2話 魅惑の誘い
ゴリっとした感覚が掌に伝わる。
痛かったのか、ソニが眉をわずかにしかめた。
「もうひとつ訊いておきたい」
トニーは、首に手をかけられたときのソニの表情が目に残っていた。
「死ぬのに嬉しいの?」
ソニの頬が、わずかに緩んでいた気がした。
「悪いこと、たくさんしました。やりたくて、したことじゃありません。言い訳です。許されません。でも最後に、やさしいこと、少しできました。嬉しいです。とてもです」
静かで深い微笑みも、すぐに沈痛な面持ちとなった。
「ごめんなさい。早く言わなければいけない。わかっていました……」
「事実を告げたら、逆上したあたしに報復されるから?」
「少し、違います。アントニアさんと、もう一緒にいられなくなる、思いました。すごい、わがまましました。ごめんなさい」
「あたしと一緒にいて楽しかったように聞こえるけど?」
ソニが瞳でうなずいた。
この子と一緒にしていたことは、なんだったかとトニーは思い返す。
法にふれる仕事と、質素な食事と、粗末なお茶と……ほかに何かあっただろうか。どこに楽しい要素があったのか、思い当たることがない。
あの程度で楽しく感じる生き方をトニーに会う前のソニはしてきた。
加害してくる父親や、電気料金を滞納するような貧しい家にいても、腐ることなく懸命に生きていたフロラと似ていると感じた。
フロラの姿がフラッシュバックする。
高価なものを贈ると受け取ってくれないフロラへのプレゼントは、いつもリーズナブルで実用的なものばかりだった。たまの贅沢すらも求めない、あんな生活に希望を持てていたのか。
そして、清貧な生き方が報われたわけでもなかった。
薄暗く、冷たい路地裏で、腹部から命が流れ出るままで息絶えた。
不意に、フロラの腹部に当てられていた、血を吸い込んだ無彩色の服を思い出した。
「倒れたフロラを見つけたとき、おまえはどんなアウターを着てた?」
「あうたー……?」
「上着なしで対象を追いかけてたの?」
「上着、パーカーです」
「色は?」
「グレーです……色、どうしましたか?」
「グレーに間違いない?」
「はい」
「…………」
傷口にあてがわれていたパーカーの持ち主は、フロラの命をつなぎとめようとしてくれた——。
それでもトニーは、銃口を下げることができなかった。トリガーにかけた指を絞りたくなる。
妹を巻き添えにされた怒り。
死んだことを認められなかった自分の弱さ。
ソニに悲憤をぶつけるのはお門違いだとわかっていながら、ソニを許せる寛容さもない。
子ども相手に感情的になっていることで、二重に自己嫌悪がきた。
ソニを責めるなら、守れなかった自分にだって非はある。
そしてトニーが、ブックマーカーに託して贈った言葉、
──『私はあなたを忘れない』
しかし、フロラの望みは……
──フロラさん、アントニアさん、伝えてほしい言いました。
——『私は、あなたに会いたい』
ソニが運んできたフロラ最期の言葉が、トニーの胸中で繰り返し再生された。
社会的な体裁など放り出して、フロラの気持ちを優先すべきだったのか。
バイロンの力にすがってでもフロラを護り、会ってもよかったのか……。
フロラとはステップファミリーだ。
血縁などなくても関係なかった。誰よりも妹のことを考え、理解しているつもりだった。
母親も継父もなくしたフロラが、養護施設を経て、保護者たり得る親がいる新しい家庭へ。
この新しい家族が、フロラにとって本当の人生のスタートになる。犯歴のある人間とのつながりなどない、きれいな身の上でこそ幸せになれる。
間違っていない思っていたし、フロラが反対しても変える気はなかった。後悔はない。
しかし結果は、トニーの思いに反したものになった。
最期の言葉にするほど、フロラに思い詰めさせていた。
さらに、フロラの本心を伝えにきたのが、同じ年頃のソニだったことが痛烈だった。抗議できなくなったフロラが、別の身体をかりて現れたように感じた。
いまとなっては謝れないし、やり直しもきかない。悔恨と自責の念で昏倒しそうになる。
路地に横たわったフロラを見つけた時、なんと思ったか。
——なぜ、あんなところに妹が倒れているのだ。
倒れていたのではない。すでに死んでいたのに。
現実を認められなかったトニーは、逃げた。ソニに激昂している原因はこれだ。
フロラが巻き添えで殺されたことだけではない。
死んだ事実を確信させられて、自身の弱さを突きつけられて逆ギレしているのだ。
エレンの葬儀の日を聞いて、陰から見送るつもりでいた。
なのに、結局は行かなかった。墓にすら行っていないのは、見たくないからだ。
妹を亡くした事実から、ひたすら目を背けていた。
そうすれば事実は現実から離れていく。フィクションのように感じていたかった。
しかし、フロラは許してくれない。
ソニから渡されたブックマーカー、そしてフロラの最期の言葉は、容赦のない宣告になった。
フロラは亡くなった。
大切なものをなくした気の遠くなるような喪失感が、二度と会うことがかなわない凍りそうな
トニーが認めたことによって、フロラは本当に亡くなった。
フロラが亡くなる原因となったのは——
「撃ってください。アントニアさん」
かすれる声でソニが訴えてくる。
「苦しそう顔、してるときありました。わたしのせい。だから、わたしを撃つです。楽になってほしい。アントニアさんにできること、他にありません」
魅惑的な誘いだった。
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