第2話 ある日の思い出
カリン=カーラスには内緒の思い出がある。
親友であるライラにも話したことはない。
すべてが解決した後、あの人があまり目立ちたくないと言ったからだ。
だから誰にも話していない。
それは秘密であり、カリンにとって大切な思い出だった。
――ハァ、ハァ、ハァ……。
薄暗い路地裏。少女は走る。
年の頃は六歳ほどか。肩まで伸ばした桃色の髪。普段は温和で愛らしい表情をしているのだが、今は真剣そのものだった。白いドレスの裾が泥で汚れるのも厭わない。
少女――幼い頃のカリンは必死に暗い路地裏を走っていた。
(……ああ。これは……)
けれど、その心は驚くほどに穏やかだった。
(あの日の夢。
心の中のカリンは微笑みを零していた。
これはカリンの追憶。
かつて遭遇した事件を再現した夢だった。
(久しぶりだ、この夢)
意識は夢と認識していても記憶の中の体は勝手に動いている。
これはカリンにとっては悪夢のような出来事だった。
しかし、同時に幸せな夢でもあった。
何故ならハッピーエンドが約束された夢だからだ。
カンザル王国の王都ラーシスに拠点を置くカーラス商会。
カリンはそんな王家とも強いパイプを持つ豪商であるカーラス家の令嬢だった。
そして、カリンの父は代々の当主の中でも優れた商人だった。
時には強引な手法もとる。
そのために恨みを買うことも多かった。
(……そう。この日みたいに)
ドレスの裾を上げて走りながらカリンは思う。
それは父と護衛者たち――幼馴染の父も含む――と共に王都の一角に赴いた時のことだ。
いわゆるスラム街。その一角を再編する計画を立てて父は視察に赴いたのである。
幼いカリンを連れて行ったのは、父なりの社会勉強のつもりだったのかも知れない。
そして、スラム街の一角でその襲撃は行われた。
襲撃者たちは恐らく雇われただけの質の悪い冒険者くずれだ。
けれど、数だけは圧倒的に多く、カリンたちが乗った馬車は横転させられた。
次々と現れる襲撃者。カリンの父たちは応戦を強いられた。
護衛者たち。その中でも父の専属護衛であるライラの父はとても勇猛に戦ったが、とにかく敵の数が多い。劣勢に元冒険者である父まで参戦したほどだ。神聖騎士である父はカリンの目から見ても驚くほどに強かった。
しかし、カリンだけは明らかに弱点だった。
横転した場所の陰で震えることしか出来なかった。
『誰か! カリンを頼む!』
父がそう叫んだ。カリンの父と、ライラの父を筆頭に味方の強力な戦士たちは敵を一人でも多く捌くのに手いっぱいだった。
そのため、まだ新人だった若い護衛がカリンを抱きかかえた。
『お嬢様をここから逃がします!』
父にそう告げて、カリンを腕に抱えて青年が走り出す。
包囲網の一角が崩れていたのだ。
だが、それは罠だった。
護衛の青年がどうにか路地に逃げ込み、大通りまで走り抜けようとした時、
――ヒュンッ!
不意に矢が放たれたのである。
それは青年の足に突き刺さり、青年は『ぐうッ!』と倒れた。
カリンは青年の腕から放り出されて転がった。
そうして、ぞろぞろと覆面をした男たちが現れる。
あえて脱出口を作り、最初から路地に誘い込むつもりだったのだろう。流石に標的であるカリンの父が率先して応戦し始めたことは想定外だったかも知れないが。
『――くそッ!』
青年は剣を杖にして立ち上がった。
そして、
『お嬢さま! 大通りまでお逃げください!』
彼はそう叫ぶと、剣を構えて覆面男たちに立ち向かっていった。
カリンは一瞬躊躇うが、背を向けて走り出した。
ここで逃げないと自分が足手纏いになってしまうと思ったからだ。
後日談になるが、この護衛の青年は重傷を負うが命だけは助かる。不幸中の幸いか、重傷を負ったからこそトドメを差されることまではなかったのだ。
ともあれ、カリンは薄暗い路地裏を必死に走った。
それがまさに今この時だった。
懸命に走り続ける。
助けを呼ぶためだ。
(だけど、私はこの後……)
心の中のカリンは表情を曇らせた。
そうしてどれだけ走ったか、やっと大通りの光景が目に入る。
六歳のカリンの表情に希望が浮かぶ――が、
『おっと』
『――ッ!?』
カリンの心臓が跳ね上がる。
いきなり太い腕で背後から抱きかかえられたからだ。
さらに大きな手で口を塞がれ、両足は宙に浮く。
それは襲撃者の一人だった。
カリンは必死にもがくが、大人の力には敵わない。
光さす大通りはすぐそこだというのに闇の中へと引きずり込まれていく。
カリンの目尻に涙が溜まった。
『大人しくしな』
低い声で男が言う。
これには夢だと理解している心の中のカリンも恐怖を覚える。
(こればかりはイヤだよ……)
早く解放されたい。
夢なのだからこの場面は飛ばしてしまいたい。
毎回カリンはそう思っていた。
『お前の親父にはここで死んでもらうが、他の奴らは殺せとまで依頼されてねえ。まあ、お前さんは――』
男は幼いカリンの顔を覗き込んだ。
無理やりカリンのあごを動かしてニタリと笑い、
『将来が楽しみな顔つきをしてっからな。奴隷商にでも捌いてもらうさ。異国の地で新しい人生が始まるって割り切ることだな』
そう告げた。
カリンの目が見開かれる。『う~う~ッ!』と大通りに手を向ける。大通りの数名ほどはこちらに気付いたが、路地に顔を向けてもすぐに視線を反らした。
大通りもスラム街の一角だ。誰もトラブルに巻き込まれたくないのだろう。
幼いカリンは絶望した。
だが、この時なのだ。
このすぐ後のことなのである。
(……うん。ここで)
心の中のカリンが微笑む。
そうして、
『……仮にも王都なのに治安が悪いな』
誰かがそう呟いた。
(……嗚呼……)
心の中でカリンは胸に手を当てる。
(……
それは大通りから路地へと入ってくる人影の声だった。
逆光で顔は見えない。
背中に大きなサックを背負った行商人のような服装の人物である。
『……おい』
男がその人物に言う。
『口出しすんじゃねえ。てめえは何も見てねえ。今すぐ消えな』
幼いカリンを捕らえたまま恫喝する。
しかし、その人物は、
『これならホルターの方がまだ治安がいいな』
そう呟いて、サックをドスンと背後に落とした。
『むしろ王都だからなのか? どこの国も発展した場所ほど裏側は怖いということか。まあ、いずれにせよ』
その人物は告げる。
『子供を攫おうとするような奴は見過ごせないな』
そして次の瞬間、
――ゴッ!
順突きの拳がカリンを捕らえていた男の顔面を打ちつけていた!
男は悲鳴も呻き声も出すことなく吹き飛ぶ!
一瞬、宙に浮いたカリンはそのまま彼に受け止められていた。
咄嗟にカリンは彼にしがみついていた。
(……あうゥ、
幼い姿のカリンは目を瞬かせている。
ただ心の中の成長したカリンは心をときめかせていた。
夢の中でしか会えない思い出の人だ。
そしてはっきり言ってしまえば初恋の人なのである。
まあ、この話は親友たちにもしたことはないが。
一方、
『おい!』『くそ!』
男の仲間たちがぞろぞろと現れる。
それを見やり、幼い頃のカリンは『ひッ!』と体を震わせたが、
『大丈夫だ』
ポンと頭に手を置かれる。
(……
幼き日、カリンを助けてくれた人の大きな手だった。
やはり心からホッとする。
これほどの安心感に包まれることは成長してからもない。
『ここからなら大通りの方にも逃げられる。奴らを撒くのも簡単だ』
彼はそう告げる。
しかし、この時のカリンはフルフルとかぶりを振った。
『ダ、ダメ。あっちにはまだ私を助けてくれた人が……』
男たちの背後の方を指差して告げた。
この時、カリンは護衛の青年のことを心配していた。
『……そうか』
カリンを抱き上げたまま彼は呟く。
続けて、
『君はその人を助けたいんだな。なら逃げちゃダメか。仕方がない。もう荒事は引退したつもりなんだが』
少しだけ困ったように彼はそう言った。
実は彼の顔をカリンはほとんど憶えていない。
まだ幼かったこと。そして当時の事件の恐怖からか、恩人であるというのに彼のことは何度夢で見てもシルエットのように認識されるのだ。
それがカリンにとって今でも非常に残念に思うことだった。
なにせ、記憶が曖昧なせいで未だ彼の素性も名前さえも分からないのだから。
ただ、今回だけは違っていた。
(―――――え)
それは現実なのか、それとも夢想なのか。
いずれにせよ、心の中のカリンは驚いていた。
今回、これまで見ることの出来なかった彼の顔がはっきりと認識できたのだ。
まるで父に抱き上げてもらった時のような安心感から勝手に年配の人だと思い込み、ずっと『おじさま』と呼んでいた彼の姿にカリンは唖然としていた。
そんな動揺の中であっても追憶は続く。
『しっかり掴まっているんだ』
幼い頃のカリンをしっかりと抱き寄せて彼は言う。
『今から少しばかり荒っぽくなるからな』
………………………。
……………………。
…………………。
……パチリと。
ベッドの上で少女は目を覚ます。
質素な一人部屋だ。
ウェーブのかかった薄い桃色の長髪をベッドに広げて仰向けに寝ている。
服装はいわゆる
ややあって、
「うわああっ!? おじさまって普通に若かったよっ!?」
髪と同色の瞳を見開いて彼女――カリン=カーラスは上半身を跳ね上げた。
ようやく思い出した『おじさま』の顔。
それは二十歳前後の青年だった。
精悍かつ優しげな顔つき。大きな包容力も感じて実にカリン好みの男性ではあったが、とにかく想像以上に若かった。
少なくとも『おじさま』と呼ぶほど自分と年齢は離れていない。
「全然おじさまじゃなかったよ!? 私もの凄く失礼だった!? ま、まあ、子供の頃だし仕方がないけどともかく、また忘れない内に早く絵にしとかないと!」
およそ九年ぶりに蘇った記憶だ。
恩人であり、初恋の人でもある。
再び記憶が薄れる前に似顔絵にすべきだった。
幸いにもカリンは写実が得意だった。
荷物の中からペンと紙を取り出すと、テーブルに座ってスラスラと描いていく。
自分でも驚くほどにペンが奔る。まるで何度も描いていたかのようだった。
そして、
「うんっ! よし!」
カリンは満足げに似顔絵を頭上に掲げた。
「おじさまだ……これがおじさまの顔なんだ!」
満面の笑みを零すカリン。
九年前のことでも顔さえ分かれば探すことは出来るかも知れない。
そう思うと高鳴る鼓動が抑えられなかった。
しかし、そこで、
「……あれ?」
カリンは少し違和感――いや、既視感を覚えた。
この二十歳ほどの青年の顔。どこかで見覚えがあるのだ。
幼い日の思い出ではなく、もっと別の場所でだ。
「この顔って何か散々見たような……」
そう呟いた時、不意にカリンの記憶が繋がった。
そうして、
「………………え?」
思わずカリンの目が点になるのであった。
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