第六話 二人を繋ぐ歌

 ——カレン。

 母がつむいだのは、かつて婚約者だった女の子の名前だ。


 彼女にまつわる過去を思い出して、ルーカスは母の言葉の重みを理解しつつも、庭園から邸宅の廊下へ向かって一目散いちもくさんに駆けた。


 そうして逃げ帰ったそこで一度足を止め、庭園を振り返った。


 

(自分でもわかっている)



 これは単なる逃避だ、と。

 イリア彼女いだく感情の意味も本当は——。


 心の奥底で理解していた。


 彼女が大切だからこそ失いたくない、守りたい。

 でも——それ以上の事は望まない。


 

(俺は……また失って、傷つくのが怖いんだ……)



 ルーカスは近くの壁に、背を預けた。

 想いを隠すように左手で目をおおって上を向く。



(……感情が、渦みたいだ)



 ぐるぐると浮かんでは消える思いに、「臆病者おくびょうものめ」とみずからをののしった。


 カレンとイリア。

 過去と現在いま


 考えまい、冷静になろうと思えば思う程、過去の傷に胸が痛んで思考の沼にはまって行く。






 ——どれくらいそこでそうしていたかはわからない。


 けれど、次に聞こえた声に、ルーカスは沈んだ思考を浮上させる事になる。



「ルーカスさん?」



 自分の名を呼ぶ、んだ高い声域ソプラノ


 目をおおった手を退けて、声がした方へ視線を彷徨さまよわせれば——ドレスタイプの白のナイトウェアに青のショールを羽織はおったイリアの姿があった。



「何かあったんですか?」



 パタパタと足音を響かせたイリアが駆け寄り、見上げてきた。


 心配してくれているのだろう。

 髪色と同じ、銀の眉尻を下げている。



「大丈夫だ、少し考え事をしていただけで」

「本当に? 何を考えていたんですか?」

「少し、昔を……いや、とにかく驚かせて悪かったな」



 ルーカスはいらぬ心配をかけまいと、作った笑いを浮かべて見せた。

 しかし彼女は納得がいかなかったのか、いつものように笑顔を返してはくれなかった。


 不意にルーカスへとイリアの手が伸びる。

 細い指がルーカスの手首を捕まえて手を引き、歩き出した彼女に釣られてルーカスの脚も動く。



「イリア?」



 銀の髪が流れる華奢きゃしゃな背に呼びかけるが、返事はなく無言だ。

 白く小さな手を振りほどく事が出来ず、イリアに連れられて庭園の方へと向かって行く。



(庭園には母上が——)



 あんな形で逃げ出して、顔を合わせるのは気まずい。


 ——そう思ったが、連れて来られた庭園に母の姿はなかった。


 庭園の中程、満天の星空と、彩りのある草花が望める場所でイリアは立ち止まり、手が離される。


 くるりと反転し、こちらを見つめる彼女の表情は一見おだやかだが、何を考えているのか読めない。


 行動の意図がわからずにルーカスは瞠目どうもくした。



「イリア、どうしたんだ?」



 イリアは問いに答えずまぶたを閉じ、月明かりに輝く銀の髪を夜風に揺らして胸に片手を当てた。

 桃色につやめく唇が静かに動いて、つむぐ。


 ——を。



いとし子よ お眠りなさい


 マナのゆりかごにいだかれて



 闇をはらえ 神秘の風よ


 きらめきがあなたを照らすでしょう


 いとしい子らよ 涙をすくって



 この体朽ち果てようとも


 とおの輝きが世界を包むでしょう



 いとし子よ お眠りなさい


 私の愛が 満ちる世界で』



 

 められた想いをあらわすかのように、優しく慈愛じあいに満ちた声——。


 やわらかで透き通る歌声が庭園に響いた。


 歌の題名は〝女神のゆりかご〟。

 この歌は、かつてルーカスをいやし、はげました歌だ。



(イリアが歌った、彼女だけが知る歌……)



 しかし、その記憶は呪詛じゅそにより封じられているはずだ。



「どうして、この歌を……」



 思い出は、忘れ去られた記憶の中。

 覚えているはずがない。


 歌い終えたイリアがゆっくりとまぶたを開く。



「ルーカスさんが悲しそうな顔をしているのを見たら……なんでかな? この歌が浮かんだの」



 優しげな勿忘草わすれなぐさ色の瞳がこちらを映して、イリアは静かに笑った。


 やはり記憶が戻った訳ではなさそうだ。



(それなのに、どうして……。この歌は、俺の——君は……)



 瞳から温かい何かが流れ落ちるのをルーカスは感じた。

 すると、イリアの白くて小さい、温かな指先が伸びて頬に触れ——透明なしずくすくった。


 そうされて気付いた。

 涙が頬を伝っているのだ、と。



「辛い時は言っていい、泣きたい時は泣いていいんだって、言ったのはルーカスさんでしょう?」



 その言葉は「君を助け、君の力になる」と、名を懸けてちかったあの日、彼女に言った覚えがある。


 自分で言った言葉をこんな風に返されるとは思っていなかったが、その通りだ。


 ——辛い時、泣きたい時は我慢せず、気持ちを吐き出すべきなのだ。



「そう……だったな……」

「私はその言葉に救われたの。だから、私もルーカスさんの力になりたい。無理はしないで。私は……えっと」



 そこまで言って、イリアは言葉を詰まらせた。


 言わなくても伝わって来る。

 気遣ってくれたのだろう。

 彼女なりのやり方で、どうにかこちらをはげまそうとしてくれたのだ。


 その気持ちが嬉しかった。


 単純だと笑われるかもしれないが、胸の内に暖かな感情が湧き上がり——痛みは消えていた。


 彼女の歌は、優しさは、あの時も今も。

 変わらずこの心をいやし、暗闇からすくい上げてくれる。



「ありがとう、イリア」



 そう伝えればイリアは、ほんのりと頬を赤く染め、桃色に色付く唇をにして笑って見せた。


 彼女が見せる笑顔に鼓動が早まり、熱い想いが胸を占めていく。

 秘めた感情が、月明かりに照らし出されて、顔をのぞかせるかのようだった。



(——君は俺の大切な人。

 救いであり、そして守りたいと想う、かけがえのない存在……)



 ルーカスは知っていた。

 この熱く、胸を焦がす想いの名前を——。


 ずっと前から彼女に抱き続けた、ふたをしたはずの感情。






 抑えきれない恋情が——彼女の歌と、想いによって暴かれていく。

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