72.犬は喜び庭駆け回り

 狼の隠れ里の大事業だった稲の収穫が終わり、はや二ヶ月が経った。


「いいかいコエさん」


「はい、マスター」


「水が冷えて固まると氷になる。雪っていうのは、空の上で水が氷になって降ってきたものなんだ」


「なるほど、小さい氷が集まると白く見えるのですね」


「そうなんだ。だから、雪がいくら綺麗だからって不用意に手を突っ込むと」


「マスター、手が虫刺されのようにかゆいのですが一体」


「冷たさで霜焼けになるんだけど言うのが遅かった」


 山の冬は早い。実りの秋が過ぎ去り、空気に冬の匂いが混ざりだしたかと思えば、今朝にはもう里に初雪が降り積もっていた。


「これで一通りの冬支度は完成だな」


 新雪に突っ込んで赤くなったコエさんの指をさすってあげながら、里をぐるりと見渡せば……。寒さの備えをした家々が真っ白く化粧されていた。雪が降り込んできたという報告もない。冬の間も問題なく住めるだろう。


 冬が本格的になれば部外者が山に入るのはおよそ不可能となる。

 騎士団が今も密かにこの里を探しているという噂もあるが、物理的に踏み込めなければ手の出しようもあるまい。厳しい冬は隠れ住む者たちにとっては恵みでもあるのだ。


「もう大丈夫です。ありがとうございますマスター」


「俺の目を通して世界を見ていたといっても、温度や感触についてはどうしてもね。一年を通して覚えていこう」


 里の面々はといえば、大きく二つの派閥に分かれていた。


「農作も狩猟もない今、訓練の好機! 力ある者たちは修練場へ!」


 シズクを中心とした狼人派は寒さに負けていない。去年までは食糧不足に悩まされたというが、十分な蓄えのある今年は遠慮など無用。むしろ夏より元気になっているまである。


「これより雪合戦訓練を行う!」というシズクの号令に狼人たちが一斉に集まり、雪玉をぶつけあう独特の合戦訓練をしながら寒空の下をワイワイと駆け回っている。


 一方、外部派とでも呼ぶべきだろうか。そちらの派閥は俺の背後……隙間風を防ぐべくがっちりと詰め物がなされ、『【極秘】ジェリラボ【無断立入禁止】』と表札がかけられた家屋に立て籠もっている。


 その面子はベルマン隊の三人に一部の老人たち、そして一流錬金術師アンジェリーナである。


「みんなおかしいです……。『蒼のさいはて』の中は暖かいんですからそっちで暮せばいいです……。なんでわざわざ寒いとこで寝起きするですか……」


「ふ、フハハハ、この機にジェリ殿も我らベルマン隊に加わり、ともにダンジョンで汗を流しますかな……?」


「メロが抜けて三人となりました故な」


「四人目が空いてるわよ。豊かな自然、夏は涼しく冬は暖かい、『蒼のさいはて』でいっしょに働きましょう?」


「ジェリは頭脳労働専門です!」


 狼人族は寒さに強い。日々の食事さえきちんと摂れるならこれくらいの気温はどうということもないらしい。土地を追われた狼人族の先祖がこの地を隠れ里に選んだのも、「夏が涼しく冬は極寒」という気候が適していたことが理由のひとつでもあるのだろう。


 だが。

 並の人間にとって、特に街育ちにとって、一面が雪に覆われる環境など『極寒』の域なのである。


「アンジェリーナはダンジョンで暮らしてもいいんだぞ。小さな家くらい建てる広さはある」


 コエさんが凍える前にとジェリの家に入れてもらうと、即座に鋭い声が飛んできた。


「【技巧貸与スキル・レンダー】さん! 戸は開けたら閉めてください! コエさんが近いですね閉めてくださいすぐにです!!」


「はい、ただいま」


「あと【技巧貸与スキル・レンダー】さん、女性に一人ぼっちで洞窟暮らしを強いるなんて配慮が足りないと思うです」


 要するに寒いのは嫌だが、洞窟で一人寂しく暮らすのはもっと嫌らしい。以前ならゴーレムと暮らすからいいと言いそうでもあったが……。二ヶ月かけて一人旅でここまで来た彼女にも、里で暮らすうちにいくらか心境の変化があったのかもしれない。


「うぅ、しばれる、しばれるです……」


「しば……?」


「しばれる、ですぞコエ殿、寒いという意味の地方言語だそうですな。……おや?」


 俺たちに続いてもう一度戸が開いた。吹き込む雪風とアンジェリーナの視線に慌てて閉めたのは、シズクの父にして元里長、この里の内政担当。


「マージ殿、こちらにおられましたか」


「ん、アサギか。首尾はどうだ?」


「家屋の防寒対策は抜かりなく。この冬は支障なく越えられましょう」


「よし」


「……つきましては、マージ殿」


「どうした?」


 意を決したように、アサギは膝をついた。


「騎士団に尋問、拷問を受けているドワーフの娘。彼女の救出に向かう許可をいただきたく」


「……居場所が分かったか」

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