6話 枷がはずれる

 トニーが来たのかもしれない。

 そう思っても、追いかけるには遅い。アオイから聞いたときにはすでに、それなりの時間が経っていた。

 かといって何もしないまま、あきらめることはできない。スタッフ用出入り口から飛び出した。

 トニーがここに来るとすれば、車だ。知らない人間とパーソナルスペースを共有する、電車やバスをきらう傾向がトニーにある。公私ともに、徒歩か車での移動が前提になっていた。

 撃たれた足が完治していない可能性も考えた。

 トニーの回復力と忍耐強さで運転するか、身体への負担が少ない公共交通機関の利用とで秤にかけてみる。

 ブレーキペダルをリリースするだけで動き出すクリープ現象が気色悪いと言って、オートマ車には絶対乗らなかった。いつもどおりのマニュアル車だとしても、ここでも前者が勝った。

 だだっ広い駐車場を見渡す。

 トニーは私用車をもっていない。<テオス・サービス>の社用車なら、探す車の見当がつけられる。それに停まっている車両はさほど多くなかった。片っ端から見ていくのも不可能ではなかった。

 冬の日暮れは早い。薄暗くなってきた中でトニーの影を探す。

 ただそれだけに集中していた意識が、耳に飛び込んできたスキール音で一気に周囲への警戒心をあげた。

 急旋回が必要になるスペースではない。この空間でスキール音を出すのは、はた迷惑な暴走車か、無理な負荷をかけるほど急いでいるか。

 逃げ出した組織<アクイラ>が、脱走者を忘れてくれたといった楽観はもっていない。トニーと<ジュエムゥレェン掘墓人>の仕事をし、さらに磨きがかかった用心深さが反応した。

 狙われている。エンジン音がソニを追ってくる。

 車の勢いを殺せるものを求めて、いちばん近い生け垣へと走った。

 低木でもジャンプで越えるのは無理だ。全身のバネをつかって頭から飛び込んだ。腕をクッションにして、頭をやや斜めに。前受け身で転がった。

 立ち上がった先の目標は、すでに決めていた。

 駐車場の裏手はすぐ山だ。木々の間に飛び込んだ。放置状態の常緑樹が車を阻み、銃弾と視覚をさえぎってくれるものと期待して。

「ベリシャあァー!」

 暗い木々の間をぬって、怨毒えんどくのこもった声がのびてきた。

 これほどまでの憎しみを込めて名を呼ばれたのは、初めてかもしれない。

 追いかけてきたのは、やはりルジェタだった。かつての恩師が、殺意を噴出させて迫ってくる。

 それでも、さして動揺はなかった。

 ルジェタには、後ろ足で砂をかけることをしてきた。それに憎しみ、憤り、怨恨といった感情が、常にそばにある日常を経験してくると慣れもついてくる。

 まだ身体が小さく、体力で劣るソニは、常に冷静であることを武器にしていた。

 興奮すれば見えるものも見えなくなる。火事場の馬鹿力は出るかもしれないが、いっときの瞬発力だけで解決できることは限られていた。

 しかし、追っ手を振り返ったソニの顔に憤激の色が浮かんだ。

 木々の間から見たルジェタの容姿に、いとわしさが湧き出る。

 あの姿、わざとだ。

 暴力衝動への枷がはずれた音を聞いた気がした。

 ルジェタの追跡をまいて逃げる選択を消す。熱くなる意識の一方で、仕留めるためにより確実な方法を思考が探り出す。

 まずは雑木林の中——



 裏山に足を踏み入れたときには、すでにソニ・ベリシャの姿を見失っていた。

 ルジェタは周囲を探りつつも足早に進む。途中、ヒップポケットからフォールディングナイフを取り出した。

 来る途中、閉店セールのアウトドア店で売れ残っていた安物だった。自分で用意した武器がないのは落ち着かない。ないよりはマシと買っておいてよかった。

 ルブリからは、シグP224を渡されていたが、思い直して捨ててきた。

 オートマチック自動式拳銃は、ちょっとした細工で暴発を誘い、射手にダメージを与えることができる。用意されていた得物など信用できなかった。

 ナイフを持つ手元を見ないまま、ネイルマークをつまんだ。ブレードを出そうとした指が汗ですべる。自覚しているより緊張していた。

 ルジェタは、ソニが逃げたとは考えなかった。

 ソニーを拾ってから確信をもって育てたのは、暴力への親和性があったからだ。

 暴力で支配されるなかで生まれ育ち、暴力のない静かな場所への憧れはもっていた。しかし、そこで安住できるかといえば話は別になる。

 暴力から切り離された更生施設に身をおいて、〝飢え〟がピークになっている頃のはず。

 そこにやってきたのがルジェタになる。自己防衛という建前を使うこともできる、これ以上ない獲物だ。ソニが狩りに来ないはずがなかった。

 乱れる息を落ち着かせようと、ルジェタは深く呼吸した。

 ナイフグリップを握り直した。ナイフを持つ右手を前に出し、ブラッドサークルをつくる。腕が届く範囲内にはいれば即、血祭りにできる。

 足を止めてみる。静寂が耳についた。人間がたてそうな物音は聞こえない。

 ソニも動かずに、じっとしているのか。周囲を耳で探った。わずかな異音でも感じとろうとした。

 遠くを走る車のエンジン音が、風が葉を揺らす音が、これほど騒々しいとは。

 酩酊するほど呑んだ酒と、見栄で吸っていたタバコで死んだ肺機能。人工物の喧騒のなかで鈍くなった感覚。自分で蒔いた種の代償をやっと意識する。

 頬をかすめて落ちてきた葉に気付いたときには遅かった。

 はっとして顔をはね上げる。

 ソニ・ベリシャが降ってきた。

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