第十二話 愛してるよ。——さん

 ——私が思い出せる最初の記憶は、真っ白な自分だ。


 ぽっかりと穴が空いたように、あったはずの記憶は空虚くうきょに埋め尽くされていた。


 自分が何者であるのか、名前すらわからなかった。

 何かやる事があったはずなのに、思い出せなくて苦しくて。

 焦燥感しょうそうかんつのらせた。

 

 でも、出会いに恵まれた。


 怪我の痛みと喪失感そうしつかんの中で、治癒術の癒しの光と共に、笑顔で安心感をくれた優しいリシアちゃん。


 明るくて嵐のように賑やかで、うっかりなとこもあって可愛いけど、戦う姿は格好いいシャノちゃん。


 シャノちゃんと一緒にふざける意外な一面もあるけど、騎士としてほこり高く可憐かれんで、落ち着いたお姉さんみたいなシェリちゃん。


 いつも優しく、親切に接してくれる公爵家の使用人のみんなにお医者様。


 ルーカスさんの従兄妹いとこだと言う、さわやかな笑顔が印象的だけど、腹黒いって言われてるゼノン王子。


 怖そうな見た目と違って、家族想いで温かい笑顔を浮かべる公爵様。


 突風みたいに現れて、会ったばかりの私をさらって街へ繰り出し、「貴女も私の娘みたいなものよ」と微笑んだ公爵夫人。


 それと——ルーカスさん。


 最初はちょっとした誤解があったけど、彼は真摯しんしで優しい人だ。

 シャノちゃんとシェリちゃんに接する様子から、家族を大切にしているのもわかる。


 国民からは〝救国の英雄〟と呼ばれ、務部隊の団長さんとして軍の仕事を真面目にこなしていて、見た目も格好良い完璧な人。


 記憶をなくす前の私とは友人で、私がルーカスさんの恩人だとも言っていた。


 彼は私が胸の内に秘めた不安に気付いて、優しく寄り添ってくれた。


 ——名をけ、剣を捧げて私を守る騎士になると誓いまでして。


 泣きわめいたから、あの時を思い出すと少し恥ずかしいけど、支えになってくれる誰かがいるって思ったら心強くて、安心出来た。


 ——けど、ルーカスさんは完璧に見える顔の裏に、実は何かを抱えている様だった。

 悲しそうにしている姿に、私も彼の支えになれたらと思ったのは、つい先日の事だ。


 ルーカスさんと私の過去にどんな思い出があるのかはわからない。


 でも、一緒にいると色付いた感情が胸にあふれて、不思議と心地良い。

 彼は私の大切な人だ。






 ——イリアは皆の事を思い出して心が温かくなり、無意識に顔がゆるんだ。


 青年の問い掛けに対する答えは、イエス。

 こくりとイリアはうなずいた。



(私は幸せだ。

 記憶は戻らないけれど——今をとても楽しく感じてる)



「……そう、そっか」



 納得した様子の青年がどこかさびしそうに笑った。

 喜んでいるとも、悲しんでいるとも取れる、感情の入り混じった複雑な表情だ。


 

(どうして、そんな顔をするの?)



 青年が泣き出してしまいそうに見えて、イリアは胸が痛んだ。


 本当に訳が分からない。

 彼と自分は、一体どんな関係だというのか。

 

 知らず内に伸びた指先が、青年の頬に触れた——そんな時だった。



「——イリア!」



 ルーカスの声が響いたのは。


 走り出した自分の後を追って来たのか、息を切らし汗を流したルーカスが、人込みの中から現れた。


 切れ長の紅い瞳がこちらをとらえ——彼に安堵あんどの色が浮かぶ。



「無事で良かった……」

「あ……。ルーカスさん、ごめんなさい」



 肩で息をする彼の姿に、イリアは自分勝手な行動を取ってしまった事を申し訳なく思った。

 立ち上がって、ルーカスの側へ行こうとしたのだが——。



騎士ナイトのおでましか」



 先ほどまで話していた時と違う、背筋が寒くなる様な低い青年の声が響いて、イリアはぞくりと肩を震わせた。


 振り返ると、彼の膝でくつろいでいた猫が毛を逆立て、興奮こうふんした様子で逃げて行くのが見えた。


 猫を追う素振りもなく、青年は立ち上がる。


 ゆっくりとした動作の中、青年がフードを頭の後ろに下げ——青い灰簾石タンザナイトの瞳と、月光に照らされて輝く、糸のように細い銀の髪があらわになった。


 

(髪色も、私と同じ……?)



 色の白い肌に、長い睫毛まつげ

 気高さと気品をそなえた美麗な面差おもざしは、どこか見覚えがある。



「貴方は……! イリア、こっちへ!」



 青年の姿を認識したルーカスが、今にも抜刀しそうな勢いで刀のに手を添えた。

 ルーカスの様子と青年の姿にイリアは戸惑った。



(ルーカスさんは彼を知っている?

 私と同じ瞳、髪の色を持った彼は、誰?)



 青年の手がこちらへと伸びる。

 大きくて冷たい指先が腕に触れ——イリアは青年の腕の中へと引き寄せられた。


 目の前に白が広がる。

 胸の鼓動が聞こえ、体温を感じ、広い肩が見えた。

 背中には、冷たい手の感触がある。


 ——イリアは抱きしめられたと気付くのに、数秒の間をようした。


 背後でルーカスが「イリア!」と、呼ぶ声が聞こえる。



「愛してるよ。————」



 耳元で青年がささやいた。

 彼は自分を何と呼んでいるのか——ノイズで聞き取れない。


 彼は一度強く抱きしめた後、腕をゆるませて、ドンッと強い力で肩を押した。

 その衝撃に身体が後ろへとかたむく。



(まただ。私は、この光景を知っている)



 既視感きしかんが胸を占めて行く。


 かたむく体を受け止めたのはルーカスだった。

 肩を支えられ、頭がその胸に沈む。


 青年のこごえる冬の様なするどく青い瞳が、こちらを見ていた。

 否、それはイリアの頭の上、ルーカスへ向けられていた。


 青年はまばたきをして、今度はさびしさをにじませた瞳をこちらへ落とした。



「君は僕の宝石。この手で守るべき、たった一つの宝石」



 そんな比喩ひゆではわからない。

 彼にとって自分が何であるのか、わからない事がイリアは苦しかった。



「元気そうで安心したよ。……またね」



 さびし気につぶやいて、青年の唇が、あの言葉——自分を呼ぶ言葉を無音で形作る。



(その言葉の意味を、知らないと)



 一言一句を記憶しようと、イリアは目をらした。



「————」



 つむがれた言葉を認識して、イリアは驚愕きょうがくする。

 知ってしまった言葉に、ズキズキと頭が痛み始めた。



(痛い、痛い、痛い……!)



 きっと呪詛じゅそ弊害へいがいだ。

 突き刺すような痛みが訪れ、イリアはたまらずまぶたを閉じ、両手で頭をかかえた。


 前方から足音が聞こえる。

 音が、遠ざかって行く。



(彼は、私の……。私は、彼の……!)



 認識した事実をどうすればいいのか。

 痛む頭ではまともに思考出来ず、けれども彼の姿を探してまぶたを開く。


 視界がぼやけて、世界が歪んで見えた。


 ——でも、白の、彼の姿はもうない。



「大丈夫か? 何があったんだ?」



 上へ顔をかたむければ、眉根が下がり、揺れる柘榴石ガーネットの瞳があった。

 見上げた事で重力に逆らえなくなった目尻のしずくが、イリアの頬を伝う。



「……さん」

「え?」



 彼の唇が形作った言葉を、つむぐ。



「ねえさん」



 あの唇は確かにそう形作った。



「彼は、私をねえさんと……」



 ルーカスの瞳が大きく見開かれた。


 彼の唇が形作ったのは「ねえさん」と言う言葉。

 それが意味するのは——。


 頭の痛みが治まらない。

 脳裏に「ガンガン」と警鐘のような音が響き渡り、重く、にぶく、増して行くばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る