第25話 最初の一歩
さて。
時は少し遡る。
それは、リタが真実を知る二日前のことだった。
場所はファラスシア魔法学校の学長室。
卒業式の忙しさもどうにか落ち着いた頃。
その日、学長であるアリスは一人の人物を学長室に招いていた。
ファラスシア魔法学校の顧問弁護士。
――そう。ネス=ズゥである。
ネスは少し困惑したような表情を浮かべていた。
執務席に座る美貌の学長が、ずっと沈黙しているからだ。
十秒、二十秒とさらに沈黙は続く。
そうして、
「……待って。ズゥ弁護士」
ようやく。
ようやくアリスが重い口を開いた。
「今の話はなに……?」
続けてそう尋ねる。
彼女の顔色は蒼白だった。
「……はい。現在、ご息女の親権は学長にあります」
と、ネスは改めて告げる。
元々、アリスは今後のことについてネスに相談するつもりだった。
リタは無事卒業してライドの元に帰った。
そして当然ながら、ライドの口からアリスのことも話されるだろう。
今後どうすればいいのか。
それをネスに相談するつもりだった。
だが、事態はあまりにもアリスにとって想定外だった。
初めてネスから聞かされた事実は、何もかもを覆すようなモノだった。
一方でネスも嫌な予感を覚えていた。
親権譲渡の件は、学長の信頼をより得るためのとっておきの切り札だった。
しかし、学長の反応は、想定していたモノと明らかに違っていた。
青ざめて口元を片手で抑えている。
当たり前だが、とても好感を得た様子には見えなかった。
再び沈黙が学長室に降りる。
そして、
「……ズゥ弁護士」
アリスが口を開いた。
ネスは反射的に息を呑んだ。
彼女の声は、ゾッとするほどに感情が籠っていなかった。
表情も同じだ。
群を抜いた美麗な顔立ちのために、一層に凍えるような恐ろしさを感じる。
「三年前」
アリスは、硬直するネスに構わず言葉を続ける。
「私があなたに依頼した内容は『私の娘がファラスシア魔法学校に通うことを彼に許可してもらうこと』でしたね」
「は、はい」
ネスが緊張した面持ちで頷く。
「三年前、あなたから聞いた『私が校内において娘の一時的に後見人になるという話』は依頼の交渉結果であると理解できます。ですが」
一拍おいて、アリスはネスを見据えた。
「それが何故、親権譲渡の話にまでなるのです?」
「それはブルックス氏が違法状態にあると私が気付いたからです」
ネスは即答する。
「弁護士として放置できる状態ではありませんでしたので。違法状態を解消するためにブルックス氏と相談した結果、学長への親権譲渡となりました」
そこでネスは頭を垂れた。
「後見人の資格などと、あえて誤解を招くような形で学長にお伝えしていたことをお詫びします。ですが、それはご息女のためにブルックス氏ご自身が望まれたことなのです」
「私が聞きたいのは、そういったことではなりません」
指を組んで、アリスは言う。
「あなたが違法状態に気付いたところまではよいのです。しかし、それは明らかに依頼の対象外の話のはずです。どうして気付いた時点で、まず依頼者である私に連絡も相談もなかったのでしょうか?」
「………え?」
ネスは目を見開いた。アリスはさらに言葉を続ける。
「話を聞く限り、役所の業務怠慢が大きな要因の一つです。違法性はあっても緊急性はそこまでなかったはずです。依頼者に相談する時間も機会もあったというのに、あなたが独断で動かなければいけなかった理由とはなんだったのでしょうか?」
「そ、それは……」
ネスは言葉を詰まらせた。一方、アリスはさらに指摘する。
「先に言っておきますが、違法状態についてはあくまで彼側の問題。だから依頼とは関係なくあなたが個人的に対応したというのは理由にはなりませんので。娘の親権にも関わるその件に私が無関係だったとでも言うのですか? 結果的にあなたの手続きで娘の親権を得たという私が無関係だと?」
「…………」
ネスは反論も出来なかった。
「結果、あなたは依頼者への連絡も承諾もなく独断で行動し、依頼者の関係者に人生において多大な影響を与える決断をさせたということです」
アリスはそう断じた。
(……し、しまった、くそッ!)
この時点でネスは気付いた。
自分の致命的な勘違いに。大きすぎるその失態に。
(そういうことだったのか! この女!)
表情を全く動かさない学長の様子に、大きく読み違えたことを理解する。
ネスは今回の件を『親権争い』の一種と判断してしまっていたのだ。
あの青年と学長は娘の親権争いをしているのだと。
一般的に、親権争いをする両親は、相手を『敵』に近い認識で接している。
互いの愛情もすでに冷めきっており、我が子の親権を得られるのならば多少相手が傷ついても構わないとまで考えている者が多かった。
要は、アリスにとってライドはその程度の相手だと勝手に勘違いしたのだ。
もっと具体的に言えば、学長にとってあの青年は『十代だった頃には邪魔だった娘を押し付けた都合の良いお人好しの男なのだ』という先入観を抱いていた。
しかし、それは違っていたのである。
(この女、娘だけでなく、あの男の方にもそこまで執着していたのか!)
ネスはそう認識を改める。
だとすれば、自分の行ったことは最悪だった。
「仮に私に連絡があったとしたら、他に方法もあったのではないのでしょうか?」
感情の窺えない声で、アリスがそう尋ねてくる。
(……ぐッ!)
ネスは内心で呻いた。確かにその通りだった。
学長の心情をもっと深く理解していれば、他にも手段があった。
そもそも入学許可を得た時点で、あの青年も学長と話し合いたいと言っていた。
学長とアポを取って欲しいとも願っていた。
それはさほど難しくもない話だった。
例えば、違法状態であることを伝えた上で、あの青年と学長が話し合う場を設ける。
一度では確執もあるだろうが、ネスが公平な立場で二人の間をとり持って何度もセッティングをし、最終的には双方合意の上で親権を譲渡させる。
さらに言えば、それによって二人の関係を改善できればすべてが解決していた。
流石にその結果は理想的すぎるとしても、そこまで尽力すれば、仮に交渉が失敗に終わったとしても学長からは確かな信頼を得たことだろう。
地道ながらも正攻法だ。
それこそが最善手だったのである。
(……私としたことが……)
ネスは後悔する。
――そう。重要視すべきは信頼だった。
まずは学長との信頼関係こそ築くべきだったのだ。
まさに基本中の基本である。
だがしかし、しっかりと信頼関係を築くことに注力しなければならない時に、親権を争う者たちは不仲だという、いつしか生まれていた固定観念から自分の手柄を――自分の利益だけを優先して拙速に独断専行しまったのが今の状況なのである。
(まずい、まずい、まずい! これは……)
ネスの背中に嫌な汗が滲み始める。
表情と声こそ淡々としているが、学長は間違いなく激しい怒りを抱いている。
それは静かなる激情だった。
感情を剥き出しにするよりも遥かに恐ろしい怒りだった。
「今回の一件は、私の個人的な依頼でした」
アリスは指を組んだまま、話を続ける。
「ですが、それが弁護士としてのあなたの試金石となったようですね……」
小さく息を吐き、
「本件のあなたの独断行為は極めて重大な過失であったと判断します。時に独断も必要なこともありますが、今回のあなたのケースはあまりに慎重さが欠けています。依頼者と相手側に対する配慮もです。これが生徒たちや、彼らのご両親に対しても同じように対応されるのなら、とてもあなたに顧問弁護士を務めてもらう訳にはいきません」
「お、お待ちください!」
ネスは手を突き出して叫んだ。
「本件においては確かに私の配慮が足りておりませんでした! 申し訳ありません! ですが、生徒たちや、彼らのご両親に対して、決してこのようなことは――」
「ならば、何故この件に関してはそのような対応をされたのです?」
アリスの問いかけに、ネスは「……う」と呻いた。
そこからネスは続く言葉が発せられなかった。
「答えられないのでしょう? あなたは本当に優秀なのでしょうね。優れているからこそ相手の立場に合わせて自分の利をごく自然に算段してしまった」
あまりにも正確に指摘されて、ネスは拳を強く握ることしか出来なかった。
アリスは大きく息を吐いた。
「個人的な想いがないといえば嘘になります。ですが、これは感情を横に置いた本校の学長としての判断です。相手の立場によって自分の利益を算段し、独断専行をしてしまう。そのような人間に我が校の顧問弁護士を任せる訳にはいかないのです」
それは真っ当すぎる意見だった。
「お、お持ちください!」
だが、それでもネスは食い下がる。
「私にはこれまでの実績があります! 今後はこのようなことは一切行いません! ですからどうか信頼回復の機会を!」
「私と誠実な信頼関係を築こうとしなかったあなたがですが?」
淡々とアリスは返す。
ネスは、目を見開いて硬直した。
信頼を回復するにも、そもそもそれ自体がないのだ。
最初にそれを築こうともしなかったのはネス自身なのである。
その機会は間違いなくあったというのに。
「顧問弁護士の契約破棄の通知に関しては、後日、今回の件の詳細と共に弁護士協会へと連絡いたします」
「…………………」
「ですので今日はもうお帰り下さい。ズゥ氏」
アリスはそう告げる。
ネスは茫然としたまま後ずさりして、無言で退室していった。
アリスは学長室に一人残された。
そして、
「――何をしているのよ! 私はッ!」
――ドンッ!
アリスは力一杯、執務机に両腕を叩きつけた。
最悪だ。最悪だった。
今回も自分の愚かな行為が最悪の事態を引き起こしてしまった。
「……リタぁ、ライドォ、ごめんなさい……」
あれほど娘を深く愛してくれた彼から親権を奪ってしまった。
その上、娘が成人するまで接触するなとは一体何様だというのか。
リタともあの子が卒業する日まではよく話をしていた。
自分のぎこちなさは隠せなかったが、あの子をとても愛しいと思える日々だった。
だから知っている。
あの子がどれほどライドを慕って懐いているかを。
今回の件、リタはきっと酷いショックを受けるに違いない。
ライドもすでに傷ついている。
なにせ、父としての日々を否定されたに等しいのだから。
アリスが奪った少年期に代わる日々がだ。
「……………」
ギリ、と。
アリスは歯を強く鳴らした。
もはや一刻の猶予もない。
怖がって躊躇っていられるような状況ではなかった。
今すぐにも二人に会わなければならない。
たとえ、罵声や石を投げつけられたとしてもだ。
真摯に必死に謝罪をする。
そして接触禁止の件だけでもすぐにどうにかしなければならなかった。
それが出来るのはアリスだけだった。
だから、
(……いい加減動け! 私の足!)
アリスは、震える足で椅子から立ち上がった。
ずっと恐怖と罪悪感で縛り付けられていたその足で踏み出した。
それはあまりにも遅すぎる一歩だった。
けれど。
これこそが、アリスの今後の生き方を決める最初の一歩でもあった。
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