第35話
「比奈……なんで浴室から……」
大きく見開かれた瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ああ、そうか、そうですよね」
顔を歪ませて笑顔を浮かべる。とても痛々しい笑顔だ。
「お二人は付き合っているんですから、そういうこともしますよね。私ったらもう……ほんとお邪魔虫で……うふふ、あはは」
泣きながら笑っている。行き場のない感情があふれ出したように。
「マユマユどうしたの」
後ろから桃果が現れるや否や、真結はくるりと踵を返した。
「すみません桃ちゃんさん、お土産を分けるのはまた今度」
「え、ちょっとマユマユ!」
あっという間に走り去ってしまい、桃果は怪訝な顔でおれたちを振り向く。
「おにい一体なにがあった…………あ゛?」
シャワーを浴びてさっぱりしている比奈とおれを見比べ、なにか察したように目を細めた。
※ ※ ※
「で? ヤったの?」
「「誤解だーっ!!!」」
比奈がヘアピンをなくして半日ほど砂浜で探していたこと。
疲れ果て、部屋で寝てしまったことを説明すると桃果は頬を引きつらせた。
「ふぅん。桃の許可なく彼女を連れ込んだわけね」
「連れ込んだというか、その、マジで眠くて比奈を部屋まで送る余裕がなくて」
「で、一緒に寝ていた、と」
「……ハイ」
視線が痛い。居たたまれない。
見かねた比奈が助け船を出してくれた。
「信じてもらえないかも知れないけど、本当に寝ていただけだよ。橙輔の寝顔みていたら自分も誘われるように寝落ちしちゃって、それ以上のことはなにも……ほんとだよ!」
「なにも、ねぇ」
冷たい目で睨んでくる。まるで尋問されている気分だ。
「……わかった。そういうことにしておく。ま、二人は付き合っているんだから桃がとやかく言うことじゃないけどね」
「うぐ」
ぜんぜん信じてないじゃないか。
「佐倉さん、ごめん、あたし部屋に戻っていいかな。お姉ちゃんのことが気になるから」
「いいけど――だいじょうぶなの?」
意味深な目線を送った。なにが、とは言わない。おそらく色んな意図が含まれているはずだ。
「わからないけど……ちゃんと話してみる」
浮かない表情で部屋を出て行った。
「だから言ったでしょ」と桃果はため息をつく。
「夏には魔女がでるって忠告したのに」
しぼり出すような声で呟いて、ソファーの上であぐらを組む。
「そんな遠回しに言われても分かんねぇよ。はっきり言ってくれないと」
「じゃあ言うけど。桃の知るある女の子は、去年の夏、運命的な恋をしたの。むだに背の高い、特にイケメンでもない男に惹かれてしまった。自分の気持ちに戸惑いながらも彼に近づこうと努力していたのに、男は別の女に恋をしていた。小さいころから支え合ってきた双子の妹に」
思えば真結はおれの視線によく気づいて手を振ってくれた。気づくってことは、真結はいつもおれのことを見て……?
「女の子は自分の本心を隠すことに決めた。胸の奥、用心深くしまいこんで、鍵をかけて、忘れたふりをした。ちくちくと胸が痛むことがあっても我慢して気づかないふりして、表面上だけ笑っていた」
思い出そうとすると、いつも真結の笑顔が浮かんでくる。
「でも、だれかさんが記憶を喪ったから、カギをかけていた気持ちがポンと外に飛び出しちゃったの。無理やり押さえつけていた反動かもしれない。魔が差したんだよ」
昨夜の出来事がよみがえってくる。
「真結の気持ちは嬉しいけど、おれが好きなのは」
「マユマユも分かっているよ、自分が望んだ未来は絶対に手に入らないって知っている。それでも夏に惑わされて本心を暴かれちゃったの。だから――」
神妙な面持ちでおれに向き直ると、突然膝をついた。
「マユマユのことを嫌いにならないで。お願いします」
土下座して深々と頭を垂れた。
「な、なんだよいきなり」
高飛車な桃果がここまでするなんて。
「マユマユは大切な友だちなの。桃、中学時代かなり荒れてて悪いことたくさんしてた。みんな愛想尽かして距離を置く中でもマユマユだけは変わらず側にいてくれた。いっぱい助けられた。親友のために桃がいまできることってこれくらいしかないから。だから、お願いします」
「……顔上げろよ。らしくないぞ」
おれも膝をついて、同じ目線で語りかける。
「ちょっとびっくりしただけだ。真結のことを嫌いになんてならないよ」
「ほんと?」
「もちろん。約束する」
「証拠動画撮っていい?」
スマホを示したので「それはやめろ」と制止しておく。
真結には申し訳ないがおれの気持ちは変わらない。比奈のことが好きだ。
でも……。
「二人は大丈夫かな」
「こっちが口を出す話じゃないでしょ。腹を割って話し合うしかないよ」
桃果の言うとおりだ。ここからは比奈と真結の問題。
おれにできることはない。
(でも……一体いつになったら記憶が戻るんだろう。記憶がないせいで周りに迷惑をかけている気がする)
「あ、そうだ。はいこれ」
紙袋をあさっていた桃果がカラフルなビニール袋を差し出してくる。
「昨日雨の中買い物行ってくれたお礼」
中身は地域限定のクッキーやマスコットキャラの亀を模したキーホルダー、栄養ドリンク、刺繍入りのタオルといったものだ。
「サンキュー。こんなにたくさん、いいのか?」
「ショッピングモールに特設コーナーがあったから親父のカードでまとめ買いしただけ。帰ったら栗ちゃんたちにも分けてあげなよ」
「桃果からだって知ったら栗山家宝にしそうだな。……ん、なんだこれ」
底の方から出てきたのは四つ葉のクローバーを模した箸置きだ。
「ああそれ、可愛い箸置きがたくさんあったからマユマユが選んでくれたの。四枚の葉は希望、幸福、健康、愛情を意味するんだって。比奈っちにも同じもの買ってたよ。ちなみに桃は桜の花びら、マユマユは犬」
(…………あれ)
急に頭が重くなってきた。
なんだろう、この感覚。ぎゅうっと締めつけられるような痛みだ。
「おにい? どうしたの?」
まわりの風景から色が抜けて輪郭だけが残る。自分がどこに立っているのか分からなくなり、思わず膝をついた。桃果の声が遠くに聞こえる。
「ちょっと、おにい! しっかりして!……お父さん!」
医者である義父さんを呼びにいく桃果。大げさだな、と笑ってやりたかったけど声も出なくて、耳鳴りが強くなったと思ったらカーペットに倒れ込んでいた。
(やばい、息ができない。頭が痛い。おれ死ぬのか?――まだ、だめだ。まだ死ねない。だって記憶がないままなんて……。)
意識が遠のいていく。記憶の奥底に引きずり込まれるように。
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