3話 待ち人来たるか
パン工場の仕事をあがったソニは、カフェスペースの奥まった席でメモをとっていた。
テーブルが半分以上あいていれば、店内で休憩をとることも認められている。閉店前ともなると楽に座れた。ただし決まったスペースに限られている。トイレ近くの席に限られたので、ぶっちゃけ人気がなかった。
ソニにとっては、これぐらい気にならない。ほとんどソニ専用席になりつつある。
没頭して書いているのは、今日の仕事のポイント。忘れないうちにノートに書きとめておく——というわけではなかった。
パンづくりにのめり込む自分をつくり、銃がある生活への渇望をごまかそうとしていた。
「……ニ、ソニってば!」
呼びかけてくる声にはっとなる。顔をあげた。
ホール係として働いているカミヌマ・アオイが、向かいの席に座っていた。前のめりでテーブルに身をのり出してくる。
「ソニが出てくる前に、ちょっとしたケンカ騒ぎがあったんだけど、カッコいい女の人がいてさ。その人が追い払ってくれたんだよ!」
それで、ざわついた気配がしてたのかとソニは思い返す。というより、
「ケンカ騒ぎが『ちょっとした』ことなの?」
「つまんないとこにツッコまなくていいの。そんで、その人がソニのことを聞いてった」
「わたしの……? 名前はなんて人?」
「義理の叔母だって言ってたけどウソだと思う」
「うん、嘘だね。そもそも叔母さんがいないから」
ソニがこの施設にいることを知っている人はいる。けれど、身分を偽る必要などない人ばかりだ。
<アクイラ>からの追っ手とするには根拠がうすかった。時間と手間をかけて探されるような大物ではないし、情報や金を持ち逃げしたわけでもない。
ただここ数日、外出のたびに妙な感じはあるのは確かだった。人違いですませる気にもなれない。
「関係を大っぴらにできないからウソ言ったのかな。ソニに年の離れたパートナーがいるとか?」
慎重になるソニとは反対に、アオイはきらきらした瞳で迫ってきた。恋愛話に展開させたい力がこもっている。
馴染みのないテーマに、ソニは椅子の上で身体を避難させた。
「パートナーなんかいないよ」アオイが期待するような関係の意味では。
目つきの悪い教育係が脳裏をよぎっていたが、胸の奥底に呑みこんだ。彼女とのあいだで確かなものは何もない。
ともかく確かめないといけないのは、
「わたしの何を訊いてきた?」
「ソニ……?」
動揺はもちろん、普段から感情の変化も出さないようにしている。なのにこのときは、ただならない表情を見せてしまったようだ。浮かれていたアオイが居住まいを正した。考えているときのクセ、人差し指で頬をつつきながら続けた。
「えっと……休みは何曜日なのかとか、どんなところに友だちと遊びに出かけたりしてるのか、とか。<
いま考えたらヘンなんだよね。一時間ぐらいテーブルに座ってたのに。急な用でもできたのかもだけど」
「アオイの言うカッコいい人って、具体的にどんなだった?」
「髪はオフブラック……濃いブルネット……とにかく黒っぽい髪だった。で、目つきはちょっと怖かった。あんなにケンカが強いんだから、そっちの専門の人かな……っていうのは冗談だけど」
ソニは目を大きく見開いた。まさか本当に?
一方で、もうひとりの自分が警告する。冷静になれ。髪色や目の印象だけで判断するのは早計すぎる。
「ほかに何かなかった? どんなことでもいいから」
「って言われても……あっ、帰るときの後ろ姿みてたら、片方の足をちょっとだけ引きずってるみたいだった。やっつけてるときは、そんなハンデ感じさせなかったけど」
ソニの呼吸が数瞬とまる。
「わたしの何を訊いてきた?」
訊かれたアオイは思わず目を見張った。ソニが食い入るようにこちらを見つめ、身を乗り出してくる。
ソニにこんな顔をさせるとは、いったいどういう人なのか。
他の子たちと同じように、ソニも窃盗やドラッグといったことで、この更生施設にきたのだと思っていた。
しかし、ソニには歳にそぐわない落ち着きがあった。
仲間同士の小競り合いがおきても、納入ミスで仕事に混乱がおきても、いつも冷静で感情的になることがない。ひそかに「ソニ四十歳説」が流れるぐらいには大人びていた。
そんなソニも、やっぱり同年代だったのだという親近感がわいてくる。
アオイは、もっと思い出そうとした。ソニと訪ねてきた人との関係を知りたい好奇心を抑え込み、力になろうとした。
「引きずるっていっても、歩くリズムが左右でちょっと違うって程度だよ」
思い浮かべながらアオイはテーブルの下、その人が引きずっていたほうの同じ側の脚に——右脚にふれた。
「あと、ブレンドティーとクロワッサンをテイクアウトしてた。店で飲んでたのも
もう間違いない気がする。
左脚の調子が悪いのは、撃たれた後遺症か、まだ完治していないだけなのか。
ソニの脳裏にはいつも、安寧になった毎日の中にいても、死なないでいるだけの毎日から救いあげてくれた人の姿があった。似た人影を見つけると、目で追ってしまうほどに。
すでに両親の記憶より強い。
心の内側にずっといた、求めてやまなかった人は——
「アントニアさんかも……」
「友だち?」
「短い間だったけど、家がないわたしを居候させてくれて、支えてくれた」
「そうだったんだ……。ゴメン、強引にでも引きとめといたらよかったよね」
「ううん。おしえてくれてありがとう!」
まだいるかもしれない。
そう思うには時間がたっていた。それでも可能性がゼロでないなら、動かずにはいられない。
いま会って、確かめたいことがあった。
ソニはノートを閉じ、ボールペンをワークシャツのポケットに差し込んだ。アオイへの挨拶もそこそこに、慌ただしくテーブルを離れた。
まずロッカールームに立ち寄る。鍵を開ける手ももどかしい。ノートを放り込み、いつも持ち歩いてきたボディバッグを取り出す。
愛用のボディバッグを胸の前にかけながら、かつてトニーが言ったことを思い返していた。
求めないことでダメージを少なくする習慣がついていた自分に、息を吹き込んでくれた言葉を。
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