第36話 邂逅編:珈琲喫茶みつぼし

「あ……れ?」


 気がつくと机に突っ伏してうたた寝していた。


 窓から差し込むやわらかな光と座り心地のよいソファー、木目がきれいな四角机。『珈琲喫茶みつぼし』のいつもの席だ。夏休み中の午前ということもあって客はまばら。


「ふぁああ……」


 大きなあくびが出る。


 長い夢を見ていたような気がする。なんだっけ。思い出せない。


 しっかりしろ、おれ。


 おれは――――、








 そう、 

 中学三年。受験生だ。


「お待たせしました」


 ふと隣に気配が現れ、机の上にクリームあんみつが置かれる。


 あんこと生クリームとアイスという絶妙な取り合わせ、店のマークである星型の寒天が涼しげな彩りを添えている。お値段八百三十円。中学生の小遣いではちょっと高い。


「あのぅ、これ頼んでないですけど……」


 注文間違いを伝えようとすると、店員さんが優しく首を振った。


「サービスです。他のお客さんには内緒ね」


 いたずらっぽく青い瞳を細めるのは最近顔なじみになった店員の『卯月さん』だ。中学三年。おれと同い年。


「この前の試合、残念だったね」


「試合? ああ全国大会の?」


「うん。途中までいい勝負していたのに、第二セットの途中でネット際のプレーで競り負けてから流れがいっちゃったね。惜しかった」


 まるでその場で試合を見ていたような口ぶりだ。新聞やネットには結果しか載ってない筈なのに。


「……いただきます」


 スプーンを手に取り、バニラアイスを口に運ぶ。キン、と冷たくて喉が震えた。


 バドの全国大会で初戦敗退したのは先週。悔し涙もとっくに枯れて、現実に向き合わなくちゃいけない時期だった。


「五十嵐君、『らしく』なかったよね。サーブミスしたり空振りしたり追いつくはずの球を諦めたり、集中できてなかったように見えた」


 うるせぇな、と内心毒づいた。アンタになにが分かんだよ。


「アウトだと思った球がインだったときラケット投げつけてたよね、ああいうの、よくないと思う」


「……あのさっ!」


 我慢しきれずスプーンを強めに置いた。


「試合に負けたおれ自身が一番悔しいんだから、ウソでも『頑張ったね』って慰めればいいじゃないか。傷口に塩塗るようなことするなよ、余計なお世話だ」


「ぁっ……」


 卯月さんが固まる。

 しまった、つい言い過ぎた。


「ごめん、いまちょっと情緒不安定で……」


「ウソなんか言いたくないよ。あたしバドには詳しくないけど、相手の人はあきらかに手抜いてたもん。たぶん見下していたと思う。五十嵐君は本調子じゃなかったみたいだけど二セット目ではリードしていたし、相手も焦って凡ミスしていた。あたしは最後まで五十嵐君が勝つと信じてた。だからすっごく悔しい。くやしいよ」


 地団駄を踏んでおれ以上に悔しがっている。すごく驚く、と同時に複雑な気持ちになった。


 本心では、他人からの慰めにはうんざりしていたんだ。遠路はるばる試合を見に来てくれた母さんも顧問の先生もチームメイトたちからも「惜しかった」「もう少しだった」と飽きるほど慰められてくれるから、無理やり笑って、平気なふりをした。


 自分が不甲斐ないことは自分が一番よく分かっているのに、落ち込む時間さえなくて。


「……怒鳴ってごめん。あの大会、推薦かかってたんだ。いい成績を残せたらスポーツ推薦で全寮制の私立高校にいく話があったんだよ」


「スポーツ推薦? すごいじゃん」


「でも初戦敗退だから流れちゃって、別の公立高校に切り替えることになると思う。……うまく逃げられると思ったんだけどな、新しい家族ってやつから」


 母親から再婚話を聞かされたときはショックだった。信じられなかった。相手は医者で同い年の連れ子がいるという。


 ずっと二人で生きてきた。いまさら見知らぬ他人と一緒に暮らすなんて無理だ。だから推薦をもぎとって全寮制の私立高校に逃げ込むつもりだった。どうにか上手くやれると思っていた。


 だけど結果は惨敗。あまりにも凡ミスが多かったせいで見学に来ていた私立高校の監督も「これではちょっと」と首を傾げていた。


「良かったらこれ使って」


 差し出されたハンカチで自分が泣いていることに気がついた。


「ごめん。卯月さん仕事中なのに……!」


「へーきへーき。いまはお客さん少ないから休憩中。ですよね、店長」


 奥にいた店長は無言で親指を立てる。


「ほんとにごめん。こんなどうでもいい話」


「ううん、そんなことない。話してくれてありがとう。なにもできないけど、こうやって話を聞くことはできるよ。五十嵐君はお得意さんだしね」


「……どうも」


「どういたしまして。じゃあ休憩上がるね。お昼時はお客さん多いから頑張らないと! どうぞゆっくりしていって」


 エプロンをひるがえして忙しそうに去っていく。


 クリームあんみつのアイスはすっかり溶けていたけど、口に含むとほんのりと甘い。子どもの頃、夏祭りの屋台で買ったメロンソーダみたいだ。


「ごちそうさまでした」


 レジに向かうと卯月さんが会計してくれた。

 そういえば卯月さんも同い年なんだよな。高校受験を控えているはずだ。


「高校、どこに進学すんの?」


「あたし? 合格するか分からないから内緒――って言いたいところだけど、ヒントはこの店の名前とあたしのヘアピン……ってバレバレだね」


 クローバーを見て連想するのは三ツ葉高校だ。スポーツ推薦を狙ってあまり勉強していなかったおれにはやや荷が重い。


 でも。


「狙ってみようかな、おれ」


「そう? 今度は凡ミスしないようにね」


「うるせぇ。みてろよ、絶対に合格してみせるから」


「ふふ、せいぜい頑張ってね。もしここで勉強するようなら休憩中に教えてあげてもいいよ」


「余計なお世話だ――って言いたいけど、頼みます、マジ」


「素直でよろしい。またのご来店をお待ちしています」


 レシートを受け取って外に出る。チリリン、と鳴り響くドアベルの向こうに夏の日差しが待ち構えている。憎らしい暑さ。それでも目をそらしたいとは思わなかった。きっと新たな目標ができたからだ。まずは三ツ葉高校に進学すること。そんで、もし卯月さんと同じクラスになれたら最高だな。




 ――――『おにい!』

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