第39話 邂逅編:ひなとだいすけ
「う……また声がする」
頭を押さえていると店の裏口から私服姿の比奈が出てきた。
「五十嵐君!?」
一瞬体を強ばらせたが、おれだと気づいて小走りで近づいてくる。
「びっくりしたぁ。こんな時間にどうしたの、もうお店はおしまいだよ? 今日は夜の営業もないから。それにずぶ濡れじゃん。なにかあったの?」
店のガラスに映る自分は背中を丸めて頭から爪先までびっしょ。そこにいるだけで水たまりができていく。まるで幽霊だ。
「はは、改めてみるとひでぇ格好。バケモンみたいだな。なんでだろ、気がついたらここに来てた。ごめんな。はは」
喉の奥からくぐもった笑い声が出る。
卯月さんの目つきが変わった。
「じっとしてて」
ポケットからハンカチを取り出して顔を拭ってくれた。されるがままだ。
「埒が明かないや、待ってて、店長にタオル借りてくる――」
「いいよ。もういい」
とっさに手首を掴んでいた。
その手も濡れていることに気づいて慌てて離す。
「ごめん濡らしちゃったな」
「ううん、それはいいけど……どうしたの?」
なにから話せばいいのか。
言葉を探しあぐねていると卯月さんの方から手を掴んできた。
「そこのベンチ、空いてるから、座って話そう」
「でも」
「話したいことがあるから来たんでしょう? いま温かい飲み物もらってくるから待ってて。あとタオルも。――いなくなったりしないでね、ちゃんと待っててね」
ぽんっ、と肩を叩くと足早に店内に戻っていく。行く当てのないおれは言われるままベンチに腰を下ろした。乾いていたベンチはたちまち黒く濡れていく。
こみ上げてくるのは、どうしようもない嫌悪感。
「ふざけんな! 大人の都合をなんでもかんでも子どもに押しつけるな!」
怒りを爆発させて家を飛び出してきた。
再婚するとかしないとか、自分たちの都合でおれを振りまわす母親と再婚相手。
許せない、憎い、嫌いだ。そう思えたらいいのに、「ごめんなさい、ごめんなさい」とひたすら謝る母親の姿に胸が締めつけられる。
「お待たせ」
ふわっ、とやわらかなタオルに包まれた。
「あとこれ。店長特製のはちみつレモン。おいしいよ」
差し出されたカップから立ちのぼる白い湯気。甘い匂い。口をつけると喉を伝って冷たい体に染みこんでいく。
「……うまい」
「でしょ? あたしも風邪引いたとき飲むんだ。ポカポカしてよく眠れるんだよ。お母さんが作ってくれたのを思い出して」
「思い出して? いまは作ってくれないのか?」
「ん……死んじゃったから。お父さんと一緒にお星さまになってるよ」
がつん、と頬を殴られた気持ちだった。
「ごめんおれ、そうとは知らずに」
「なんで? 知らなかったんだから謝る必要なんてないじゃん。両親がいない分、店長さん夫婦やご近所の人たちはとても良くしてくれるし、それにお姉ちゃんがいるから」
昼間の女の子……。
「お姉ちゃんは物腰がやわらかくていつも笑顔で、誰からも好かれるタイプなんだ。あたしは結構人見知りするし、口調もきついから敬遠されるタイプで……」
「確かに最初のころは当たりがきつかったな。客に向かって遠回しにさっさと帰れって言うんだから」
「ひどい。ウーロン茶一杯で閉店まで粘るほうが悪いでしょ」
「だからごめんて」
「……なんて、いまにすれば笑い話だよね。男の人は苦手だったんだけど、なぜか五十嵐君は平気なんだ。自分でも驚いてる。そういえば店長がね」
自分のことや店のこと、とりとめのない出来事を楽しそうに話してくれる。
話を聞くと言いながら無理やり聞き出そうとはしない。やさしいんだな。
はちみつレモンをそっと含んだ。口の中に広がる甘さと暖かさ。喉を伝って体の中まで広がっていく。うまい。ついごくごくと飲んでしまう。
あっという間に飲み干してしまうと、自然と涙があふれてきた。
「じつは家出してきたんだ。母さんにひどい言葉投げつけて」
自分の中に溜まっていた泥をかきだすように洗いざらいぶちまけていた。
昼も夜もなく女手一つで育ててくれた母親への感謝と、再婚話で裏切られたような気持ち、父親になる人は物腰穏やかで優しくて余計に腹立つこと、連れ子から投げつけられた「金目当てでしょう」という悪意の言葉。そのくせ図太く飯を食べにくる。
ことあるごとに心の針があちこちへ振れる。その度に小さな傷をつけていき、いまは心も体もズタズタだ。
「母さん、数年前に重い病気で手術したときから自分になにかあったときのことを気にかけるようになったんだ。おれのことが心配なんだと思う。この前、引き出しに大量の薬が入っているのを見て怖くなった。死んじゃうんじゃないかって」
ずっと母子で支え合ってきた。
もし母親になにかあったときに頼れる親戚はいない。もしものことがあったとき、おれは果たして一人で生きていけるだろうか。
「だせぇな、おれ」
また涙が込み上げてきた。
ふと、卯月さんの手が伸びてきた。髪を撫でてくれる。
「五十嵐君は頑張ったんだね、えらいよ」
「……うっく」
声を殺して泣くおれを卯月さんは両手で包み込んでくれる。せっかくタオルもびしょ濡れになってしまった。
「あたし、思うんだけど」
雲の切れ間から月が出たせいだろうか、アーケード全体が明るい。
空を仰ぐ卯月さんの横顔が輝いて見える。
「五十嵐君はお母さんのことが大好きなんだね」
「おれが?」
「うん。あたしは五十嵐君のお母さんとは面識がないけど、これだけは言える。お母さんも五十嵐君のことが大好きなんだよ。お互いのことを想いすぎて自分の気持ちを押し込めている。だから本人としては散々悩んだ末に出した結論が唐突に聞こえちゃう。似た者同士なんだね」
どきっとした。
「だから話してみればいいんじゃないかな、いまみたいに。何に悩んで、何に怒って、何に泣いているのかケンカ覚悟でぶちまけてみたらいいんじゃないかな。あたしはもう両親とケンカすることはできないから」
はるか遠くに星が見える。
「ケンカして、これからどうしたいのかゆっくり話し合えばいいと思うよ。ベストじゃなくてベターな未来を選んだっていいし、なにも選ばなくてもいい。もし答えが見つからなくて愚痴をこぼしたいときはあたしを頼ってくれるとうれしいな」
とびきりの笑顔を浮かべる。
ピチャン、と水たまりが揺れた。
心の中に溜まっていた泥がすっかり流れ出た気分だ。
「…………ありがとう、比奈」
「え? なんでいきなり呼び捨て?」
「なんとなく。おれも橙輔って呼んでくれよ」
「い、いま?……ええと、おほん、だ、橙輔……がんばってね。三ツ葉は受験するつもりなんでしょう?」
急にぎこちなくなる。
「もちろん、それは確定。でもおれ頭悪いから医者だっていう再婚相手の人に勉強教えてもらおうかな」
「うん、いいんじゃない? そういう繋がりも。合格して同じクラスになれたらいいね。なんて、あたしもウカウカしていると落ちちゃうかもしれないけど」
「おれだけ受かってたら笑えねぇな」
「負けないもん」
未来のことを語るのはなんて楽しいんだろう。
比奈がいる未来なら怖くない。
「遅くなってきたし、そろそろ帰ってあげて、きっとお母さん心配しているよ」
「うん。話し聞いてくれてありがとう、比奈」
「どういたしまして。話してくれてありがとうね、橙輔」
にこっと笑った唇に視線が吸い寄せられる。
「なぁ比奈って、」
「ん?」
「キスしたことあるか?」
「きすぅっ!!??」
耳をつんざくよう絶叫を上げる。耳まで真っ赤。反応が姉と同じだ。
「へ、へんたい! なに変なこと訊いてくるの!」
「ちょっと聞いただけ」
「しらない!」
回れ右してそそくさと歩き出す。
まずい失言だった。なんとか謝罪せねば。
呼び止めようとした矢先、くるりと振り向いた。
依然として顔は赤いままだが周囲の様子を窺うように首を巡らせたあと、ぽつりと呟く。
「どうしてもって言うなら、その、三ツ葉に合格したら……キスしてあげてもいいよ」
どきんっと心臓が跳ねた。
(――――かわいすぎだろ)
照れた顔とか、潤んだ目とか、周りを気にして小声になるところとか。
胸がどきどきする。いままでこんな気持ちになったことがない。
「合格したらだからね! だから死ぬ気で頑張りなさいよ!!」
気持ちを伝える間もなくいなくなってしまった。こっちはキスしたことがあるか聞いただけで「欲しい」とは言ってないのだが。
(……まぁいいか)
立ち上がって歩き出す。
一歩ずつ、一歩ずつ。
雨雲が去った空には無数の星が散らばっている。
今日は不思議な日だ。
比奈の双子の姉に間違えて話しかけたり、キスをされたり、母親とケンカして家出したり、比奈本人に慰められたり、胸がドキドキしたり。
でもいまはシャッキと背筋を伸ばして歩いている。
東の空に寄り添いあうような二つの星を見つけた。比奈の両親かもしれないと思い、手を合わせた。
(お星さま、約束します。まずは帰って母親と腹を割った話し合いをして、そのあと死に物狂いで勉強して、それで、もし三ツ葉に合格したら比奈に伝えたいことがあるんです。――どうか見守ってください。)
「これでよし!……あれ? 星が大きくなったような」
豆粒ほどだった星がみるみる大きくなって迫ってくる。隕石か。いや、そんなバカな。
ハッと我に返る。
ああそうだ、これは夢――――。
「――――だいすけ戻ってきてっ!!」
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