第6話 アリスの過去①
ファラスシア魔法学校の学長室。
その執務席に、いま一人の女性が座っていた。
黄金の髪を腰まで伸ばした美女。蒼い眼差しに唇には紅を引いている。
スレンダーな肢体には白いタイトスーツを纏っていた。
年齢は三十二歳。ただ、凛としたその容姿は二十代前半でも通りそうである。
名を
かつての名を『アリス=ホルター』といった。
――そう。ライドの幼馴染であり、リタの母親である。
(……リタ)
アリスは執務机に置かれた資料に目をやった。
そこにあるのはリタの成績表だ。
それはまさに素晴らしいの一言だった。
(武具術A。体術A。座学A。精霊魔法A。神聖魔法E)
適正なしの神聖魔法以外はすべて最高成績。
しかも精霊数に至っては底なしと言っても過言ではない数値だ。
これほどの精霊数だ。例え最上位の第十階位の精霊魔法を連続使用したとしても、彼女が魔力切れをすることなどないだろう。
とても、自分と
(どこで間違えたんだろう……)
かつてアリスは自分が天才だと思っていた頃があった。
特に冒険者になったばかりの頃はだ。
アリスは魔法剣士の適性がとても高かった。
剣才に恵まれ、精霊魔法の才もあった。特にその頃は第四階位ぐらいまでの魔法ならどれほど使っても魔力切れを起こすことはなかった。
ただ居心地が悪いだけのホルター家から解放されて、いくつかのギルドの依頼もソロでも全く手こずることなくこなして瞬く間にE級に昇格した。
アリスは万能感に包まれていた。
そんな時だった。
「………」
アリスは強く唇を噛んだ。
あの男の名前はもう思い出したくもない。
あの男は親切な先輩を装って新人のアリスに近づいて来た。
いくつかの依頼を共同で受けさせてくれた。アリス自身まだ世間知らずだったこととあの男のパーティーに女性――正確には女性ばかり――がいたことにも油断していた。
ある依頼の打ち上げの夜。きっと薬を盛られた。
気付けば、アリスはあの男に純潔を奪われていた。
『やっほうっ! やっぱ新品! 処女だったな! ごっそうさん!』
靄がかかったような思考の中であの男がそんな台詞を吐いていたような気がする。
――ギシギシ、ギシィ……。
上下前後。溺れるような激しい動き。
されるがまま、アリスは必死に目の前の存在にしがみついていた。
唇からは嬌声も零れた。
怖いと思うような快楽の中、何かが軋んでいる音だけが耳に残った。
そして目覚めた時。
アリスはパニックを起こしていた。
ベッドの上。裸体の自分。下腹部の痛み。隣にはあの男がいる。男も裸だ。
状況は一目瞭然だった。
(なんで!? なんでの私!?)
分からない、分からない、分からない!
――どうして
アリスは青ざめて悲鳴を上げそうになった。
しかし、それは邪魔をされる。
『……アリス』
それは隣で寝ていた男の声だった。
『すまない。アリス。お前がどうしようなく愛しかったんだ』
そう告げてアリスを抱きしめる。動けないほどの力強さだった。
『アリス。お前が欲しいんだ』
そのまま、男はアリスの唇を奪った。
アリスの目が見開かれる。
子供の頃以来のキスだ。当然ながらあんな初々しいキスではない。
荒々しく貪るようなキス。逃れることも叶わない。
唇が離れた時、アリスの思考はほとんど止まっていた。
『アリス。これからお前を完全に俺の女にするぞ』
そう宣言する男。
混乱するアリスを押し倒し、男はのしかってくる。
あまりに純粋すぎたアリスに抗う術はなかった。
震えるだけになった少女に、男は微かに口角を上げた。
『大丈夫さ。全部俺に任せな』
そうして……。
アリスはあの男の女になった。
結論を言うと、それがあの男の手法だった。
親切心に見せかけた優しい言葉。
混乱時に付け入る有無を言わせない強引さ。
そして薬物まで用いた調教にも等しい情事。
そうやって才能のある新人の若い女を堕としていたのだ。
あの男のパーティーメンバーは、ほぼそういったメンバーだった。
――
あの男がそう呼ばれていたと知ったのは数年後のことだった。
あの男にとって、アリスは一番のお気に入りで使える駒だったのだろう。
情事の回数も最も多かった。
愛しているという言葉を繰り返し、定期的な薬物の投与。
当時のアリスはほとんど洗脳状態にあった。
男の横暴な態度や明らかな失言にも違和感を覚えない。
男の言葉はすべて都合よく変換されて、現状を客観視することもできなくなっていた。
アリスは本気で自分はあの男を愛していると思っていたのだ。
だが、あの男にとって誤算だったのはアリスの妊娠だった。
『ああ~、やっちまったか……。まあ、あんだけ出しまくれば当然か』
男は小さな声でそう呟き、
『アリス。俺たちの子供のためだ。育休に入れ』
と告げた。
あの男がアリスとの将来を考えていた訳ではない。
無理にお腹の子供を堕せば、母体であるアリスにも大きな負担をかけて、駒としての質が落ちてしまうのではないかと危惧したからだ。
産ませた後、子供は適当に捨てるか処分するつもりだったのだが、アリスが幼馴染に預けたいと言い出したので受け入れたのである。
そうしてアリスは生まれた子供――リタを故郷の教会に置いて来た。
かつてライドはリタを捨てたアリスに苛立ちを見せた。
アリスの心は子供だ。世間知らずの子供だと。
確かにそれも事実だろう。
ただ、当時のアリスは本当に正常な判断力を失っていたのだ。
――心の奥から狂わされていたのである。
しかし、ここであの男にとって第二の誤算が起きる。
わざわざ体に負担をかけないよう、時間も気も充分にかけたはずだというのに、アリスが弱体
化したのである。
剣術のレベルは変わらない。だが、精霊魔法が劇的に劣化していた。威力の低下もそうだが、今まで一度も起きなかった魔力切れを起こすようになったのだ。
最初は産後の影響かと思ったが、それは一年経っても復調しなかった。
『な、なんで?』
これにはアリス自身も困惑していた。
一方、男は、
『ちっ。やっぱもう中古品は使えねえってことか……』
C級以上の昇格に足踏み状態になっていたこともある。
男はそろそろアリスの替えを考え始めていた。
だが、それが行われることはなかった。
男の悪評を聞きつけたギルドのメンバーが確保しに来たのだ。
男は激しく抵抗したため、その場で殺された。
アリスは――男のパーティーだった女たちも――半狂乱になったが、彼女たちは上級冒険者たちの手によって無事に保護された。
その後、アリスたちは被害者として冒険者ギルドにケアされた。
まずは重度だった薬物を抜き、カウンセリングを受けた。
丁寧に数年かけたおかげでアリスたちは徐々に回復していったが、同時にアリスは自身がしてしまったことを正常に理解し始めた。
――そう。捨ててしまった娘のことだ。
『リタああッ! リタあああああッ!』
娘の名前を何度も叫んだ。
娘を捨てた日からすでに五年が経っていた。
しかし、捨てた場所――預けた人も分かっている。
正気を失っていても忘れなかった誰よりも頼っていた幼馴染。
本当は、ずっと伝えたかったことがあった人。
彼ならきっとリタを守ってくれている。
それが分かっているのに、アリスはそこから動けなかった。
情けない、情けないィ……。
自分は母親なのに。
一番守らないといけないのはリタなのに。
だというのに――。
『わ、私はぁ……』
アリスはライドに会うのが怖かった。
この穢れ切った体と心で、彼の前に立つのがどうしようもなく怖かったのだ。
『ライドォ……ごめんなさい、ライドおォ……』
零れ落ちる涙が止まらなかった。
彼にとてもとても酷いことをした。
裏切った。傷つけた。
きっと、彼は怒っている。
きっと、彼は憎んでいる。
きっと、彼に嫌われてしまっている。
だから。
アリスはそこから一歩も動けなかった。
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