第3話 ただの〝ぬい〟ではございません
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです。わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては! せっかく白蛇の娘を頼っていらしたのですから)
食い気味に『すぐに確認させていただきます』と身を乗り出すと、異能を使って木蘭を視た。
が、特に異状は視られなかった。
悪意が呪靄となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
『お力になれず、大変申し訳ございません……』
結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
そうして別れ際に、差し出がましい真似だとは思いながらも、木蘭へ呪詛の症状を問うたところ……。
『原因と症状がわからないのなら、妾のことは忘れてくれ』
と言われてしまったのだ。
(木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺苺は、『これは』とばかりに馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
苺苺が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
苺苺はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、ぷちりと抜いた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
苺苺は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。
久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
水星宮にほど近い大きな池には、数隻の小船が浮かんでいた。どこぞの妃が女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
苺苺は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
誰もいない水辺の
苺苺は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
池の鯉がパシャリと跳ねる。
「うーん。いいお天気ですわ」
両腕を伸ばしてぐっと背伸びをする。
少し眠たいかもしれない。そう思った時だった。
「きゃああっ!」
遠くで女性の甲高い悲鳴が響く。
「あら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛さんが枝から垂れ下がってきたり、
「お逃げくださいませ!」
人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
苺苺がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
突然の木蘭様の名前に戸惑う。
急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭様と、それを追う牙を剥いた大型の三毛猫――否、あやかし『
「なぜこんなところに猫魈が!?」
猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(猫魈の気を逸らさなくてはッ)
苺苺は急いで、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を取り出す。先端が鋭くなっている糸切り鋏で、戸惑うことなく手のひらを傷つけた。
「いっ」
焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。苺苺はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
木蘭の形代、異能の鮮血。これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「……あっ」
足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
猫魈が木蘭に襲いかかる。
苺苺は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。すると作戦通り、猫魈は木蘭ではなくぬい様に飛びついた。木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
苺苺は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……あなたは、白家の」
菫色の大きな瞳に、苺苺の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……! このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
木蘭はふるふると震えながら、苺苺を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
しかし六歳の幼女の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか、宦官は誰も聞く耳をもとうとしない。
彼らは苺苺を「白蛇の娘だ!」「異能の妃め!」と罵りながら、縄にかけたのだった。
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