第8話 とっても有意義な時間です

「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」

「夜中にも、悪意が……」

「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻二十一時から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」


 苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。


「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」

「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」

「は……? 待ってくれ、一日中?」

「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」


 推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。それを叶えるためなら、刺繍の一時間や二時間、いや十時間や十二時間だってお茶の子さいさいである。

 木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。

 ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。


 一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服に配属されている針子でもしないだろう。給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。その心の向け方は、常人には真似できない。

 ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。


「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖を心に飼っている女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」

「猫魈……そうだったのか」

「ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が触れた食事・・・・・に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」


 つまりは、先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。

 苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく銘々皿を手に取る。文字通り龍の血で作られたものだ。


「食事に宿った呪毒は、この『龍血の銘々皿』を使った時にのみ形にでき、祓うことができますわ」

(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)


 食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど殺意に似ている。苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから殺したいほど憎まれるような経験はまだ無い。


「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」

「いや。やろう」

「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」


 苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。

 それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。

 木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。


(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました! こ、これは完全に有罪ですわ!!)

「わたくし、明日はまた牢獄かもしれません……!」

「それは絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」


 龍の血の赤に、木蘭の血の赤が溶けていく。

 契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺苺は「薬箱はどこですか!?」と急いで木蘭の指の手当をした。


「これで契約は完了です。あとは木蘭様が呪毒の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」


 試しにそのお茶菓子に触れてもらっても? と、苺苺は茶菓子を示す。

 木蘭が従うと、銘々皿の上にことり、とどこからともなく茶菓子が現れた。


「……は? まさか、その茶菓子が呪毒なのか?」

「はい。そのようです」


 書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。何もなかった空間から突如現れた茶菓子は、目の前の茶菓子をそのまま模していて、少し不気味である。

 でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になる。


 苺苺は険しい表情で、目の前の茶菓子擬きを睨んだ。

 さて。これは刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。書物によると、『捨てたり腐らせたりすると呪詛になる』とあった。


「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」

「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」

「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」


 苺苺は意を決して、はむっと食らいつく。


「ん……んんん!?」

「ど、どうした?」

「お、美味しいです……! なんということでしょう……。人生で食した茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」

(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)


 苺苺は茶菓子を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上のお茶菓子ですわ……」と頬をを抑える。


「そ、そうか。それなら身体に害もなさそうだな」

「はい。わたくしもそう思います」


 苺苺はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。

 さあ、これで証拠は出揃った。

 木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。


「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの女官ということになりますわ。けれど猫魈様を操れるほどの道士であっても、白蛇の娘が書き記した五つの悪意と三位一体の構造は、ご存知ないのかもしれませんね」


 わたくしも道術はかじっておりませんし、あやかしを操るすべも持っておりませんから。

 そう結論づけた苺苺に、幼い妃は鷹揚に頷く。


「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」

「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」

「いったいどうするつもりだ?」

「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」


 真剣な表情で問うた苺苺に、木蘭は菫色の瞳を大きく見開いた。


「は?」

「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺苺、命を懸けないわけには参りません!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」

「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、回廊でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」


 お茶や茶菓子を運んできた女官たちの胸に、青黒い靄を灯らせている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。

 木蘭はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしている。

 大人にとってもひどい状況だが、六歳の幼女にとってはもっと過酷で辛い状況だろう。


(一刻も早く、解決してさしあげねば)


 苺苺が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――っ」と必死な形相を隠すようにして言い募る。

 しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官をらしめる気満々の苺苺は、「ないです!」と一刀両断した。


(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女の御使のごとき木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)


 木蘭は、苺苺の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。

 どうやら、苺苺を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。


「……わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」

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