第十一話 あふれた涙

 目が覚めたら見知らぬ場所だった。


 ここは〝グランベル公爵家〟で、診察に訪れたお医者様に、過去の記憶がない事を話すと、不安に駆られた心を解きほぐすように「安心していい」と頭をでてくれた。


 気遣きづかいが嬉しくて、涙がこぼれ落ちて、止まらなかった。

 

 〝彼〟が訪れたのは——そんな時だ。


 コンコン、とノック音が鳴って、自然と視線が扉へと向く。

 侍女が扉へと歩んで、けれど辿たどり着く前に、返事を待たずして扉が開かれた。



「目覚めたと聞いて、彼女は——」


 

 そう言って部屋に飛び込んで来たのは、赤と黒を基調に金の勲章くんしょうと装飾でかざられた軍服らしき衣装をまとい、後ろ髪を一つに束ねた黒髪の青年だ。


 彼は息を切らした様子で肩を上下させ、ひたいと頬に汗を伝わせていた。


 柘榴石ガーネットを思わせる紅い切れ長の瞳に、左目の下には泣き黒子が二つ。

 鼻筋が通っていて、とても端正たんせいな顔立ちをしている。



(綺麗な、人……)



 思わず目を奪われ——こちらを見た彼の紅い瞳と、視線がぶつかる。


 涙が止まらずに、瞳からぼろぼろとこぼれ落ちた。

 こんな姿を見られた事に、急に気恥ずかしさが込み上げる。


 彼の瞳から逃れるように目をらし、涙をぬぐおうとした。


 ——直後、長い黒の後ろ髪をなびかせて、彼がファルネーゼ卿に詰め寄る。


 

「彼女に何をした! 事と次第によってはただではおかないぞ!」



 彼が怒りを含んだ声色こわいろで叫び、ファルネーゼきょうの胸倉を掴んで締め上げた。

 突然の行動に頭が混乱する。



(なんで? どうして彼は、怒っているの?)



 理解が追い付かない。



「ルーカス様、誤解です!」



 侍女が慌てて止めに入り、「落ち着いて下さい!」と、必死にうったえた。

 

 だが、感情に飲まれた様子の黒髪の青年——ルーカスと呼ばれた彼の耳に、その声は届いていないようだった。



「何が誤解か! 現に彼女は泣いている!」



 締め上げる手を強め、青筋を立てて怒りをあらわしている。



(私が泣いているから……怒ってる?)



 怒りにゆがむ彼の顔はとても怖かった。

 けれど、当のファルネーゼきょうは——意外にも平然としている。



「はっはっは! 若様のこんな姿が見られるとは」



 それどころか突如とつじょ、嬉しそうに笑いをこぼした。


 何故笑っていられるのか、不思議だった。



「笑っている場合じゃないぞ!」



 彼の手に一層力が加わり、ファルネーゼきょうを締め落とす勢いを見せる。



(ダメ……やめて!)



 ひどい事をしないで!

 涙がこぼれたのは、お医者様のせいじゃない!


 そう伝えたいのに言葉にならなくて、拳を握りしめる。



(お願いだから——!)



 息を吸ってぐっとお腹に力をめ、つむぎたい音を声に。


 言葉を届けなければ、と唇を動かした。



「——やめてください!!」



 ようやく口から出た音は、自分でも驚くほど大きかった。

 けれど、ファルネーゼ卿が責められているのを黙って見ていられない。


 

「貴方が誰かはわからない。でも、お医者様は、悪くない!」



 怒りをにじませる彼を視界にとらえて、叫んだ。


 紅い瞳がこちらへ向く。


 反射的に肩が跳ね、手が震えて、涙があふれる。

 さっき涙がこぼれた時とは違う、言い知れぬ恐怖を感じた。


 彼の口からどんな言葉が飛び出すのか、予想がつかなくて身構える。


 けれど——。



「な——俺が、わからない、のか……?」



 彼は目を見開き、狼狽うろたえた。

 締め上げていた手がゆるみ——ファルネーゼきょうが拘束から解き放たれる。


 彼はしばらく呆然ぼうぜんと立ち尽くし、そしてはじかれたように襟元えりもとを正し終えたファルネーゼきょうに視線を送った。



「若様、そのことでお話があります。よろしいですか?」

「あ、ああ」



 力なくうなずいた彼がもう一度こちらを見て、視線がぶつかる。

 けれどすぐに、ふいっと瞳をらされた。



「……さわがせて、すまない」



 バツの悪い表情を浮かべてうつむいた彼は、束ねた長い黒髪の流れ落ちる背中を見せた。



「俺とファルネーゼきょうは下がる。ビオラ、後の事は頼んだ」

「かしこまりました」



 彼は侍女にそう告げると、こちらを振り返る事なく、そのままファルネーゼきょうともなって部屋を出ていってしまった。


 体が震えて、涙が流れる。



(——怖かった。彼は、どうしてあんな事を……)



 肩を抱いて、震える体を落ち着かせようとする。



「お嬢様、どうか誤解なさらないで下さい。ルーカス様はとても優しい方なのです。理不尽に怒りを振りくような方ではありません」



 ビオラと呼ばれた侍女が側に寄り、ひざを折って優しくあやすような口調で告げた。



「ならどうしてあんな事……」



 彼が見せた態度は優しさとは程遠く、理解出来なくて首を横に振る。

 ビオラは困ったように笑った。



「涙に驚いて気が動転しただけですよ。

 私も詳しくはぞんじ上げないのですが、ルーカス様は記憶をなくされる前のお嬢様をご存知で、とても……大切に思われてた様ですから」

「え——?」



 彼が自分を知っているという言葉に驚く。



(あの人は、私を知っている?

 ……そう言えば、私の言葉に、「俺がわからないのか?」と動揺どうようしていた)



 彼の言動を思い返せば、ファルネーゼ卿を問い詰めたのは、涙を流した原因が卿にあると疑ったからだ。



(もしかして、私を心配して……)



 怒りをあらわにする姿にとらわれて、そちらにばかり目がいってしまった。



「お嬢様をこちらへ保護されたのもルーカス様なのですよ」

「……そう、だったんだ」

「はい。ですから、謝罪に来られた時は許してあげて下さいね」



 タイミングが悪く、誤解が生じただけなのだとうったえるビオラに、こくりとうなずく。


 あんな姿を見てしまったから、彼女の言葉がなければ誤解してしまうところだった。



(怖い人じゃなくて、よかった……)



 次に会えたら、私を知ると言うあの人と、落ち着いて話をしようと思った。



(忘れてしまった記憶への手がかりも、きっとあるはず)



 ほっとしたら、涙と震えは止まっていた。


 そして代わりに——ぐきゅるるるる。

 と、お腹の虫が鳴った。



(大事な話をしてる時に……!)



 空気を読まず起こった生理現象に、一気に熱が顔へのぼる。

 恥ずかしくて、咄嗟とっさひざの上にうずくまって顔を隠した。


 ビオラさんが「ふふ」と微笑んで「まずはお食事にしましょう、お嬢様」とおだやかな口調で話しかけて来る。


 そして部屋に備え付けられたハンドベルを鳴らし、チリンチリンと高い音を鳴り響かせた。


 その音を聞きながら——赤くなった顔を上げる事が出来ず、しばらく顔をうずめるしかなかった。

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