」


 「オッケー」


 一通り話が纏まったところで、祐真はリコに訊いた。


 「だけど、その淫魔、なぜこんなおかしな現象を引き起こしたんだだろう。そもそもどうして、男子生徒だけが同性愛者に? 何の目的が?」


 困ったようなリコの声が聞こえる。


 「さあね。捕まえて本人に聞くしかないね。そこは」


 リコがそう言い終わった時だ。朝の始業を告げるチャイムが鳴り響いた。話に夢中で、つい長居してしまった。ここから教室までは結構長い。すぐに行かなければ。


 祐真は急いで立ち上がり、屋上を出ようとする。


 そこで、ふと疑問に感じたことをリコに聞いてみることにした。これから周りに人がいる環境に赴くのだ。おそらく、もうなかなか話しかけることができない。だから今聞こうと思った。


 「そう言えば、リコは淫魔術、使えるの?」


 一瞬だけ間が開き、リコは答える。


 「僕は使えないよ」


 「どうして? インキュバスだろ」


 「そうだけど、使えないんだ」


 「なぜ?」


 「そんな淫魔もいるんだよ」


 「そうなのか」


 よくわからないが、リコがそう言う以上、そうなのだろう。そこはこちらが気にするようなことではなかった。むしろ淫魔術の説明を聞く限り、リコが使えないことは自分にとって、幸いだったのかもしれない。


 祐真はそれ以上会話を交わすことなく、屋上をあとにした。




 祐真は午前中の休み時間と、昼休みを使い、淫魔捜索を行った。


 リコの説明通り、方法は簡単で、生徒たちのいる教室を一つ一つチェックしていけばいいだけのものだった。


 リコのチェックは素早く、教室一つにつき、三十秒もかからない。しかし、移動時間や、次の授業の準備もあるため、思うように事を進めることができなかった。また、祐真がチェックした時は、偶然席を外していた生徒などの『取りこぼし』の可能性も有り得るので、一度回った教室も、再度チェックする必要があった。


 予想以上に時間はかかったが、それでも、昼休みが終わる頃には、三年生の一部の教室を残し、ほとんど回り終えることができていた。


 その時点での該当者はいない。確率から言えば、すでに発見できていてもおかしくはなかった。廊下を渡る際も、リコが常に目を光らせているため、『取りこぼし』も極々少数に収まっているはずである。その『取りこぼし』の中に、たまたま淫魔が紛れている可能性は極めて低く、やはり、いまだ発見に至らないのは、どこか妙だと言えた。


 まだ調べていない教室にいるか、もしくは生徒ではなく教師の中にいるか。そのいずれかの可能性があった。


 昼休みが終わりに近づいた頃、捜索を終えた祐真は、教室へと戻った。淫魔を捜索する、という漫画やアニメのキャラクターの真似事は、予想以上に祐真の神経を削った。


 捜索対象の淫魔はいわゆる敵である。リコの使い魔が守ってくれているとはいえ、いつ何時こちらの正体がばれてしまい、相手に襲われるかわからないのだ。それに加え、学校に蔓延している異常事態を解決するといった、重要とも言える任務も帯びている。少なからずプレッシャーが心にかかっていた。


 そしてそれ以上に、神経を削がれる要因が一つあった。


 それは、あまりにも、男子生徒同士のカップルが増加していることだった。


 もうすでに、全男子生徒の九割近くが、男同士のカップルとして変貌を遂げていた。そうではない男子生徒のほうが、むしろ極少数である。そしてその彼らが、右を見ても左を見ても存在しているのだ。


 少数だった時はまだ耐えられたのだが、ここまで増えると、なかなかきついものがある。異様な環境に身を置いていると、沼地に足を取られるかのごとく、神経が磨り減っていく。


 一刻も早く、この問題を解決しなければならないと思えた。


 自身の席に着いた祐真は、どっと疲れを感じた。もうすぐ昼休みは終わるが、それまで眠ろうかと思う。絡む相手もいないし。


 そう判断し、机に顔を伏せようとしたところで、クラスメイトの女子が話しかけてきた。彩香以外の女子が声をかけてくるのは、珍しい気がする。


 「羽月君、あなたは他の男子と付き合わないんだ?」


 祐真はその女子の顔を見た。篠原楓という名前の女子だったと思う。彩香と仲が良いグループの内の一人だ。普段は祐真など関わろうともしていなかった女子である。


 「うん、まあそうだね。俺はその気がないよ」


 篠原は、気の強そうな目を細め、こちらの顔をのぞき込んだ。


 「それはどうして?」


 そう訊かれ、祐真は困惑する。本来なら、朝、古里に襲われた時点で同性愛者になっているはずである。そこをリコに助けられたお陰で難を逃れたのだが、それを正直に話すわけにはいかない。まだ例の『ペナルティ』の危険は残っているのだ。


 祐真は、適当に誤魔化すことにした。


 「俺もわからないよ。ただ男に興味が湧かないだけ」


 「でも、このクラスで同性愛者になっていいないのは、羽月君くらいだよ。他の女子もおかしいって言ってる」


 「どういうこと? 他の女子って?」


 篠原は、こちらにぐっと身を寄せた。シャンプーの香りだろうか。良い匂いがする。


 「彩香だよ。彩香が羽月君が同性愛にならないことを不思議がってた」


 祐真は訝しがる。なぜ、そんなことにわざわざ疑問を持つのだろう。確かに、この学校において、同性愛者ではない男は、極めてマイノリティーになってしまったが、それほど気になるものなのか。


 自分の与り知らぬところで、女子たちがおかしな噂でも立てているのかもしれない。祐真は不安になる。普段、女子とは接点がないため、情報が入ってこなかった。女子とほとんどコミュニケーションを取ってこなかったことが、このタイミングで仇になるとは。


 「楓ー。祐真君と何の話をしているの?」


 横から声がかかる。そちらに目を向けると、つい今しがた名前の上がった彩香が、自分の席へと戻ってきたところだった。彩香の隣には、もう一人女子が連れたっていた。これまた、同じグループの一員だ。


 篠原は、彩香に答える。


 「ほら、前言ってた羽月君が同性愛者にならない話。それを訊いてたの」


 彩香は納得したように頷きながら、祐真の席のそばまでやってきた。連れ立っている女子も同じように並ぶ。


 期せずして、女子に囲まれる形になった祐真は、戸惑いを覚えた。


 彩香は祐真を見下ろしながら、口を開く。


 「そうなんだよねー。どうして祐真君は無事なのかな?」


 彩香は、射抜くような目を祐真に向ける。そこに、少しだが、なぜか咎めるような感情が込められているような気がした。


 祐真は、制服の中にいる蝙蝠を介して、リコがこの会話を聞いていることを意識しつつ、肩をすくめる。


 「さっき篠原さんに言ったけど、俺にもわからないよ」


 彩香は、目尻を上げた。


 「そう? 誰からも口説かれていない?」


 一瞬、古里の姿が脳裏に浮かんだ。だが、あれは口説くのではなく、『襲う』だ。該当はしないだろう。それに、仮に誰かから口説かれても、わざわざここで伝えるつもりはなかった。意味がないからだ。そもそも、口説かれていると言うなら、毎日リコからそれを受けている。うんざりするほどに。


 祐真は首を振った。


 「そんなこと一度もないよ」


 祐真の返答を聞き、彩香は口を尖らせた。どこか不満そうだ。


 「そうかー。残念」


 「なんでだよ」


 「祐真君に彼氏ができたら、この教室、コンプリートだからね」


 「コンプリート?」


 彩香は、嬉しそうに首肯し、両手を広げた。


 他の女子二人も、微笑んでいる。


 「うん。皆彼氏持ちになったってこと。つまり、クラスの男子全員、ゲイになった証拠だよ」


 実に明るく彩香は言う。まるでクラスで協力し、何かの賞でも狙っているかのような風情だ。祐真はそのような彩香の言動に、少し引いてしまう。


 この学校の状況も異様だが、それを快く受け入れる人間も同様な気がした。しかも、彩香のみならず、篠原を含むこの二人の女子も、同じくそれを喜んでいるのだ。……揃ってそういった性癖なのだろうか。


 押し黙った祐真に、彩香は再度質問をする。


 「本当に誰からも口説かれていないの? 押し倒されそうになったり、強引にキスされそうになったりしていない?」


 祐真は小さく頷く。何なんだろう。この違和感は。


 「そうなんだね。まあでも祐真君は可愛いから、いずれ必ず誰かからアプローチされるよ。楽しみにしてて」


 彩香は祐真の肩を馴れ馴れしく叩く。両隣の女子二人も、おかしそうに笑う。


 そして三人は、祐真の席を離れていった。


 授業が始まってからも、心の中に生まれた違和感は、消えなかった。





 その後、祐真は、午後の休み時間を使い、淫魔捜索を続行した。


 残った三年生の教室を調べたあと、該当する淫魔が発見できなかったため、職員室さえチェックする。それでも成果は芳しくなかった。


 やがて授業は全て終わりを迎え、SHRが始まる。明日の午後、全校集会がある旨の説明があったのち、チャイムが鳴り、今日の学校は終了を迎えた。


 祐真はそれでもすぐには帰宅しなかった。放課後の時間を利用し、部活動に勤しむ生徒たちも見て回る。この辺りの層はほぼこれまでチェックした生徒と重複しているだろうが、取りこぼしを懸念してのものだ。しかし、これすら該当者なし。


 日が落ち始めた頃に、祐真は、リコの帰宅を促す言葉により、捜索を切り上げることにした。


 アパートへと戻った祐真に、リコはこう結論付けた。


 「おそらく、学校内にはいないね」


 そして、リコは、祐真に付けていた蝙蝠を消滅させる。


 「じゃあどこにいるんだよ」


 「言ったろ? わからないって。だけど、学校内にいないことはほぼ確定だ。しかし、それはそれで、どこかおかしい」


 リコは浮かない顔をした。大理石のような綺麗な肌に、影が差す。


 「どうおかしいんだ?」


 祐真は帰宅時の制服のまま、畳に座る。リコも、ほとんど出来上がってはいるが、夕食の準備を中断し、祐真の前に座っていた。


 「学校内に淫魔はいない。そこまではいいんだ。だけど、そうなった場合、もう一つ、存在しなければならないものがある」


 「存在しなければならない? なんだそれ」


 祐真の質問に、リコは真っ直ぐ祐真を見つめた。


 そして言う。


 「召喚主の存在さ」


 祐真はっとする。確かに、淫魔がいるということは、それを召喚した者がいるはずなのだ。自分のように。


 「説明しなかったけど、僕が蝙蝠を介して確認していたのは、淫魔のみならず、召喚主もなんだ」


 「見ただけでわかるのか? 誰が召喚主だなんて」


 リコは頷く。その顔は自信に満ちていた。


 「淫魔を召喚した場合、ほぼ確実に召喚主は精を吸われているはずなんだ。それもほとんど毎日。淫魔は召喚主を狙うからね。男ならサキュバスから、女ならインキュバスから。そして、精を吸われ続ければ、確実にその者の体に痕跡が残る。これは、熟練した魔術使いや、僕のような淫魔から見れば、一目瞭然だ」


 「でも、同性の淫魔を召喚したのもしれないぞ。俺みたいに」


 「それでも同じさ。同性の元へ淫魔が召喚される場合、僕のように、その淫魔は同性愛である可能性が非常に高くなる。基本、淫魔は召喚主の精を吸うために現れるからね」


 説明を聞きながら、不思議に思う。リコはそう言っているが、自分は精を吸われていない。常に拒否をしているからだ。そのパターンもあるのかもしれないではないか。


 祐真は、そのことについて質問を行う。リコは冗談っぽく口角を上げた。


 「僕は特別なんだよ。祐真が許可しない限り、精は吸わない。だから例外として扱って欲しいな」


 「つまり、他の同性愛の淫魔の場合は、召喚主が拒否しても、無理矢理に精を吸うんだ」


 「うん。淫魔術を使ってね。同性愛の淫魔に限らず、全ての淫魔がそんな行動を取るはずだよ」


 「アネスみたいに、召喚をされずにこの世界にきたパターンもあるんじゃ?」


 リコは、首を振った。


 「彼のように、任務でこの世界にやってきた者は、特別承認を受けている。滞在期間も短いし、行動も制限されるんだ。淫魔術を振り撒く真似なんてできやしない」


 「そうなんだ。つまり、術を好きに使っている淫魔は、確実に誰かが召喚したってことなのか」


 祐真は納得する。そして、以前リコから聞いた言葉を思い出した。


 「そう言えば、リコは使えないんだよね。淫魔術」


 「まあね」


 リコは肩をすくめる。


 祐真は、さらにその理由を再度質問しようとしたが、リコは元の説明に戻ったため、断念する。


 リコの話は、今回の件の核心へと触れるものだった。


 「つまり何度も言うように、召喚主は精を吸われている。そしてその痕跡は確実に残る。それを踏まえて、チェックした」


 祐真はその場で身を乗り出し、リコに訊く。


 「それで、その人間は誰?」


 リコは溜息をついて、天を仰ぐ仕草をする。


 「その痕跡がある者はいなかった。つまり、


 それを聞き、祐真の中に疑問が一気に噴出する。


 「それって変だろ。じゃなんであんなおかしな現象がうちの学校だけで起きてるんだよ」


 リコは、両手をヒラヒラと振った。白子のような細長い指が揺れる。


 「それが不思議なんだ。残るは完全な部外者が引き起こした可能性しかない」


 「……」


 確かに、淫魔や召喚主の該当者がいないとすると、その結論に達するのは当然の帰結と言えた。しかし、それだと、どこか釈然としない。


 黙り込んだ祐真を、リコがのぞき込む。


 「祐真の見た人物の中で、怪しいと思う者はいたかい?」


 リコに聞かれ、祐真の脳裏に、数名の該当者の姿が思い浮かぶ。


 その中の一人を口に出した。


 「古里は? そう言えば、あいつと鴨志田が一番最初に同性愛者になったような気がする」


 リコは首を振った。


 「彼は違うね。完全に術に汚染された被害者だった。淫魔に精を吸われていれば、もっと違った痕跡が残るはず」


 一番のクロだと思える人物が、あっさりと否定されてしまった。しかし、そうなると、誰だろう。


 祐真はもう一人の名前を言った。


 「横井さんは? 横井彩香」


 リコの眉根が動く。


 「ああ、あの同性愛を歓迎していた子?」


 「そう」


 明確な証拠があるわけではないが、怪しい言動をとっていた。他にも男の同性愛を迎合している女子はいるが、彩香は特に顕著だ。


 「あの子、祐真も同性愛に目覚めると言ってたね。どう? ここは期待に応えて、僕とカップルになってみるかい?」


 リコは艶かしくウィンクする。祐真はうんざりしながら、鋭く咎めた。


 「ふざけていないで答えろよ」


 リコは小さく肩をすくめ、答える。


 「彼女もシロだよ。淫魔の痕跡なんてなかった。さっきも言ったように、召喚主は、ほぼ確実に淫魔から精を吸われるはずだから、いくら巧妙に隠しても、確実にわかる」


 彩香も該当しないとなると、他は誰だろうか。祐真は再び考え込む。


 他にも思い当たる人物はいるものの、そのような目で見れば誰でも怪しく思えてくる。言い換えれば、全校生徒のみならず、教師までもが容疑者なのだ。これでは特定など困難であった。


 それとも、リコの言う通り、淫魔や召喚主共に、完全に学校外の人間なのだろうか。その場合、その者を探知できる術はあるのか。


 リコにそのことを訊いてみると、リコは悟ったような表情で答えた。


 「魔術の中には、確かに魔術の痕跡を探知できるタイプのものもあるけど、僕は使えないよ。それができるなら、今日それを使ってたさ。学校外と学校内で方法が変わるわけがないんだから」


 リコの説明に、それもそうだと祐真は思い直す。そして、それは、部外者が犯人の場合、ますます捜し出すことが困難であることを意味していた。


 「もしも部外者まで捜索範囲を広げたとしても、結局今日みたいに、しらみつぶしに一人一人チェックしていくしか方法はないってことか」


 「そうだよ」


 それだと、途方もなく時間がかかってしまうだろう。現在進行形で高校は淫魔の魔術に侵食されているのだ。モタモタしてはいられない。


 「何か他に良い方法はないのかな」


 「ないね。あれば提示しているよ」


 困ったことになった。このままでは、高校生活が妙なものになってしまう。同性愛者ばかりの高校生活というのは、意味がわからない。リコの力でこちらが同性愛になるのは避けられるらしいが、周りは違うのだ。


 「お前の黒魔術で、かけられた淫魔術を解除できないのか?」


 「侵食の度合いによるよ。古里たちみたいに完全に侵されてしまっていたら、なかなか難しい。触れられた程度なら簡単に解除できるけど」


 「そうか」


 「それに淫魔術の影響を受けているのは、ほぼ全ての男子生徒だ。それら全てを解除するとなると、とても無理だよ。こちらの正体も発覚する危険は増すし、相手の淫魔にも気取られるだろうしね。仮にやっても、大元を叩かないと、また侵食が始まって、解除が無駄になる」


 つまりは八方塞がりだということか。名前からは想像できないほど、淫魔術とはやっかいなものらしい。やりようによっては、国一つくらい滅ぼせるんじゃないのか。

 徹夜をした時のように、頭痛がする。頭を抱えそうになった。


 そこで、不意にリコの手がこちらに伸びた。そして、手を取ろうとする。


 また何かセクハラをしてくるものだと祐真は身構えた。リコに文句を言おうと口を開きかける。だが、リコは小さく笑って説明をした。


 「大丈夫だよ。遅くなったけど、今から祐真の体に残ってある淫魔術の痕跡を消すだけだから。感染者に触れられたでしょ」


 そう言いながらリコは祐真の右手を取り、冷えた手を温めるように、両手で優しく包んだ。


 「はい、終わり」


 数秒もなく、リコは祐真の手を名残惜しそうに離す。


 「早いね」


 祐真は、リコから触れられた右手を撫でながら訊いた。


 「うん。侵食が深くないからね」


 脳裏に、古里から押さえ付けられた光景が蘇る。


 「たったあれだけで、淫魔術は感染するんだな」


 「そうだよ。なかなか強力な感染型だ。術者は相当強いよ。まあ、祐真の体に付着していた分は、古里だけじゃなく、星斗君や他の感染者からのものも含んでいたけどね」


 リコの説明で、祐真の中にふと疑問が浮かぶ。古里や星斗には触られた記憶があったが、他の生徒たちからはなかった。それなのに、そこからも感染していた。


 「例えば、感染者とすれ違う際に袖振り合っただけでも、触れられた人間は感染するものなのか?」


 「そうだね。その程度なら、微細な量だから回数を重ねない限り発症まではいかないけど、感染することに変わりはない。ウィルスのように、わずかな接触でも魔術を伝染させる。それが『感染型』の真骨頂だから」


 「ということは、うちの高校は全員感染しているようなものなのか? 発症していないだけで、女子も含めて」


 「その通りだよ祐真。感染型の淫魔術は時間経過で消失はするけど、あの高校みたいな状況なら、常に付着し続けるはずさ。今や教師を含めて、全員が保有者さ。まあ、あの高校の男子生徒にしか発症しないよう出力を抑えてみるみたいだけど」


 祐真は、腕を組んだ。前々から抱えていた謎だ。


 「……どうして男子生徒だけ発症しているんだろう。何か理由でもあるのかな」


 祐真は、以前にも聞いたことを質問する。リコは、両手を広げて、お手上げと言わんばかりの仕草をした。


 「祐真。愚問だよ。やっぱり、問題の淫魔を捕らえてみないとわからないって。もしかすると、同性愛者を作ることだけが目的かもね」


 最後の言葉は、リコの投げやりな憶測だった。しかし、祐真の脳に、ダイレクトに突き刺さった。光が明滅する。


 全校生徒が感染し、発症は男子だけ。発見できない淫魔と召喚主。一連の出来事。


 欠けていたパズルのピースが、闇の中から現れて、ピタリとはまった気がした。


 どうして、こんな単純なことに気がつかなかったんだろう。


 じっと考え込んだ祐真を心配したのか、リコが訊いてくる。


 「祐真。どうしたの?」


 祐真は、リコを見つめた。


 「リコ。ちょっと話がある」


 祐真は、リコに仮説を話した。


 話を聞き終えたリコは、ロダンの彫刻のように、考え込む仕草をする。


 おそらく、自分の考えは間違っていないはずだ。リコはどう判断するのだろうか。


 リコは顔を上げた。


 「確かに、祐真の言うとおりだ。そこに気づくとは、さすが僕の運命の人」


 「誰が運命の人だよ。……それでどう対処すればいい?」


 リコは頷く。彼は真剣な面持ちになった。


 「それについて、僕に考えがある。そして、君の仮説が正しい場合、明日からの流れも」


 「何?」


 祐真も真剣な顔で訊く。


 リコは口を開いた。





 彩香は自室にて、パソコン画面のキャンパスウィンドウ内へ、漫画を描き込み続けていた。


 自分でも驚くほど筆が進んでいる。一種の過集中状態と言うべきか、とどまることを知らない暴走列車のように、休むことなく作業を継続していた。学校から帰って、かれこれ六時間だろうか。


 ユーリーが作った夕食もまだ手付かずである。さきほど『食事』に出掛けたユーリーが、気を利かせてラップで包んでくれたが、まだ食べられそうにない。食欲がまるでないのだ。おそらくは空腹なのだが、『描きたい』という欲求が食欲を上回り、摂食中枢を麻痺させているのだろう。


 これはすごい。すごいぞ私。


 今描いている漫画は、二作目である。以前描いていた社会人同士のBL漫画はすでに完成し、漫画投稿サイトへアップロードしてあった。


 それも今のようにブーストされた状態で仕上げたものだ。自身としても傑作であり、評価も今までにないほど多く貰えた。


 そして、今回の作品はそれをさらに上回るものだと自負している。驚くほどの集中力に加え、湯水のようにアイディアが溢れ出てくるのだ。もしかしたら、何か大きな賞でも取れるかもしれない。


 覚醒剤でも摂取したような『ハイ』の状態のまま、タブレットの上で、電子ペンを走らせる。まるで手が別の生き物になったかのように、勝手に動く。この状態は、クリエイティブな作業を行う際には、とても有意義なものとなる。これがいわゆる『ゾーン』か。


 アメリカのロックンローラーが、度々薬物摂取で逮捕されるが、この状態を意図的に引き起こせるのであれば、薬物に手を出す気持ちがわかる気がした。


 現在描いている作品は、学園物のBL漫画だ。異世界からやってきたゲイのインキュバスの少年が、学校内で男子生徒たちと恋愛劇を繰り広げる内容である。


 インキュバスを登場させるというファンタジーを組み込んだ作品は、彩香のリアリティを重視した従来の作風とは趣が違うものの、なんら躓くことなく邁進できている。これも、実物のインキュバスを間近で観察し続けた賜物だろう。


 彩香は、電子ペンをタブレットから少し浮かせ、サイドスイッチをクリックする。そしてそのまま上へ動かし、描画のために拡大していた画面を縮小させた。


 原稿用紙全体が見えるようになったので、ペン入れによる整合性が取れているかのチェックを行う。


 今はすでに、下書きは全て完了し、ペン入れの段階に入っていた。それも半分ほど進んでいる。これが終わったら、あとは、ベタ塗りやトーン貼り、特殊効果の付け加えなどの『仕上げ』を残すのみだった。


 原稿に瑕疵がないことを確認した彩香は、次ページに移るため、キャンバスを切り替えようとした。


 そこでふと時計に目を向ける。壁掛けの時計は、すでに深夜十二時近くを指していた。普段ならとっくに眠りについている時間帯である。


 彩香は、電子ペンをタブレットの横へ置き、体をほぐすように肩を回しつつ、大きく伸びをした。猫が甘えような声が喉から漏れる。一時も休まず作業を継続していたお陰で、全身が凝り固まっていた。特に首の後ろが非常に痛く、頚椎がずれたのではと錯覚しそうになるほどだ。


 このまま作業を続けようか迷っている時に、玄関の鍵を回す音が聞こえた。振り向いて確認すると、ユーリーが扉を開け、帰宅してきたところだった。


 「お帰り。遅かったね」


 「ただいま彩香。ちょっと夢中になりすぎちゃって」


 そう言ったユーリーは、とても爽やかな顔をしていた。空腹の直後に、高級料理をたらふく食べたような、そんな風情だった。


 どうやら今日も沢山男の人を襲ってきたらしい。しかも、どれもが上玉揃いであったことが彩香にも見て取れた。そのように『戦果』が良い時は、ユーリーはこういった憑き物が落ちたような顔になるのだ。


 彩香はユーリーのその顔を見るのが好きだった。別に異性としてではない。単純に、同居人の機嫌が良いことはこちらも嬉しいのだ。そして何より、ユーリーが『楽しんだ』ということは、その裏に同じく、もしくはそれ以上に『楽しまされた男たち』が存在しているのだ。彼らは、ユーリーの手にかかり、例えようもない快楽を与えられ、精を絞り尽くされたはずである。おそらくもう二度と女を抱くだけでは満足できず、今度は男に抱かれることを望むようになるはずだ。


 そのような彼らの変貌ぶりを夢想するのが、彩香はとても楽しかった。エロ漫画や同人誌で良くあるような『快楽堕ち』のシチュエーションである。それまで男に興味がなかった男性が、類稀な美貌を誇る少年に快楽を与えられ、ゲイセクシャルに目覚める。これほどそそられる展開は、存在しないのではないのかとすら思う。


 今、自身の通う高校で起こっている現象もそれに近い。直接快楽を与えられてゲイに目覚めたわけではないが、ユーリーの魔術により、ゲイになった男子の影響で別の男子も同じように変貌し、男同士で行為を行っている。順序は逆だが、結果は同じだった。


 しかもすでにそれは、ほぼ全ての男子生徒がそうなっているのだ。そうなってからの高校生活は、桃源郷へと通学するかのように楽しかった。周りがゲイセクシャルばかりの世界は、この上もなく美しく、素晴らしい。


 だが――。


 脳裏に祐真の姿が浮かび上がった。


 それでも変貌しない者もいた。それは彩香が望む世界にはいてはならない存在である。ゲイでない男は、必要ない。


 「彩香、大丈夫? ボーっとして」


 彩香は、はっと我に返る。目の前で、ユーリーが心配そうにこちらの顔をのぞき込んでいた。長時間作業を続けたせいで、脳が困憊し、一種のトランス状態になっていたのだろう。


 「何でもないよ。気にしないで」


 彩香は手を振って答えた。


 「彩香、夕方からずっと描いているでしょ。ご飯も食べないで。いい加減にしないと体壊すよ」


 ユーリーは、呆れたような口調で言うものの、心配げな表情は崩さす、テーブルの上に載っている手付かずの食器類と彩香の顔を交互に見比べた。


 「大丈夫。まだ全然イケるよ」


 「駄目だ。もう休みなよ。明日も学校でしょ。これ温め直すから、テーブルについていて」


 ユーリーはたしなめるようにそう言うと、テーブルの食器を手に持ち、部屋を出ていく。


 彩香は点いたままのモニターをしばらく見つめていたが、やがてクリップを保存し、ウィンドウズを落とした。ユーリーに言った通り、まだまだモチベーションは高かったが、このままでは朝起きれなくなりそうだった。ここは自重するべきだ。


 テーブルの前に座り、ユーリーが運んできた温め直した料理を食べ始める。


 ユーリーは黙って、テーブルの対面に座っていた。


 そのユーリーに話しかける。


 「ユーリー、そろそろ例の計画、最終段階に移らない? ユーリーも祐真君を食べたくなったでしょ?」


 「そうだね。その通り。もう我慢の限界だよ。計画を進めようか。期は熟しただろうし」


 ユーリーはあっさりと同意した。そして眉をひそめて訊いてくる。


 「祐真君、まだ感染していないんだよね? どう? 魔術を使える素振りは見せた?」


 彩香は、祐真の一連の行動を思い出しながら、首を振る。


 「ううん。まだはっきりとは確認できていないよ。色々探りを入れたけど、これといった確証はないかな? ただ、何かあるはずだと思う。始めから目を付けていた祐真君が最後まで感染しないんだから」


 ユーリーは首肯する。


 「僕もそう思うよ。もちろん、ただの偶然ということもあり得るけど……」


 彩香は返答した。


 「うん。それの確認も含め、祐真君をピンポイントで狙おう。最終段階として。仮に祐真君が魔術師で、ユーリーの正体が発覚しても、虜にしちゃえば『ペナルティ』の心配もなくなるでしょ?」


 「そうだね」


 「じゃあ、動こう。早いほうがいいよ」


 計画も大詰めだ。ここでケリを付けたい。


 「わかった。そうしよう」


 ユーリーは同意を示す。祐真をモノにできる期待が膨らんだのか、雪肌に少しだけ赤みが差した。


 ユーリーは言う。


 「明日、実行に移そう。ちょうどいい機会があるよね。内容は前に話した通りに」


 「了解」


 彩香は頷く。いよいよ祐真はゲイに変貌するのだ。そしてその時には、僅かに残った他の非感染者の男子生徒も、同じくゲイに目覚めるだろう。


 その先の計画はまだ無数にあるが、今はこの計画を完了させたい。これは遥か彼方にある理想のための第一歩なのだ。だから、障害となり得るものは、この段階で排除するべきだ。


 明日から、本番だ。


 彩香は、ユーリーお手製の料理を一気にかき込んだ。





 翌朝、案の定眠気が取れない頭のまま、彩香は起床した。眠気はあるものの、頭のどこかが興奮気味で、疲れは感じない。夜更かし特有の症状だ。


 あまり食欲はなかったが、無理にでも朝食を食べる。そして登校の準備を行い、部屋を出た。


 高校に近付くにつれ、その眠気は薄れていき、敷地内に入ると、もう完全に消え去っていた。


 それは、周りを見る度に目に入る男子生徒同士のカップルのお陰だった。これらは全て、自分とユーリーの手によるものだ。まるで自分の作品であるかのように、見るだけで誇り高い気分になる。このような環境になってから、学校に行くのが楽しくて堪らない。


 靴を履き替え、教室へ入る。


 教室にはすでに祐真が登校してきていた。彩香の隣にある自分の席で、頬杖を付きぼんやりと窓から校庭を眺めている。どことなく哀愁を漂わせているのは、気のせいではないだろう。いつも一緒にいる友人たちが恋人同士になり、自身はハブられる形になったのだ。口では何ともないと言っていたが、内心は寂しいはずである。


 だが、その心配ももうすぐ解決する。祐真も彼らの仲間入りだ。そして、新しくできた『彼氏』と、仲睦まじく学園生活を送るのだ。


 「おはよ。彩香」


 楓が挨拶をしてきた。楓の凛とした瞳がこちらを見ている。


 彩香は挨拶を返す。


 「おはよう」


 「今日も男の子たち、皆熱々だね」


 楓は楽しそうに笑う。楓も彩香と同じく、腐女子だった。BL物を共に愛する同志という立場だ。ただし、彩香がBL物の漫画を描いていることは伝えていなかった。


 「うん! 本当に最高だよ。学校にくるのが楽しくなっちゃう。もうほとんどの男子が同性愛に目覚めちゃったもんね」


 彩香はそう言いながら、目の隅で祐真の様子を伺った。すぐ近くにいる祐真もこの会話が耳に入っているはずである。呆けていなければ、何かしらアクションを取るかもしれない。そう思った。


 だが、祐真は窓の外を眺めたまま、微動だにしなかった。眠っているわけではなさそうだ。心ここにあらず、といった感じだ。一人ぼっちになったことが、そんなに堪えているのかな?


 「彩香、どうしたの?」


 楓が不思議そうに訊いてきた。彩香は慌ててかぶりを振る。


 「ううん。何でもないよ」


 彩香は取り繕いつつ、再度祐真を確認する。やはり何かに気がついた様子はない。

 それから彩香は、その場で楓と如何にBLが素晴らしいか語らった。もう男子は全員BL化しているので、気を使う必要もなかった。


 唯一BL化していない祐真に聞こえるように、意図的に声を大きくするが、始業のベルが鳴るまで、祐真は始め見た時からの姿勢を崩さなかった。





 休み時間、彩香は祐真に話しかけた。


 「祐真君、朝から何か考え込んでいるみたいだけど、どうしたの?」


 相も変わらず空虚な祐真は、彩香の質問に、何度か瞬きをして答える。


 「別に何でもないよ」


 「本当? ぼんやりしてたから気になって」


 「ちょっと眠いだけだよ。昨日遅くに寝たからさ」


 祐真も自分と同じように、寝不足らしい。それなら上の空であることも頷ける。しかし、それだけが理由ではないだろう。やはり独りぼっちになったことが、精神面に影響を与えているはずだ。


 「そうなんだ」


 彩香はそう答え、祐真の元を離れる。祐真が何かしらの魔術を使え、それによって感染を免れているとしたら、今の現状にある程度の危惧を覚えているはずだ。しかし、そのような様子は見て取れない。ユーリーが言うように、ただ偶然、祐真は感染から逃れただけの話かもしれない。


 いずれにせよ、すでに標的は祐真に絞ってある。祐真が魔術師だろうと、いくらでも篭絡できるとユーリーは自信満々に語っていた。確実に祐真は今日ゲイに変貌するはずだ。


 祐真の元を離れた彩香は、楓たちがいるグループの中へと入っていった。





 昼休み。彩香は楓を含む仲良しグループを一緒に、弁当箱を広げていた。


 お喋りしつつ、箸を動かす。そして、他の子に気取られないように、祐真の様子を観察した。


 祐真は、教室後方の自分の席で、ぽつねんと座り、一人で弁当を食べている。まるでいじめられっ子のように、悲壮感が漂っていた。


 無理もない。周りは熱々の同性カップルばかり。クリスマスの日の街中で、恋人の群れに混ざって、とぼとぼと一人で歩く状況と似ていた。


 少し彼がかわいそうになってくる。そろそろ同性愛にさせて、楽にしてあげよう。


 彩香は、スマートフォンを取り出し、ラインでユーリーにメッセージを送る。


 今日は、午後一で全校集会がある。そう。大勢の感染者が集う数少ない機会。大規模なクラスターが発生し得る状況。


 それだけではない。彼にとって、敵だらけの環境なのだ。まさに袋のネズミ状態である。


 彩香は、何も知らないであろう祐真を、最後に一瞥し、食事に戻った。それから楓たちと会話を続ける。


 心の中は、お祭りを前にした時のように、ずっと浮ついていた。今日このあと展開される夢のような光景を想像し、彩香は誰にも気づかれないよう、密かにほくそ笑んだ。





 午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。祐真はゆっくりと席を立った。それから教室の戸口へと向かう。


 今日、これから全校集会がある。そのため、体育館まで移動しなければならない。

 他のクラスメイトたちも同様に、三々五々教室を出ていく。


 教室をあとにした祐真は、目の前で手を繋いで歩いている星斗と直也の横をすり抜け、体育館を目指した。


 今日の全校集会の内容は、どうやら校内で大量に発生している男性同士のカップルに関してのようだ。無理もないと思う。ここ数日、ほとんどの男子生徒がカップリングを成立させているのだ。人目も憚らず、教師の前だろうといちゃいちゃと乳繰り合う様を見れば、職員会議の議題に上がるのは必然の流れだろう。


 もっとも、原因は不可思議な力が元なので、いくら全校集会で注意を促そうと、無意味ではあるが。


 祐真は、体育館へ行く途中、極力、他生徒と接触しないように注意を払った。リコの話によれば、服が掠めるだけでも感染型の淫魔術が蓄積されていくらしい。帰宅すればリコが除去してくれるのだが、それでも接触しないに越したことはなかった。


 おまけに、今日は事前に全校集会があると聞いていたので、人目に留意して、リコの使い魔は連れていなかった。つまりは無防備状態である。


 やがて祐真は体育館へと到着し、クラスごとに並んでいる列の中に加わった。右も左もいちゃつく男子生徒が取り囲んでいる。


 そして、壇上に夏目漱石を思わせる髭面の校長が現れる。校長は咳払いを一つすると、話を始めた。


 内容やはり、男子生徒同士のカップルについてだ。


 『……あるからにして、昨今、度々LGBTが話題になっておりますが、私も男性、女性同士の交際や結婚は何らおかしなものではないと思っています。ですが、だからといって……』


 マイクを通じて、校長のやや喉の奥に物が詰まったようなスピーチが続く。同性愛というセンシティブな内容なため、言葉を選んでいる節が見受けられた。


 しかし、肝心の男子生徒たちは、どこ吹く風だ。相方が近くにいる者は、互いに目配せし合って、微笑み合っている。むしろ校長の話が誇りであるかのように。


 『……本来ならば、カップルの仲が良いことは好ましいのですが、ここは学校であり……』


 校長の話を聞きながら、祐真はぼんやりとここ数ヶ月の出来事を振り返っていた。

 図書館で魔道書を手に入れたばかりに、インキュバスを召喚する羽目になった。そのインキュバスの正体が、他者に発覚すれば、重大な『ペナルティ』が課せられ、『向こう』の世界へと連行されてしまう。


 『向こう』の世界で待っているのは、インキュバスによる無限の快楽地獄だ。延々と続く性交にも耐えられるよう、魔術で体を改造され、性処理の人形となる。いくら精神が崩壊しようとも、逃げることすらできない。


 それを避けるには、魔道書を新たに手に入れ、召喚した対象を送り返すか、召喚主、つまり祐真か、召喚されたモノ、リコが死ぬかしないと解消できないのだ。自分が死ぬのはありえないし、リコを殺すことも不可能だろう。


 すなわち、現在のやっかい同居人を排除し、性奴隷のリスクをなくすには『召喚返し』しかないのだ。


 色々と手を尽くしたが、前途多難を極めた。


 おまけにそのような中、高校でゲイセクシャルが増加する現象が発生した。背後には、淫魔と召喚した人間の影。その者たちはいまだ発見できていない。


 わずか数ヶ月で、一生分の不思議な経験をしたような気がする。一体、なんの因果だろうか。考えれば考えるほど、混乱をきたしてしまう。


 それに――。


 祐真はそこではっとする。マイク越しに響いていた校長の口調が、大きく変わったことに祐真は気がついた。


 『だからこそ、これから私が言うことを、皆さんは実行してください』


 祐真は顔を上げ、壇上にいる校長を見る。校長は、髭面をこちらへ向けていた。


 彼と目が合う。


 『ほとんどの男子生徒が、ゲイに変わったというのに、。これは由々しき事態であります。だから


 息を飲んで、祐真は周囲を見回した。生徒全員が、こちらを――祐真を――見つめている。獲物を狙う肉食獣のように、皆の目が、ギラギラと嫌な輝きを帯びていた。


 祐真は怯んだ。足が震え、硬直する。ライオンの群れに囲まれた気分だ。


 やがて、生徒全員が、ゾンビのようにゆっくりと近づいてくる。教師たちは一切止めようとはせず、遠巻きに眺めていた。目がうつろだった。


 一番近くにいた男子生徒が、こちらへ飛びかかった。





 自分を除く喜屋高校の全校生徒が、祐真を取り囲んだ光景を見て、彩香は思わず笑みをこぼした。


 ユーリーの感染型の淫魔術は、全身に回ることで、その者を操ることができる。


 すでに淫魔術は、祐真を除き、発症しない女子も含め、ほとんどの生徒と教師が罹患していた。感染していない者がいても、今日、この全校集会で確実に感染し、操作をされているはずだ。


 その感染者たちに襲われ、接触されれば、いくら魔術師や退魔士だろうとも、無事ではすまないだろう。


 あとは、ユーリーに彼を任せ、自分は二人の『愛し合う』シーンを参考に、BL漫画を描けばいい。とても素敵な作品に仕上がること請け合いだ。


 祐真の近くにいた生徒が、彼に飛びかかった姿を確認する。彩香はうっとりと目を閉じた。すぐにでも、祐真の悲鳴が聞こえてくるはずだ。最後の最後まで、淫魔術に抗った男子。本来なら、まず最初に同性愛者になるべき存在。


 しかし、もうその不満も解消される。コンプリートだ。今回の集会によるクラスターで、全ての男子生徒が、同性愛者となった。


 明日から、さらに素敵な世界が彩香を待っている。そして、『夢』のための礎となるのだ。


 瞼の裏に、理想の世界が描かれる。自分が創る作品の中のように、そこには欲にまみれた男女の汚い恋愛は存在しない。あるのは、男同士の、熱くて美しい一途な愛の世界だ。


 ああ、どんなに私は幸せなのだろう。本当に、ユーリーと知り合えてよかった。


 彩香が、幸福を噛み締めた時だ。怪訝に思った。いまだ祐真の悲鳴が聞こえてこないのだ。


 彩香は目を開けた。そして、そのままはっと見開かれる。


 信じられない光景が、目の前で展開されていた。


 祐真を囲んでいた生徒たちが、次々に倒れていっているのだ。


 祐真を中心に、まるで波紋を広げるように。


 やがて、女子を含めて、全校生徒全員が、その場に倒れた。教師たちもだ。


 近くで倒れている生徒を見る。失神というよりかは、睡眠ガスを吸わされたかのごとく、眠っているようだ。


 気がつくと、彩香と祐真以外、体育館にいる全員が、複合フローリングの上に倒れていた。まるで集団二酸化炭素中毒だ。


 生徒たちの中心に立っている祐真が、こちらに顔を向ける。刺すような鋭い視線が彩香を貫く。


 祐真は、ゆっくりと、しかし、はっきりとした口調で話しはじめた。


 「おかしいと思ったよ。淫魔術が学校中に広がっているのに、淫魔も、召喚主も見当たらないなんて。『淫魔が召喚された場合、必ず召喚主は精を吸われる』この考えから離れなければ、まずはたどり着けなかった。とても単純な答えだったのに。ねえ、横井彩香さん」


 彩香は、唾を飲み込んだ。祐真の口から、『淫魔』という言葉が出た時点で、魔術関係の人間であることがわかった。


 それでも一応惚けてみる。


 「なんのことかな? 祐真君」


 祐真は呆れたように、ため息をついた。


 「今更無駄だとわかっているでしょ。横井さん。あなたの身近にインキュバスがいることはわかっているんだ。しかも、そのインキュバスは同性愛者。だから、横井さんは精を吸われてなかったんだね。発見が難しいわけだよ」


 彩香は観念した。どうやら全てお見通しらしい。推察だけで、ここまで突き止めるとは、なかなかやるなと思う。


 彩香は開き直り、質問をする。


 「祐真君、あなた何者なの? 魔術師?」


 可能性としては、もうそれしか考えられなかった。


 祐真が言及したように、淫魔を召喚した場合、相手がサキュバスだろうとインキュバスだろうと、召喚主は精を吸われることが必然だ。ユーリーは以前、そう言っていた。


 ただ、自分たちのように、ゲイのインキュバスと、女の召喚主の組み合わせならば、例外である。しかし、それもユーリー曰く、極めて稀な事象らしい。彩香の元にユーリーが召喚されたのも、彩香のBL好きと『野望』の影響によるものだからだ。


 祐真は一度、ユーリーと対面している。もしも、祐真が淫魔を召喚していたら、必ずユーリーにその痕跡を察知されるはずなのだ。それがない以上、『淫魔を召喚していない』か、彩香たちと同様かつ、逆パターンで『レズビアンのサキュバスを召喚した男』という条件しかなくなる。だが、前者はあり得ないし、後者は可能性がとても低いのだ。


 あとは淫魔以外の召喚をしたパターンも考えられるのだが、ユーリーはそれも違うと言っていた。


 祐真は確実に淫魔や魔術の関係者だ。そもそもの発端が、ヤンキーを屋上でぶちのめしたことによるものだ。あれは、魔術でなければ説明がつかない。今、こうして操られた生徒たちを眠らせたのもそうだといえる。


 すなわち、祐真が魔術師――しかも強力な――でなければ説明がつかなかった。


 だが、彩香の推測は脆くも崩れ去る。


 「違うよ。俺は魔術師じゃない」


 「……じゃあ退魔士?」


 「それも違う、俺は普通の人間さ」


 彩香は訝しがる。それはあり得ない。ならば、なぜ淫魔の存在を知っているのだろう。魔術に関しても、なぜ使えるのか。


 彼の正体が、皆目検討つかなくなった。


 混乱を来たした彩香の耳に、突如別の声が突き刺さった。透き通るようなクリスタルボイス。


 「それは僕から説明したほうがいいみたいだね」


 彩香は声のほうへ振り返った。


 いつの間にか、体育館の出入り口に人影が立っていた。


 その人物の姿を確認し、彩香は唖然とする。その人物が、一体『何なのか』をはっきりと理解できたからだ。


 モデルのようにスラリとした長身に、宗教画から抜け出てきたような神秘的な美貌。輝くような銀髪は、ナチュラルマッシュ風に繕っていた。


 彩香は確信する。彼の全身から放たれる雰囲気は、ユーリーのものと酷似していた。


 間違いなく彼は、インキュバスだ。体育館にいる皆を眠らせたのも、このインキュバスが魔術を施したからだろう。


 この世界で見る二人目のインキュバス。だが、驚きよりも、新たな疑問が彩香の頭を占領していた。


 このインキュバスは、祐真が召喚したと判断して間違いない。だが、その場合、決定的な矛盾点が発生する。


 祐真の主張通り、『淫魔を召喚した召喚主は、確実に淫魔に精を吸われる』という前提がある。


 同性の元にインキュバスが召喚されようとも、そのインキュバスはゲイセクシュアルである可能性が高い。否が応でも、召喚主は精を吸われる結果になるはずだ。


 だが、祐真には、一切、その痕跡がなかった。ユーリーが確認した以上、間違いないだろう。


 一体、なにがどうなっているのか。意味がわからなかった。


 長身のインキュバスは、倒れている生徒たち間を縫うようにして歩き、こちらに向かってくる。


 インキュバスの服装は、ハイゲージのニットシャツに、黒のデパートパンツ。まるでファッションショーのような、優雅な雰囲気を振り撒いていた。


 やがて、インキュバスは、祐真のそばに立つ。水晶のような目で、こちらを見やった。


 「はじめましてだね、彩香。僕の名前はリコ。君のお察しどおり、祐真から召喚されたインキュバスさ」


 リコと名乗るインキュバスは、彩香の心を読んだかのように、そう自己紹介する。


 彩香は、頭を占領している疑問をリコにぶつけた。


 「ねえ、どういうこと? あなたもゲイのインキュバスでしょ? なのになぜ祐真君に精を吸われた痕跡がないの?」


 リコは、見透かすように口角を上げた。敵であるにも関わらず、とても素敵な笑顔だと思う。BL漫画の登場人物の参考にしたくなった。


 「単純な話だよ。僕はこれまで一度も祐真の精を吸っていない。彼が望んでいないからね」


 彩香は耳を疑う。そんな淫魔がいるとは信じがたかった。


 「じゃあどうやって、精を補給しているの? 他人から?」


 異性の元に召喚されたゲイのユーリーは、そうしているが……。


 リコは首を振り、隣にいる困惑気味の祐真を愛おしそうに見た。


 「祐真という運命の人がいるのに、他人の精を吸うわけはないよ」


 彩香は、眉根を寄せる。リコの説明はありえなかった。誰の精も吸わないのなら、淫魔が生きていけるわけがないのだ。こちらの世界では、魔力も生命力も消費する一方なのに。


 「嘘をつかないで。そんな淫魔がいるわけないでしょ」


 リコは肩をすくめた。


 「事実なんだけどね。そうじゃないと、祐真に精を吸われた痕跡が残ってないことの説明はつかないだろ?」


 彩香は言葉を詰まらせた。確かに、彼の言う通りだ。だが、そうだとやはり、重大な矛盾が発生する。


 リコはなぜ生きているのだろうか。


 やはり精を吸っていないというリコの証言は、ブラフなのか。あるいは。


 いずれにしろ、ユーリーと彩香のように、極稀なパターンが背景にあるのは確からしい。


 ツイてないなと思う。もしも、祐真とリコが通常のインキュバスとの関係性であったならば、渋谷の邂逅の件で、即座にユーリーが見抜いていたはず。それなら、対処も今より遥かに簡単だったろうに。


 彩香は複雑な表情を浮かべた。リコと祐真を交互に見比べる。祐真は相変わらず、困惑気味、リコは大胆不敵な様子だ。


 リコが静かに口を開く。


 「まあ、信じてくれなくてもいいさ。それで、これからどうするんだい? これほど『おいた』をした以上、僕も容赦するつもりはないよ。なにせ、祐真を狙ったんだからね」


 そう言うと、リコはゆっくりとこちらに近づいてくる。巨大な魔物でも迫ってくるような、強い威圧感を彩香は感じた。


 彩香はたじろぐ。リコは、歩みを止めなかった。


 「色々と君に訊くこともある。観念したほうがいい」


 リコはやる気だ。おそらく、魔術を使い、こちらを篭絡するに違いない。そうなると、抗う術はなくなる。


 相手が召喚主と淫魔である以上、『ペナルティ』の危険はなかったが、これはこれで、対処が必要な事象だ。


 脳裏に、自身が描くBL漫画の濃厚なシーンが思い起こされる。


 私の理想の世界。男同士の純愛だけが存在し、汚い男女の性欲が介入しない美しいパラダイス。その世界の中で、私は愛し合う彼らを神のように眺めながら、BL作品を創り続けるんだ。


 誰にも、邪魔はさせない。


 彩香は、腹の底から大声を発した。


 「ユーリー!!」





 チェックメイト寸前だと思われた彩香が、大声を出した。その直後、祐真は眉をひそめる。奇妙な現象が起きたからだ。


 閉め切っているはずの体育館に、一陣の風が吹いた。かすかに、薔薇のような香りが祐真の鼻をつく。


 やがて、風は強さを増し、彩香を中心に吹き荒れる。なぜかはわからないが、床に倒れている生徒たちや教師たちには、影響がないようだった。


 風が止んだあと、気づく。いつの間にか、一人の少年が、彩香の前に立っていた。中学生くらいの美しい少年。


 祐真ははっとした。その少年に見覚えがあった。確か、前に渋谷で彩香と一緒にいた男の子だ。駿という名前だったと思う。


 今ならわかる。間違いなくこの少年は、インキュバスだ。以前は黒だった髪も、現在はリコと同じような銀髪だ。おそらく、魔術で誤魔化していたのだろう。


 「ユーリーお願い」


 少年の背後で、彩香が強気の口調で言う。少年が現れたことで、勇気が湧いたようだ。


 彩香は先ほども、少年をユーリーと呼んだ。渋谷で祐真に紹介した名前は、偽名だったらしい


 ユーリーは頷くと、美少女のように端麗な顔をこちらに向けた。透明感のある目。氷のような冷たさが奥底に秘められている気がした。


 祐真の背筋に、ぞくりとしたものが走る。


 祐真が不安に駆られた時、隣にいたリコがユーリーに話しかけた。リコは、現れた同種族に対し、少しも怯んでいないようだった。


 「君が彩香の淫魔だね。僕の名前はリコ。どうぞよろしく」


 ユーリーは、警戒心を強めたのか、表情を固くした。視線は、祐真とリコを交互に見ている。


 ユーリーが自己紹介を返さないので、リコは肩をすくめた。


 「そこまで警戒する必要はないよユーリー。何も今すぐやり合おうってわけじゃない。ただ、僕たちが望むのは、学校中に広がっている妙な現象の解決さ」


 ユーリーは、リコを睨みつける。


 「淫魔術は解除しないよ」


 ユーリーの凛とした声が、体育館に響く。


 「それはどうして?」


 「言う必要はない」


 「そもそも、なぜあんな真似を? 目的は何?」


 「それも、言う必要はない」


 しばしの静寂が訪れた。だが、二人は視線を結んでおり、水面下でマグマのように敵意が沸き立っていることが感じ取れた。


 やがてリコが口を開く。


 「それじゃあ実力行使しかないね。運動場に行こうか」


 ユーリーはリコの提案に首肯し、背後に立っている彩香に何事か耳打ちをした。


 それから、彩香をお姫様抱っこし、現れた時と同様、風と友に消え去る。運動場へ向かったのだろうか。


 祐真は、しばらく、唖然と二人が消え去った空間を見つめていた。だが、我に返ると、リコに尋ねる。


 「戦うの?」


 「うん。そうしないと解決できないみたいだからね」


 祐真は不安に包まれた。


 「勝てるのか?」


 リコは、とても嬉しそうに笑った。


 「祐真、僕のことを心配してくれてるんだ」


 「こんな時にふざけるなよ」


 「ごめんごめん。まあ、結果は見てのお楽しみだよ」


 「……運動場でやり合うって言ってたけど、近隣の住民にばれないの?」


 「『認識阻害』の魔術をかけるから、問題ないよ」


 リコの言っていることは、半分も理解できなかったが、どうやら魔術を用いて対処をするらしい。


 「さて、と」


 リコはそう呟くと、先ほどの彩香のように、祐真を抱きかかえた。


 素早い動きだったので、抵抗もできず、驚いた祐真は思わずリコにしがみ付いた。


 「運動場に移動するから、掴まっててね」


 祐真は、しがみ付いたまま訊く。


 「体育館の皆はどうするの?」


 「このままで平気だよ。あとでちゃんと解除するから」


 そして、リコは強く祐真を抱き締めた。

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