第26話 アリスの決意
その日。
宿屋ニックスの女将であるシータは、ある場所に向かっていた。
ホルターの東地区にある共同墓地である。
手には小さな花束も持っていた。
この地区の共同墓地を管理していたブルックス教会は、十五年前に解体されて更地になっているが、墓地までなくなっている訳ではない。
今日は長男が店の手伝いに来てくれたおかげで、少しばかり余裕の出来たシータは、この機会に墓参りに来ていた。
ライドの義父であったブルックス神父の墓前に近況報告をしに来たのだ。
(ライドの奴は無茶くちゃな人生を歩んでるしね……)
老神父さまも、きっと気にかけているに違いないだろう。
けれど、心配はいらない。
あなたの義息子は一人っきりじゃない。
あなたの義息子を大切に想ってくれている人たちがいる。
そう報告するつもりで、今日は墓参りにやって来た。
花束を片手に、シータは歩く。
徐々に周囲から店や家が少なくなっていった。
そうして一本道だけがある草原へと出る。
共同墓地は、少し街から外れた場所にある。
草原に覆われた緩やかな丘。
ブルックス教会跡地の裏にあるのだ。
シータは、所々に柵が立てられた一本道を歩く。
ややあって、遠目に墓地が見えてきた。
シータはさらに歩くと、
(……おや?)
人影が見えた。
自分と同じく墓参りに来た人間かと思ったが、その人物は、どうしてか共同墓地の方ではなく、ブルックス教会跡地の前に立っていた。
遠目だと、どうも立ち尽くしているようにも見える。
(誰だい?)
シータは眉根を寄せた。
そうして近づくにつれて、その人物の横顔がはっきりと見えてきた。
黄金の髪を腰まで伸ばした美女である。
スレンダーな肢体には白いタイトスーツを纏っていた。
彼女は茫然とした表情で、ブルックス教会の跡地を凝視していた。
(………は?)
シータは思わず目を丸くした。
予想外のことに、その場に花束を落としてしまう。
立ち尽くすその美女は、シータのよく知っている人間だった。
自分の記憶にある少女だった頃よりもさらに美しく成長しているが、面倒見の良いシータが可愛がっていた妹分の顔を見間違えるはずもない。
ブルックス教会跡地前。
そこにいたのは、十七年前にホルターから飛び出していったアリスだった。
「……………」
シータは無言のまま、ゆっくりと歩き出す。
ザッザッザッ……。
その足取りは徐々に早くなった。
ギリと歯を軋ませる。
彼女の拳は、強く固く握りしめられていた。
シータは遂には駆け出した。
そして、
「このォ馬鹿娘があああああああああああああああ―――ッ!」
――ドゴッッ!
絶叫と共に、アリスの右頬に鉄拳を叩きつけた!
体重も乗せた拳である。
熊であっても怯んでしまいそうな渾身の殴打だった。
「――ッ!? ッ!?」
アリスは為す術もなく吹き飛ばされた。
地面に一度叩きつけられ、そのままゴロゴロと転がる。
呆然自失となっていたところに、いきなりの強烈な一撃。
アリスは混乱していた。
勢いはすぐに止まったが、服は土で汚れ、口の端からは血を流していた。
倒れた状態から、アリスはすぐに顔を上げた。
そして、ズンズンとこちらに近づいてくる人物に目を見開いた。
「シ、シータさん……」
それは子供の頃に何度もお世話になった人だった。
「あんたねェ。よくもまあ、おめおめとここに顔を見せられたもんだね……」
右の拳を掲げて、ギシリと固めるシータ。
荒ぶる激情を剥き出しにして、倒れたままのアリスを見下ろしている。
「ライドに、リタにあそこまでのことしておいてさ」
そう呟いた。
すると、アリスは顔色を変えた。
「ラ、ライドは、リタは……」
蒼い瞳から、ボロボロと大粒の涙を零した。
「な、なんで? なんでなの? なんでブルックス教会がないの? 神父さまは? ライドとリタはどこにいるの?」
「………は?」
アリスの独白に、シータは足を止めて眉をひそめた。
「なに言ってんだい。ライドもリタもここにはいないよ。ブルックス教会は十五年も前に取り潰しになっているよ。神父さまが亡くなられた時にね」
「――――え」
アリスは目を見開いた。
「だ、だって、私、ずっとここに二人がいると思って寄付を……」
「……寄付だって?」
シータは訝しげな表情を浮かべる。
「そんなことをしてたのかい? どうも話が見えないね」
そう呟き、シータは一度拳を緩めた。
「……仕方がないね。とりあえず馬鹿娘」
シータはアリスに近づくと、強引にその腕を取った。
「まずは詳細を聞かせてもらうよ。今日まであんたが何をしてきていたのかをね。もう一回ぶん殴るかはその後でだ」
そう告げる。
そうして、およそ一時間後。
シータとアリスは宿屋ニックスの二階の生活部屋にいた。
奇しくも、ティアが座った椅子にアリスは腰を掛けていた。
氷水を手に持って、赤くはれた右頬を押さえている。
「……なるほどね」
テーブルを挟んで、アリスの対面に座っているシータが深々と嘆息した。
そこで初めてシータはアリスの事情をすべて聞くことになった。
今日までのこと。
そして彼女の身に起きた過去の出来事についてもだ。
「………はあ」
再び重い溜息をつく。
「あんたの事情はだいたい分かったよ。確かに、あんたは最悪の男に出くわしちまったようだね。その点においては同情もするよ」
シータは渋面を浮かべた。
「あんたは何だかんだで世間知らずのお嬢さまだったしね。もしライドがあんたの傍にいりゃあ、そもそもそんなクズを近づかせることもなかったんだろうけどさ……」
「…………」
アリスは無言だった。ずっと俯いている。
彼女は彼女で、シータからライドとリタの現状の話も聞いたからだ。
二人が冒険者としてすでに旅立っていることも。
あまりのショックに蒼い瞳は虚ろで、顔色は真っ青だった。
「まあ、リタを捨てちまったことも、まともな精神状態じゃなかったってことで納得も出来る。それでも百万歩ぐらい譲っての話だけどね」
シータはアリスを見据えた。
「けど、その後の選択が致命的に間違っているよ。つうか、あんたは、あんたにとって最善だった機会を自分で潰しちまったんだよ」
「………え?」
ゆっくりと。
アリスは初めて顔を上げた。
「あんたが正気に返った時、すぐにホルターに帰ってくるべきだった。あんたを助けてくれたギルドマスターさんに頼んでこれまでの事情も分かるようにしてさ」
シータは嘆息する。
「そんで勇気を出してライドに謝るべきだった。平身低頭、誠心誠意にね」
ボリボリと頭をかく。
「リタはその時、五歳だよ。その頃ならまだあんたは母親として挽回できたはずだ。ライドにしても二年ほどはあたしがリタを預かる期間があったから実際の父親歴はまだ三年だった。そこからなら、あいつが自分のための人生を踏み出すことも充分可能だったよ。少なくともその選択肢はあったはずさ。そんであんたにとっては……」
そこでシータは眉をしかめた。
「その道を選んでいたら、きっとあんたは救われていたはずだったよ」
「………え?」
アリスは目を見開いた。
「あんたが帰って来たからって、三年間も大切に育ててきたリタをいきなり気にもかけなくなるような男かい? ライドって奴はさ。そんでさ」
シータは額に手を当ててかぶりを振った。
「あんたに関してもだ。ここまで酷く傷ついた幼馴染をあいつがそのまま放っておくとでも思うのかい?」
「………あ」
アリスはポツリと声を零す。
「ライドは温厚な性格をしているけど、やっぱり人間さ。あんたがしたことには怒りや憤りを抱くだろうし、強く叱責もするだろう。けど、結局、ライドにはリタは当然として、あんたの方も見捨てられないんだよ。ライドはあれで一度決めたら頑固で強引なところもあるしね。絶対に放っておかないさ」
そこでシータは渋面を浮かべて息を吐いた。
「あんたは最悪の男の悪意で心も体もボロボロにされた。だけど、それ以上の愛で赦されて癒されていたはずだったんだよ」
「そ、そんなの……」
シータの指摘に、アリスはクシャクシャと顔を崩した。
「……許されない。許されないよ……」
「許す、許さないを決めるのはリタであり、ライドさ。あんたじゃない」
シータは言う。
「まあ、これはもう過ぎ去っちまった可能性の話さ。重要なのは今だよ。アリス。改めてあんたに訊くよ」
一拍おいて、
「あんたはどうしたいんだい?」
「…………」
アリスは沈黙する。シータはさらに続ける。
「あんたの娘は覚悟を決めて旅立ったよ」
そして双眸を細めて問う。
「母親のあんたは一体どうするつもりなんだい?」
沈黙が続く。
アリスは氷水をテーブルの上におくと瞳を閉じた。
十秒、二十秒と何も語らない。
シータは静かに妹分の決意の時を待っていた。
そうしてアリスは、
「……私は」
顔を上げた。
その表情を見やり、シータは「……ふん」と鼻を鳴らした。
「少しはまともな顔に戻ったじゃないか」
前を見据えるアリス。
その顔には、強い決意が宿っていた。
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