2−4 雨の城と妖精の慈愛
さらさらと雨が降っている。
平淡な青灰色のカーテンには時折淡い光の線が走り、地面や草花に当たってはしゃわりと弾ける。
濡れた土や葉、それから石畳などの独特な匂いはしない。漂うのはどこか清廉な響きを宿したゆるやかな香りで、それだけでこの雨が特別なものであると知れた。
「歩きにくくないか?」
「はい、まったく。このドレスの裾は、たっぷりと布が使われているのに、軽いですし、風に溶けるようにしてなびくのが不思議です」
戦火の聖人の問いかけに、静謐の魔女は軽く角度をつけながら次の一歩を踏んだ。そうすれば無作為に綴ることでボリュームを出した裾が跳ねるように揺れ、表面にざあっと光の泡がたつ。腰から上の身体の線を綺麗に拾うハイネックのドレスは、雲をまぶした森林を思わせる落ち着いた緑色だ。
袖のない腕を包むのは若葉色の糸で繊細に編まれたレースの長手袋。その手に青百合の花びらを重ねたような傘を持ち、瑞々しい色合いでありながら、上品なやわらかさを湛えているのが本日のリヴェレークであった。
「ここは雨にしかならない特殊な土地だからな。降ってくる雨を防ぐことはできないが、地面からの跳ね返りは弾くように仕立てさせたんだ」
そう説明するのは今回リヴェレークの頭から足の先まですべての装飾を手掛けたルフカレドだ。彼自身はクァッレのレストランへ行ったときと同じ盛装姿で、竜皮を使った漆黒の傘を持っている。
夫婦仲を深める作戦の第二弾として戦火の聖人が選んだのは、とある舞踏会。
それは人間の国に深く介入することを資質に持つ人ならざる者たちの集まりで、世界の調整にひびが入らないよう、定期的に開催されるものであるという。
招待を受けた者のみが立ち入ることを許されるここは雨の城と呼ばれ、しとりと輪郭を光らせるさまは壮麗の一言に尽きる。
(主催だという晴れ男のことは、わたしも聞いたことがなかった)
種族すら明かされていない謎の存在のもとに錚々たる面子が集まるのも奇妙な話であるが、人間の営みには欠かせない戦に連なる聖人や、美食を司り育む魔女や妖精、はては街などの土台になりやすい丘の竜まで参加するのだと知れば、規模の大きさは言うまでもない。
さらさらと傘を撫でていく雨が、粒になってひとんと落ちた。
影渡りを使わずに雨の中を歩いていくことにより、この大きな舞踏会に参加するにあたって余分な要素を流し落とすという意味合いもあるらしい。
傾けた傘から空を覗けば、陽光や星明かりよりずっとささやかな煌めきが降り注いだ。
「これは、これは、ルフカレドさま。お待ちしておりましたよ」
会場に入れば、一瞬、はっとしたような気配が多く向けられる。そのほとんどはすぐにそれぞれの輪へと戻っていったが、ちらちらとこちらを窺う視線の多さは、それだけ戦火の聖人が注目されているということだろう。
真っ先に声をかけてきたのは黒一色に包まれた壮年の妖精で、燕尾服をきっちりと着こなす姿は清廉で美しい。曇天の影を薄めたような黒い羽が照明を透かして滲むように輝き、後ろへ撫でつけた黒髪から感じる気難しそうな印象を柔和な笑顔で和らげている。
「ああ、ウェッヅリャー、今日は頼んだ」
応じるルフカレドは軽く手を振っており、その気安い雰囲気からはふたりが良好な関係にあることが窺えた。
「ええ、頼まれました。……静謐の魔女さま、お初にお目にかかりますね。私はルフカレドさまの秘書のようなことをしております、ウェッヅリャーと申します。婚姻を結ばれたことをお祝い申し上げるとともに、これからのご縁を賜りますよう」
「俺はどうしても、戦火の聖人としての役目を離れられない場面があるから、案内役を呼んでおいたんだ。彼を君につけておくから、挨拶のあとは好きなように楽しむといい。美食の魔女が監修しているから料理も美味いし……奥には、資料部屋もあるんだ。ウェッヅリャーとであれば話も弾むだろう」
「わかりました」
しかしそこでリヴェレークを連れて挨拶を受ける予定であったルフカレドは、ひとりあっという間に女性たちに囲まれてしまった。ぽつんと残された魔女は妖精と顔を見合わせ、どちらからともなく食事の用意があるテーブルへと向かう。
(そういえば、書の迷い路でない、本物の舞踏会へ来たのは初めてだ)
魔法で温度を保たれた大皿たちからは、見た目の華やかさには留まらない、ふくよかな秋の香りがしていた。
せっかく落ち着いた雰囲気の案内役がいるのだ。この際目的のことは考えずに楽しんでしまおうと、そう、魔女は考えるのであった。
*
「ここにある書物には、魔法が宿っていないのですね」
落胆したように声を落とした魔女に、雷雲を育むという妖精は若干の呆れを含んだ声で返す。
「魔法を持たぬ人間による写本ばかりでございますからね。亀裂などは発生しないようになっております」
「……ルフカレドですか?」
明らかに書の迷い路についての言及であると思わず尋ねれば、ウェッヅリャーは笑みを深めた。そうすると顔にかかる影が濃くなるが、決して悪いものの陰りではないのだと、その穏やかな影の心地よさにリヴェレークは目を細める。
「ええ、彼はよくあなたさまのことをお話しされますよ。おふたりの始まりを知ってしまうと、私としてはようやく回ってきた戦火の聖人の慶事を手放しに喜べないところがもどかしく感じるものではございますが」
どこか気まずそうに目を伏せた彼は、婚姻が本当に一方的であったことを知っているのだろう。
しかし、それでもとこちらをもう一度見た瞳は、強烈な光を孕んだ黒。
「……夫婦としての幸せを、とは申し上げますまい。ですがどうか、些細な幸福だけでも分かち合えるようになっていただきたい」
「あなたは……ルフカレドをとても大事にしているのですね」
友である明星黒竜たちと同じ、慈しむような瞳。幸せを願う言葉。
はっとするほどに温かな響きにそう零せば、ウェッヅリャーは「おや」と嬉しそうに羽を光らせた。
「そんなふうに気づくことのできる魔女さまがお相手で、安心しました」
「わたしには、あなたと似た目をする竜の友がいるのです」
「そうでしたか。竜は己の資質を欲するものを、妖精は己の資質を使って育むことのできるものを、いっとうに慈しむものですから」
優しく、きっと有能なのであろう雷雲の妖精にこれで悔いなく老いることができるとまで言わせる戦火の聖人は、いったい今までどのような道を歩んできたものか。
透かし窓の向こうでは、そんな聖人が華やかな笑みを浮かべながら妖精の手を取り、ダンスを踊っている。
優雅で、大胆で。
しなやかな体躯から生み出されるステップは、一つひとつが鮮やかな魔法の煌めきを放つ。
戯れる視線に、ぐっと寄せ合う身体の艶かしさ。
神聖な雰囲気を持ちながらどこか男女の駆け引きを想像させる動きは、どの種族も持ちうる生への執着心のようにも見える。
くるりと妖精がターンを決めるたびにふわりと舞うのは種を宿した綿毛だろうか。
交わり、溶けあい。新たな生命を育む力の源。
泉の、ぽこぽこと湧き出る水の音を聞いた気がした。
「静謐の魔女さまは、ルフカレドさまと踊りたいとは思わないので?」
ふと零された問いに、魔女は華やかな場を否定するような言葉を言いかけて、しかし、この優しい妖精を悲しませてはならないのだと思う心の動きに驚く。
そうして出てきた言葉は、ひどく平坦なものであった。
「わたしは、静謐ですから」
あっと思ったときにはもう遅く、案の定、妖精は困ったように眉を下げるではないか。
「えっと」
なにか別の言葉をと、リヴェレークはこれまで目にした膨大な量の書物の記憶から適当な言葉を探そうとするが、このようなときに限って語彙の引き出しは固く閉ざされ開かない。
そんな魔女の姿に、なにを思ったか、妖精は深く息を吐いた。
「これまでのあなたさまであればそうでしょう。ですが今は……今は、戦火の聖人の伴侶としての静謐の魔女なのです。静謐そのものも、これまでと違うものになっているのでしょう?」
これまでと違うもの。
静謐の深すぎる青はどこまでも深いままだ。ただ、名前の奥に戦火の気配を常に感じている。たったそれだけの変化を、彼は言っているのだろうか。
ぽこぽこと水の音が聞こえている。その中で、ルフカレドが知らない誰かとダンスを踊っている。
それらはすべて、水の向こう側にあるものだ。この城の外で降る雨のように、こちらとあちらで隔絶されている。
「ふふ、少し無粋なことまで申し上げてしまいましたね。でもきっと、戦火と静謐はこれ以上ない組み合わせとなるでしょう」
「……どうなのでしょう」
「疑いたくなる気持ちもわかります。ルフカレドさまのお傍にいることを誓った私の言葉ですから、なおさらでしょう。でも、そうですね……たとえばですが、そもそもなぜ雷雲の妖精たる私が戦火の聖人のお傍にいられると思いますか?」
言われてみて初めて、そういえばと思う。
戦火と雷雲。こちらもこちらで資質が大きく異なるものだ。
けれど、とリヴェレークは思考を続ける。あの毒霧の妖精が支配していた島国を、押し潰すような圧力で戦火をもたらした聖人の横顔を思い出す。
「ウェッヅリャーがいれば、ルフカレドにとってより自分好みの戦火を見ることができるから」
雷が擦れるように揺れた瞳は、肯定を示していた。
「……私が戦場へ赴くことはあまりないのですけれどね。それでも、雷雲を育むという資質を持った私が調整を行うことで、あのかたのなかで納得のいくものが生み出されるのでしょう」
穏やかな笑みを浮かべたまま、説明にそんな例えを持ち出したこの妖精は、たしかにルフカレドがもたらす戦火に魅入られた者なのだ。
(理屈はわかる。だからこそ、静謐である必要はないとすら思う。……だけど、考えすぎかもしれないけれど、もし)
ルフカレドにも、隔絶されたなにかがあるのだとしたら。
ウェッヅリャーがわざわざリヴェレークに告げた言葉にそんななにかを伝える意図があるのなら。
次々と相手を変えては魔法を紡いでいく伴侶に時折目をやりつつそんなことを考えていると、読み終わった書物を戻してくれていた妖精がくすりと笑った。
「自分こそがとは考えないような、静謐の魔女さまであるからこそお伝えするのですが」
そう前置きしてから、彼は秘密を共有するようにいたずらっぽく声を潜める。
「実は、ルフカレドさまが女性のためにドレスを仕立てたのは、今回が初めてなのですよ。もちろん、代金を受け持つことくらいはありましたがね」
「それは――」
「伴侶だから。たしかに、そうかもしれません。けれど、どのような理由だとしても、このドレスが初めてなのだと、そのことだけは知っていてほしい」
「……わかりました。このドレスは、とても気に入っています」
「それはよかった」
鏡で見た自分のドレス姿は、まるで糸選びから丁寧に進めたかのようによく馴染んでいた。
伴侶や恋人にドレスを贈る際、どこかに自分の色を入れるというのは物語でもよく出てくる話だ。しかしあえてそのような形ばかりの真似をせず、純粋に静謐の魔女という存在を引き立てる色を選んでくれた気遣いは嬉しい。
もちろん、ただ静謐との繋がりを強調したかっただけとも考えられるが、野暮なことは言うまいとひとまずそちらの可能性は捨ててしまうことにした魔女である。
振り払うように首を振れば、いつもより控えめに星が鳴った。
「あと……髪飾りを、このように使うことも」
「おや。その髪飾りはご自分ので?」
「…………これは、話していないのですね」
全体をゆるく巻いて耳から上をふんわり編み込んだ髪は、ルフカレドが魔法で整えてくれたものだ。損なわれにくさを重視するリヴェレークの希望通りまんべんなく散らされた星の欠片が、後頭部に向かい流麗な模様を描いている。合わせ鏡で仕上がりを見せてもらったときは、正直驚いたほどであった。
(そうか。最終手段と言ったから)
魔女や聖人にとって、要素の欠落は絶対に避けねばならないものだ。リヴェレークも、伴侶だからこそルフカレドに髪飾りの秘密を教えた。
それを、ルフカレドは秘書という近しい者にも話していないという。
(ウェッヅリャーになら話しても問題ないと思うけれど、ルフカレドがそうしないと判断したならば、わたしにどうこうする資格はないのだ)
「静謐の魔女さま?」
たとえば名前ひとつとっても、この妖精は一度もこちらに触れてこないのだから。
「いえ。忘れてください」
そう言えば、雷雲の妖精はひどく嬉しそうに口もとを緩めながら優雅で隙のない礼をした。
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