第7話 アリスの過去②

「…………」


 学長室。

 最悪の頃の記憶に、アリスは深く嘆息した。

 あの後、保護してくれた街の冒険者ギルドのおかげでアリスは回復した。

 他の女性たちは冒険者を引退し、それぞれの故郷に帰っていった。


 しかし、アリスは冒険者でいることにした。

 今のままでは、とてもライドにもリタにも会えない。

 足が震えて動けなくなる。本当に情けなかった。

 だから、今一度、F級からやり直し、自分自身を鍛え直せば、もしかしたら踏み出す勇気を持てるのではないかと思った。


 今の彼女には、強さ以外によりどころになるものが何もない。

 唯一だったそれに縋るしかなかった。


 ギルドマスターは、そんなアリスの背中を押してくれた。

 アリスの後見人として自分の家名である『ジニスト』の名を与えてくれたのだ。

 彼女は『アリス=ジニスト』になった。

 しかし、結局、アリスの弱体化の原因は分からず、またパーティーにトラウマを抱えてしまった彼女はソロでしか活動できず、階級は簡単には上がらなかった。


 どうにか辿り着いたのはB級。

 それでも立派だとギルドマスターは言ってくれた。

 実際に冒険者はC級までで終わる者が多い。B級からは大きな壁があるのだ。それをソロで至ったのだから、やはりアリスには才能があったのだろう。

 しかし、


(それに何の意味があるのよ……)


 奪われ、捨てて、歩み直した道の果てがこれだった。

 結局、何も変わらなかった。何の勇気も得られなかった。

 心底、自分が嫌になった。


 けれど、ギルドマスターはそんなアリスにこう提案してくれた。

 冒険者を引退して後進を育てる職に就かないかと。


『S級冒険者になることだけが道ではありません。新たな道で自分を見つめ直してみてはどうでしょうか』


 ギルドマスターはそう諭してくれた。

 アリスは悩んだが、その提案を受けることにした。

 ただ出来ることなら王都ラーシスの近くがいいと頼んだ。


 そこから汽車でたった三日。

 そこに幼馴染と娘がいるからだ。


 ギルドマスターは王都の冒険者ギルドに口利きをしてくれて、アリスはファラスシア魔法学校の学長に就くことになった。話はとんとん拍子に進んだ。先代学長がかなりの高齢だった事と、より実戦的な教育への改革を推進していたため、実戦経験が豊富な上級冒険者が後継になってくれることは有り難い話だったらしい。


 正式に学長に就く前に、アリスは一度だけ故郷に行こうと思った。

 実家には行けない。

 ライドの家……教会にも近づけない。

 故郷に着いても途方に暮れたアリスは気付けば草原にまで足を延ばしていた。

 幼い頃に、何度もライドと一緒に来た場所だった。

 そしてそこで『あの子』と出会ったのだ。


 十二年ぶりに再会した実の娘。

 最初は、すぐにリタだと気付けなかった。

 まるで幻のように見えたのだ。

 草原で木剣を振るう少女がまるで過去の自分の幻影のように見えたのだ。


 しかし、名前を聞いて現実に戻る。

 名前を聞くだけで充分だった。

 ライドがずっとリタを守ってくれていたことを理解するのには。

 調べることも怖かった事実をここで知ることになった。


(……ああぁ……)


 そこで約束もした。

 リタの望みを叶えるためにライドを説得する約束だ。

 そんなことは無理・・だった。

 ライドに会うのが怖い。どうしようもなく怖い。

 きっと恨まれている。

 きっと嫌われてしまっているから。

 アリスは一日中、必死に悩み抜いた。


 そして結論から言おう。


 人生が選択の連続ならば、ここで彼女は最大の選択ミスをしてしまう。

 アリスは悩んだ結果――逃げた・・・のだ。

 電報を使って王都から弁護士を呼び寄せたのである。


 ファラスシア魔法学校と契約している顧問弁護士だ。冒険者の育成する学校では危険なダンジョンに潜る講習もある。その結果、運悪く生徒が亡くなってしまうケースもあり得るため、専任の弁護士がいるのである。


 この時、アリスは言葉も思考も上手く回らなくなっていた。

 だから、弁の立つ人間に頼ったのだ。

 それこそが最大の選択ミスだったと気付かずに。


『なるほど。それなら話は簡単です・・・・・・・・・・。お任せください。ジニスト氏』


 ホルターにある最高級ホテルの一室にて。

 アリスの拙い事情説明にも、その弁護士は『要点は分かりました』と太鼓判を押した。

 随分と小柄な、眼鏡をかけた弁護士だった。

 極めて失礼だと思うが、まるで着飾ったネズミのような印象を受ける。


 ただ、その弁護士は相当な敏腕だったらしい。

 後日に報告を聞くと、トラブルもなくライドの説得に成功し、その上、アリスはリタの後見人になる資格まで得たとのことだ。


 これにはアリスも息を呑むほどに驚いた。

 ――リタの後見人の資格。

 それは頼んでいない――いや、考えてもいなかったことだったからだ。


『今日から彼女の後見人はあなたになります』


 弁護士があまりにも自然にそう告げるので、数十秒ほど硬直したぐらいだ。

 まさか一時的・・・にでもあの子の後見人になることを許してもらえるなんて――。


『まずは彼女の家名の変更だけでも先に行っておきましょうか』


 学校には貴族も通う。貴族の誇りノブリスオブリージュなど持たない横暴な者もいる。

 学長である自分の名を使った方がいいというのが、弁護士の話だった。


『では、後の手続きは私の方で済ましておきましょう』


 弁護士は眼鏡の縁を上げてそう告げた。

 アリスは息をついた。

 これでリタとの約束は果たせた。

 だが、その代わりにライドに自分のことを知られてしまった。


(……ライド)


 ズキン、と胸の奥が痛む。

 自分のことを知っても押しかけてこないのは、そこまで怒っていないのか。

 憎んでいないのか。

 嫌われていないのか。

 そんな考えが微かによぎると、ずっと抑えつけていた願望まで噴き出してきた。


 ……自分はあの男に狂わされていた。

 純潔も、誇りも、思考も。

 正常な判断力も奪われていた。


 その事情を正直に話せば、もしかしたらライドは――。


 そんな淡い期待を抱くが、


(……どこまで愚かなの。私は)


 アリスは自分自身に対する強い失望と共にそれを否定した。

 ライドは面と向かって話そうともしない卑怯者のアリスに心底呆れ果てて会いにこないだけかもしれない。

 そもそも、あの男のせいだけには出来なかった。

 付け込まれる隙を見せたのは他でもない自分だからだ。

 リタを捨てたのもこの手だった。


 おこがましい。

 淡い希望など抱くことさえ図々しい。


 ――せめて、自分の足で歩け! 

 ――自分の足で彼に会いに行け!

 ――クズ! 卑怯者!

 ――まず彼とリタに謝れ!

 ――もう逃げるな!


「………なんて情けないの」


 アリスは執務席の椅子にもたれかかり、大きく息を吐いた。


「リタの卒業も近いのに。その時にはライドにも会わなくちゃいけないのに」


 覚悟を決めなければならない。

 アリスが自分にそう強く言い聞かせた時だった。


 ――コンコン、と。

 ドアがノックされた。


『学長』


 ドアの向こうから声がする。


『お客さまをご案内いたしました』


「ああ。来られたのですね」


 アリスは立ち上がった。


「では、お二人を部屋へ」


『はい』


 ドアの向こうの人間――講師の一人がそう返すと、ドアが開いた。

 そうして入ってきたのは二人の女性だった。


「本日はご足労してくださり、誠にありがとうございます」


 アリスは執務席の前に移動して感謝を述べる。


「ああ~、気にしないで。可愛い後輩たちの面倒を見るのもボクらの仕事だし!」


 そう返すのは二十代半ばほどの黒髪の女性だ。

 襟部に金糸を施した軍服に似た白い服に、背には大剣を背負っている。


「それより初めまして! ボクの名前はレイ=ブレイザーだよ!」


「はい。『勇者王』のご高名はかねがね。私は本校の学長を務めるアリス=ジニストです」


「アリス! 綺麗な名前だね!」


 勇者はニカっと笑った。


「ありがとうございます」


 アリスは世界最強と謳われる勇者と握手をした。


(彼女たちがS級。私がまるで届かなかった頂点)


 互いの手を離すと、アリスはもう一人の小柄な人物に目をやった。

 手には大きな杖。

 緑色の三角帽子と同色のローブを纏う精霊魔法師。

 二十代後半だと聞いていたが、その姿は少女のようにしか見えない。

 そして帽子の下から覗かせる顔は息を呑むほどの美貌だった。

 まるで伝承にある妖精のようだ。

 あまりにも儚げで、その手を掴むと雪のように消えてしまいそうだった。


 だが、彼女こそもう一人の頂点なのだ。

 世界最強――いや、史上最強の精霊魔法師なのである。

 そうして、


「……初めまして」


 どこまでも可憐であり。

 そして幻想的であるその最強はこう名乗る。


「私はティア=ルナシス。よろしく」



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