第2話 死にかけた話
二週間ほど前、おれは死にかけた。
母親によると、自転車での下校途中に猛スピードでカーブを曲がってきた車にはねられて数メートル吹っ飛ばされたそうだ。救急搬送されたが意識が戻らず、最悪の事態も予想された矢先、ぱちりと目を覚ましたのだ。
件(くだん)の車は悪質な飲酒運転で、しばらくテレビで取り上げられるほどの騒ぎだったらしいが、おれ自身に事故の記憶はない。
今までないくらい清々しい心地で目覚めると知らないベッドの上にいて、医者と家族が心配そうに取り囲んでいたって具合だ。自覚がないから生死の境をさまよっていたと聞かされても「ラッキー」くらいしか考えていなかった。
でもなにもかも前のとおりってわけにはいかなかった。生還した代償があった。
その後の検査で「あること」が分かったのだ。
自転車がクッションになったため体は軽傷で済んだが、頭を強く打ったせいで記憶障害になっていた。
簡単に言えば記憶喪失。
最後の記憶は中学三年の夏休み。つまり中学三年から高校一年に至るまで約一年の記憶がまるっと無くなっていたのだ。
ちょうど母親が再婚した時期だったこともあり、退院して向かった先がぼろいアパートではなく高層マンションの一室であり、しかも自分の部屋まであると知って狐にでも化かされた気分だった。馴染みの品々が飾ってある「自分の部屋」にいてもちっとも落ち着かない。まるで他人の家に居候している気分だ。
(そろそろ出ないといけない時間か)
ふたたびカレンダーに視線が戻る。七月九日、午後五時。にじんだ文字がやけに濃く、おれの目を引きつける。後ろめたさから逃れるようにごろりと寝返りを打った。
「っーかさ、約束してても場所が分からないんじゃどうしようもないだろ。相手だって。……家にいればいいか、焦れて向こうから連絡してくるかもしれない」
スマホで連絡をとろうにも事故でぶっ壊れたので新品に替わっている。バックアップはない。まっさらの電話帳に登録されているのは今のところ家族だけだ。
こっちから連絡のとりようはないが番号は変わっていないので知り合いなら連絡してくるはずだ。うん、気長に待てばいい。事情を説明すればきっと分かってくれるはず。
チ、チ、チ、……時計の針は無情に進む。約束の時間まであと少し。
落ち着かない。
そのとき廊下でバタバタと足音がした。
「おにい!」
ばぁんっ、と扉を開けて黒髪ボブの『ぎゃる』が踏み込んできた。パッと飛び起きて正座で出迎えるとマスカラばっちりの目を丸くする。
「あ、なに、寝てた?」
こいつは佐倉桃果(ももか)。再婚でできた義理の妹だ。
目がチカチカするようなサーモンピンクのパーカーに太ももを強調する丈の短いスカート、ルーズソックスときたもんだ。休日なのに化粧もばっちりで、濃いアイラインがきゅっと吊り上がっている。相変わらず香水もつけてるな、くせぇ。
「ぼーっとしてただけ。それより桃果……さん、もっと静かに入ってこられないですかね。こっちにも心の準備つーもんがありまして」
「は? なんでこっちが遠慮しなくちゃいけないの。ここ、元々は桃の部屋だし」
(いまはおれの部屋なんだが)
「……ハイ、おっしゃるとおりです」
高層マンションのこの一室は義理の父――つまり桃果の実父の持ち家だ。おれと母さんは家族という肩書を得て転がり込んできたにすぎず、肩身が狭い。
「んで、元部屋になにか御用ですか」
「ど・く・し・ょ」
慣れた様子で本棚からマンガを数冊抜き出し、座布団の上にあぐらをかく。傍らにはレモンティーのボトルとポッキーの箱。自室おくつろぎモードだ。隅っこで正座している義兄の存在なんか眼中になし。
(ほんと、なんでこんなのが妹なんだろう)
意識が戻ったとき両親の再婚よりもびっくりしたのがこいつの存在だ。見ためはギャル。中身は毒舌。耳にはピアス、休日でもメイクはばっちり。クラスにいても絶対に話しかけないこのタイプが書類上も法律上も妹なのだ。しかも同い年ときた。
母さんによると親子関係はきわめて良好。一緒に料理をしたり買い物に行ったりしているらしいけど、おれはどう転んでも仲良くなれそうな気がしない。
それでも世間的には兄妹だから勇気を振り絞って接触を試みたりはするんだけど。
「あー、そのマンガ、まだ読んでない。面白いか」
ちらっ、とこちらを見てすぐに視線を戻した。ポッキーをもぐもぐしている。
「これ去年出たやつだよ。自分で買ったの忘れたんでしょ? もう次巻出てるし」
「微塵も覚えてねぇな」
「ふぅん。……知ってる? この主人公も記憶喪失だけどじつは二股してたことが判明してね~」
「ネタバレやめろ」
「けっけっけ」
どうにも噛み合わない。手玉にとられている気がする。
そういえば病室で寝ている間だれかが手を握っててくれたんだよな。夢うつつだったけど、あったかいなって思ってた。こいつ……ではないだろう。母さんかな。
「――ねぇ、行かなくていいの?」
時計を示す。一瞬なにを言ってるのか分からなかった。
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