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「実はここはパラレルワールドのようなのです」
思わず僕は顔をしかめた。
「パラレ……。えっと、いったいそれは」
「信じがたい話ですが、落ち着いて聞いてください。ここは地上の風景はそのままに暮らす者の姿だけが入れ替わった世界なのです。その証拠に見てください」
ご主人はそういうと細長い突き出し窓の外を顎で指し示した。
見ると目前のブロック塀の上で奇妙な姿の動物がうずくまり昼寝をしている。
それを目にした刹那、僕は出かかった悲鳴をなんとか呑み込んだ。
「あれは猫です」
「は? ヒトに見えますけど……。いや、それにしては小さい。もしかして小人」
塀の上に身を伏せているのはそれこそ猫ほどの大きさに縮んだ人間だった。
そして妙に黒っぽい色をしていると思ったら濃紺のスウェットを着ているらしい。
「髪が長いからメスでしょうか。いや、顔が大きいから案外オスかな。なんにせよ、ここではあれを猫と呼んでいます」
その答えに僕は絶句する他はない。
「しかしながら、この世界の住人たちにはあれが私たちがよく見知っている普通の猫に見えているのです。そして自分たちのことはもちろん私たちが知る常識的な人間の姿として捉えています」
「え、でもそれってつまり幻覚ということですよね」
ご主人はゆるゆると首を横に振る。
「いえ、あくまでも現実ですよ。彼らが猫に見える我々の方が異端者なのです」
彼はそう説明した後、窓の外のやや霞んだ青空に目を向けた。
その様子からはとても冗談を話しているようには見えない。
けれどだからといってそれで納得できるはずもなく、僕は腕組みをして何度も首を傾げる。
「でも、それじゃどうしてちらほら人間の姿があるんです? 僕やあなたみたいに」
「それはまあ、いろいろと事情があるのでしょうね」
「はあ、事情ですか」
間抜けな声が出た。
「ええ、彼らは私たちと同類です。もちろんあなたのように初めての人もいるでしょうけれど、二度目、三度目という者も少なくない。私のように。そしてそれには何かしら事情があるのですよ」
さっぱり意味が分からない。
呆然としているとご主人はそんな僕に気の毒そうな笑みを向け、そして唐突に訊いた。
「シュレディンガーの猫をご存知ですか」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、そもそも突拍子もない状況だ。
僕は沈黙でその先をうながす。
「この世界は観測するまで真の姿は不明です。私たちは今、たまたまこの奇妙な世界を観測しているに過ぎない。つまりはそういうことでしょうね」
僕は再び首を捻った。
「よく分からないですね。もし世界がそんな不確かなものなら僕たちは毎朝目が覚めるたびに違う世界に存在していてもおかしくないでしょう」
「その通りです。しかし普通はそうはならない。なぜだか分かりますか」
分かる訳がない。
というかこの会話自体が禅問答のように意味不明だ。
黙り込むと彼は口もとに拳を当て、くつくつと忍ばせ笑いをする。
「あ、いや失礼。これは一回目の転移のときに人から聞いた理論で実は私も半信半疑なんですよ。だから信じてくれなんて言えません。けれど神様や宇宙人の仕業だとするよりも幾分ましな理屈だと思えます。その上で聞いて頂きたいのですが」
僕は訝しげな顔つきのまま頷いて見せる。
するとご主人も頷き返し、それから小さな咳払いをして小難しい話をはじめた。
「最新の量子論において、この宇宙はビッグバン以来、無限数のパラレルワールドを構築してきたと言われています。そして私たちが現実だと信じている世界は重ね合わされたその無限数分のひとつに過ぎず、また世界と世界の間には薄い膜のようなものが存在していて互いに混じり合ったり、あるいは行き来をしたりというようなことはできなくなっているらしいとも。これは自論ですが、私たちを構成する細胞のようなものだと喩えると分かりやすい。細胞膜は非常に強固な隔壁で特別な受容体が存在しない限りはホルモンなどの有機体に干渉されない仕組みになっています。もしかするとそれと同じような原理かもしれません」
物理学と生物学を混同させたような理論だが、なんとなく納得はいく。
けれどそれなら僕たちはなぜその膜を通過してパラレルワールドに入り込んでしまったのか。
不審げな顔でうなじを撫でると彼は僕の疑念を見透かしたようにニヤリと唇の端を歪めた。
「あなた、もしかして奥さんが猫だったらいいのに、なんて呟きませんでしたか」
思わず瞠目した。
「え、……どうしてそれを」
「やはりそうでしたか。実はそのワードがトリガーのひとつらしいのです。つまり細胞理論でいえばその言葉がなんらかの受容体を起動させる化学物質の役割をしたということですね」
「バカな。そんなことで」
絶句した僕に真摯な眼差しが向けられた。
「しかし事実、あなたも私もそう呟いて今現在この猫と人が入れ替わった世界にいる。それが何よりの証拠じゃありませんか」
唖然としたまま何も言えなかった。
けれど、そうかもしれないと納得してしまう自分がいるのも確かだった。
呆けたように口を半開きにした僕を前にご主人は立ち上がった。
「しかしまあ、そう心配することはありません。実は私たちはこの世界に完全に入り込んでしまったわけではないんです。言ってみれば膜から顔だけを突き出したようなもので、数日もすれば弾かれて元の世界に戻りますから」
彼はそんな言葉を残して、未だ呆然としている僕の前から姿を消した。
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