6話 ルールなんてない
トニーの術後の経過はよかった。
怪我の回復を気遣う電話がリザヴェータからきたおり、トニーは<フェロウ・インダストリーズ>に行くことをつたえた。
「完治はまだなんでしょ? その……気をつけてね」
深く訊かれないのは、いつもの暗黙の了解みたいなものだと思っていた。
仕事もプライベートも、普段からむやみに訊いたりはしない。「気をつけてね」も挨拶みたいなものだと。
「電車で行くよね? 乗り換えで歩かなきゃいけないけど、そのほうが安全だし」
「いや、車で。人混みを歩いて絡まれたらめんどい」
目つきの悪さから通行人に避けられるのはいいとしても、ケンカをふっかけられることがあった。
「いやいやいや、あたしが心配してるのは、脚! あんた、マニュアル車しか乗ろうとしないじゃない。クラッチ踏み損ねたらどうすんの!」
「さっき動かしてみた。ちょっと違和感が残ってる程度だから大丈夫」
三割り増しの大丈夫で答えておいた。
バイロンから<フェロウ・インダストリーズ>に行くための事前説明を受けたとき、トニーは強い懸念を抱いた。
「偽名を使わせなかったの?」
バイロンは「ソニ・ベリシャ」のままで入所手続きをすませていた。ソニを追っ手から隠す気がないように思える。
「ソニを入所させた目的が『更生』だとは思ってないでしょ?」
「……わかってる」
にしても、ソニを生き餌にするなんて……
「トニー」
バイロンの酷薄な双眸が、トニーをとらえて命令した。
「食い逃げさせるな。そのためのツー・マン・セルだ」
本当にこのボスは、人使いが荒いのか大事にしてくれてるのか、わからない。
*
二月にしては気温が高い、晴れた昼過ぎ。ルブリは、古ぼけた看板がかけられた喫茶店で待っていた。
明るく晴れた冬の日差しの外とは対照的に、店内はほんのりと薄暗い。
客はルブリのほかには二人しかいなかった。おさえた照明とブラウンが基調の内装、耳に入るのは、小さな音量で流れるモダンジャズだけという中にいると、ざわつく気持ちが落ち着いた。
奥まったテーブルについているルブリの前にあるのは、飲みたかったコーヒーではなかった。
インテリアに使われたステンドグラスを見ると、<
何をするでもなく革張りのソファでぼんやりする。
中央埠頭から逃げたルジェタを追ってから、もう一年ぐらい経ったような気がするが、実際は二ヶ月ぐらいしか経っていなかった。
ルジェタを追うときは、路上に落ちた小さな血痕が手がかりになった。隠す余裕もなかったとみえる。
そうして見つけ出したのは、半地下になっているビルの玄関先。この地区は、埋め立てで沈下した地盤を盛土でかさ上げした結果、一階が地下や半地下になっている建物がちらほらある。そんな古いビルのひとつだった。
そこからルジェタを引きずり出し、医者の元まで引っ張っていった。
バイロンは、いくつかの病院と契約している。
病院で亡くなった人を引き受ける葬儀社、<テオス・サービス>として。
あるいは、警察に届けられてはまずい銃創や刺傷を秘密裏に治療する医療機関、または〝材料〟をやりとりする<
ルブリは病院への受け入れをバイロンに取り次いでもらい、まず治療を受けさせた。そのあとの入院治療からリハビリと、ずっとルジェタと行動をともにしている。
ルジェタが退院したあとは、ソニ・ベリシャ排除のための下準備をすすめていた。
目標の生活パターンを探り、襲撃しやすいタイミングを割り出すために監視を続けた。
地味で退屈な仕事をルジェタと円滑にこなす——。こういった仕事のために、バイロンから<
ちびちび飲んでいた紅茶のカップが空になっても、ルジェタ・ホッジャはまだ来ない。
手持ち無沙汰でメニュー表を眺めていると、スイーツメニューに目がとまった。
差し入れのケーキを会社の休憩室で堪能していると、小馬鹿にした目を向けてきた男がいたことを思い出した。マチズモなやつが少なくない業界だから仕方ないとはいえ、気分はよくない。
その点でもトニーは気が楽だった。
自分の金で自分が好きなものを食べて何が悪いというスタイル。むしろ痩せ我慢してブラックコーヒーを飲んでいる人間を嗤うタイプだ。
隣でクリームソーダを飲んでいようが、餡マーガリントーストをかじっていようが意に介していなかった。
メニューにプリンアラモードを見つけ、今度はコーヒーと一緒に頼もうかと思った矢先、新たに客が入ってきた。
ルジェタが来たのかと顔を向けたが違った。
少しホッとした。いまは遅れて来てほしい。プリンを試してみようと店員に手をあげたところで、向かいの椅子に女がすわった。
「これだけすいてるんだ。口説く気がないんだったら相席は遠慮……ホッジャか?」
「わからなかったの? まあ、店のなか暗いしね」
ルジェタが髪を切りたいと言い出したので、美容室の前でわかれ、目と鼻の先にあった喫茶店でルブリは待っていた。
いまはルジェタが、かつていた組織<アクイラ>から身を潜めている。追跡の目をごまかすためにも、二人連れで出歩いていた。
ルジェタだと気づかなかったのは、髪を切ったせいだけではなかった。
「その髪……」
気に入らない。
気分が悪いぐらいだが、もちろん顔に出すようなことはしなかった。
「これも策戦のうちね。わたしはコーヒーを——」
「いや、もう出よう」
ルブリは会計表をつかんで立ち上がった。
「
新しく来た客に水を持ってきていた店員に多めのチップをわたし、レジへとむかった。
二日後の自分は、どんな顔をしているだろうかとルブリは思う。
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