7章 血となるものは
1話 いのちの糧
生活の場を若年犯罪者更生施設<フェロウ・インダストリーズ>に移してからも、ソニは体力の維持に余念がなかった。
器具や特別な場所を必要とせずにやるトレーニングは、トニーとの生活の中でおぼえた。部屋にある椅子や机を補助にして、身体への負荷を変えたり、本を重ねてプッシュアップバーの代用にしたり。
施設で就いたのはブレッド製造部門。いつも定時に終わるので、夜の勉強までのあいだに自由時間がとれる。そのタイミングでランニングに出かけた。
ワークスタイルからランニングウェアへ。といっても専用のものはシューズぐらいで、あとは間に合わせのTシャツとパンツ。手早く身支度を整えて、通りに出る。
コースは毎日変えていた。同じ日常パターンの繰り返しは、狙われやすい条件になる。
追われる身から確実に解放されたと言い切れないだけではない。
非合法組織で働いた経験が、ソニを用心深くさせていた。
移ってきた市域には、緑豊かな場所が多い。国定公園をはじめ、寺や滝、温泉といった観光スポットがある。経済の中心地へのアクセスもいいことから、閑静な住宅地もひろがっていた。
ソニのこれまでの生活とは無縁なものばかりだった。
なんの感慨もわかない風景のなかをただ走る。ランニングコースの終わりに近づく頃合いで、ペースを上げた。
山が近いこともあって、夕暮れをむかえるとさらに冷え込む。郊外の低い気温のなかでも、身体の芯から汗を絞り出すようにして追い込んだ。
息が上がる。肺が焼ける。いくら呼吸をしても酸素が足りない。
それでも身体に楽をさせない。パン工場で働くためだけの体力づくりではなかった。
殺されそうな窮地に追い込まれても、身体が動いたから死なずにすんだ。
さらに過酷な環境になっても、身体に力をつけて生き延びてきた。
戦える能力を組織から評価され、ソニのアイデンティティーにもなった。その力が落ちることが、不安なのだ。
維持するのは簡単ではない。
パン工場での仕事のほかに、高校卒業資格をとるための通信教育を受けていた。これでプライベートな時間はほとんど消えてしまう。時間の捻出に工夫が必要だった。
その反面、多忙を極めることで、よけいなことを考える余地をなくせた。
トニーのことは忘れていないが、勝手な憶測をそだてる時間がない。おかげで無用の不安にとらわれることもなかった。
一日の大半をすごすパン工場での仕事は、思いのほか楽しい。ちょっとした手順のちがいで出来上がりが変化する。教えられたことを消化すると、結果はすぐに目に見える形であらわれた。
枝豆ジャムパンの試作品をくれた人が、夢中になるのもわかった気がした。
——酵母が働いてる生地って、ほんのりあったかくて気持ちいいよ。
本当だった。
発酵しているパン生地には、淡い温かさがある。手のひらが吸い込まれそうな、やわらかさは、いつまでもさわっていたいぐらいだった。新しい発見の連続で、おもしろかった。
しかし失くしたものを埋めるには、とても足りない。
ハードで、サディスティックでありマゾヒスティック。
肌が
縛り付けてくる緊張と張り詰めた空気が、グロテクスなはずの世界が、懐かしかった。
ソニはわかっている。
人間として、おかしい。
けれどそこにある高揚は、抗いがたい事実だった。
限界を超える厳しい状況のなかで自分の能力を引き出し、存分にふるうことで得られる快感があった。ブレッドを焼くだけでは、飢餓感がある。
銃など無いほうがいい。
トニーが受けた銃弾で、自分のこととして思い知った。ハンドガンも、ナイフも、枕の下に忍ばせない生活が普通なのだ。
暴力は、それをふるった者にも返ってくるブーメランだとトニーも言っていた。
しかしソニには、ここで疑問が出る。
「普通」ってなんだろう?
巷間でいわれている「普通」と、自分の「普通」にズレがあった。
更生施設での生活が、多くの人と同じような普通の生活のはずだった。なのに、ここで「普通」の生活をするようになってから、寝つきが悪くなっている。
深く、短く。眠れる貴重な時間に、いつでもすっと眠れて、フィンガー・スナップひとつで目を覚ますことができる。そんな睡眠の生活に、慣れすぎたのだろうか。
忙しいのに時間がだらりと流れているように感じた。
いつも微睡んでいるようで、現実を生きている実感がない。
<フェロウ・インダストリーズ>にきて、はじめて同年代の友だちができた。腕や足にタトゥーが残っている子たちと、バカ話で笑うこともある。
ただ笑いがおさまったあと、ソニの胸の内にはいつも
ソニは、落ち着いた郊外の街にきてから考え始めたことがあった。
自分の拠り所は、世間一般の日常とかつての非日常、どちらにあるのか。
生きる
血となるのは——
*
ソニ・ベリシャの生活パターンは単調だった。
<フェロウ・インダストリーズ>とかいう更生施設と、すぐ近所に借りているアパートを往復するだけの毎日だ。
ショッピング、映画、ランチに出かけるといった、十代が好んでやりそうな日常の遊びが、監視していたこの十四日間には、まったくなかった。
ソニのこれまでの生活を考えると当然ともいえた。遊びそのものをろくに知らずにきたのだから。
一日の冷え込みがもっとも厳しくなる、冬の夜明けの時刻。
まだ暗いうちから施設の工場に入ったソニは、夕方前になるまで出てこない。
仕事が終わると、まっすぐアパートに帰宅。すぐに着替えて出てきたかと思うと走りに出て、三〇分から小一時間で帰ってくる。
走っているところも何度か尾行したこともあるが、かなりのハイペースだった。
そうして帰ってくると外出することはない。夜の十一時になると部屋の明かりが消え、次の外出は、施設への出勤というくり返しだった。
スキがなかった。
通勤ルートとランニングコース、使う道も走る距離も毎日違う。そのうえ、人通りが多かったり、車が入れないといった道を必ずルートに組み入れていた。
こいつを手放したのかと思うと、実に口惜しい。
それだけ、いい加減な対処が通用しない相手になった。
仕掛ける場所は、かなり限られる。有力候補となるのは、施設のスタッフ用出入り口付近だった。
面しているのは駐車スペースで、人目や街灯が少ない。人家がまばらなエリアで、施設の背後には山が迫っていた。常緑の木々が野放図に生い茂っているせいで、周囲からの視線を遮る空間があった。
近隣に寺や滝といった観光スポットがあるが、いまはオフシーズンで通行する車も観光客もほとんどいない。
この場で始末するにしても、車で運んでから処分を考えるでも、どちらでも対処できる。
ルジェタは決行場所を決めた。
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