感想の主

ごじょー

感想の主

 僕には『自分の物語を書いてみたい』という密かな夢があった。


 物心ついたころから本に夢中だった僕は、毎日の教育番組やキッズアニメよりも、一日中家にある本を片っ端から読み漁っているような子供だった。

 誰かが書いた本の中にある、自分の知らない世界を渡り歩くたび、『そうなんだ!』『どうなるんだろう?』という知的好奇心を日々掻き立たされ、常にワクワクを感じていた僕。


 その感情は、時の流れと共に次第に変わっていって、


『読む人をワクワクさせる本を書くって、すごいなぁ』

『僕も、こんなふうに書いてみたいなぁ』


 "作る側"に立ちたいと、自然とそう思うようになっていた。

 そんな気持ちが日に日に増していく一方で、なかなか勇気を出せずに最初の一歩が踏み出せないまま、迎えた高校2年生の春。


 ――僕は、学生生活に絶望していた。

 全てを捨ててしまおうかと、そんな自暴自棄な考えがよぎってしまうくらいに。


 その理由は、一言で言うとシンプルで。

 高校のクラスメイトに、毎日からかわれているのが、すべての原因だった。


 朝礼前、休み時間、放課後。

 暇な時間さえあれば本を読む、そんな僕の姿は、周りから見ればクラスの輪に入ろうとしない”異物“に見えるみたいで。

 やれ『陰キャ』だの、やれ『ヒョロガリ』だの、よりどりみどりの陰口を言われ続けた。


 それだけならまだ可愛いものだ。

 中でも一番酷いのは、陽キャの塊でもあるクラスの人気者、同級生の源田。

 ルックスよし、運動神経よし。

 頭は悪いらしいけれど、テストの赤点をひけらかして笑いをとるような、生まれてこの方負けを知らずに過ごしてきたような、そんなやつだ。


 2年生に上がって同じクラスになってからも、僕は相変わらず休み時間に本を読み耽っていて、放課後には決まって図書室に向かう。

 それを見て源田は、ある日僕に、面と向かってこう言ったんだ。


『女みたいで、ナヨナヨして気持ち悪ぃ』


 ――これが、初対面での最初の一言。

 側から見た僕の印象は『そういうやつだ』というのが、クラス中に根付いてしまった。


 それを機に、他のクラスメイトは源田に同調したらしく、僕への風当たりの強さは、じわじわとエスカレートしていくことになる。


 昨日は、椅子を引かれてすっ転んだ。

 また別の日には、読んでいた本をトイレに行っている間にゴミ箱へ捨てられた。

 さらに別の日には、提出する宿題を盗まれて、しぶしぶ宿題を忘れたことにして先生に怒られた。


 もはや、本を読む以前の話。休み時間よりも授業のほうがまだマシに感じていた。

 流石に放課後は部活動などがあって、図書室まではつきまとってこないようだが、それ以外の学校生活を誰かに奪われていく、そんな生活が続いている。

 源田以外のクラスメイトも、本気で賛同している人もいれば、我が身可愛さに源田側につく人もいる。

 結局、擁護してくれるような人は、誰もいなかった。

 救いがなかった。


 本を読むのはこれ以上ないくらい好きで、すでに僕の日常に欠けてはならない時間なのに。

 それをどれだけ貶されようが、どれだけ不快にさせられようが、僕の唯一の楽しみを手放すことなんてできなかった。

 誰かが作った、僕が知らない世界を旅しているような感覚を、僕はどうしても捨てることができなかった。


 でも、そこまではいいんだ。そこまでは。

 自分が今抱いている、溢れるような気持ち。


『自分の物語を書きたい』


 その思いは、増す一方なのに。

 そこから先に、どうしても進むことができない。

 これ以上、何か他人と違うことを始めてしまうと、僕はさらに居場所を失ってしまうんじゃないか。

 源田たちの言動が、ヒートアップして、もう僕は立ち直れなくなってしまうんじゃないか。


 ……正直、もううんざりだ。


 親に「いじめられてます」なんて、恥ずかしくて言えるわけない。だからと言って何も言わずに不登校になるのは、親にいらない心配をかけてしまう。

 真っ向から対抗するにも、僕一人では力が足りないし、何もできずに現状維持を貫き続けるのにも疲れてしまった。


 一寸先は闇、袋小路に閉じ込められて――なんて、それらしい言葉を使うのも嫌になってくる。

 なにが正解で、何が間違っているのか。

 僕は一体どうすればいいのか。

 みんなと意見を揃えるために、二度と笑われないようにするために、やりたいことは我慢して、平凡に生きる努力をすべきなのか。

 何をどうすることもできず、僕は立ち往生してしまっていた。


 ――そして今日、長過ぎる憂鬱な一日が終わった放課後。


 僕はチャイムと同時に学生鞄を乱雑に引っ張り上げ、なるべく音を立てずにこっそりと身支度を済ませ、図書室に向かって逃げるように教室を後にした。




◇◆◇◆◇




 無駄に急いできたせいか、呼吸が荒い。

 しかし、落ち着くまで待ちきれない僕は、はやる気持ちを抑えつつ、図書室のドアをゆっくりと開けた。

 開けた先から、慣れ親しんだ紙の古めかしい香りが漂ってきて、本好きな僕には自宅のような安心感に包まれる。


 そのまま、無数にある本に誘われるように、ドアをくぐった。


「――ん? ああ、田中君じゃないか」


 図書室に入って早々、カウンター越しに名前を呼ばれた。

 声の出どころに目を向けてみると、国語担当の神野先生が受付に座っていた。

 たまに放課後の図書室の管理を兼任されていて、どうやら今日がその日だったらしい。


「……こんにちは」


 僕は、乱れた呼吸を飲み込むように抑えて、控えめに会釈する。

 図書室のドアを閉めつつ、早歩きでカウンターを横切り、平静を装いながら、夕日が差している日当たりのいい特等席を陣取った。


 そして学生鞄の中から、本を無造作に引っ張り出して、読書に耽ろうとする。


「――ちょっとまった」

「……っ」


 ひょっとしたら、とは思ったが、やはり神野先生が声をかけてきた。

 先生の視線で、なんと無く気づいてはいたが。

 あからさまに避けようとしたのがまずかったのか、先生はカウンターから立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「……同席してもいいかな」

「……どうぞ」


 少し間を空けて、返事をした。

 一瞬迷いはしたものの、僕に断る勇気なんてない。

 先生は構わず「よいしょ」と、僕の目の前の席にゆっくり腰掛けた。


 神野先生は長身で、すっきりとした姿勢から立ち居振る舞いの良さが伺える。

 僕と同じく普段から本を読むみたいで、たまに図書室で見かける時の、落ち着いた色合いの服装と片手に本を抱えた立ち姿は、まさに人生経験豊富そうな紳士に見える。


 以前から僕は、図書室で先生を見かけるたびに「どんな本を読むんですか?」と聞いてみたかったのだけれど、流石に今はそんな雰囲気でもなく、言葉を飲み込んでしまう。


「田中君」

「……はい」


 恐る恐る返事をする。

 なぜだろう、まるで尋問されているような気分だ。

 別に何も悪いことはしていないのに。


「――田中君は、どうして本が好きなんだ?」


 そんなことを、単調な声色で尋ねられた。

 唐突な質問に、僕は困惑した。


「え、ど、どうしてって……」


 何もかもがいきなりすぎて、うまく思考が回らない。

 あからさまに口をもごもごさせている僕は、おそらく先生には滑稽に見えているのだろう。

 それを見かねたのか、先生は続けた。


「――正直な話をすると、田中君に関する話は、職員室まで耳に入ってくるよ。休み時間もそうだが、こうして放課後も本を読んでいる物静かな男子で」


 僕の日頃の行いが、先生たちに伝わっている?

 まるで一挙手一投足をくまなく観察されているような錯覚に襲われ、一気に不安になった。


「だから、クラスに馴染もうとせず、一匹狼を貫いていて空気を読もうとしない。そんな生徒だってね」


 淡々と語る神野先生。

 先生が話す内容は、なんだ、黙って聴いていれば、全部僕に非があるような言い方だ。


 確かに僕は、人とコミュニケーションをとる時間よりも、本を読んでいる方が楽しい。

 本を読んでいると新しい話や急展開にワクワクしたり、同時に知見を深めることができる。

 一石二鳥じゃないか。それのーー。


「……それの、何が悪いんですか」


 と、心の声が漏れてしまったことに、発言してから気付いた。

 場が悪くなって、つい顔を背けてしまう。

 しかし、先生は片方の手のひらを向けて、僕を制した。


「まぁまぁ、早とちりは良くない。何も、それが悪いことだなんて言ってないさ。もちろん、ほどほどにコミュニケーションが取れると嬉しく思うけどね……そんな風に、田中君の話を聞いているーーただ」


 神野先生は机に両肘をついて、真正面から僕を見つめた。


「ただ、その逆に、同級生からやいやい言われながらも、本を読むのをやめない。自分の好きなことに集中できる、芯の通った子だって、そんな話も聞くんだ」

「え」


 先生の言葉が、僕の意識を惹きつけた。


「ネガティブな意見もあり、ポジティブに捉える意見もある。この学校に生徒は何百人といるけれど、意外と一人一人見られているんだよ」

「……そう、なんですね」


 僕の知らないところで、そんな風に評価されているなんて。いまいち実感はないが、人伝に聞いた話というのは、何かこう、心に来るものがある。


「うん。そこで、それぞれ食い違う意見は、本当のところどうなのか。私はそれを知りたくてね……さて、再度質問しよう。田中君はどうして、"そこまでして"本を読むんだい?」


 両肘ついた手の上から、神野先生の視線を痛いくらいに感じる。

 先生は本格的に、僕を品定めしようとしているらしい。


「僕は……」


 何かを伝えようと思っても、相変わらず口が回らない。

 そんな問いただし方は、妙に緊張してしまう。

 でも、さっきみたいに、先生が口を挟んでくることはなかった。

 ただそのままの姿勢で、僕がどんな話をするのか、反応を待っているようだ。


「……ふぅ、すぅー、はぁー」


 そんな得体の知れない視線を浴びながら、僕は一度深呼吸をした。

 乱れた思考を整えるように、大きく脈打つ心臓の音を鎮めるために。

 もう一度、さらにもう一回深呼吸。

 何度か繰り返すうち、落ち着いてくる。

 体の熱が、ようやく冷めてきた感覚。


 これなら、なんとか話せそうだ。


「僕は……」


 意を決して、言葉を紡ぐ。


「……僕は、できるのなら、物語を書きたいんです」


 やっと言葉にできた。

 それも、誰にも言えなかった、密かな夢を。


「昔から、本が好きで、楽しくて、時間を忘れるくらい、楽しくて。そう思っていると、それが羨ましくなって、『こんな話を僕も書けたらいいな』って思うように、なりました」

「うん」

「でも、クラスのみんなは、ずっと本を読んでいる僕が変な奴に見えるみたいで、女みたいだって言われて、みんなそう言うから、僕が間違っているのかって、思い、はじめて……」


 話しながら、じわっと目頭が熱くなってきた。

 さっきまでまごついていたのが嘘みたいに、心の奥で思っていた不満とか不安とか、言葉になってスラスラと出てくる。止まらない。

 先生はずっと姿勢を変えず、「うんうん」と相槌を打っていた。


「僕はすごくやりたいことがあるのに、みんなはそれをおかしいって笑うんです。僕が陰キャだってことも、体がヒョロガリだって言われるのも、それは本当のことだから、多少我慢できます……だけど、大好きな本を読むことを馬鹿にされて、それがなくなったら、僕は何もなくなってしまう。本を書くっていう夢も、諦めてしまおうかと思う自分と、諦めたくないって思う自分がぶつかって、どうしたら良いのか、わからなくなって……」


 そこまでいって、僕はついに言葉が出なくなり、俯いてしまう。

 すべて吐き出した。

 思ってることぜんぶ、打ち明けることができた。

 涙は、僕の本音と同じくらいぼとぼとと机に垂れていく。


「……よくわかった。ありがとう」


 しばらくの間があって、ようやく先生が口を開いた。

 僕は一度大きく鼻をすすって、制服の袖で涙をごしごしと拭いた。


「その様子だと、今まで頼れる人もいなかったんじゃないかい? 一人でよく頑張ったね」


 優しい言葉をかけられ、またも僕は大粒の涙をこぼした。

 頭の中でぐるぐる回り続けるだけだった悩みを、ついに吐き出すことができたから、もう歯止めが効かなくなっていた。


「……さて、まず結論から話そう――」


 先生は再び間を置いて、僕の鼻をすする仕草がある程度収まったのを確認し、そして口を開いた。


「――君は、何も間違っていない」


 先生の一言に、僕は俯きながら、目を見開いた。


「物語を書きたい。涙が出るほど本が好きで、夢を諦めたくない……すごいことじゃないか。今の時代、学生でも、私たち大人でも、田中君みたいにやりたいことが決まっている人はほとんどいない」


 先生は、立てていた両腕を前に倒し、僕にまっすぐ向き直った。


「『これを買いたい』とか『これを食べたい』とか。あとは単純に『お金を稼ぎたい』とか。そんな簡単な欲じゃなくてね。本当に、心の底からやりたいこと。"将来の夢"とか"明確な目標"って言ったりするね。

 夢や目標を見つけられない大勢の人の中で、一人だけ『見つかった!』なんてアピールしてる人がいたら、そりゃあ目立つさ。変なやつだと思われても仕方がないだろう? 人間なんて、小数派を疑ってかかるような生き物だから、自分を含めた大多数と違うことをやっている人がいれば、当然『お前は間違ってるんじゃないか』っていうだろうね」


 先生の言葉が、くっきりはっきりと頭に流れてくる。


「あくまで、価値観の問題だよ。周りが『間違っている』と言うことも、別グループの視点からみれば『それこそ間違っているよ』って言うかも知れない。そんなふうに、何が正しいのか、何が間違っているか、最終的に決めるのは、他でもない自分なんだ。だから繰り返し言うよ。"私は、君は何も間違っていないと思ってる"」


 気づけば僕は、無意識に顔を上げていて、先生と視線を合わせていた。

 目の前の神野先生は、柔和な笑顔でこちらをみていた。心から思っていることを、余さず伝えるように。


「……僕は、間違っていないんですか」

「うん、間違っていない。君が正しい」

「……僕は、自分のやりたいことを、やっても良いんですか」

「もちろん! 逆に羨ましいよ。若いうちにやりたいことが決まっていて、それを好きにやれる時間が膨大にある。大人になったら、たとえやりたいことが見つかったとしても、なかなか時間を作ることが難しくなるから、すぐに時間が足りないって思ってしまうし、もう若くないからって諦めてしまう人も多いからね。田中君。君はものすごくツいてるよ」


 僕は、ずっと霧がかっていた景色が、ぶわっと勢いよくひらけた錯覚を覚えた。

 今まで、誰にも言えなかったことを、たった一人の、それもあまり言葉を交わしたことのない神野先生にすべて打ち明けて。

 先生は否定することもなく、渋ることもなく、僕の進路を切り開いてくれた。

 はじめて、僕は救われた。


「ちなみに、田中のことを芯が通ってるやつだって言ったのは、何を隠そうこの私だ」


 先生は悪戯っぽい笑みを浮かべつつ席を立ち、「あまり遅くまで残るんじゃないぞ」と言い残して図書室から出ていってしまった。


 ――しばらく呆然としていた。

 終始、紳士のような立ち居振る舞いで、正直かっこよかった。

 あれでもし、神野先生が凄腕の小説家だったりするなら、僕は先生みたいになりたいと思ってしまった。


 だけど、それよりももっと、認められた夢を何よりも早く形にしたいと、そんな気持ちが湯水の如く溢れかえっていた。


「……よし!」


 また目元をゴシゴシと拭いて、勢いよく席を立つ。

 僕はせっかく出した本を急いで鞄に戻し、衝動的に帰路につくのだった。




◇◆◇◆◇




 ――それからは、時間の流れを早く感じた。


 ちょうど翌日が土日休みだったこともあり、僕は思いの丈をぶつけるように、自室でひたすら文字を書いていった。

 自宅にパソコンがないので、打ち慣れた携帯のメモに直接ポチポチ打っていく。

 悩んでは書き、間違えては消して書き直し、地道に作業を進めていく。

 朝から晩まで、頭の中にあるイメージを形にしていくのはとても楽しかった。


 こう言う時はどんなふうに書き表わせばいいんだろう。

 こう言う時、他にどんな言い換え方があったっけ。

 句読点で区切りすぎだろうか、それとも一文一文短く、体言止めも駆使して……難しい言葉は使わず、誰でも読めるような、イメージがつきやすいような――。


 頭の中で、たくさんのことを意識しながら文字に起こしていくのは、とても大変でとても疲れる。

 けれど、見返せば徐々に形になっていく自分の物語をみて、そんな疲れも吹き飛ぶくらい没頭していた。


 ちなみに、物語はこんな内容だ。






 ――ある一匹の小さな魚がいた。

 魚は生まれてからずっと、遠くの海に旅に出て、いろんな景色を見たいと思っていた。

 しかし、魚の家族はみんな、魚のことを『変なの』『お前には無理だ』と否定してくる。

 家族みんなに否定されて、魚は落ち込みながらすみ家の近くを泳いでいると、山のように大きなクジラと出会う。


 クジラはあまりにも魚が落ち込んでいる様子だったため、『どうしたんだ』と尋ねた。

 最初は驚いた魚だったけれど、少しずつ本音を伝えるたびに、心の中にある迷いや不安を次々に打ち明けた。


 遠くの海に行って、みたことのない景色を見たいこと。

 それを、みんなが笑ってくること。

 みんなと違うことに不安で、どうすれば良いのかわからなくなってしまったこと。


 それを聞いたクジラは、自分よりもはるかに小さな魚が、自分と同じ夢を持っていることに、とても驚いた。

 色んな海を泳いで、色んな景色を目に焼き付けてきたが、まだまだ知らない、みたことのない景色がある。それを見に行かないのは勿体無い。

 クジラはもう歳をとったので無理はできないが、まだまだ小さい魚なら、この海のすべての景色を見にいくことができるかも知れない。

 大きな海流に流されることもあるし、天敵に襲われることもあるかも知れないが、それでも見に行くだけの価値はある。


 そんな風にクジラに鼓舞された魚は、自分の心を信じて、旅に出ることにした――。





 ――ありきたりかもしれないけれど、そんな内容を夢中になって書き続けた。

 元々、書きたかったジャンルはぜんぜんちがったけれど、今はどうしても、こんな物語を書きたかった。

 本来、何をどのように書くか、どんな結末にするか、先に構成を練ったりするものだと思うけれど、今回ばかりは思い描いたイメージを早く文字に起こしたくて、打つ手が止まらなかった。


 そして僕は、初めての小説を、土日の二日間で書き切ってしまった。


「……で、できた」


 たった数千字くらいの、短編と呼べるかどうか瀬戸際のライン。

 だけど、一番最初に書く作品としては、これ以外に考えられなかった。

 小説の書き方は、基本的なところだけネットで調べて、あとは独学だ。

 だからこそ、残りの時間で入念に推敲する必要がある。


 誤字脱字がないか。

 この文章表現はわかりづらいんじゃないか、間違っているんじゃないか。

 ちゃんと声に出して、文章として成り立っているか。

 魚やクジラのキャラクターはぶれていないか。

 読み手の心が動くような展開で書けているか。

 僕の伝えたいことは、ちゃんと伝わるように書けているか。


 始めたばかりで、初心者ながら持てる全てを駆使して書いた、一本の短編小説。

 何度も見直して、書き直して、見直して……それを繰り返していくうち、あっというまに夜は更けていく。

 本当は一日置いて、冴えた頭で推敲し直したいところだったが、僕はもう我慢できなかった。

 書き切った小説をそのまま、だいぶ前から作ってほったらかしにしていたWeb小説サイトの、新規小説作成画面にまとめてコピペして、最後に初めから終わりまでダーっと誤字脱字の確認をして。


 そして僕は、投稿ボタンを押した。


 物語のタイトルは『魚の夢』。

 本当にありきたりに見えて、書いていて少し恥ずかしい気持ちだった。

 けれど、後から手直しもできるみたいだし。

 タイトルと本文は一旦そのままにしておいて、アカウントの作者情報を簡単に修正した。


「はぁ……ついに、書いた。書いたんだ。書いて、載せてしまった」


 一息ついて、何度か更新ボタンを押す。

 投稿したてなので、アクセス履歴はもちろん0のまま。


 もしも、万が一にでも、初めて書いた小説がバズってしまったらどうしよう?

 逆に、全然見られなくて、評価もなかったり、ましてや批判のコメントが来たりしたらどうしよう?


 そんな不安をかかえていた僕は、寝る間も惜しんで書き続けたせいか、座ったまま気絶するように眠ってしまった。


 机の上にある時計の針は、月曜日の夜の3時を回っていた。




◇◆◇◆◇




 ――次の朝。


 聞き慣れた、スマホのアラームが鳴る。

 そちらに目も向けず、音のなる方に手を伸ばし、雑にアラームを止めた。


「うぅ……」


 机に突っ伏すように寝ていた僕は、体の節々の痛みと共に起きる。

 現在時刻は、午前7時過ぎ。

 これから準備を始める、いつもの時間だ。


「……あれ、いつのまに寝て……いてて」


 固まった体にまた痛みが走る。

 無理やり伸ばすように、一度大きく伸びをした。

 そこで、僕は意識を覚醒させた。


「……あっ、小説!」


 はっと気づき、自分が思ったよりも大きな声で叫んだことにも気づかず、机の端で今にも落っこちそうなスマホを鷲掴みして、昨日のアカウントを開いた。


「履歴……アクセス履歴は……」


 まだ完全に意識がはっきりしていないのか、おぼつかない指で画面を操作する。

 そして、アクセス履歴を開いた。


「PV数は…………2、か」


 PVとは、そのページを見た回数のこと。

 昨日の夜から、僕の書いた小説を見られた回数が、2回。

 そりゃあ初めての投稿だし、他の長編小説が爆発的な人気を取る中で、未明の作者が書いた短編小説を一体誰が読むのだろうか。


「そう、だよな。そんなもん、だよな」


 高揚した体が、一気に冷めていく感覚。

 僕は自分でもわかるくらい、肩を落としていた。

 そう思って、机にスマホを置こうとすると。


「……ん? あれ……感想……?」


 ふと、画面の端っこに、小さな文字で『感想が来ています!』の表示が見えた。

 その文言を見つけた時、冷めかけた僕の体は、再び底から沸き上がっていくのを感じた。


「わ、どうしよう、感想きてる!」


 僕はどうすればいいかわからなくなり、立ち上がって自室を歩き回った。

 見てくれている2人のうち一人が、感想を書いてくれていると言うこと。

 まだレビュー画面は見ていないので、良い内容なのか批判なのかはわからない。

 こう言う時、悪い想像ばかり膨らんでいく。


「悪いこと言われてたら……でも、初めて書いたから、今後のために受け止めて……いや、でも」


 思考がぐるぐる回り過ぎて、気持ちが定まらない。

 でも、一刻も早く感想を見たい。

 その気持ちが先走って。


「よし……せーのっ」


 気持ちを入れ直して、僕は感想を開いた。

 そして僕は、画面を食い入るようにみた。




『すごくよかった。感動した。ありがとう。次の作品もまってます』




 ――短い、たった二行ほどの感想文。

 小学生が書いてくれたような、単純な文章だった。

 ただ、単純な文章ほど、人は理解しやすいもので。


 僕はそれを見て、込み上げる嬉しさと、報われた喜びで、涙を流した。




◇◆◇




 ――その後。


 朝から腫れぼったい目をして朝食を食べる僕を、心配そうに見つめる親の視線に気づかないふりをして、普段通り登校した。

 今までかかっていた霧が嘘のように、普段見慣れた通学路の景色が、何もかもキラキラしているように見えた。


 僕の小説が、受け入れられた。

 僕の書いた物語を、読んだ人に感動してもらえた。

 僕のやったことは、間違っていなかったんだ。


 雲一つない澄み渡る青空を眺めながら、僕は学校に到着した。


 ――ほんの少し鼻息が荒くなっているのを抑えつつ、席についてスマホを取り出す。

 そして、再度小説サイトのアカウントを開いた。


 その時だった。


「田中」

「……っ!」


 突然、名前を呼ばれた。

 小説のことに気を取られて、全く気づかなかった。

 この声は、嫌でも聞き覚えがある。


「……源田」


 恐る恐る顔を上げると、そこにはいつも通り制服のシャツを着崩した源田がそこにいた。

 教室中のクラスメイトの視線が集まるのをひしひしと感じる。

 僕は体を身構えてしまっていた。

 また、クラスメイトたちがいる前で、馬鹿にされてしまう。

 今日1日を、全てこいつにぶち壊される。

 まず浮かんだのは、そんな想像だった。


「……」


 しかし、源田から次の一言が出てこない。

 ほんの少し、チラッと源田の顔を伺って見る。

 そこにあったのは、いつもの口角を釣り上げたような鋭い表情ではなく、口をキュッと閉じてこちらをまっすぐ見つめている、源田の真剣な面持ちだった。


 なにやら、この休みの間に何かがあった、そんな印象だ。


「……ど、どうしたの」


 僕は自然と、不安になって源田に尋ねていた。

 いつもの様子ではなさすぎて、こんなやつでも心配になってしまっていた。


「……わ」

「……わ?」


 つい、源田が言いかけた言葉を、無意識に復唱してしまった。

 僕は「しまった!」と、慌てて口を塞いだ。


「悪かった」


 ……。


「……え」

「悪かった」


 幻聴かと思っていたら、二度も同じことを言われた。

 源田が、今、悪かったって言った?

 それも2回も?


「な、なんで?」


 僕は怖さよりも、気になってしまって、つい聞き返した。


「金曜の部活帰りで、神野から言われた。『人のやりたいこと、夢を馬鹿にするのは、その人のすべてを馬鹿にするのと同じことだ』って。男らしくスポーツやるんじゃなくて、ずっと本読んでるお前見てーな陰キャは、女見てーに弱っちい奴だと思ってた――けど、それが間違いだった」


 源田が、バツが悪そうに話す姿を、僕は呆然と眺めていた。

 先生を呼び捨てにするところは相変わらずだが、それでもこんなに真剣な表情で話す源田に、僕は目を離せなかった。


「お前は、このクラスで一番"人間"やってた。俺が間違いだって気づいたんだ。今更で遅すぎるかもしれねーけど……今まで悪かった」


 そして、源田は僕に向かって、頭を下げた。

 それも、角度の綺麗な、ほぼ90度のお辞儀。

 教室内が一気にざわついたのがわかった。

 あの源田が、一番馬鹿にしていた源田が、僕に頭を下げている。

 みんな、目を丸くしてこっちをみていた。


「ま、待って、待って! 大丈夫、僕は大丈夫だから!」

「いや、こんなもんじゃ足りない。今までお前にやってきたことを思えば――」

「いいから、いいから!」


 周囲の視線が痛すぎる!

 僕は無意識に源田の肩を掴み、体を起こそうとした。

 しかし、上がらない。なんて強い体幹なんだ。


「そ、そもそも! なんで急に、そんな――」


 なんで急に、謝れるような心変わりをしたのか。

 神野先生から叱られたから?

 いや、あの源田だ、いくら先生が紳士だからって、何を言われても怯むことなくゲラゲラ笑っているこいつが、先生の言葉一つで考えを改めるなんて、そんなのありえない。


 だとしたら、なにが理由なのか。


「――小説」

「……え」

「小説、読んだ」

「――」


 言葉が、出てこなかった。

 今、小説って言った?


「な、なんで、知って……」

「作者名。お前フルネーム入れてるだろ。生年月日もそうだし、職業でここの高校の2年生って、全部公開させてるから」


 そうか、しまった。

 アカウント情報編集して、それを非公開にするのを忘れていたんだ。

 それを見て、僕だと気づいて……。


「いや、でも、源田、小説なんかみるの?」

「漫画とか、アニメとかみるし、気に入ったやつは原作まで読むことあるし……それがたまたまお前の投稿したサイトで、色々見てたら、たまたま」


 なんて偶然だ。

 僕が書いた小説を読んだ、PV数の2。

 そのうちの一人が、源田だった。

 本でもあまり見たことがない、そんな展開が本当にありえるのか。


「じゃあ、あの感想は――」

「俺が書いた」


 僕は頭がパンクしそうだった。


「すげー、よかった。本当に、今まで悪かった……じゃ」


 それだけ言い残して、源田はスッと身を翻し、何事もなかったかのように自席に座り込んだ。

 僕とは反対方向に顔をむけて。

 ほんのりと源田の耳が、赤く染まっているような気がした。


 なにが起こったのか、唐突すぎて、訳がわからない。

 二人のうち一人、感想を書いた人が、こんなに近くにいたなんて。

 それが源田だったなんて。

 ひょっとしたら、読んでくれたもう一人の人も、案外近くにいたりして。


「……ふぅ、そんなわけ、ないか」


 その時、ざわざわする教室の外で、一瞬だけ神野先生が笑顔で見ていたような気がした。


 机に放り出された僕のスマホ画面に写っている、アクセス履歴のPV数は、20を超えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

感想の主 ごじょー @GojoLifree

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ