『幕間 不穏の影⑤』

 聖歴二十五にじゅうご年 パール月十三じゅうさん日。


 ノエルがひきいる巡礼団はターコイズ神殿と、アダマス神殿での祭事を終え、次の目的地へ向けて港町ミトラから出航した帆船はんせんの上にいた。


 船上は潮風しおかぜが吹き、風が帆を受けて進んで行く。

 風と波に揺られた船体は、お世辞にも快適とは言えない。


 次に目指すはナビア連合王国・首都ザフィエル北のパール神殿だ。

 まずは港町トレスで下船しそこから馬車で数時間程の距離にある首都へ入る。


 旅路たびじは順調だった。


 ノエルは船首部で、海へ落ちないようにと垣根かきねのように立てられた木製のかこい——垣立かきたつへ手を添えて、果てしなく広がる青い海と空を見つめていた。


 後ろにひかえるのは——聖騎士長アイゼン。

 白銀の鎧を身にまとい腰には白銀の剣をたずさえた瑠璃色ラピスラズリの瞳に短髪金髪のオールバックでの良い壮年そうねんの男性。


 それと、女神の使徒アポストロス【星】のツァディー。

 小柄で細身、紫黄水晶アメトリンの大きな瞳に、金色のウェーブ掛かった長い髪を風になびかせた、あどけない顔立ちの少女の二人だ。


 二人が見守る中、新緑色の耳飾りイヤリング型のリンクベルが、リンリンとうるさくリングトーンを響かせた。



……か)



 深いため息がノエルの口を出る。

 応答しない訳にはいかないので気持ちを切り替え、教皇としての仮面をかぶる。

 


『おお、教皇聖下! 音沙汰おとさたがないので心配しておりました。何か不具合など起きてはおりませんか?』



 ねっとりとした、年老いた男の低い声——。

 耳にさわる、聞くのもうんざりする声だ、とノエルは思った。



「安心して下さい。いまのところ大きな問題はありません」

『それは良かった! が失われてからと言うもの、稼働が不安定ですからねぇ。前回の再稼働が十九年前。次は来年ですが……それまで問題が起きては大変ですからな。今はもない事ですし』

「……ええ、そうですね」



、ね。

 本当に、こいつらは……取りつくろう事さえ上手くできないのか)



 苛立いらだちがつのり、垣立かきたつへ置いた手を握り締めずにはいられない。



『して、あの娘の様子は如何いかがですか?』

「……あの娘?」

『これは失礼! 聖下のお姉様であり、我らにとっては至高のお方でもありましたね!』



 「あの娘」から「至高のお方」とは上手く言い換えたものだ、とノエルは心の内であざけり笑った。



(あながち間違いではないさ。

 けれど、姉さんは姉さんだ)



 僕に残されたたった一人の家族で、僕だけの宝石。

 こいつらの「至高のお方」などでは断じてない。



「ご心配には及びません。彼女も元気にしています」

『そうですか! 安心致しました。彼女の身に何かあっては事ですから。万が一があれば我らが女神もおなげきになる事でしょう』


(女神がなげく、ねぇ)



 果たして本当にそうだろうか?

 この歪んだ世界を見て、慈悲深じひぶかい女神はそれでもこの世界を愛する事が出来るのだろうか?



(まあそもそも、その歪みの一端は女神にもあるんだが。

 ……無駄話ばかりで面倒だな)



 さっさと会話を終わらせてしまおうとノエルは思った。



「ご用件は以上ですか? ジョセフ枢機卿すうききょう

『ああ、いえ……にもはげんでもらいたいなと思いまして。どうですか? 同行した中に気に入った娘がいれば——』



 と聞いて、ノエルはおぞましい光景を思い出し、唇を思い切り噛んだ。



くずが。のたうち回る狂言きょうげんに、吐き気がする)



 今にも口を出そうになる荒々しい言葉を何とか飲み込んで、冷静に対処しようと呼吸を整える。

 しかし、おさえきれない感情に呼応するかのようにマナはざわめき、一陣の風を吹かせた。



「今は大事だいじ最中さなかです。聖地巡礼ペレグリヌスがどれだけ重要な祭事であるかは、あなた方もご存知ぞんじでしょう?」

『それは、勿論もちろんです。ですが我々としても急をようする事でして……』

「その話はまた今度にしましょう。他にご用件は?」

『聖下、そうは言いますが後がないのです! 全ては女神様の——』


(ああ、本当に……こいつらは救いようがない。

 僕を道具としか見ていない。

 ——……今すぐにでも、殺してしまいたい)



 苛立ちの感情を拾って風が強まり、ガタガタと甲板かんぱんを揺らして吹き荒れる。



「無いようですね。では、失礼します」

『教皇聖——』



 通話を切ると同時に、バキン! と音を立てて、リンクベルは崩れ落ちた。

 ノエルの周囲には銀色のマナを含んだ風が吹き荒れており、新緑の欠片をさらって舞い上がる。


 風は刃となり、さらった欠片を切りきざんで、きざんで、きざんで!


 ——跡形も残さず消し去っていた。


 そうして吹き荒れた風は収まり、ノエルはいだ空を見上げた。



下衆げすが。聖職者の風上かざかみにもおけない」



 先ほど噛んだ唇からは血がしたたり、口に入り込んで鉄の味が広がった。

 後ろからトトッと軽い足音が聞こえて、ツァディーがノエルの横に立つ。



「あ、あるじ様……大丈夫、ですか?」



 振るえる小さな手がノエルの頬に伸びて、血をすくった。

 怒りに任せて乱暴な力の使い方をしてしまったため、頬も切れていたようだ。



「ごめん、怖がらせたね」

「いいえ。元気、出してください」

「ありがとう、ツァディー」


(……優しい子だ。僕の怒気に当てられて、今にも泣きだしそうなのに、震える手を差し伸べてこちらを気遣きづかってくる)

 


 ノエルは血の付いた少女の手をそっと握って下ろす。

 そして祭服の内ポケットから白い布を取り出して、赤くれてしまった少女の指先をぬぐった。


 するとツァディーは、白い布を持つノエルの腕にぎゅっと両腕で抱きついて、顔をうずめた。


 少女の行動は母親に甘える幼子おさなごのようでもあり、こちらをなぐさめようとしているようにも思える。

 害はない。ノエルはツァディーの気が済むまで好きなようにさせることにした。



枢機卿すうききょうらも焦っているようですね」



 ガシャガシャと金属音を立てて、アイゼンがこちらへと歩み寄って来る。

 その表情は何とも沈痛ちんつう面持おももちだ。



胸糞悪むなくそわるい奴らだ。醜悪しゅうあくすぎて反吐が出る」

「ええ。彼らは変わりません。あの時から何一つ」



 アイゼンは空を見上げ、へ思いをせている様だった。


 その痛みは、理解出来る。

 だからこそ僕らは同志足り得るのだ。



「もうすぐだ、アイゼン。この旅の終わりには、すべてが変わる」

「はい。私の剣は貴方と共に」



 ノエルの前でアイゼンはひざまづいた。


 右ひざを付き左ひざを立て、右腕は真一文字に心臓へ当てて——その様は騎士の誓いとたがわぬ、忠誠を示す姿勢だ。


 僕らは同じ痛みを知り、志を同じくする者。



「ああ、共に虚構きょこうの楽園をくずそう」



 これは誓いであり復讐だ。



(女神も世界も知ったものか)



 望むのはただ一つ——姉さんの幸せ。

 僕は姉さんを守れるのなら、それでいい。


 ゆがんだ秩序の上にり立つ世界など、必要ない。

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