第23話 魔王さまは優しくない

 深い森の中。

 彼女は赤い刀身の長剣を片手に走っていた。

 ――ハァ、ハァ、ハァ。

 息が切れて、短い黄金の髪が揺れる。

 頬には汗が伝っていた。

 リタの実母。アニエス=ストーンである。

 実年齢は三十二歳なのだが、見た目的には二十代前半にしか見えない。躍動するスレンダーな肢体に訓練用の黒いアンダーウェアのみを着ているので尚更だ。


(――く)


 汗が目に流れ込み、視界を邪魔する。

 と、その時。


『――グオオオッ!』


 鋭い爪がアニエスに襲い掛かる!

 アニエスは咄嗟に刀身を盾にして防御するが、衝突の勢いで近くの樹まで吹き飛ばされてしまう。そのまま背中を叩きつけられた。


「――カハッ!」


 肺から空気が吐き出される。


『グルルゥ』


 アニエスを襲った相手は警戒しつつ彼女に近づいて来る。

 A級魔獣。人間の二倍はある体躯を持つ人狼型の怪物だ。

 種族名をバリンガンと言った。冒険者・アリス=ジニストとして活動していた頃、たった一度だけ遭遇したことのある上級魔獣だった。

 当時のアニエスには為す術もなくどうにか逃走に成功した相手だった。


「……ぐ」


 アニエスは態勢を立て直した。

 しかし、剣の切っ先は上げない。

 それを好機と見たか、バリンガンは雄たけびを上げて突進する!

 それに対し、アニエスは左腕を差し出した。

 ――ガブリッ!

 牙がアニエスの二の腕に喰い込んだ!


(――ぐうッ!)


 激痛が奔る!

 ミチミチと筋線維が千切られていく音が響く。血が勢いよく噴き出して怪物の顔を赤く染めた。数秒もあれば腕が喰い千切られることだろう。

 だが、その数秒で充分だった。

 アニエスは歯を食いしばり、赤い剣を人狼の脇腹から首へと突き立てた。

 バリンガンは目を剥く。

 が、上級魔獣はそこまでしても即死には至らない。


「うあああああああ――ッ!」


 アニエスは絶叫を上げて、剣を払った。

 刃はバリンガンを体内から斬り裂き、背中を通り抜けた。

 大量の血がバリンガンの背中から飛び散った。

 怪物の牙が緩み、双眸から光が失われる。

 同時に重傷のアニエスもその場に倒れ込んでしまった。

 そうして――……。




「アホウが」


 容赦ない一言が主君の口から飛び出してきた。

 そこはとある王城。

 そしてここは特別な部屋だ。

 広大な円塔の中であり、上層には幾つもの解放された大きな窓が並んでいる。

 今ここには二人の人物がいた。

 一人は大量の汗をかいて座り込むアニエス。

 もう一人は十代前半の竜人族の少女。アニエスの主君であるロザリンだった。

 バリンガンと戦った時と同じアンダーウェア姿のアニエスは左腕を片手で抑えつつ、傍らに立つ主君に視線を向けた。


「これはそなたの基礎力を鍛えるための訓練じゃ」


 ジト目を向けてロザリンは言う。


「仮想戦によって実戦勘と基礎体力の底上げを目的にしておるというのに、そなたときたら格上相手だとすぐさま捨て身になりおって。今日まで何回死におった?」


「……百七回よ」


 アニエスは視線を逸らして答える。


「けど、いいじゃない。仮想世界では死なないんだから」


「馬鹿を申せ」


 ロザリンは腰に両手を当てて嘆息した。


「それはすでにそなた自身が実感していよう。この塔に設置した宝具は肉体にも影響を与える。そうでなければ体力の訓練にならん。ゆえに仮初といえども鮮明かつ無惨な死は心を殺すぞ。その証拠にいま左腕が上手く動かぬのだろう?」


「…………」


「まったく。そなたには役割があると言っておったはずじゃぞ」


 呆れた口調でロザリンはそう告げる。


「……分かってるわよ」


 一方、アニエスはぶっきらぼうな表情で立ち上がった。


「私はあなたの大切なヌシさまとやらの贄なんでしょう? その契約を反故にする気はないわ。安心して。何度死を経験しようが、私は絶対に死なないから」


 未だ痺れたままの左手で拳を作る。


「こんな程度じゃあ死ねないのよ。まだ私は何も償っていないんだから」


「……やれやれじゃな」


 ロザリンは深く嘆息した。


「また自分を追い込んでおるのう。完全にそなたの悪癖じゃな。一度そなたをヌシさまに会わせようかとも思ったが時期尚早のようじゃ」


 そう呟きつつ、


ヌシさまはどうにもこの母娘に甘いからのう)


 内心で渋面を浮かべるロザリン。

 娘の方は理解できる。ヌシさま――ライドに大切に育てられたリタ=ブルックスが愛されることは当然であり、ロザリンとしては本当に羨ましい限りなのだが、ライドはこの放っておくと自分で自分を追い込んでいく幼馴染にも相当に甘い。

 今のアニエスを会わせればきっと無理にでも傍に置くことだろう。

 ある意味、自分を顧みなくなっている幼馴染を放っておくはずがない。

 これまでのことを強く叱り、これからのことを諭す。

 その結果、愛されることになるのかも知れない。


 ロザリンとしてはそれも許容している。

 ロザリンが見たところ、ライドはこの幼馴染に怒りはしても恨んではいない。

 娘を育てたことに一切の後悔がないからだ。


 ただ、だからといってアニエスを容易く認めるつもりはない。

 ヌシさまが優しいからこそ、正妃たる自分は厳しくあるべきだと思っていた。

 アニエスにはこれまでの人生のみそぎは徹底的にやらせるつもりだった。

 そうでなければ他の寵姫たちも納得しないだろう。


(そなたが寵姫となるかはこれからの生き方次第じゃ)


 ロザリンはそう考えていた。


(まあ、仮に禊をやり遂げたとしても、そなたがヌシさまに愛される夜はさぞかし自己嫌悪で苦しむに違いないじゃろうがな)


 罪悪感や自己嫌悪は自身の意志で消せるようなモノではない。

 愛が深ければ深いほどそれは心に強く突き刺さる。

 罪の重さを思い知ることになる。

 愛されることで永遠に消えないジレンマに苛まれることになる。


(それもまた罰じゃな)


 アニエスを一瞥しつつ、ロザリンは意地悪くほくそ笑む。

 やはり邪悪寄りの女帝。

 決して優しくはないロザリンだった。


 とは言え、これはまだただの予想にすぎない。

 どんな未来を選ぶかはライド次第である。


「ともあれじゃ」


 ロザリンは背を向けて歩き出した。


「妾はしばしここを空ける。ルルエライトに影武者をしてもらってな」


 万能の自動人形オートマータであるルルエライトは擬態も可能だった。

 容姿、声や口調。些細な仕草。

 さらには骨格も作り変えて自分よりも小柄な人物さえも再現する。


「船団長以外にはまず見抜かれん。次のイリシスたちとの会合までには戻るつもりじゃ。そなたはこれまで通りにそなたの娘とその友を守っておくがよい」


「……言われなくてもそうするわ。けど」


 左腕の調子を確かめながら、アニエスはロザリンの背に目をやった。


「次の会合って確か一ヶ月後だったわよね。そんな長期間どこに行くの? 今までは外出しても三日ぐらいだったじゃない」


 そう尋ねると、ロザリンは振り返ることなく肩を竦めた。


「確かに今まではわずかな日数をこっそりと抜け出しておった。妾が動くとイリシスたちがうるさいからの。しかし、今回はどうしても行かねばならん」


 ロザリンは振り返って笑う。


「火急の用じゃ」


 そう告げて、ばさりと背中から大きな竜翼を広げた。

 ロザリンはゆっくりと宙に浮いていく。

 この塔の上空にある窓へと向かっていった。


「はてさて。いかなる事態なのか。妾自ら確かめることにしようか」


 そう呟いて。

 ロザリンは窓の外へと飛び出していった。

 対し、アニエスは双眸を細めていた。


「……陛下の行動はよく分からないわ」


 小さく嘆息する。

 そして、


「いずれにせよ、私は私の償いをするだけよ」


 アニエスはそう呟き、再び仮初の世界を起動させるのであった。





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