第38話 邂逅編:雨
「ん?……またなにか聞こえたような……気のせいか」
その日は、不安定な天気だった。
黒い雲が急に近づいてきたと思ったらドンドンと空が光り、滝のような雨が降り注ぐ、そんな日。
「くそ、もっと頑張らねぇと」
小テストをぐしゃぐしゃに丸めてカバンに押し込んだ。一般入試に切り替えたものの成績は芳しくない。
アパートにつづく濡れた路地を歩いているとひときわ強く空が光った。
――ドンッと地面が揺れる。
「きゃああっ」
悲鳴が聞こえた。何事かと引き返すと、奥まった路地に傘が落ちている。いや、人がいる。うずくまっているせいで置いているように見えたのだ。
「オイ、どうした、しっかりしろ」
手を伸ばすと突然、べろんっ、と生温かいものに舐められた。
「アンアン!」
傘の下から現れたのは茶色い毛並みの子犬だ。まるで雷から守るように必死に抱きしめている女の子は。
「……あれ、卯月さん?」
「え?」
大きな瞳が二度三度を瞬く。眼鏡を外しているせいかいつもより瞳が印象的だ。
「どうしてここに? バイトは?」
「あの、どちらさまで――ひゃううっ!」
また光った。ゴロゴロゴロ……と脅すようにうなる空。
「この近くにトンネルあったよな、あそこなら雨しのげるんじゃないか。歩けるか?」
「むりですぅ」
かたくなに首を振る。
普段とは違う姿を見せられて、なんだかこそばゆい気持ちだ。
「連れてってやるよ。ほら」
「……はい」
ためらいがちに手が重なってくる。子犬を守るためだろうか、ずいぶんと冷えている。だからこそきつく握った。
「よし行こう。ゆっくりでいいから」
水たまりをよけながら慎重に進む。卯月さんは俯いたまま大人しくついてくる。
「その子犬、卯月さん家の?」
「……いえ、今朝、子犬がゲージから逃げてしまったと近所の方が仰っていたのでもしかしてと思いまして」
「えらいな、見つけてあげたんだ。それにしても今日はいつもと言葉遣い違うんだな、なんか新鮮。外だといつも敬語とか?」
「あの、すみませんが人違――ひゃうっ」
空が光る度に立ちすくむ。よほど怖いんだろう。それでも決して子犬を離そうとはしない。スカートがびしょびしょ濡れなのも、あの雨の中で健気に子犬を守ろうとしていたからだろう。優しいんだな、卯月さん。
「気晴らしになるか分からないけど、今日、小テストの結果が返ってきたんだ。でも笑えない成績でさ。せっかく勉強教えてもらったのにごめん。こんなんで三ツ葉を受けるなんて恥ずかしいよな」
卯月さんは無言だ。呆れてものも言えないのだろうか。
「でも諦めてないぜ。バドにくわえて勉強まで諦めたらなにも残らないじゃん。だから最後まで頑張るよ」
ちらっと背後を盗み見る。卯月さんは依然黙ったまま、きつく手を握りしめている。
(さっきからずっと無言だな)
ようやくトンネル内に入ったときには雷雲は遠ざかり、雨脚も弱まっていた。
「ついたぞ。もう傘閉じても平気だと思う」
「あ、はい。ありがとうございます」
傘を閉じた直後にばちっと目が合う。青い瞳がいつもより濃いような。
(あれ!?)
特徴のある髪色に愛らしい顔立ちに青い瞳。てっきり卯月さんとばかり思っていたけどよく見ると微妙に顔が違う。
「あれ……卯月……さん、じゃない? 比奈さんじゃ」
「比奈は双子の妹で、私は姉です。――今さらですが、はじめまして」
苦笑いを浮かべるとお手本のように深々と頭を下げた。
(やっちまった!)
おれ見ず知らずの他人にずっと話していたのか? やべぇ、恥ずかしすぎる。汗が噴き出してきた。
「ごめん! いまの聞かなかったことに! ほんとすんません! すんません!」
パニック状態で頭を下げていると鼻先をぺろっと舐められた。
「ぎゃっ! なまあったかい!」
「ワンワン!」
卯月姉に抱かれた子犬が尻尾を振っている。
「この子も勉強がんばってと応援しているみたいですね」
うう、穴があったら入りたい……。
「ワンワンワン!」
「あっ、こら暴れないでください、わっ」
暴れる子犬を抑えようとした卯月姉がバランスを崩す。
「あぶない!」
無我夢中で手を伸ばした。
顔と顔が近づいて――――頬に、ふ、と花びらのようなものが触れた。
(え……? いま……?)
気がつくとおれは尻餅をついて一人と一匹を抱きしめていた。
なにが起きたのか分からずに瞬きすると、目の前の相手も睫毛を上下させた。
「私……いま……」
耳まで赤くなりながら口元を覆う。細い肩が小刻みに震えている。
「――ごめんなさい!」
卯月姉はそれだけ言うと子犬を抱きかかえて走り出した。死角に入ってしまい、すぐに見えなくなった。
ぴちゃん、ぴちゃん、とトンネル内で反響する雨音で我に返る。尻が冷たい。でもそれ以上に頬が熱い。
「いまの、キス、だよな……?」
初めてキスされた。女の子に。頬に。正真正銘のファーストキス。
(やべぇ、やべぇ、やべぇえええ!!!!)
どっどっど、と心臓が跳ぶ。体中の血が沸騰して内側から焼けそうだ。
どこをどう走ったのか分からない。気がつくと夕方になっていて、アパート前に到着していた。珍しく窓の灯りがついている。母さんがいるんだ。
(落ち着け、おれ、いつものように振る舞うんだ。キスなんてなかったように……。ああだめだ、頬がゆるんじまう)
しっかりしろ、と頬を強くたたいた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
きわめて普通に、何事もなかったように扉をくぐると母さんがキッチンに立っていた。炊きたてのご飯の匂いがする。うまそう。ぐるると腹が鳴った。
「橙輔。ちょうど良かった、話したいことがあったの」
「……再婚の話?」
警戒して声が低くなった。母さんの口から「話」といえば再婚のことに決まっている。
「うん。――じつはね、やめようと思うの」
「え?」
「相手の方とも話したんだけど、子どもたちの気持ちを考えずに急ぎすぎたって反省したの。だから、再婚はなし。仕事上の付き合いは変わらないけれど、籍は入れないし、もちろん同居することもない。これまでどおりよ。ごめんなさいね、橙輔」
――――『橙輔! 目を開けて!』
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