第3話 迷子

 まだ夜明け前だった。

 ようやく動いた身体で、ふらふらと裏口から出た。子供のころ回覧板をまわすのに、何度か行き来している。ブロック塀の向こうの家。


 この家にはもう誰もいないというのに。

 なぜか待っているのではないかと思った。誰も居ない。わかっていても、訪ねてみたい気持ちが勝った。


 塀の切れ目に小さな門があり、人が入らないようにかビニールテープが巻き付いていた。

 その先に、放置され荒れた庭が見える。空が少し明るくなっていた。

 テープを解いたり切るよりも、足をかけるだけで乗り越えられそうな高さだ。

 壊れないかと、体重をかけて揺すってみる。確かめた後に、門の飾り模様に足をかけた。


 と、真後ろから激しい犬の鳴き声がした。身体が跳ねそうなぐらい驚き、振り返る。

 リードをいっぱいに引いて小さな犬が吠えていた。隣には訝しそうにこちらを見る、薄着のおじさんが立っている。

 心臓が激しくなり、途端に自分のしでかそうとしていたことを自覚した。

 こちらが愛想笑いをすると、しかめっ面のままリードを引っ張った。犬がまたけたたましく吠える。怪しそうに振り返りながら、おじさんは散歩に戻った。

 薄く朝日が指すなかで、立ち尽くした。




 その日のうちに粗大ごみは無事に搬出できた。

 帰りの車の中で、姉は一仕事片付いて、晴れ晴れとした表情だった。

「姉ちゃん。裏の家、行方不明だった人が居たって知ってた?」

「そりゃあね。あたしは高校上がった時だったから、気を付けるようにってきつく言われたし」

「覚えてないんだけど」

「あんたは小学校あがって、すぐぐらいだったからじゃない?」

 子供すぎて、だから覚えていないのだろうか。

「……うちの中で、あんまり話題に出さなかった感じはあったよ。警察とか来てたと思うけど。真後ろの家って、近すぎたし。人さらいなんて、ほんと嫌な事件」

 警察、パトカーを見た記憶は薄っすらあるかもしれない。


 でも覚えてない? と姉が続ける。

「その人と会ってるんだよ。迷子のあんたをうちまで連れて来てくれた」

「え?」

「幼稚園、学校上がる前だったと思う。あんた一人で玄関から出て、そのへんうろうろ歩いて。泣いてたとこ、迷子になってたって連れて来てくれたの。その印象があって。だから余計にみんな、あの人が事件にってショックで悲しくて。優しくてきれいな人だった」


 迷子。帰ろうと伸ばされる、白い手が頭をよぎった。

 会ったことがあったのか。

 ほとんど覚えていないことを、申し訳なく感じた。

 あの影が呼んでいたような気がしたのはなんだろう。ただ懐かしがってくれたのか。

 裏の両親は、帰ってこない娘をずっと待っていたと聞いた。

 骨になったあの人は、誰もいない家に帰ってきたのだろうか。死んでからも家族と会えないでいるのだろうか。




 この季節のせいもあるのか、コンビニにも線香が並べられ、夕飯のついでに買うことが出来た。使いかけのライターは実家の引き出しから、大量に見つかった。


 日の暮れかけた空に、雲が赤い。ビニールテープの巻かれた門の前で、線香に火をつけた。のぼる煙は独特の匂いと共に、すぐに風にとばされる。

 あの人の為に、他にどうすればいいかわからなかった。





 一年後、母親の面会の為病院へ行った帰り。姉の車で実家に寄ると、裏の家は解体されていた。

 業者が手を付けてから、更地になるまで早かったという。


 今はその更地に、また雑草が伸びていた。花びらの反り返った鬼百合が、ひときわ目立つ。

 確かめるために一晩実家に泊まったが、あの人の影は、もう夏が来ても見えなかった。

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夏の白い手 森沢 @morisawa202305

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