夢で会えたら

日笠しょう

夢で会えたら

『結婚することになったの』


『あっ、そうなんだ』


 二の句を継ぎ悩んでいると、止めの言葉が来た。


『あんまり驚かないんだね』


 それどころではなかった。真っ白になってしまった頭で必死に考えて、ようやく返す言葉を見つける。


『おめでと。いつかやると思ってた』


『人を犯罪者みたいに』


 俺からしたら、大罪だ。あの日あの時あの場所でああしていれば今頃は、なんてどうにもならないことをぼんやりと考えながら時計を見る。時刻は4時前。客はなく、やることもなし。もうじき朝のパンが配達されてくる。それまでは小休止。深夜のコンビニほど気が楽な仕事はない。なにより人と話さなくていい。自分のペースで行動できるし、ただひたすら黙って思考の闇に落ちていくこともできる。


『にしても、わざわざこんな朝っぱらから電話してこなくてもよかったのに。なんなら朝ですらないぞ。夜明け前だ』


『だって君だけ返信がないんだもの。どうしちゃったのかなって。そしたら航が、多分バイト中だから電話してみれば、って。今大丈夫だった?』


『ぎりぎり』


『そう、じゃあ手短に。私、倉木静流はこの度結婚することになりました』


『おめでと』


『ありがと。で、近いうち招待状が来ると思うんだけど、結婚式やるから。来てね』


『日取りは決まってんの』


『再来月』


 近いのか、遠いのか。どちらにせよ、何の心構えもできないままに当日を迎えることになるだろう。ちら、と監視カメラの映像を見る。駐車場に、一台のトラックが入ってきていた。パンが届いたようだ。


『そろそろ切るぞ』


『うん、近いうち集まろうね……多分男子とは、式前には会えないと思うけど』


『忙しいだろうしな』


『しかし独身最後女子会はするのだ』


『そんな報告いらん。じゃな』


『お仕事頑張ってねーおやすみー』


 あいよ、と言い切る前に電話が切れた。まさに電光石火、慌ただしいのは昔から変わらない。


 携帯の画面を見ると、地元のグループチャットから大量の通知が押し寄せていた。倉木の突然の報告に始まり、それから約2時間に渡って祝いと揶揄と質問の嵐。ログによると倉木を射止めた誉ある憎き王子は、倉木が短大を卒業した頃から付き合っていた男性らしい。


 彼のことなら、先月皆で集まった時に本人から聞いていたから存在は知っていた。今が5月だからあれから約2ヶ月。電撃すぎる。どうせ今回もすぐ別れるだろうと高を括っていたら、稲妻のように、光の速さで離れていった。手も届かない遠い空の向こう。何が静流だ。静かな流れとは程遠い。ああ、でもそうか。苗字が変わるから、倉木静流の落ち着いた語感もなくなってしまうわけで。いいな、旦那。俺だって何度もシミュレーションしたんだぜ。倉木の苗字が、俺のに変わるのを。


 さらにログを辿っていくと、問題の航の発言を見つけた。確かに、電話をかけてみればと進言している。


 一体どっちの方がよかったろう、と想像してみる。文字で伝わるのと、声で直接伝えられるのと。文面で叩きつけられるのと、いつまでも耳をくすぐるあの声で、頭の中を直接かき乱されるのと。多分後者だ。文字でもらってしまえば、画面に浮かんだたった六文字の言葉に、俺は身悶えたに違いない。


 人の出入りを知らせるベルが鳴った。パンが搬入されてきている。激情に身を任せて狂っている場合ではない。今は心を殺して、機械のように陳列させるべし。幸い、単純作業は精神統一に向いている。


 事務所から店内に入ると、開けっ放しのドアから朝の清涼な風が吹きこんで来ていた。先週から店内ラジオは懐メロ特集をしていて、聞いたことのあるような無いような曲ばかりを流し続けるのでもどかしい。そのまま外に出て、搬入が終わるのを待つ。


 初夏の早朝。夜と朝が混じり合いほんのりと白む一瞬。星は消え、月だけが光を湛え、太陽はその出番を今か今かと待ち望み東の空を茜色に染めていく。絵画のような静寂がぴりぴりと肌に痛い。人の気配はなく、自然の動きだけが聞こえる。風と木々のざわめき、鳥の声。ぐっと伸びをして体を反らすと、逆さまになったコンビニが一際寂しげな明るさを放っていた。くるりと反転して、納品書にサインして、ハンディターミナル片手にパンの山に対峙する。一番上にあったのは昔懐かしいが売り文句のコッペパンだった。給食に良く出ていたのを思い出す。


 ふうん、そうですか。


 中学生からの俺の片思いは、勝負に出ることすらなく破れ散ったわけですか。




 最初見たときは、本の中の人だと思った。


 正確には、小説の登場人物。中学生になって、初めてのクラス替えをした二年生の春。登校初日から既にがやがやしていた教室へ遅刻寸前で入った俺は、朝日の中にその人を見つけた。ちょうど、当時読んでいた小説に透き通るような肌を持ち、唇だけがやけに赤い色白の美人というのが出てきていたのだが、まさにそれを体現した人だなと感じたのを覚えている。そのときはまだ、恋愛感情はなかった。多分。


 それからは、中学卒業まではただの友達。たまに夜に皆で公園に集まったり、頻繁にカラオケに行ったり。


 卒業記念カラオケの日、告白しようとして先を越された。


 私、彼氏が出来ました、と言って幸せなラブソングを歌う倉木を尻目に、俺は歌うことのない失恋ソングをただひたすら探していたのだ。


 焚き木と恋というやつは、点火がしにくいという点でよく似ている。だから、火がついたら最後、適宜燃料を投下していくだけで十分大きく、手に負えないほど燃え上がる。


 きっかけがいつだったかははっきりとは覚えていないが、高校上がってからはみっともないくらいに空回っていた。


 好きと言うのは多分、心の琴線に何かが触れたとき、その人にそれを見せたい、伝えたいと思うことだと思う。会えない期間は、それが永久機関となってどんどん恋心を加速させていく。片思いはやるせない。燃料は意図せず、際限なく投下され続け、そのうち火は自分でも制御できないくらいに勢いを増して、最終的には身を焦がす業火と成り代わる。そうならないように必死に、慎重に、綱渡りのように境界を見極めて立ち振る舞ってきた。好意がばれたら敗色濃厚。勝負期まで温め続けるのだ、と言い続けていたらまあ、このざまなわけだが。




「かんぱい!」


「かんぱい」


 一週間後の金曜日。都内の居酒屋で敗北者たちが悲しみの杯を交わす。昼間、航と二人で倉木の新郎となる男をこっそりと見に行った帰りだった。俺らより四つ年上の、倉木が所属していたサークルのOBで今は市ヶ谷の商社マン。


「それにしても、まさかそんな男とはねえ」航が嘆く。「話には聞いていたが、優しそう以外に褒め言葉が見つからん」


「収入に惹かれたんじゃないか」


「分からんぞ。一周回ってああいう素朴な奴に惹かれる時期だったのかもしれん」


「男性遍歴賑やかだもんな」


「今が狙い目だったのかもなあ」


 航が悪戯っぽくほくそ笑む。俺はその視線を外して、ビールを一気に煽った。


「ないだろ。向こうからしたら眼中にもなかったろうし」


 勝てない勝負はしない。負けると分かって勝負に出るのは愚かだ。俺は勝負していない。だから、負けてはいない。


「ま、人間関係の環は一つじゃないってことだな」


 言うと航は、店員に向かって手を挙げた。卓上のグラスは、すでにいくつか空になっている。航、今日潰れそうだな。


 週末だからか店内は騒がしく、人の熱気でむっとしていた。酩酊のせいなのかそれとも実際に人や料理から湯気が出ているのか、柔らかいオレンジに透かされた店内は白く曇って見えた。店員が慌ただしく通路を行き交い、食器のぶつかり合う音を伴奏に誰かの歌う声がする。さっき気づいてくれたはずの店員がなかなか来ない。ジョッキについた雫が、静かに滑り落ちていく。


「そういえば、ありがとな」


 俺が言うと、航は不思議そうに首を傾げた。


「何が?」


「電話。上手く誘導してくれたろ」


「意外だわ、怒られるかと思った」


「いや、こういっちゃなんだけど、いい思い出になった」


「おお……やめて、それめっちゃ泣きそう」


「受験期の頃とか、たまに電話とかメールで相談されることがあって、それ思い出した」


「それ初耳」


「誰にも言ってないからな。だからちょっと嬉しかったので、貴様の罪は不問とする」


「ありがたき幸せ」


「かんぱい」


「かんぱい」


 空になったグラスをぶつけ合う。店員はまだ来ない。


「結婚ねえ」


 どちらともなく、そう呟く。


「できんのかな」


 俺が言う。


「するんじゃないの」


航が相槌を打つ。


「なんか、寂しいな」


「何が?」


「倉木の結婚相手、俺らの全然知らない人だったろ。俺らは倉木のこと昔から知ってるのに、倉木には別の人間関係があって、あいつはそっちを選んで俺らは捨てられたみたいで」


「それ失恋したからじゃねえの」


「違くて、いやまあそうだけど。そうじゃなくて、なんか倉木が一気に俺の知らない遠いところに行っちゃったみたいで。そういうの、すごい寂しいんだよ。俺の知らない世界が目の前に広がってて、そこから自分が弾きだされるようなの」


「例えば?」


「駅で満員電車がすごい勢いでホームに走り込んで来たときに、ああこの電車に乗ってる人たちは誰も俺のこと知らないんだな、って思うと切なくなる」


「乙女かよ」航が笑った。「知ってるわけねえじゃん、有名人でもなんでもないんだから。日本人が一体何人いると思ってんだよ」


「一億」


「そのうちお前に友人が十人いるとして」


「さすがに少なすぎないか」


「でも百人はいないだろ」


 言い返せない。


「で、その電車にお前の友達が乗っている確立なんてそれこそ万が一、いや一千万が一なわけだよ」


「お前それが言いたかっただけだろ」


「五百万が一とか、切りが悪いだろ」


「もっと友達いるから」


「そこでお前にアドバイス」


 話を聞かない酔っぱらい。


「お前は俺を知っている。だけど電車に乗っている奴らはきっと俺のことを知らない。この偉大で人気者の航様を」


「誰って?」


「この偉大で人気者で世界に誇る人間国宝の航様を、お前は小さいころから知っている。それでいいじゃん。お前は知らないだろうけど、俺はこいつのことよく知ってんだぜって優越感を持てば寂しくなる暇なんてないだろ。それとも、お前は万人に愛される人気者になりてえの? たった一人の女の子にも好かれないのに?」


「うるせえよ。というか、優越感で勝ったつもりとか大人げねえ」


「大人の余裕ってやつだよ」


 航は腕を組んでぎこちなく笑った。やせ我慢をしているときの、昔からの癖だ。


「人間強がらなきゃ連戦連敗だぞ。そんなの心が保てねえよ。その点、自分の中で優越感に浸るのはエコな勝利だ。相手は傷つかねえし自分も満足できる」


「大人げねえ」


 航は目元を隠して、泣き真似をした。


「だって、あんな男に負けただなんて、思いたくねえもん」


「そりゃそうだけどよ、勝てる要素なんて思い出の多さくらいしかねえぞ」


「それだって、結婚して夫婦になったら俺らより思い出も過ごした時間も絶対多くなるぜ。夫婦ってことは、俺らの知らない倉木だって知ることになるんだぜ。やってられっかよお、勝てねえよお」


「勝つ気もないくせに」


 悲しみのあまり、航が机に突っ伏した。俺は頬杖をついて、壁に掛けられたメニュー表にぼんやりと目をやる。未だに店員は来ない。来たら何を注文しようか。


 思い出も、時間も、知っていることも。きっと俺の知らないあの男が全部俺らを越えていく。ずっと焦がれていた人をいとも簡単に攫われて、でもそれに抗うこともできなくて。


 せめて一矢くらい、男として、報いたい。


 大人げねえな、と自嘲した。


「そういえば、お前この曲分かる?」


 言って俺は、店でいつも流れている曲のリズムを口ずさんだ。


「それあれだろ、てれてれてん逢えたらー、素敵なことよー」


「てれてれてんってなんだよ」


「知るかよどっかで会うんだろ?」


「そこが知りたい」


 思い出せそうで思い出せないのが一番つらい。俺は口の中で何度も何度も繰り返しワンフレーズを歌う。


「結婚祝い、なに送る?」


「無難に食器とかでいいんじゃないのか?」


「いやあ、もっと面白いものにしようぜ。フラワーロックとか」


「もらって嬉しいか?」


「新郎を喜ばせたくないだけよ」


「お待たせしましたー」


 慌ただしく、店員が席に滑り込んできた。


「ご注文のビールと枝豆ですっ」


「頼んでないけど」


「注文取ってもらおうと呼んだだけなんだけど」


「もっ、申し訳ございません!」


「や、いいよいいよー」


 平謝りする店員に笑いかける航を尻目に、俺はずっと運ばれてきた枝豆に目を奪われていた。


「あっ」


「えっ、どしたの」


「あったわ」


 思い出。優越感。あと、面白いの。




 中学二年生の頃。梅雨が明けてもうすぐ夏休みと言った頃合い。生徒達はどこか浮き足立っていて、期末テストの制作に追われていた教師も文句こそ垂れていたが、まんざらではなさそうだった。開けっ放しの窓からは風よりも蝉の声の方が多く入りこんで来ていて、窓際の子は数学国語教科を問わず常にじりじりと日に焼かれていて可哀想だったのを覚えている。


 うちわが空を叩く音と、シャーペンが気だるげに弾む音。誰かの内緒話。誰も聞いていない教師の説明。時折ヘリコプターがけたたましく通り過ぎて行って、それに呼応するようにまた蝉が煩く合唱を始める。音しか覚えていないのは、たぶん、いつだって目は彼女を追っていたから。


 校舎の裏側にはちょっとした農園があり、そこでは当時、実験用の枝豆を育てていた。遺伝とか、配列とか、そういう理科の実験の類だったのを覚えている。


 毎朝水をやりに行くのが日直の仕事で、その日は俺が日直だった。そうでなくても俺は段々と濃い緑に実っていく様子を見るのが好きで足繁く通っていたのだけども。


 如雨露いっぱいに入れた水を零しながら畑に向かうと、枝豆畑で座り込んでいる人影を見つけた。


 見間違えるはずもない。その後ろ姿は他でもない、あの倉木だった。どうしてこんなところに? と思ったのも束の間、突然訪れた二人きりというシチュエーションに俺の頭の中はパンクしそうだった。何から話そう。どうやって話しかける。態度はさり気なく、それとも大袈裟に? 


 そうこうしているうちに俺の脚は自然と前へと進んで行って、そしてこっそりと黙ったまま、俺は倉木の後ろに忍び寄ってしまった。完全に話しかけるタイミングを失った。燦々と輝いている太陽が憎らしい。このまま頭とかに水をかけたらびっくりするだろうかという悪戯心が一瞬だけ頭をもたげた。


 しかし、そのとき俺は、最大の過ちを犯していた。太陽は少し、俺たちの後ろに位置していた。それはまるで、子供の青春を見守る親のように、我関せずといった様子で、俺の後ろから、前にいる倉木の方向へ、影を投げていたのである。しまった、と思ったときにはもう遅い。倉木もいつの間にか自分を覆っている人影に気づいたらしい。ぱっと驚いたように跳び退くと、目と頬を丸くして言った。


「みは!?」


 倉木は額に汗を浮かべながら、口を一生懸命動かしていた。何かを食べていたらしい。見れば倉木の右手には白い粉の入った小瓶と、もう一方の手には小皿が握られている。そして俺の足元には散乱した枝豆の皮。


「あ、もしかしてそれ、塩? てか食ってたの? 実験用の枝豆」


「嘘……だって日直の水やりはもう少し遅い時間のはずなのに。だって、だってずっと見張って念入りに計画してたのに、なんで」


「俺観察とか好きだからちょっと早く来たんだけど、なんかごめん」


 謝る必要もないのに謝ってしまうのは、おそらく男の性なのだろう。怒らせて、悪印象を持たれるのだけは避けたかった。だけど反面、この特殊な状況に内心小躍りしていたのも事実だ。


「ばれた……見られた……最悪……観察好きとか博士かよ……」


 倉木は倉木で、俯いたまま顔を上げない。小刻みに震える肩が見るに堪えなかったので、俺はもう一度謝った。とりあえず、顔を上げてこっちを見てほしかった。なんでもいいから、ちゃんと話がしたかった。彼女の記憶に刻まれればいいと思った。


「ごめんて」


「内緒にして」


「は?」


「私は枝豆を盗み食べたこと、内緒にして! じゃないと私、呑兵衛だってみんなに馬鹿にされる」


 倉木は今にも泣きそうだった。


「枝豆、好きなの?」


「育てることになって、植えたときからずっと楽しみにしてたの」


 それはまた、長期的な夢である。


「でも普通、ばれるだろ。いくつか持って帰って、家で育てたほうが現実的だったんじゃん?」


「それは盲点だった」


 好きなことには一直線で、周りが見えなくなるのもこのころから。だけど積極的で行動力もあるから、夢を掴むのも早かった。


「馬鹿だなあ」


「うるさい。内緒にしろよ?」


「あ?」


「秘密だから、二人だけの」


「……はいよ」


 その日の朝礼で枝豆の半数以上が鳥に食べられていましたと俺は先生に報告した。その後数週間、俺は倉木のことをアホウドリと呼んで小馬鹿にした。ひと夏の、大切な、忘れてはいけなかった思い出だ。


「宿題みせてよ、アホウドリ」


「うっさい博士」


 そんなやり取りをしながら心底楽しそうに笑い合う、子供のころの俺と倉木を見ている。


 いつだって大切だった。大切だからこそ、あえて遠くにおいていた。少しずつ育てているつもりだった。だけどそれはいつしかヤドリギのように俺に絡まって巻きついて蝕んで呼吸すらもままならず、呪いのように俺から栄養を奪っていっていた。呪い? いや、違う。ただの片思いだ。ただの片思いに、罪はない。だから誰も傷つけちゃいけない。自分の中に、永遠に仕舞いこんでおくだけでいい。時折思い出して、懐かしめばいい。忘れていた、この思い出のように。


 ねえ、と後ろから声を掛けられた。暑い日差しはいつの間にか雲に遮られていて、ほんのりとした明るさと心地よい涼しさがあたりに立ち込めている。


「結婚しようよ」


 倉木がいた。


「結婚すんだろ、別のやつと」


「君としたかった、時もあった」


「何を今更」


「そうだね」


「幸せになんの?」


「なるよ、絶対」


「じゃあ、それでいいや」


「いいの?」


「だって、好きな人が幸せなら、それで割と幸せじゃね?」


「かっこつけんな」


 倉木が笑う。


「最後くらいいいだろ」


 俺も笑う。絶対に言わないと決めていた言葉がすらすらと出る。おかしな気分だった。そうして、気づく。これが幸せで、悲しい虚構だということに。


「これ夢か」


「正解」




 結局披露宴までに心の準備は間に合わず、俺はバイトを理由に欠席に丸をした。新郎新婦は酒が好きだから、と吹き込んで送った俺のプレゼントは場を大いに沸かせたらしい。航も上機嫌で俺に写メを送ってきた。幸せそうに笑う新郎新婦と、純白のドレスに身を包んで、俺の知っているなかで一番綺麗な姿をしている新婦の胸に抱かれた、その場に不釣り合いな枝豆のブーケ。何のために辞退したと思ってんだ、と携帯を放り投げたくなったが、倉木や、航たち、それに新郎の顔を見てそれも諦めた。みんな楽しそうに笑っているのだ。俺の付け入る隙はない。


 惨敗だ。悔いしかない。だけどなぜか、清々しい。


 コンビニの駐車場に出る。車止めに座って、未明の空を見上げた。紫苑の空に星一つ。宵の明星。今宵は新月だったのだろうか。月は既に姿を隠し、そこだけくり抜かれているかのような漆黒の木々のシルエットが山裾で風に揺れている。ちかちかとなる誘蛾灯。看板の放つ白さは、朝靄に拡散され柔らかく光る。仕事は大体終わっている。あとは納品を待つだけ。いつもと変わらぬルーチンワーク。航たちは、今頃何次会だろうか。


 大きく動く世間の中で、俺だけが変わらない毎日を過ごしている。孤独感というよりは、社会の枠組みに捕えられた閉塞感。訪れる客は、誰も俺のことを知らない。このコンビニの親会社だって、一人でこの店を回している俺のことなど歯牙にもかけない。動き出した始発電車に乗る人々は、誰一人とて俺の知り合いでないのだろう。


 その中の一人、俺の人生に今まで一度たりとも交わらなかった男が倉木を攫って行った。それが悔しくないわけではない。だけど、俺の気持ちは夢の中で倉木に言った言葉に限る。それに、この悔しさを共有できる友人がいる。


 ああ、あの曲の歌詞、思い出した。


 ポケットが震えた。着信しているらしい。開くと、意外な名前が液晶に浮かんでいた。一瞬迷って、それから応答ボタンを押す。耳に当てたスピーカーから、鼓膜をくすぐる、懐かしいあの声が届いた。


『結婚したよ』


『知ってる、おめでとう』


 今度は素直に言えた。


『なんでこんな時間に。また航の差し金?』


『違うよ。今なら君、起きてるかなって』


 そうやってお前は。簡単に俺に止めを刺していく。


『あれ、選んだの君でしょ』


『正解』


 倉木がくつくつと笑っている。


『あの人……旦那が驚いてたよ。静流の友人は面白いやつだなって。ねえ、みんなにあの話教えたの?』


『してない。旦那にしてやれば? 私は昔アホウドリでしたって』


『博士の癖に生意気。そんなんだから結婚できないんだよ』


『大きなお世話』


『覚えてたんだね、あのときのこと』


『この前思い出した』


 俺と倉木の、二人だけの思い出。俺しか知らない倉木。そう、披露宴のあの一瞬、新郎の知らない倉木を、俺は新郎の目の前に叩きつけた。一矢報いたのだ。ざまあみろ。


『教えてやれよ』


 だが、新郎には未来がある。俺には過去しかない。俺はこれ以降、負け続けるしかない。きっと誰にも見せたことのない姿や表情を、倉木は夫と共有し続けるのだ。でもそれでいい。完敗じゃない。一瞬でも、俺はあいつから倉木を奪ったのだから。


 倉木の笑い声が耳元で踊る。


『なんでそんな勝気なの』


 大人の余裕って奴だよ。腕を組んで、一人ぎこちなく笑った。乾いた笑いが、閑散とした駐車場に広がっていった。東の空が赤い。地平線が燃えている。新しい朝が来る。多分今朝は、いつもの朝より濡れている。


『じゃあ、切るね。おやすみ』


『おやすみ』


『近いうち、会おうね』


『それはどうかな』


『なんでよ』


 笑い声と共に、電話が切れた。ツーツーという音が、俺を慰めるように続いている。ぱたん、と携帯を閉じた。会えるものか。現実で会ったら、確実に泣いてしまう。


 叶わぬ片思いの末惨敗した男は、思い出に縋って何とか生きていく。


 だって。


 夢で会えるさ。

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夢で会えたら 日笠しょう @higasa_akira

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