3話 わたしを買ってください
通報からパトカーが駆けつけるまで、この街では八分程度かかるといわれている。
もちろんこれは、道路事情に問題がなかったとき。食事や呑むために、多くの人間がくりだしている時間帯であり、小径が入り組んだエリアであることが、トニーたちに味方した。
それも、そろそろ限界だった。最初の発砲から十五分近くたち、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。
トニーの名前を知っていた子どもへの疑問は、ひとまずおいておく。足を撃たれたルブリに肩を貸して引きずり立たせると、トニーはレストランの裏口へと急いだ。
女の子が先回りしてドアを開けて待っている。要領がいい。
足を緩めることなく外に出た。街灯を避けるようにして、裏道の暗がりを拾って走る。
切れ切れの息の合間から、ルブリがわびた。
「悪い……しくった」
「貸しね。フォートナム&メイソン、一〇キロで手を打ってあげる」
ブリティッシュロイヤルファミリー御用達の紅茶を指定した。酒もギャンブルも美食にも興味がないトニーの唯一の嗜好だ。もっとも、
「高くつくな。
「さあ?」
トニーは貧乏舌だった。高級茶葉で気分ぐらいは変わるかもしれないという程度。無駄話でルブリの苦痛をまぎらわせつつ、薄暗い道を突っ切った。
路上駐車に紛れ込ませて停まっていた黒のSUVから、すぐにパンツスーツの女が出てきた。
革靴でなくスニーカーで合わせているのは、運転手の
足元で着崩しているのはオシャレのためではなく、フットペダルの感触をダイレクトに感じるためで、手にステアリングを吸い付かせるようにしてオートモビルを操る。そんな女の名前が「歩実」とはジョークのようだが。
歩実が開けてくれた後部シートにルブリを投げ込む。
シートにはすでにビニールシートが広げられ、救急バックまで置かれていた。弊社のゲッタウェイドライバーは、優秀なうえに気が回る。
「予定時刻より遅れてるから、面倒がおきたかもと思って」
シートを汚されたくない——とまでは言わなかった。
トニーは、突っ立ている女の子も後部シートへと押し込んだ。
手錠つきの子どもを裏道に放り出しておけない。変質者にエサを与えたくないだけだと、心中で言い訳した。
トニーが車内に上半身を入れたのと同時に、車が走り出した。急いでドアを閉める。
女の子に一瞬だけ目をやった歩実が、
「アントニアの守備範囲が、ここまで広いとは思わなかった」
「あたしの好みは、もっと年上。それよりヨーロッパ通りまで遠回りしてくれる?」
このあたりではめずらしい石畳のある通りの通称名を告げただけで、どうするかわかったらしい。
「無難な選択だね。そのチビっ子には、分署と教会、好きなほうに行ってもらえばいい」
トニーは、ルブリの銃創の処置にかかる。後部シートの真ん中にいた女の子と場所をかわりながら訊いた。
「おまえ、名前は?」
聞いたところで、すぐに必要なくなるのだが。
女の子は、狭いスペースを器用にぬって窓側へとしりぞきながら、
「……ソニ・ベリシャ」
ためらうように答えた。
「じゃあ、ベリシャ。警察署と教会がある近くで降ろすから、あとは——」
「警察、いやです! 教会、信じられません!」
「その評価にはうなずくけど、保育所経営はやってないの。送迎料金はサービスしとくから、あたしたちのことは黙っておいて」
話は終わったとばかりに、応急処置に集中した。
「肉をちょこっと減らされただけですんだみたい。ルブリは減量の必要ないのにね」
「スラックスも駄目になっちまった。高かったのに」
「仕事前に脱いでおかないからだよ」
「美脚を出し惜しんだのが悪かったかな」
ソニ・ベリシャが馬鹿話に割り込んだ。
「あなたたちのボス、わたし、会わせて」
子どもとは思えないほど声音が低くなっていた。地下室での無気力な表情から一転、強い眼差しでトニーに迫る。
「わたし、買ってください。働ける。役に立ちます」
「買えって、あんたさ……」
トニーは
「言ってる意味、わかってないでしょ。バイトの申し込み先を間違えてる」
「わかります。間違い、ありません」
「うちの商品項目のなかに、キッズ・ポルノはないの」
「こっちで適任かもしれないぞ。さっきのは、なかなかだった」
ルブリが、ハンドサイン・ジェスチャーをしてみせた。ピストルの形をつくった指先がはねあがる。ばーん!
「使えるの?」
今度は歩実が前を見たまま訊いてきた。
はぐらかして相手にしないようにしていたのに、ルブリと歩実が戻してしまった。トニーは苦い顔をする。
銃器が小さく軽くなったせいで少年兵があふれている戦場と同じく、このあたりでもハンドガンを振り回すティーンエイジャーがたまにいる。
ただ、たいていは撃つだけである。襲撃を成功させるのは、年齢や外見で相手の意表をつくか、気付かれないように襲ってのことが多い。
それが、この子どもは違った。
正面から攻め込み、鼓膜を揺さぶる発砲音にも、飛び散る血にも、怖気付いた様子がなかった。
見たそのままを伝えると、
「特殊な素性でもあったかな。センスだけで、すぐできるものでもないし」
「軍事訓練うけてたとか?」
半分ジョーク、半分は本気でトニーは言った。気まぐれで見たドキュメンタリー映画の聞きかじりだ。
「素性のことだけど——」
追っ手がないことを確認して、歩実がギアを落とした。見る間に減速する。駐車場とビジネス旅館にはさまれた人通りのない路肩で一時停止させると、後部シートに振り向いた。
「ベリシャって、東欧あたりの名前に思えるけど、あってる?」
女の子がうなずいた。
「同業者?」
「子どもでそれはありえないでしょ」とトニー。
「そもそも歩実、東欧事情にくわしかった?」
「昔の知り合いの姓とおんなじだったから、そうかなって。あと、政情が不安定だと同業者が多くなる。その構成員が成人に限らないのもよくある話。経験者だとしたら見込みがある」
「確かにうちのボスには青田買いの傾向あるけど、若すぎない?」
「やる気のあるベリシャさんに対抗組織にいかれて実力開花されると、先々面倒ともいえるよね。そこはボスの判断にお任せだけど」
秘書的なこともこなしている歩実が、女の子に向き直った。
「ここまでの話で違っているとこ、ある?」
ソニが首を横にふった。
「簡単な質問をする。嘘をまぜると、あとで酷い目に遭うよ」
「信じてほしい。ウソ、言いません」
「ルブリ、少し待ってもらえる?」
「言い出しといてなんだが、手短かに頼む。ハラへった」
軽傷ですんでいたこともあるが、場の空気を読んでの返答だ。こういうことに長けている男でもあった。
トニーもしぶしぶ歩実にうなずいた。反論するほうが面倒だった。
レストランの地階に拘束されるまでのあらましを、ソニは上の空で話していた。
窓の外をぼんやり眺めているトニーが、気になって仕方がなかった。
あの子から聴いた、名前と勤め先だけを頼りに行った先に、トニーは確かにいた。男性だと思い込んでいたせいで、見つけたのに自分から離れてしまった。
葬儀場を出てしまうと探すあてはない。
これからどうしたら……。
そんなことを悩む間もなく、ソニの方が追っ手に見つかってしまった。
この街にいる人種の多くはアジア系で、明るい髪色の人間は目立つ。何より、捜索メンバーの中に〝先生〟がいたからだ。
そして先生の姿を見たら、あきらめてしまった。逃げるのは無駄だと。
構成員から商品へとまわされた。これからくる絶望より、先生の失望の眼差しで頭がいっぱいになっていたレストランの地階。茫然自失となっていたなかでの、突然の巡り合わせだった。
トニーのほうから現れた。
まさか、同じような仕事をしている人だったとは。
オフブラックの髪色に、切れ長の二重というシャープな顔立ち。
男性だとばかり思っていた〝トニー〟は、あの子とは全然似ていなかった。
探していた本人で間違いないか、まだ疑っているところはある。それはこれから確かめるとして、トニー自身のことも気になっていた。
レストラン脱出間際のことが忘れられない。
自分の身体を盾にして、銃弾からカバーしてくれるとは思いもしなかった。
道具扱いされることが
腕の中で守られた時間は寸刻であったけれど、かつて経験したことのない感情を呼び起こすには、充分な時間だった。
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