2−5 人ならざる者の選択と幸福への道筋
「結局ほとんど一緒にいられなかったが、楽しめたか?」
やむことのない雨はわずかな抑揚すらつけず、壮麗な城を濡らし続ける。ほの暗くも不思議に光を孕んだ景色は美しいが、ここまで単調ではそら恐ろしくもあった。しゃん、ぴしゃんと跳ねる雨粒の不規則だけが生き物の存在を許しているようで、魔女は知らず詰めていた息をほうっと吐く。
戦火の聖人が舞踏会に必要な魔法を紡ぎ終え、また突然の婚姻に対し驚き探りを入れてくる者たちをうまく躱すころには、舞踏会は終盤に差し掛かっていた。
ようやく解放されたルフカレドは、まっすぐリヴェレークたちのもとへ戻り「引き際を知らない者が増えていて、困ったものだな」とにこやかに告げた。ではその者たちのリストをいただきましょうと笑顔のまま主と秘密のやりとりをしていた雷雲の妖精も目は笑っておらず、その静かな怒りに、先ほどまでの物腰はどこへいったのだとさすがの魔女も慄くばかりだ。
そうして反応に困っていると、ふっとやわい息を溢した聖人に手を取られ、雨降りの庭園へ連れてこられたのであった。
ゆっくり歩きながらあらためて見てみると、作りものめいた雨の城は先日訪れた人形の館とどこか趣が似ている。しかしここは現実で、今ここに立っているのは静謐の魔女なのである。髪と溶け合うような青い傘を手にした、ひとりの魔女。
「はい。書の迷い路へ落ちることは叶いませんでしたが、ウェッヅリャーとはいろいろ話すことができましたし、あのように魔女の用意した料理を食べるのも初めてでした」
自然の要素を取り込むという意味では似たようなものだが、竜の料理とはまた違った方法を辿って作られるそれは新鮮であった。そんな話をすれば聖人は「魔女としてそれはどうなんだ」と笑ったが、その瞳はどこかやわらかい。
「……あなたのダンスも、美しいものでした」
戦という要素はかなりの調整が必要なものか、戦火の聖人が無類のダンス好きなのか、はたまた彼が人気すぎるのか。もはやそのすべてなのではとリヴェレークは思うが、とにかくルフカレドは相当な時間をダンスに費やしていたのだ。ふと舞踏会のようすを覗けば必ず目に入る戦火の聖人は、相手の女性たちが持つ魅力を的確に引き出しながら世界に戦火を刻んでいた。
力のある聖人らしく、周囲の羨望と好意を集めながら。
まだ城の中では音楽が鳴っている。夜へ向かうための艶やかさを増したその調べに、しかしリヴェレークは簡単にルフカレドのステップを思い出すことができた。
――と、ごくごく自然に、傘が奪われる。
「なら、今ここで踊ってみるか?」
凛とした佇まいの青百合の傘はどこかへしまわれ、ふたりは漆黒の傘が作るひとつの影の中。
「遠慮します」
近い位置でそれとなく差し出された手を避けてしまえば、ルフカレドは「つれないな」と笑いながらリヴェレークの髪に触れる。
その動作はやはりなめらかで、今度こそなすすべなく彼の手を受け入れるしかなかった。
魔法で結われた髪に、雨で崩れるような隙はない。ただ深い青色の艶をなぞる手つきが、どこか危うい。
「ウェッヅリャーに、髪飾りのことを教えなかったそうだな」
ふつりと落とされた呟き。その声色は恐ろしいほど静かで、ああこの聖人はわざとそうしたのだと理解する。
魔女の判断を、試すために。
ふわりと広げられた羽と、滲むようでありながら鮮烈な黒を放つ光。
リヴェレークが「忘れて」と話をとめた際に妖精が見せた礼は、最敬礼であった。彼もまたルフカレドの企みを知っていたのだろう。
そうして、魔女の選んだ行動に、価値を認めた。
「あなたの領域にあるものに、勝手に触れることはありません」
「それは俺にも君の領域にあるものに触れるなという忠告かな」
思わず睨んだリヴェレークの頭からルフカレドの手が退けられた。悪い悪い、という口調こそ軽薄だが、その奥にあるなにかを隠しているようでもある。
「君は……」
そのなにかを言いかけ、しかし「いや」と口を閉じたルフカレドに、このひとはなんと面倒な性格をしているのだとリヴェレークは笑いたくなった。リヴェレークのほうが遥かに長い時を生きているのはたしかだが、これではまるで、子供のようではないか。
やわらかで無機質な雨が、硬い竜皮の傘を叩く。
「言ってください」
伝える言葉があり、伝える相手が目の前にいるのだ。だというのに口をつぐんでしまう聖人は、いったいなにを恐れているのだろう。
(わからないでもないけれど、もう、婚姻を結んだのだ)
共通項を求め、魔女の選択を知り。これならと判断しておきながら。
「トーン・クァッレはもっと互いを知りなさいと言いました。今のわたしたちは他人も同然。言葉もなしに理解しあえません。そこから始めるのですから、ちゃんと、話をしましょう」
「話、を……」
途方に暮れたようにルフカレドの瞳が揺れる。ゆら、ゆらりと影がかたちを変えるようすは、風にさらされた蝋燭にも似ていた。
無防備で、けれど、決して消えはしない強い光。
それもそうだなと、彼は慎重に言葉を選ぶように指先だけで傘を回した。虚空に浮かべていた視線がリヴェレークの瞳を捉える。
「――君は、夢を叶えるのが上手いんだな」
「夢……ですか?」
思いもよらない言葉に首を傾げるリヴェレークに、ルフカレドは「そうだ」と苦笑ぎみに頷いた。
「かつての静謐はなにもない影であったと聞く。であれば、今もなお己の心に入れるものを増やし続ける君は、自身が望むものを手にする力を持っているんだろう」
そこで「まあ、望まぬものを持たされてしまうこともあるようだが」と付け加えたルフカレドにむっとしかけたリヴェレークは、しかし話をしようと言ったのは自分であると今は大人の顔をしてやることにした。
であればと答えるのは、遠い昔に手にしてから変わらず持ち続けている信念だ。
「わたしは、自分が幸福であることを願ってやみません」
何度も口にするのは、それが本当の願いであるがゆえ。
大事な友人の願いこそが、なにも持っていなかった静謐の魔女の願い。
「ああ。だから君は小さなことも見逃さない。君の心を動かすすべてを、自身のために判断し選択し続ける。書の迷い路へ落ちることや、星たる友人が見下ろす空が好きなのだと。反対に騒がしいのは嫌いで、戦はもってのほかだったな。君と話をして、俺はそれを知った。……だが」
そこで聖人は言葉を切り、ふたたび魔女のほうへ手を伸ばした。
いつかの婚姻を結んだ日を思い出させる動作。近づいてくる手指の、手袋越しの硬さまで見えていて、しかしリヴェレークは動かない。
(動けない)
顔にかかっていた髪をそわりと避ける指も、試すようにこちらを覗く、熱を孕んだ瞳も。火の色に混じる青は彼自身のものだとわかっていても、リヴェレークはどきりとしてしまう。
揺らぐ火の薫りがして。
ふっと口づけが落とされる。
指の側面で顎を持ち上げられ、軽く触れただけのその行為になにか意味はあるのだろうか。
吐息すら混ざらない、一瞬の出来事。戦火と静謐の交差はあまりに刹那的であった。
「……っ、の」
戸惑いを溢した魔女の反応を面白そうに見ている聖人にはもう、先ほどまでの、子供じみた無垢さはない。
軽く傾げた首と、雨の中でも鮮やかな火の色を放つ髪。
獰猛なまでに熱の色を湛えた瞳。
淡い愉悦を乗せた口の端を持ち上げて。
戦火の聖人が男性らしい角度で微笑めば、こんなにも目を離せなくなるのだと、魔女は知った。
「――もちろん、話はしていこう。だが俺たちは夫婦なんだからな。こうして触れ合うことでわかることもあるだろう。そう思わないか?」
「綺麗……」
さすがにこのような場面では会話を控えるものだと知っている魔女は、しかし突然の問いかけに言葉選びが間に合わず心の声をほろりと零してしまい、聖人をぽかんとさせた。
「…………そうか、そこからか」
リヴェレークに触れていた手で目もとを覆い、「まあ時間はたっぷりあるからな」と呟くルフカレドに、なんだかこの手の勘違いが多いぞと思わないでもない。とはいえここで気の利いた返答をしてこれ以上に進められても困るので、勘違いしたままでいてもらおうとリヴェレークは心の中で頷く。
(物語の中では、色めいた話になると途端に鈍感さを発揮する女性がよく出てくるのが不思議だったけれど、真実は、こういうことだったのかもしれない)
青百合の傘を出してくれとせがんでみるも、ルフカレドは妻の言葉を聞かず、そのまま同じ傘に入っているようにと諭した。
周囲は雨のヴェールに覆われ、ひとつの影に重なる静謐と戦火の薫りが濃くなる。
どこか落ち着かないリヴェレークは手持ちの傘を出すか否かの個人会議を開き、さすがにドレスと揃いで誂えてくれたルフカレドに失礼だと結論を出したばかりだ。しばらくこちらを見て黙っていた聖人がどこか機嫌のよさそうな雰囲気で庭園を案内してくれるので、これでよいのだろう。
「このあたりの花は貴重でな、よく戦乱の種に使われる」
「もしかして、閃光薔薇でしょうか。物語ではよく嵐の夜に雷とともに――……あ」
「ま、そういうことだな」
嵐の夜、稲妻を携えて蕾む薔薇は、それはそれは幻想的であるという。
ルフカレドの秘書である妖精がそれをなすのであれば、本当にそうなのだろう。そこから始まる人間の醜悪な争いはともかく、リヴェレークは魔女としての心で、その景色を見てみたいと思う。
「面白いですね。今日だけで、わたしは物語の中でしか知らなかった事象の真実をたくさん目にしました。資料部屋でも、こっそり秘密を教えてくれたひとがいたのですよ」
いつのまにか背中へ回されていたルフカレドの手にきゅっと力が入った。
「……それは、誰だったか覚えているか?」
「このような場ではあまり名乗らないほうがよいのでしょう? 不思議な灰色の色彩を持つ女性でしたが、傍にいたウェッヅリャーもなにも言いませんでした」
「そうか」
その呟きに鋭さはないが、まるで新しい傘を開きなおしたようであった。
雨に濡れすぎてくたびれた傘を、交換するように。
なんでもないふうを装って「そういえば」と話題を変えてしまう戦火の聖人に、魔女は困ったものだとため息をつきたくなる。歩み寄ったと思った瞬間に、これなのだから。
「やっぱりこの髪飾りはよく似合うな。普段から着けるようにしてくれないか?」
「それは、あの島国以外にも、あなたと婚姻を結んだわたしに害をなそうとする者がいるからでしょうか」
ゆえにもう一歩、踏み出す。
やっと、やっとなのだ。
願うことすら諦めてしまいそうになる幸福へ、やっと、向かっていけるかもしれない。そう確信した瞬間を逃すほど、魔女は鈍感ではないのである。
(ああ、なんて)
なんて鮮やかなのだろう。
戦火が、好まぬ要素であることに変わりはない。それでも傘の下で鮮烈に灯る火の色はいっとうに美しかった。
押し黙るルフカレドに見せるようにして頭を振れば、しゃりんと鳴る星が雨音に溶けていく。
「もとよりこれは危機を脱するためのもの。わずかでも危険があるのなら、身に着けない理由はありません」
あの透明な水のように、戦火と静謐も混ざりあうことがないのだとしても。景色は、透明にかざして見えるものだけは、変えていけるのだ。
(変えてゆけたらと、思う)
そう見上げれば、彼自身の青い熱の色が、ふたたび深まる。
『なら、リヴェレーク』
誰にも聞こえないように、ルフカレドは言葉を潜めた。静謐の魔女が好まぬ略称ではなく。そのためだと確信できるのは、続く言葉が空気を揺らしたから。
「俺に、毎朝君の髪を結わせてくれ」
「……それは」
はっとして息を呑み、それから、恐る恐る影を繋げる。この場において戦火の聖人の名は知られているのだから潜める必要はなかったが、今はただ、同じようにするべきだと思った。
『ルフカレド。それならわたしは――』
これは互いのためにできることを口にする儀式だ。魔法もなにも関係ない、ただの口約束という、軽やかな儀式。
けれど魔女は知っている。
そんなやりとりをする人間の物語を、いくつも読んだことがあった。
「わたしは毎晩、あなたが持ち帰るしがらみを影へ落としてしまいましょう」
夫が妻の朝を欲するなら、妻は夫の夜を。
互いのすべてを求めずとも、一日の始まりと終わりが同じ場所にあるならば。互いの守りを担うならば、それは。
「…………ああ、期待してる」
かくして、静謐の魔女と戦火の聖人は、住居をともにすることを決定したのであった。
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