第六章 ユーリー

 運動場へと到着したユーリーは、抱えていた彩香を優しく下した。彩香は、ジェットコースターに乗ったあとのように、ふらつきながらも運動場の荒い砂の上に立つ。


 「まるでアトラクションみたいで、ちょっと楽しかった」


 彩香は、軽口を叩くが、ユーリーには上手く返答する余裕がなかった。


 心臓が、早鐘のように鳴っている。これは、畏怖と脅威による鼓動だ。


 ユーリーの脳裏に、先ほどまで相対していたリコの姿が蘇る。彼の全身から立ち上る魔力の量と質。思い起こすだけで、足が震えた。


 一体、あの男は何なんだ?


 当然だが、ユーリーは今まで数多くのインキュバスと会っている。彼らは淫魔である以上、誰もが、淫魔術をはじめとする様々な魔術を行使できた。その根底には、魔力という源泉があるからだ。


 あの男……リコは、今まで出会ったその誰よりも、絶大な魔力を誇っていた。


 当初、体育館でリコと相対した時、見ただけでわかった。こいつは只者ではないと。動揺を隠すことで精一杯だった。


 自慢ではないが、ユーリー自身も、インキュバスの中では、上位の実力だと自負している。淫魔や魔族、モンスターとも、それなりに戦ってきた実績もある。ほとんど勝利もしてきた。相手が誰だろうと負ける気がしなかった。


 しかし、リコを前にすると、その自信が、根底から揺らぎかねないのだ。


 あれではまるで……。


 「ユーリーどうしたの?」


 ぼんやりとしていたのだろう。彩香が、顔をのぞき込んでくる。ユーリーは無理に笑顔を作った。


 「いや、なんでもないよ」


 「あのインキュバスと戦うことになったけど、大丈夫?」


 彩香は質問しながらも、表情は自信に満ちていた。自分たちの勝利を確信している様子だ。ユーリーを全面的に信頼している証だろう。


 ユーリーは彩香に悟られないよう、小さく息を吐き、気合を入れた。


 「大丈夫。僕らの勝利は揺るぎないさ」


 ユーリーの言葉に、彩香は目を輝かせた。あのサキュバスを排除できれば、自身の夢へと大きな前進を遂げる。その想像を頭の中に展開したのだろう。


 そう。『全世界BL化計画』の夢を。


 ユーリーは、彩香のその夢を何としても叶えてあげたかった。召喚主だからではない。彼女が大好きだからだ。ニケ月あまり同居して、人間として彼女に惹かれていた。


 それだけではなかった。ユーリーが召喚されたあの日。自分の目の前で『夢』を語った彼女の熱い姿を、今でも鮮明に覚えている。


 彼女の中には本物の信念があった。有名演説家のスピーチのように、強く心を揺さぶる力があった。ユーリーは、彩香を心から応援したくなったのだ。


 それから、ユーリーは祐真のことを考える。


 渋谷で祐真と出会ってから、ユーリーは恋に落ちていた。彩香に告げたように、彼に一目惚れをしたのだ。


 いや、恋に落ちたとか、一目惚れだとかの範疇には収まらないだろう。こちらがインキュバスであるにも関わらず、ユーリーは彼に『魅了』されたのだ。それこそ、淫魔術にでもかかったかのように。


 ユーリーは祐真の姿を思い浮かべながら、心に誓う。


 必ず彼を手に入れてみせる。一生手元に置き、『飼育』するのだ。彼の全てを支配し、ありとあらゆる快楽を与え、虜にする。


 その傍らには、毎夜行われる二人の淫らな姿をモデルに、BL漫画を描く彩香の姿があった。


 なんて理想の世界だろう。どんな手を使ってでも、実現させたい。


 そのためには、あのインキュバスが邪魔だった。


 勝てるだろうか。いや、勝たなければならない。相手が強敵であろうとも。絶対に。

 ユーリーは運動場の空を見上げた。秋口の抜けるような青い世界が、どこまでも広がっている。


 小麦色の光が、祝福するかのごとく、ユーリに降り注いでいた。





 木枯らしのような冷たい風が吹き、運動場の砂を巻き上げた。


 ゆっくりと、銀髪の長身のインキュバスが、地面へと降り立ったのをユーリーは目でとらえる。


 リコは、両腕に憧れの祐真を抱きかかえていた。祐真は勇者に守られるお姫様のように、大人しく身を任せている。


 「遅くなってすまない。『認識阻害』の魔術を周辺に張っててさ」


 リコは、祐真を運動場へ下しながら、話を続ける。


 「感謝してくれよ。これで他者には気づかれなくなった。僕らは好きなだけやりあえるよ」


 言葉の最後の部分は、ぞっとするような冷酷さを秘めていることに気づき、ユーリーは背筋を震わせた。


 ユーリーは唾を飲み込む。リコから発せられる魔力の圧力が、ユーリーへと押し寄せる。


 やはり、信じられないほど強大な相手だ。潰されそう。


 「ユーリー、『認識阻害』って?」


 こちらの恐怖など露知らず、隣で彩香が呑気な声で訊く。


 「……いわゆる防護フィルターみたいなものだよ。指定のエリアに張ると、内部の風景や音を遮断できる。現在の運動場の景色を固定したまま」


 「ふうん。それをあのリコが運動場に張ったわけね。だから戦っても周辺の住人には気づかれないと」


 「彼がしなくても僕が張るつもりだったけどね。手間は省けたよ」


 リコの魔力も僅かには消費されたかもしれないが、焼け石に水だろう。結局、自身の実力で何とかするしかないのだ。


 ユーリーは深呼吸をした。夢のため、彩香のため、必ず勝ってみせる。勝算もないわけではない。


 眼前のリコが、隣にいる祐真に何か囁くと、祐真はリコから離れた。臨戦態勢に入るようだ。


 「彩香、離れてて」


 ユーリーも彩香にそう伝える。彩香は純朴な瞳をこちらに向けて、頷いた。


 「頑張ってね」


 彩香は激励するように、ユーリーの手を握ったあと、離れていく。最後まで自分たちの勝利を疑っていなかった。


 ユーリーは、正面に向き直った。リコと目が合う。インキュバスらしく、美麗に整った相貌。しかし、今は敵意が込められていることが、はっきりと伝わってくる。


 体育館で本人が述べていたように、祐真を標的にした事実が、どうしても気に食わないらしい。当然だろう。自身を召喚した主に加え、あれほどの上玉だ。執着するのもゲイのインキュバスならば、無理なからぬこと。


 ユーリーは覚悟を決めた。


 深呼吸をし、少しだけ足を進める。直線上に、リコと対峙した。


 以前、彩香の部屋で一緒に観た、西部劇の決闘のシーンを思い出す。緊迫した状況なのにも関わらず、能天気な感想が頭をかすめるのは、現実から目を逸らしたいがためか。


 リコの澄んだ声が聞こえた。


 「準備はいいかい? 降参するなら今だよ」


 ユーリーは首を振る。諦めるという選択肢は、ありえなかった。


 「いや、戦おう」


 ユーリーは、そう宣言した。


 そして、右手に魔力を集中させる。こちらから先制攻撃を仕掛けるつもりだった。


 ユーリーは、右腕をテニスのサーブを打つようにして振った。


 風が湧き起こる。つむじ風くらいの風圧だ。その風が、一直線にリコへと向かう。


 刃物のように研ぎ澄まされた風の塊。いわゆるカマイタチ。この規模なら、軽自動車程度でも、紙のように容易く切り刻むことが可能だろう。


 風の塊は、リコへと直撃した。彼は微動だにせず、正面からまともに受けた。運動場の砂埃が舞い、煙幕のようにリコの姿を覆い隠す。


 とりあえず、風の魔術は直撃した。これで死んでくれれば、何ら問題はないが……。


 砂埃が晴れ、リコの姿があらわになる。彼は微笑をたたえ、平然と佇んでいた。直撃前と全く変わらない。服すら傷がついてなかった。


 ユーリーはため息をつく。やはり、そうだろうなと思う。あの程度では、かすり傷さえ負わないか。それならば。


 ユーリーは、一旦ステップバックし、距離を取ったあと、両手を前に突き出した。


 力を込める。両方の手の平に、魔力が漲ったことが感じられた。


 ユーリーは、再び風の魔術をリコに向けて、発動させた。だが、今度はより鋭敏に、一点に集中させて。さながら、長大な『槍』を放つイメージで。


 突風が吹き荒れる。先ほどとは威力が桁違だ。さすがに効くだろう。


 風の魔術は、リコへと当たった。轟音が響き、大地が揺れる。発破をかけたように、土埃も舞った。


 戦いを見守っている祐真と彩香が、吹き荒れる突風に顔を手で守りながら、唖然とする姿が目に映る。


 二人に及ぶ影響は突風だけで、魔術の被害は及んでいない。離れているし、そう調整しているからだ。


 土埃がゆっくりと晴れた。無傷のリコが、泰然と姿をみせる。


 ユーリーは歯噛みをした。これですら一切通じないのか。なんて奴だ。


 ユーリーは地面に手を触れた。そして、魔力を流し込む。


 リコの周囲の地面が隆起した。隆起は人間大サイズまで伸び、蟻塚にも似た小山の形を形成する。そのあと、ブリキのおもちゃのように、手足が生えた。


 『ゴーレム』だ。全部で八体の土人形。土魔術は不得手なため性能はいまいちだが、これは本命ではないので、大した問題ではなかった。


 ゴーレムは、リコへと一斉に飛び掛る。リコは迎撃するため、かすかに構えの姿勢を取った。右手を振り、眼前まで迫ったゴーレムたちをなぎ払う。何の魔術かわからないが、ゴーレムたちはリコから触れられることなく、砕け散っていく。


 ユーリーが確認したのはここまで。ゴーレムが全滅する寸前には、すでにユーリーは、風の魔術を利用し、リコの背後へと移動していた。


 リコの背はがら空きだ。リコは、ユーリーが回り込んだことすら察知できていないようだった。これならば、余裕で攻撃を叩き込める。


 ユーリーは渾身の魔力を右腕に込めた。先ほどよりもさらに強い威力。全てを切断する死神の鎌のような風の魔術を。


 最後の一体のゴーレムが破壊されると同時に、ユーリーは、リコの背中に魔術を放とうとした。


 その瞬間だった。ユーリーは見た。リコが、ゆっくりとこちらに振り返るのを。彼は、冷静な目でユーリーを見下ろしていた。


 体に衝撃が走った。視界が暗転する。





 ユーリーは、はっと目を見開く。秋口の済んだ空が、視界一杯に広がっていた。


 ユーリーは、自身が運動場に仰向けになって倒れていることに気がついた。そして、何が起こったのかも。


 おそらく、自分はリコに殴り飛ばされたのだ。そして、運動場の半分ほどまで吹き飛び、一瞬だけ気を失っていたらしい。


 ユーリーは体を動かそうとする。だが、上手く動かせない。それでも無理に体を動かそうとした時、それが起きた。突如、腹部から、内臓を抉るような強い鈍痛が発生したのだ。


 ユーリーは悶えた。リコから殴られた部位だ。どうやら時間差で痛みが襲い掛かってきたらしい。見事ボディに決まっており、内蔵まで大きなダメージが及んでいた。予め、全身に防御の魔術を施していたにも関わらず。


 ユーリーは膝を付き、うな垂れながら何度か嘔吐した。吐瀉物には、真っ赤な血も混じっている。なんて化け物だ。こちらの攻撃は効かず、殴打だけで防御魔術すらあっさり打ち破るなんて。


 一通り吐いたあと、ユーリーはふらつきながら立ち上がった。リコのほうを確認すると、リコは当初の位置からほとんど移動していなかった。


 祐真も離れた場所で佇んでいる。


 こちらに駆け寄ってくる彩香の姿が見えた。


 「ユーリー大丈夫!?」


 彩香は血相を変えていた。目の奥に、恐怖の色がある。先ほどのリコとユーリーの戦闘、そして、ユーリが為す術もなく吹き飛ばされた様を見て、自分たちが大きく不利であると認識したようだ。


 「大丈夫さ。彩香。勝てるよ」


 そうは言ったものの、手も足も出ないのが現状である。おまけに、体にはダメージが蓄積し、魔力も随分と消費してしまっている。勝つ見込みは限りなくゼロに近いだろう。


 「安心させるために強がっているだけでしょ? ユーリー。無理をしないで」


 彩香は、ユーリーの嘘を見抜いていた。短期間とはいえ、やはりずっと一緒に暮らした召喚主なだけはある。全てお見通しだった。


 ユーリーは薄く笑う。


 「……強いよリコは。とてつもなく。もはや打つ手なし、といったところかな」


 残る唯一の戦法を除けば、だが。しかし、それを取るにしても、すでに魔力が足りなかった。万事休すか。


 ユーリーは、遠くにいるリコを見る。リコは、腰に手を当て、余裕な様子でこちらを眺めていた。いつでも迎え撃つ、というスタンスなのだろう。憎たらしい奴め。


 重い身体を引きずり、ユーリーは足を踏み出した。例え、勝算がなくても戦わなくてはならない。約束したからだ。それに、どうしても祐真を手に入れたかった。


 歩み始めたユーリーの前に、彩香が立ち塞がった。怪訝に思って彩香の顔をうかがうと、彼女は神妙な表情を浮かべていた。


 どうしたの、と訊く前に、彩香は予想もしない行動を取った。


 彩香はこちらに抱き付き、そっと口づけを行ったのだ。あまりの唐突な出来事に、ユーリーは反応することもできなかった。


 彩香のキスは、自然で優しく、思いやりがあった。恋人というよりかは、母と子の愛情あるキスのようだった。


 体の底から、力が湧き上がってくるのを実感した。油田を掘り当てたかのごとく、魔力が噴き上がってくる。例え、同性愛のインキュバスでも、相手が人間である以上、精は吸収できるのだ。


 ユーリーは彩香から、唇を離した。


 「彩香」


 満ち満ちる力を携え、リコは彩香に言う。


 「ありがとう。これで勝てるよ」


 彩香は、ふらつきながら、優しげに微笑んだ。


 「私のファーストキス。あげちゃったからには、必ず勝ってね。私たちの夢のために」


 彩香はそこまで言うと、その場に崩れ落ちた。ユーリーは、とっさに抱き止める。


 彩香は、熱にうなされている時のように、苦しそうに喘いでいた。疲労困憊しているのだ。魔力が尽きかけている淫魔と口づけを交わした以上、当然の結果であった。


 ユーリーは、彩香を運動場の砂の上に寝かせた。その時はすでに、彩香は眠りについていた。


 ユーリーは立ち上がる。遠くにいるリコと、祐真を交互に見比べた。この時にはもう『決意』を固めていた。


 ユーリーは右手を前に突き出し、魔術を放つ。一瞬で、巨大な竜巻が発生した。彩香のお陰で補充できた魔力だ。ふんだんに使わせてもらおう。


 運動場の砂を巻き上げながら、巨大竜巻はさらに大きくなっていく。やがては運動場の半分を飲み込んだ。


 運動場全てが、砂漠の砂嵐のように茶色に染まり、リコと祐真の姿も見えなくなる。


 これが狙いだった。


 ユーリーは風の魔術を使い、その場を移動した。二人の元へ瞬時に近づく。再び背後を取るためだ。


 しかし、今度の標的はリコではなかった。本命は――。


 ユーリーは、祐真の背後に回り込んだ。直近まで迫ると、砂嵐の中でも相手の姿はくっきりと視認できる。


 祐真は無防備同然だった。相手が自分を狙ってくるなど微塵も予想していないらしく、棒立ちである。リコの姿は砂嵐の中、確認できない。


 肉薄したユーリーは、祐真の背中に腕を伸ばした。ありったけの魔力を使い、淫魔術を彼に流し込むため。


 これが、ユーリーに残された最後の策だった。リコに敵わないのなら、祐真を狙うしかない。淫魔術を用い、祐真を篭絡し、人質とする。


 さすがのリコも、己の召喚主が人質に取られれば、言いなりになる他ないだろう。あとは煮るなり焼くなり思いのまま。


 最低でも、祐真を連れて、ここから立ち去るくらいはできはずだ。いずれにしろ、祐真を手中に収めることさえできれば、こちらの勝ちは揺るぎない。


 卑劣な手口であることには、変わりはないが。


 ユーリーの手が、祐真の背中に触れた。そして、大量に淫魔術を流し込む。


 ユーリーはほくそ笑んだ。これで僕の勝ちだ。彩香の願いと、魅惑的な少年。それらが、一度に手に入るのだ。


 だがしかし、ユーリーは、眉間に皺を寄せてしまう。妙だった。流し込んだはずの淫魔術の効果が発揮されないのだ。直接人間に触れ、大量の淫魔術を流し込んだ場合、瞬時に効果は現れるはず。それが発生しないのだ。


 明らかにおかしい。そう思った瞬間、驚くべき現象が起きる。目の前の祐真の姿が蜃気楼のように揺らぎ、別の姿に変化したのだ。


 祐真だった人物は、長身のインキュバスの姿へと様変わりしていた。ユーリーはすぐに悟る。自分のほうこそが、罠にはまったのだと。


 『モーフィング』。自身の姿を変化させる魔術。用途は多岐に渡り、髪の色や形を変化させることから、全身を別の人物の姿にそっくりそのまま映したりもできる。


 リコは、ユーリーが砂嵐を発生させた時点で、策を見抜いていたのだろう。モーフィングを使い、祐真の姿に化け、こちらを待ち構えていた。それに気づかず、ユーリーはまんまと接近した。


 まさに飛んで火に入る夏の虫。


 ユーリーは、とっさに距離を取ろうとする。だが、遅かった。それすらもリコは読んでいた。


 リコが、大きく拳を振りかぶった姿が目に映る。ユーリーが視認できたのはそこまで。あとは、頭部に大きな衝撃が走り、やがてユーリーの意識は深い奈落の底にまで落ちていった。





 ユーリーが、頭部を殴られ地面へと叩き付けられた様を見た祐真は、息を飲んだ。まるで重機を使い、コンクリートを穿ったかのような衝撃が走ったからだ。運動場の地面も大きく陥没している。


 ユーリーが倒れたまま身動きしないことを確認した祐真は、この勝負に決着が訪れたことを知った。おそらく、こちらの勝利だろう。


 しかし、喜びはなかった。逆にそろりと不安が影のように差す。勝ったのはいいが、ユーリーは死んでしまったのだろうか。それに彩香は? 先ほど、遠くで倒れてしまったようだが、無事なのか。


 まるで漫画のようなインキュバス同士の激しい戦いを見たせいで、頭が混乱し、上手く物事を考えられないでいた。状況に追いつけない。


 何とか自身を叱咤し、祐真はリコの元へと駆け寄った。


 「死んだの?」


 リコはゆったりとした仕草で、首を振る。


 「死んでないよ。瀕死の状態だ。当分は起きないだろうね」


 リコは、地面に倒れている中学生くらいの姿のユーリーを見下ろしながら続ける。


 「しかし、ここまでダメージを負ったのなら、淫魔術は解除されているはずだよ」


 祐真はほっと胸を撫で下ろす。淫魔術が解けたのも喜ばしいことだが、ユーリーが死んでいないことにも安堵を覚えた。


 いくら敵とはいえ、人間とほとんど変わらない生き物が、目の前で命が奪われる姿を見るのは耐えられそうにもなかった。


 「……横井さんは?」


 リコは、彩香が倒れている場所を一瞥した。


 「彼女も無事だよ。精を提供しただけで、命に別状はない」


 どうやら二人共無事のようだ。とりあえずは、人死になどの残酷な結末は避けられたらしい。


 「これで全て解決だね」


 祐真はリコにそう言った。リコは男性アイドルのように白い歯をのぞかせながら、爽やかに微笑む。


 「そうだね。一件落着だ」


 あとは、二人が目覚めるのを待って、事情を訊けばいい。


 なぜあんな真似をしたのか、どうやって二人は出会ったのか。魔道書のこと。訊きたいことは山ほどある。


 しかし――。


 彩香たちへの質問とは別に、祐真は不思議に思っていることがあった。


 リコについてだ。


 祐真は、リコの様子を横目でチラリとうかがった。リコは悠然とした風情で、晴れた空を見上げている。


 同種であるインキュバスを容易く一蹴する実力。ユーリーがよほど弱いのでなければ、リコは段違いの強さを誇っていることになる。


 召喚直後は、世にも珍しいインキュバスの家政婦としての域を出なかったが、古里たちの一件を経て、評価が変わり始め、ここにきて潜在力のお披露目である。正直、見直したといっても過言ではない。


 しかし、これがリコの実力だとすると、疑問が生じる。


 体育館で彩香が言及したように、淫魔は人間の精を吸うことで、魔力や生命力を維持している。だが、リコは現在、誰の精も吸っていない。理由については喜ばしくはないが、リコは祐真以外の精を吸うつもりがないためらしい


 それならば、リコはどうやって、強大な実力の根底である己の魔力を維持しているのだろうか。


 もしかすると、リコだけが特別なのかもしれない。そう思った。魔道書もないし、淫魔や魔術に関してわからないことだらけなので、そう結論付けるしかなかった。


 何はともあれ、リコは平然としている。特に問題が差し迫っているわけではないと見做していいだろう。


 しかし、心のどこかで、ちょっとした不安が新雪のように降り積もっていることを自覚した。


 祐真はリコと同じように、空を見上げる。秋に入り始めの透明色な空が、海のように広がっていた。





 そのあと、彩香とユーリーは目を覚まし、祐真たちは彼女らから事情を聞くことにした。


 怪我の治療も兼ねて、保健室を取調室に選定する。


 保健室には誰もいなかった。どうやらユーリーの『感染型』の淫魔術の影響で、保険医すら体育館へ赴いたらしい。つくづく厄介な魔術だと思う。


 四人は、保健室内にある応接用のソファに腰掛け、向かい合わせになる。ユーリーの隣には彩香、リコの隣には祐真が座っている。一見すると、家族面談でも始めるかのような雰囲気だ。


 リコが口火を切る。


 「それで、どうしてあんな真似をしたんだい?」


 リコの質問に、彩香とユーリーは顔を見合わせた。教えたくはないが、自分たちは戦いの敗者。従わざるを得ない諦めの心が、二人の中に去来している様が表情からうかがえた。


 彩香はおずおずと答える。


 「学校中の男子生徒にBLに目覚めて欲しかったから……」


 「BL……」


 祐真は彩香の言葉を繰り返した。一応、知っている名称である。


 BLとは、ボーイズラブの略で、主に男性同士の恋愛を描いたコンテンツのことを指す。愛好者は女性が大半を占めるらしい。


 「BLってなんだい?」


 リコがさらりと質問を行う。


 祐真はリコに説明を行った。BLについて特に詳しいわけではなく、あくまで自身が知り得ている内容のみに限定されるが、概要は理解できるはずだ。


 説明を聞き終わったリコは、感心した様子で腕を組んだ。アスリートのような均衡の取れた筋肉が強調される。


 「なるほど。つまり僕と祐真の仲を描いたような作品のことだね」


 「なんでそうなるんだよ。……とにかく、横井さんはBLの男ばかりにするために、ユーリーを使って淫魔術を広げたんだね」


 彩香は頷く。


 しかし、そこまでは説明を聞くまでもなく、察することができる部分だ。淫魔術の効果を見ればわかる。肝心なのは、その『目的』だ。


 どうして、学校中の男子生徒をBLにしたいのか。


 祐真が質問すると、彩香は答えてくれた。


 彼女は話し始める。事の発端の根幹を。『全世界BL化計画』の全容を。


 彩香の説明を聞き終えた祐真は、頭を抱えそうになった。男女の恋愛が汚く、男同士の恋愛は素晴らしい、という主張である。そして、それを自身が創作しているBL漫画に落とし込むことも目的の一つであるらしい。


 彩香は、当初とは打って変わって、爛々と瞳を輝かせ、熱く語る。


 「だから、世界中の男の人は、皆BLになるべきなのよ。そのための礎が、この高校だったわけ」


 想像以上に大きな彩香の野望に面食らいながらも、祐真は質問した。


 「だけどさ、世界中の男が同性愛者になったら子孫が生まれなくて、人類が滅んじゃうよ」


 彩香は鼻で笑った。


 「そんなことどうでもいいわ。私はただ、男同士の恋愛のみが存在する美しい世界で、BL漫画を描ければそれでいいんだから」


 随分と狂気を感じる思想だ。理解できない部分ばかりだが、彩香の本心はわかった。彩香は普段は面倒見のよい保母さんのような性格だが、BLの野望が関わると、常軌を逸脱するらしい。


 政治家のような『演説』を行った彩香は、一旦口を閉じる。すっきりとした顔をしていた。全てを吐き出したお陰だろう。


 すると、それまで黙っていたリコが口を開く。


 「彩香の主張はわかったよ。否定するつもりもない。だけど、一つだけ答えてくれ。どうして祐真をピンポイントで狙ったんだい?」


 言い終える時には、すでに視線はユーリーに向けられていた。ユーリーは、俯いたまま答えない。


 代わりに彩香が答える。


 「ユーリーは祐真君に一目惚れしたの」


 彩香は、以前渋谷で祐真と邂逅した話をする。今にして思えば、リコにとっては初耳の話だ。


 リコは、納得したような表情でこちらを見た。


 「さすがは僕の祐真だね。インキュバスをいとも簡単に落とすなんて。でも……」


 リコは、再びユーリーに目を向ける。そこには、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さと冷たさが込められていた。


 「僕がいる限り、決して叶わない夢だろうけどね」


 リコの静かな言葉に、ユーリーはわずかばかり肩を震わせた。圧力を感じ取ったようだ。耳の辺りまで伸びているさらりとした銀髪が揺らいだ。


 ユーリーはそこではじめて顔を上げる。整った鼻梁に、畏怖の暗い影が差していた。


 「……リコ、君は一体何者なんだ? 君のような強いインキュバスを見たことがない。それに、誰からも精を吸っていないんだろ? どうやって魔力を……」


 ユーリーはそこまで言って、口をつぐんだ。顔を強張らせる。視線の先はリコ。リコは、無言でユーリー直視していた。


 「僕のことはいいよ。僕が勝者で君は敗者。ただそれだけの話だ。すでに『淫魔術』は打ち破られているし、君らの夢は叶わない」


 ユーリーは再び俯く。瞬きに合わせ、長い睫毛が動いている。瞬きの頻度が高いのは、強い動揺を感じている証だろう。


 祐真は、保健室の窓から見える校庭を眺めた。


 戦場となった運動場は、すでに何事もなかったかのように元に戻っている。戦闘終了後、リコが魔術を使い、修復したからだ。

 祐真は彩香へ向き直る。訊きたいことがあった。大切なことだ。どうしても必要な。

 「横井さん、質問だけど、どうやって魔道書を手に入れたの?」


 魔道書を使わない限り、ただの人間が淫魔や悪魔を召喚できるわけがない。祐真がそうであったように。つまり、彩香もどこからか、魔道書を入手したはずなのだ。


 その情報を得られれば、祐真も魔道書を再入手できるかもしれない。リコを『召喚還し』するために。


 彩香は答える。


 「用事で君津市に行った時、見かけた図書館にあったの」


 君津市は、祐真が住んでいる富津市の隣にある市だ。


 「はじめはただ中を見て回るだけのつもりだったけど、不思議な雰囲気を放つ本を見つけて……。赤い色をしたハードカバータイプの本」


 彩香はその本がどうしても気になり、借りてしまったようだ。そして、中に書かれてあった説明通りに召喚を行い、ユーリーが現れた。


 淫魔を召喚する過程は、驚くほど祐真の状況と酷似していた。ただの偶然か、何かしら理由でもあるのか。いずれにしろ、魔道書入手のヒントにはなる。


 祐真は彩香にその図書館の名前を訊いた。彩香は教えてくれる。結構大きな図書館のようだ。


 今度の休日にさっそく訪れてみよう。もしかしたら、魔道書の入手ないしは、何かしらの発見があるかもしれなかった。


 「話は終わったようだね」


 リコが明るく言う。今まで黙って彩香とのやり取りを聞いていた以上、祐真が『召喚還し』のために行動を起こすつもりであることについては、異論がないようだ。


 リコは彩香とユーリーを見比べながら、言葉を続けた。


 「それじゃあ、話を纏めようか。これから先、淫魔術やユーリーを使っての『全世界BL化計画』とやらは実地しないこと、それから、ユーリー、君は祐真に一切近づかないことを約束してくれ」


 脅迫にも似たリコの物言いに、二人は同時に頷いた。


 そのあとで、彩香は口を開く。


 「ユーリーや淫魔術を使わなければ、『全世界BL化計画』は進めてもいいのね? 例えば、BL漫画を利用して世界に広めるとか」


 「それは好きにすればいいさ。別に君の思想は否定するつもりはないよ。むしろ、君の描く世界が実現されたほうが僕にとってもありがたい」


 リコは、意味深にこちらに目配せを行った。祐真はリコの本心を察し、顔をしかめる。


 彩香は、身を乗り出すようにして言う。


 「だったら、私の計画に乗ってくれても……」


 リコは手を前に突き出し。押し留める仕草を取った。


 「それは駄目だ。わかるだろ? 色々と問題があるんだよ。魔術を使うとね」


 リコの拒絶を受け、彩香は押し黙る。しかし、表情は暗くなかった。むしろ光が宿ったようにも見える。おそらく、自身の創作物を用い、計画を実行するつもりらしい。目的を持つと、人は前向きになれるのだ。


 会話が一段落し、祐真は下を向いた。保健室の木目を見ながら考える。


 自分が為すべきことは、簡単だ。彩香の話にあった図書館に赴き、魔道書を探すこと。それ一択。ゆえに、新たな情報を得たことは喜ばしいはずだ。


 だが、なぜか心の中にちょっとしたわだかまりがあることを自覚していた。


 その根源が自分でも理解できなかった。





 それからの展開は、驚くほどのスピードで進んだ。


 まず、全校生徒と教師にかかっていた淫魔術は解除された。これはすでにリコが教えてくれた通りである。しかし、信じられないことに、淫魔術にかかった全員が全員、その時の記憶を消失しているのだ。


 どうやらユーリーは、淫魔術に『ある仕掛け』を施していたらしい。淫魔術が解除された場合、感染者は全員、自分たちが淫魔術の影響で行っていた行為や、それに纏わる記憶が綺麗さっぱり消滅するようだ。


 おそらく、混乱を抑制するために設けた機能ではないかとリコは推察していた。


 そのお陰で、体育館で集団催眠から目覚めた全校生徒や、教師たちはすでに以前と同じ状態に戻っており、男子生徒たちには同性愛の気配など微塵もなかった。


 ただ、集団催眠の影響は出ており、教師や生徒のほとんどが倒れていたということで、救急車が出動された。大勢の生徒や教師が救急隊員の手で診られたが、全員に異常はなく、病院に搬送された者もいなかった。


 最終的には体育館を締め切っていた影響で、酸欠が発生したせいだと結論が出された(このことは、地元のニュースや新聞で小さく報じられた)。


 混乱こそは少しはあったものの、結局のところ、翌日には淫魔術に汚染される以前の日常の世界が戻っていた。


 現時点で、喜屋高校において『全世界BL計画』が推し進められたことを知っているのは、祐真と彩香のみ。彩香はもうユーリーを使って悪さをするつもりはないようだし、すでに何事もなかったかのように日々が進行していたため、祐真の記憶からすぐにそのふざけた名称は薄れてしまっていた(本人が言及したように、彩香は自身の漫画を使ってBL化計画を邁進させているようだが)。


 ほとんどが万事解決し、祐真は一安心していた。あとはリコを『向こうの世界』へ送り返せば、すぐに前の日常を取り戻せるはず。


 そして、その時がくるまでには、今回のような異常な事態がそう何度も起きないだろうと、祐真は楽観視していた。安心して魔道書の捜索ができると。


 だが、イレギュラーというものは重なるものだ。因果は複雑に絡み合っているが、遠くまで伸びる。まるで運命のように。


 祐真は、直近の出来事からそれを学ぶべきであったのだ。


 祐真は己の甘さを嘆くこととなった。





 夜もふけ、満月が見下ろす中、風川花蓮は喜屋高校の運動場へと立っていた。


 子犬のようにくんくんと鼻を鳴らし、ゆっくりと運動場を歩き回る。己の小さな鼻に、様々な情報が『匂い』として流れ込んでくるのが実感できる。


 花蓮は確信した。間違いない。これは魔術の香りだ。それに、薄汚い淫魔術の臭気も入り混じっている。


 この学校に淫魔がいた証だ。


 花蓮は運動場を通過し、校舎に近づく。そして、月明かりの中、手元に持っていた千葉の地方新聞誌に目を落とした。


 新聞の片隅に、喜屋高校で発生した集団酸素欠乏症の事故記事が記載されてある。教師を含め、大勢の生徒が倒れたらしいのだが、死者も重症者もいないため、扱いは小さく、通常なら記憶に残らない類の記事であった。


 だが、この記事を見た瞬間、花蓮の直感が告げた。何か特別な『存在』が関与しているのではないかと。


 その直感はビンゴだった。仕事の依頼が堆積している中、わざわざ出向いた甲斐があった。


 花蓮は、運動場から校舎が建っている区画へと入る。巨人のようにそびえ立つ校舎の合間を縫いながら、教室棟を目指した。


 教室棟へとたどり着いた花蓮は、一番手短にある教室へと近づいた。当然だが、明かりは点いておらず。外から中の様子をうかがい知ることはできない。鍵もかかっていることだろう。


 しかし、そんなことは関係ない。闇に染まった窓ガラスを眼前に、花蓮は指揮者のように指を振った。


 その直後、ガラスの内側にあるクレセント錠が、まるで透明人間が動かしているかのように、独りでに回った。


 解錠された窓ガラスを開け、花蓮は校舎の中に足を踏み入れる。本来なら、セキュリティシステムが起動し、警報が鳴り響くと同時に、警備会社に通報がいくはずなのだが、花蓮は前もって、セキュリティシステムを無効化していた。


 花蓮は、再び匂いを嗅ぎながら、校舎内を進む。かすかに漂う淫魔術と、そして淫魔の臭気を辿りながら。より色濃いほうへ。


 やがて花蓮がたどり着いたのは、中校舎の二階にある教室だった。表札を確認すると、二年一組と記されてある。


 花蓮は扉を開け、教室内へと入った。なおも匂いを辿る。そして、一つの席へと到達した。


 この席で間違いないだろう。特に色濃く淫魔の臭いがする。


 しかし、不思議に淫魔術の臭いは感じられなかった。校舎や運動場には火事のあとの焦げ臭さのように、残り香が漂っていたにも関わらず、この席はむしろ薄かった。

 少なくとも、淫魔術の出所はここではないということか。ただし、今度は『魔術』の香りを強く感じた。


 花蓮は、髪をかき上げ、机の中に手を伸ばす。この机の生徒は置き勉をしているらしく、教科書やノートが残されていた。


 ノートに記された名前は『羽月祐真』。


 花蓮はほくそ笑んだ。名前と『匂い』さえ掴めれば、この生徒の元までたどり着くことは容易だろう。よほど、高等な魔術を使って隠蔽でもしていない限りは。


 断言できる。確実に『羽月祐真』のそばに淫魔がいるはずだ。生徒の名前からして、男子だろうから、おそらくサキュバスが召喚されたと推察できる。


 花蓮の脳裏に、極めて汚らわしい想像が展開された。


 思春期の男子高校生と、情欲の権化であるサキュバス。この上もないくらい相性がよい組み合わせだろう。


 サキュバスは、毎夜扇情的な服を着て、豊満な胸を揺らしながら男子生徒を誘惑するのだ。サキュバスの誘惑に抗える男は存在しない。誘惑に応じた男子生徒とサキュバスは、ベッドへ入り、性欲の赴くまま淫らな時間を過ごすのである。


 思わず吐き気が込み上げてきて、花蓮は、口元に手を当てた。腹の奥底で、嫌悪感が大海の渦のように回っている。


 深呼吸を行い、気持ちを落ち着かせたあと、花蓮は『羽月祐真』の席から離れた。

 教室を出て、真っ暗な廊下を歩く。窓から差し込む満月と静謐な雰囲気に包まれながら、花蓮は心に誓う。


 決して認めない。性欲の象徴のような存在である淫魔など。必ず打ち滅ぼしてやる。いくら尋常ならざる力を持った相手だろうと関係ない。


 これは駆除だ。


 退であるこの私の宿命である。

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