5−4 祝福と誓い

 ほろほろと雪が舞っていた。

 艶めく雲の畝は自ら角度を変えるようにして波立ち、雪に持たせる光を選別している。

 ひとりの魔女の崩落。

 死闇は死の領域の一端を担うだけでそれほど大きくはないが、それでもひとつの事象を司る存在が失われたのだ。揺らぐものは多い。

 世界中の祈りが降り積もるみたいだと、窓の外、昼下がりのロッタが銀色に染まっていくのを見ながらリヴェレークは思った。

「空が地上を侵食しているように見えるな」

「綺麗でしょ? あ、そうそう、空いたぶんの席は星がもらっておいたのだけど、いいわよね?」

「構いません」

「俺も構わない。戦火の多寡は時代や状況によるから、わざわざ増やしても意味がないしな」

 死闇の領域を内側から壊すという力技で脱出したふたりは、約束通り、クァッレのレストランに顔を出して帰還報告をした。とある理由から、血痕は消したがほつれの目立つドレスを着たままでいたリヴェレークに、クァッレはこれ以上ないほどの心痛の色を浮かべつつ、まずは落ち着けるようにと遅めの昼食を出してくれた。

 塩漬け肉とチーズを使った簡単なリゾットだが、ふわりと抜ける白葡萄酒と香草の風味や、艶のある米の食感が楽しい。

 しかし食事中は当たり障りのない話題からと出されたのが世界の変動に関わるものであったので、この場に一人しかいない人間は若干面食らっているようだ。

「……気質は似ていても、星と戦火では領域に対する考えかたがずいぶん違うんですね」

「そりゃあ星だもの」

「それが星というものなのだ」

 明星黒竜たちの声が被る。ルフカレドが「さすが星だな」と笑いながら首を振った。

 クァッレもヴァヅラも、古来よりこのような部分では人ではない者らしい冷酷さで自身の領域を確保してきた。少しといえば少しだが、星の影響力はこれからさらに強まるのだろう。


「それにしても、クァッレはまた力を増したのではありませんか?」

 塩漬け肉をよく噛みながら、しみじみといったようすで静謐の魔女が呟けば、秋の明星黒竜はきょとんと首を傾げた。

「死闇のもとへ向かうとき、豊穣の祝福をくれたでしょう? ……あれほどによく実った静謐は、自分でも初めて見ました」

 内側から領域を壊した、というのはまだ抑えた表現だ。

 その実は、罠によって強固に定められていたリヴェレークとルフカレドの役割を物語の繋ぎから引き剥がし、めちゃくちゃにかき混ぜられて自失していた死者の贄たちを砕き、そしてなにより、自身の領域にいる魔女を土台ごと破壊したのである。

 怒りという不確定要素を考慮したとしてもまだ余るほどの圧倒的な静謐は、もはや暴発といっても過言ではなかった。

 しかしいくらリヴェレークの力が強大だといっても、限度はあるはずなのだ。それならばクァッレの祝福が影響したとしか考えられなかったと告げれば、留守番三人組はどこか気まずそうに目を逸らした。ヴァヅラにいたっては疲れを思い出してしまったという雰囲気のため息までついている。

「待っているあいだ、ふたりで場を整えていたのだけど……やりすぎだったかもしれないわね」

「影を強めるためにって用意した蝋燭が多かったかな」

「それか、光宵茸の和え物を出すのを先にしたらよかったのかも。あれって本来は前菜の位置づけなのでしょう?」

「今度はそれを試してみよう」

 反省するのかと思いきや、すぐに魔術の話で盛り上がってしまうクァッレとルファイ。楽しそうなふたりを、リヴェレークは温かな気持ちで見守っていられるが、しかしここには生真面目な明星黒竜もいるのだ。

「……そなたら、研究はあとにしないか」

「す、すみません……」

「まったく、だいたい私は危険なのではないかと言ったはずであろう」

「あら、あくまでこちら側の調整をしていただけよ? 死闇の領域で万が一が起きたとしてもすぐ繋げるようにって」

 ヴァヅラに対しては強く出られないらしいルファイに代わって反論するクァッレは、ただ料理の魔術の仕組みを理解するだけでなく、ルファイのやりたいことを汲み取りながら導いてやっているのだろう。

(……あ)

 おかげで魔術師はめきめきと才覚を発揮しているようだが、その内側に、人間にはないはずの要素が混じっていることにリヴェレークは気づいた。

 このようなときにも愛情を抑えきれていない明星黒竜の瞳を見れば、足し込んだ犯人は明白である。


 ところで、先ほどから伴侶がひと言も発していない。どうしたのかと隣へ視線を向けると、ルフカレドは、少しばかり難しい顔をしていた。

 リゾットを食べ終えたリヴェレークがスプーンを置きながらその顔を覗き込めば、彼は苦笑しつつ口を開く。あるいは、リヴェレークが食事を終えるのを待っていたのかもしれない。

「静謐のあの奔流がルファイたちの魔術によるものだとしても……よく、あそこまで物語を進めた状態になってから意識の主導権を取り戻せたな。領域に入った君なら、最初から力ずくで押し流せただろうに」

「それではあなたに害のおよぶ可能性があったでしょう」

「自分を削るのは構わないと?」

「……む」

 意識を取り戻してからの一瞬で、ルフカレドはこちらの状況をしっかり把握していたようだ。まずい、とリヴェレークが話をとめる前に、隙なくクァッレが追究してくる。

「ちょっと待って。どういうこと?」

「ルフカ――」

 お喋りな伴侶の口は塞いでしまえと手を伸ばしたリヴェレークだったが、当然ルフカレドが無反応でいるはずもない。あっけなく両手を捕まえられてしまう。

「供犠だな。自ら腕と両脚を切り落としていたようだ」

「なんてこと……!」

「本当に無茶ばかりする……」

「確実に死闇の魔女を掴むには仕方ないことでした」

 嘘ではないのにと頬を膨らませながら弁明すれば、ぴきりと空気が固まった。

(これは、怒られる)

 結果はどうあれ、友人たちが心配するだろうことはわかっていたのだ。

 なにか気を逸らせるものはないかと辺りを見回せば、伴侶に掴まれたままの手と、その指にはめられた指輪が目に入る。

「ルフカレド、ルフカレド。見てください。この宝石のおかげで、侵食から意識を取り戻せたのです」

「宝石……? 特別な魔法具なのか?」

「いいえ。あなたのことを考えていたときに、その想いが凝ったもののようです。二度も助けられました」

 一度目は、ただその色あいに意識を引き戻されて。

 それから二度目は、自分でも意識していないところで。

 死闇の魔女が想定していない流れ――羽人が自らの供犠を躊躇う流れを組み込むことによって、死闇の魔女に違和感を覚えさせた。

 賭けではあった。しかし、最も確実で安全な方法が、死闇の魔女から物語を崩させることだったと、今振り返ってみてもリヴェレークは断言できる。だからこそ侵食を許し、自ら削ることを許したのだ。

 人形になりきる服を着たときのように、自分の意識すら騙したことのあるリヴェレークである。

 あのような場では自分の意識ほど信用できないものはないと、彼女は考えている。そうして物語に沿ったきっかけをいくつも用意したことが、功を奏した。


「意思を紡いだ石、だと……?」

 ヴァヅラとルファイがどこか呆然と顔を見合わせているが、リヴェレークは気にせずに「ほら、わたしの色とルフカレドの色が入り込んでいるでしょう?」とゆらゆら揺らす。

 しかしルフカレドが指輪にはめられた宝石を見たのは一瞬だけだ。

「わ……――」

 次の瞬間にはぐっと手を引かれ、リヴェレークはルフカレドの腕の中にいた。そのまま顎を持ち上げられ、軽く口づけられる。

「あらあら」

「る、ルフカレド……?」

「ああ、まだこのドレスを着ていたのは、浄化が必要だったからか」

 背中へ回された手が、真白の羽根のドレスに触れていた。

 さすがに気づかれたかと、リヴェレークは眉を下げる。

「このまま影にしまうわけにはいきませんでした。同じ影に属するものだからこそ、丁寧に剥がさなければならないのです」

 死闇の領域にいたのだ。贄として手脚を差し出したように彼女自身が物語に沿った行動をとっていたこともあり、一度その血に染まったドレスは魔法的にひどく汚染されていた。

 いつもならば糸屑拾いのためにもそのままにしておく他者の悪しき要素も、今回の顛末を思えば残しておくわけにいかない。そういうわけで表層だけは一時的な対処として綺麗にしてあるが、深いところに関してはひと月ほどかかるだろうとリヴェレークは踏んでいる。

(それからここへきたのでは遅いからと思ったけれど、ルファイもいるし、報告も済んだからそろそろ出たほうがいいだろう)

 彼女がそんなことを考えていると、ルフカレドは再び顔を寄せてきて、思わずきゅっと閉じたまぶたの上に今度は淡く口づけられた。

 ぼうっと炎が湧きあがり、ふたりを包む。

 熱は感じない。無機質な銀色を含んだそれは、浄化の火だ。

 戦火とは、悪しきものと戦い、穢れを焼き払う火に由来する。

 長いあいだ人々に尊ばれてきた神聖なる火を瞳に宿し、しかしその奥ではどこまでも苛烈な、それでいてやわらかな光を浮かべたルフカレド。首筋にそっと指を這わせながら、彼はリヴェレークのドレスにこびりついた死闇の要素だけを焼いていく。

 静謐の影に潜んでいた死闇の要素が、ひとつ、またひとつと炙りだされては浄化された。

「これでいいだろう……さて、君は、自分が幸せになることを望みながら、俺のことも幸せにしてくれるんだな」

 そう言いながら少しだけ身体を離した戦火の聖人は、ざっと濃紺のケープマントを魔法の風に揺らす。

 次の瞬間、ルフカレドの装いは真白の軍服に変わっていた。

 同時にかき消えた銀色の炎。くつと笑みの気配を溢したルフカレドは、リヴェレークから少しだけ身体を離し、指輪をつけたほうの手を顔の前へと持ち上げた。

 やわく緩められた唇が、静謐と戦火の色を交えた宝石に、触れる。

「温かな光だ」

「……っ」

 愛情表現が混雑しすぎなのではと思わないでもないが、そのようなことを口にするのは無粋であると、リヴェレークにもわかっている。

 ただ羽人のドレスと揃いのような軍服に、彼の醸す甘い雰囲気に、そしてそれらが彷彿させる事項に、たじたじとなってしまうだけなのだ。

「ふふ、なんだか婚姻式みたいじゃない」

「ああそうだ。これ以上誰かに邪魔されたらたまらないからな。聖人と魔女とではあまり見ないが、ちゃんとやっておこう」

 その事項――婚姻式を思い浮かべない者がいるはずもなく、そしてリヴェレーク自身、曖昧に結ばれたままの婚姻をそのままにしておくつもりはなかった。

「……たしか繁殖する生き物は、婚姻を結ぶ際、互いに誓いの言葉を言うのでしたね」

「言いかたに気をつけような」

「ほら、あなたたちも変な顔してないで見届けるわよ」


       *


 秋の明星黒竜が営むレストランに、普段よりもずっと濃密な豊穣の気配が漂っていた。それはとても輝いていて、強く美しく、希望に満ちている。

 不幸があるからこそ幸せがあるのだと、リヴェレークは思わない。不幸は不幸のまま、たしかな過去として留まり続ける。

 逆に言えば、そんな不幸をどれだけ重ねてきたとしても、今ある幸福が薄れることはない。

 いつもより丁寧に結われた、ぞっとするほどに青い髪には、祈りを繋ぐように火と星が散らされた。

 焚き火に似た髪は後ろへと撫でつけられ、流麗に揺らぐ。

 真白の装いを霞ませることなく、しかし人ならざる者らしい鮮烈さで。

 静かに向かいあったふたりは、友人たちの見守るなか、そっと口づけをした。

「リヴェレークの幸せを、生涯をかけて守ると誓おう――……っ、はは、聖人の護りは強いぞ」

 どこか慌てたように、聖人はおどけた言葉を付け足した。

 魔女の瞳が潤んでいたからだ。

(これは、現実なのだ)

 リヴェレークにとって、幸せというのはいつだって物語の中にあるものでしかなかった。しかし今自分が手にしている幸せは、そうではないのだ。

「わたしも、ルフカレドといっしょに幸せを重ねてゆくと、誓います」

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