15.狼人<ウェアウルフ> -4
「ッ、マージ?」
俺たちの姿を見ると、シズクは逃げるように走っていった。彼女の漁っていた水たまりには花の球根のようなものが残されている。
粗く刻まれ、泥水に浸かったそれはとても食べ物には見えない。シズクがなぜこんなものを齧っていたのか。なぜ逃げたのか。分からないことが多すぎるが、少なくともよい方向に転がっているようには思えない。
「マスター、これは?」
ひとまず彼女が何をしていたのかを知りましょうと、そう言ってコエさんが拾い上げた球根を見て、自分の顔から血の気が引いたのがはっきり分かった。
「
「手腐り草、とは?」
「真紅の花を咲かせる野草の一種だ。根っこは食べられるから救荒植物にされたりはする、けれど」
「何か問題が?」
「毒がある。多量に摂取すれば手が腐って落ちるから、
水に溶ける毒だから、刻んで水にさらせば安全に食べることはできる。だがそのためには十分な清水が必要不可欠だ。身体を洗う水すら与えられない亜人の子供には望むべくもないだろう。
だから水たまりの泥水を使う他なく、あまりさらすと泥の匂いと味で食べられなくなる。飢えを凌ぐには毒を覚悟で口にするしかない。
「それは不可解です。彼女が報酬を得てまだ一日と経っていません」
「ああ、パンすら買えないのはおかしい」
病気の親がいるだとか、幼い弟妹に食わせてるだとか、そういう事情かとも思ったが。それよりもまずは疑うべきところが他にある。
「あの子を雇っていた男に会う。コエさんはシズクを看てやってくれ」
「かしこまりました」
そうして訪れた二度目の事務所。
古ぼけた事務机を挟んで横柄に座るよく肥え太った男は、シズクについて尋ねた俺にさらりとこう言った。
「賃金ン? ちゃんと払ったよ? 六〇〇イン」
「……三〇〇〇の約束だったと聞いたが」
はじめ、男が何を言っているのか理解できなかった。さも当たり前だとばかりに、まるで「あの腐ったパンはどうした」と聞かれて「ああ、捨てたぞ」と答えているかのような顔で男は言う。
「おいおい勘弁してくれ。三〇〇〇なんて払ったら商売にならんよ」
「最初から払う気はなかったのか」
「人聞きが悪いな。いいか? あの仕事はまあ、あの犬なら四日ってとこだ。それに途中で量を追加するなりして五日に引き延ばす」
「……それでも飯代を引いて一五〇〇にはなるはずだ」
「麦の袋が破れたらその分引くのよ。ま、あんだけ運べばいくつかは破れるからな。それで正味の賃金が六〇〇の予定だったのに、スキルの調子が良かったとか言って一日で片付けやがった。おかげで六〇〇握らせて帰らせるのに苦労したよ」
飯代三〇〇インと聞いているが、あんなものタダ同然の残飯だ。金なんてかかっていないはず。
『三〇〇〇の仕事を六〇〇のコストでさせる』
これはそのための、そのためだけのやり方だ。そして受け取ったのが六〇〇インならば。俺に六〇〇インを渡した彼女に残った額は。
「だから、あんなものしか食べられなかったのか……!」
「賢いやり方だろう? 『一日延ばす』と『破れた分を引く』はワタシも初めて試したがね、こりゃ発明だと思うよ。これからはみんなそうするだろうさ」
男は笑うが、いくらなんでも非合理だ。有能なところを見せたのなら、せめて利用することを考えるものではないのか。
「あれだけの仕事を一日で終わらせるんだぞ。高給を払って抱え込む手もあったんじゃないか」
「あんたねぇ、あれは
「……ッ!」
目の前の男に、どこかアルトラたちの影が重なった。
だがこうして他人のこととして、一歩引いた視点で見ることで分かることもあるらしい。
「………………ああ」
不意に、俺の中にひとつの『答え』が出た。
『なぜアルトラたちは俺を殺そうとしたのか』
「ああ、ああ。そういうことだったのか」
実を言うと、俺は古巣であるアルトラたちの思考を未だに理解できていない。確かに当時の俺はひ弱だった。だからと言って、よもや退職金を惜しんで殺害されるなど夢にも思っていなかった。
俺を追い出すにしたって、金を払いたくないにしたって、もっとやりようはあったはずなのに。
効率だとか良識だとか、そういった基準で言えば損でしかない選択だ。端的に言って『馬鹿げすぎてる』。少なくとも俺にはそうとしか思えなかった。
損得勘定でもない。
道徳心や信条でもない。
奴らは一体、どういう価値基準でもって俺を殺そうとしたのだろう。密かにそれを考え続けてきたが。
そう、なるほど。
そうか。
そういうことなのか。
「こういう人種が、世界にはいるのか」
見栄、気分、周囲の目。そんなもののために道徳も良識も、目の前の利益すらも捨てて搾取と破壊に走れてしまう人種が。
金が欲しいからと他人を襲う人間は『悪党』と呼ばれる。彼らは悪だが、目的と行動が一致している。目的さえ理解すれば対話のできる相手だ。
これは違う。目的と行動がチグハグで、なのに本人たちは目が曇っていて気づきもしない。そんな人間が善人から搾取し、金貨を片手に酒を飲み干している。
酒の回りだした赤ら顔で、男はニヤニヤと俺の肩を叩いた。
「これが賢い生き方ってやつよ。分かったかい?」
「ああ、ありがとう。勉強になった」
よく分かった。
よく、分かったよ。
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