第5話 彼女(仮)
「きおくそうしつ……?」
「そう。頭を打ったせいで記憶が吹っ飛んじまった」
落ち着いた頃合いを見計らってひとまず事情説明。
事故でほぼ一年分の記憶を失ったこと。壁掛けのカレンダーに気づいて駆けつけたこと。先ほど声をかけたのは男たちに絡まれて困っている様子だったからということ。
当初『彼女』は疑うような眼差しでおれを見ていたけど、医者の話や家族の反応、話が深くなるにつれて徐々に神妙な面持ちに変わっていく。
「記憶喪失……。だから、あたしが『彼女』だって分からなかったんだね」
「うん、ごめん。」
「いいの。橙輔がそんな状態なら教えてくれればいいのに……『あの人』もイジワルだなぁ」
「あの人って?」
「なんでもない、こっちの話。さっきは記憶喪失とは知らずに怒鳴ってごめんなさい」
深々と頭を下げるのでこちらが恐縮してしまった。
「いや全然へーき。こっちこそごめんな」
思っていたほど悪い子じゃないのかな。
いきなりヒステリックに怒鳴るからちょっと不安だったけど。
こうして近くで見ていると、ほんとう浮世離れしている。
日が落ちて徐々に暗くなってきているのに、彼女の青い瞳はそこだけ光が灯っているみたい輝いてるんだ。
「ねぇ」
くいっとシャツを引っ張る。
「さっき一年くらいの記憶がないって言ったよね。もしかして初めて会ったときのことも覚えてないの?」
不安そうに身を乗り出してくる。
「うん、ごめん」
「そっ、か……」
大きく息を吐き、残念そうに肩を落とす。
なんだか胸が痛む。
「あたし、比奈(ひな)っていうの。卯月(うづき) 比奈。高校一年。橙輔と同い年」
「おれは佐倉橙輔――なんだけど、母親の再婚前までの記憶しかないから佐倉って苗字にまだ違和感あって」
「うん、初めて会ったときは五十嵐だったよ」
「そっか、再婚したのは秋だから去年の夏休みに卯月さんと会ったんだな」
卯月さん、と呼んだ瞬間、とても微妙そうな顔をした。
「比奈って呼んで、いつもみたいに」
青い瞳でじっと見つめられる。
拒否権はなさそうだ。
「おお、うん、比奈、だな。覚えたぞ。もう忘れない」
「……ほんとになにも覚えてないんだね」
憂いのある表情でさえサマになる。
一体全体おれはどうしてこんな「可愛い」子を彼女にできたんだろう。
「ところで身体の方はもう大丈夫なの?」
「うん。頭以外は全く問題ないって医者から太鼓判押されてる」
「良かった。中学の頃はそこそこ強いバドの選手だったもんね」
「知ってるのか?」
しまった、とばかりに口元を押さえる。
「ネットニュースで見ただけ。橙輔に内緒でこっそり試合見に行ったとかじゃないから!」
「はぁ」
「そ、それより早く行こ。花火、始まっちゃう」
ぎゅっ。
いきなり手をつないでくる。
(マジか! いきなり恋人の距離感!)
心臓がぎゅいんっと跳ねた。
そりゃあ付き合っているんだし向こうには好意があるんだろうけど、いきなり手つなぎ……しかも恋人つなぎ……なんだかフローラルな香りもするし……だめだ理性が保てん。
「ごめん! ちょっとたんま!」
べりっと体を剥がした。「なに?」と比奈は不思議そうに首を傾げる。
「ほんと申し訳ないけど、おれ女の子と交際するの初めてで、こうやって手つなぐと緊張するっていうか……。心臓がもたない。ほんとごめん」
比奈はぽかんと口を開いていたかと思うと、ゆっくり手を引っ込めた。
「……別にいいよ。橙輔が手つないで欲しそうな顔していたから気を遣っただけだし」
「そんな顔してるか?」
「もういいから、早く行こ」
話を切り上げるように、そそくさと歩き出した。
人込みに紛れそうになったので、おれも慌てて後を追う。
前を行く彼女と、後ろからついていく彼氏。
まるでケンカしたカップルだ。
正直、気まずい。
記憶喪失の彼氏。比奈はこんなおれといて楽しめるのだろうか。
(やっぱり来なければ良かったかな)
ほんの数メートル進むだけで人が増えてくる。まるで黒波のように同じ方向に流れていく。みんな花火を観に行くのだ。
このまま進んだら引き返せなくなる。
戻るなら、いまだ。
「なぁ、比奈――」
「言っておくけど戻るっていうのはナシね」
立ち止まった比奈がゆっくりと振り返る。
青い瞳が輝いて、まるでおれの心を読んでいるよう。
「橙輔の戸惑いは分かるつもり。でも聞いて。この浴衣、バイトで必死お金貯めてやっと買ったの」
「あ……バイトしてるんだ」
「そう。うち貧乏だから浴衣以外の小物や草履は借り物。まとめ髪もメイクも無料動画で一所懸命練習した。化粧品だって一式揃えようと思うと結構高いんだよ」
「そ、そうなんだ」
「でね、彼女にここまで準備させておいて『記憶喪失で気まずいから解散します』って言う人がいたらどう思う?」
こいつは心の声でも読めるのか?
「………鬼だと思います」
「話の分かる彼氏で良かった」
にこりと微笑んだ。
「せめて今夜は楽しませてよ。さっきみたいに彼氏の振りでいいから」
「振り……でいいのか?」
「振りでいい。我慢する」
「……わかった、それなら」
「ありがと。じゃ、いこっか」
肩を並べて歩き出した。つかずはなれず、適度な距離感。
「花火、きれいに見えるといいね」
「うん――そうだな」
心配させた罪滅ぼしと思えばひととき花火を楽しむくらいはいいだろう。
せめてこの時間(とき)だけでも。
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