2−2 星への敬意と祝いの領域

「そういうわけですから、今夜は夕飯を食べに行きましょう」

 書の迷い路から書庫へ戻ってきた際に夜の予定を尋ねると、一瞬なぜか身構えた戦火の聖人であったが、続けた言葉に安堵とも落胆ともとれるため息を吐いた。

「つまり、突然婚姻を結んだ君を心配した友人に、俺は見定められるということだな」

 懲りずに書庫へやってくるわりにはリヴェレークとともに書の迷い路へ落とされることに不満を漏らす伴侶の扱いについて相談したところ、友である明星黒竜は一度店へ連れてくるよう魔女に言い渡した。本日のお誘いはその命令を遂行するためのものだ。

 クァッレたちは「迷い路については伴侶から説得してもらおうかしら」などと呟いていたような気もするが、聖人の発言で友人が自分のことを心配してくれているのだと知り、静謐の魔女は静かに口もとを緩めた。

「想定外だが、まあ、これくらいはしかたないか。……っと、少し待ってくれ」

 ではさっそくと逆向きに箒を出したリヴェレークに対して待ったをかけ、ルフカレドは濃紺のケープマントをばさりと揺らす。すると次の瞬間には、いつもの軍人めいた詰襟の装いではなく、盛装をしているではないか。

(綺麗……)

 艶のあるジャケットとパンツ、それから帽子は同じ黒色で、角度によって見える光沢は火影を鞣したよう。香木を焚いた煙から紡いだのか、淡い灰色のスカーフがほのかに香り、暖色の瑪瑙めのうをあしらった留め具がよいアクセントになっている。手袋をはめた手には火を閉じ込めたような宝石を埋め込んだステッキ。その濃厚な戦の気配は、どうやら剣と同じく自身の一部を切り出したものであるようだ。

 ケープマントだけはいつもと同じものであるが、片側に寄せることでぐっと華やかに見え、戦火の聖人の鋭い美貌を引き立てていた。

 なんだかんだ明星黒竜を統べるふたりの竜で見慣れているため、高貴なる者の存在感には耐性のあるリヴェレークである。それでも今のルフカレドは思わず見つめてしまう美しさで、このようなところにも聖人らしさというのは宿るのだと納得する。

 しかしはっと我に返ってみれば、リヴェレークはいつものブラウスとスカート姿だ。果てのない影の中に膨大な服飾品を所持する彼女に持ち合わせがないわけではないが、毎晩のように通っているレストランに盛装姿で向かうのは躊躇われた。

(そもそも、わたしが装いを変えるのは迷い路のためなのだ)

 だからいいかと魔女が自身の簡素な服装を見下ろしていると、聖人があっと声を漏らす。

「そうか、君は……その」

「わたしはこのままでよいでしょう。では、行きますよ」

 箒の硬質な柄が鳴らされた。しゅるりと現れた影にふたりの姿が消える。


 クァッレのレストランは商業が盛んなロッタという国の中央街の、さらにさまざまな食事処や宿屋の立ち並ぶ区画にある。

 控えめに掛けられた看板に描かれた星の紋様は美麗だが、目を引くほどのものではなく、かといって一見さんお断りというような堅苦しさを感じさせる雰囲気でもなかった。この絶妙な配置が知る人ぞ知る隠れ家のやりかたであり、また目指すべきものという資質を持つ明星黒竜だからこその巧みさと言えよう。

「いらっしゃい」

「連れてきました。彼が戦火の――……ルフカレド?」

 店内に入るなり伴侶を紹介しようと振り返ったリヴェレークが見たのは、扉のところで立ち止まり、目を見開いた聖人であった。驚きを隠せていないそのようすに、魔女は世間はここまで狭いのかと首を傾げる。

「お知り合いでしたか?」

「まさか。……いや、そうか。静謐の魔女は古の時代から存在しているんだったな」

 ふたりのやりとりに事情を察したらしい店主が豊かな黒髪を揺らしながら首を振る。

「……リヴェレーク。あなた、私たちのことなにも言ってなかったの?」

「いえ、言いました」

「星に連なる者だと聞いただけなんだが……」

「それは気の毒としか言いようがない」

 タイミングがよかったのか、悪かったのか。

 そこで酒瓶を抱えて出てきたヴァヅラの姿に、今度こそルフカレドは天を仰いでしまう。

「力を持つ者というのは、時に知りたくないことまで知り得てしまうものだ。承知のうえではあろうが、リヴェレークを娶った以上、きっぱり諦めるのだな」

 ようやく話の流れを掴みかけたリヴェレークは、そこで、畏まった礼をするルフカレドの姿にぎくりとする。

(そうか、明星黒竜……それも見るからに強い力を持った瞳だから、ふたりがそれぞれ四季を冠する者だと気づいたのかもしれない)

 どこからか剣を抜き、己の領域に在るものを切り出そうとする振る舞いは完全に臣下のそれであった。レストランの常連客としては見慣れぬものだが、これが目指すべきものの最高峰としての資質を持つ竜に対する一般的な反応なのだ。

 ぼうっと戦火の聖人を囲う火には、他者を傷つける意図はなく、純粋な敬意だけが含まれている。

「ちょ、ちょっとなにしてるのよ! リヴェレーク、あなたも見てないでとめてってば」

「なぜでしょう。すっかり頭から抜け落ちていましたが、あなたがたは明星黒竜。敬意を払われるのは当然のことでは?」

「まったくもう」

 落とされたため息に、これは説教が始まりそうだとリヴェレークが思ったのもつかの間。

 誰よりも強い声でヴァヅラが声を発する。

「クァッレ。まずは席へ案内したらどうなのだ」


       *


「ルフカレドは食べたいものはありますか」

「そうだな、俺は酒があればなんでも……っと、そんなに睨まないでくれないか」

「トーン・クァッレの作る料理はどれも絶品です」

「わかった、わかったから、そう詰め寄るな。じゃあ、この…………は、なんで朝菱菫のシロップがあるんだ……?」

「デザートはあとにしてください」

(ああ、もう!)

 さて、新婚夫婦を席へ案内したクァッレは、意外にもリヴェレークが積極的に話しかけていることに感心したが、少し目を離した途端噛み合わなくなる会話に頭を抱えた。

 豊富な知識を持ちながらあまり世間というものを知らない静謐の魔女の感覚がずれているのが主な原因であるため、ここはまだ魔女との会話に慣れていないらしい聖人に助け舟を出してやるべきだろう。

 クァッレは、今日のため腕によりをかけて仕込んだ祝い料理をテーブルへ並べながら、意味ありげに微笑んだ。

「私は目指すべきものの中でも豊穣の要素が強いから、人間だけじゃなくて、けっこう色んなひとから貢ぎ物をもらうのよ。……たとえば、岩城の小人とかにね」

「あの地域一帯はもう何百年も前に滅んだはずだろう」

「あら、それは岩城の巨人たちが岩竜との盟約を破棄したからでしょう? 真面目で謙虚な小人に手を貸した竜は多いわよ」

「知ってるさ。だからこそ火を北の砂漠まで広げたんだからな」

「……手を下した本人でした」

 どこかリヴェレークががっかりしたように呟くのは、以前その岩城の巨人と小人の物語を読んだ際、美しい情景描写に感動してなんとか書の迷い路へ落ちられないだろうかと試行錯誤したものの、結局落ちることは叶わなかったからだ。当時、共存のための盟約を破棄された岩竜が相当に怒り狂ったらしく、滅びたあともあらゆる時や場所からあの地域が繋がらないような呪いをかけてしまったと知ったのはリヴェレークが十年の時を無駄にしてからで、珍しく落ち込んだ彼女はやけ酒をした。

 そんな今はなき岩城の小人だけが摘み取ることのできる朝菱菫はかの地にしか生息していなかったが、友人を見かねた秋の明星黒竜はなんとか岩城の味を楽しんでもらおうと、豊穣の祝福やさまざまな伝手を使って復活までこぎつけたのだ。

 今この店で出されているものは、貴重な菫の復活に尽力した明星黒竜への感謝の印として毎年届けられるものである。


 しゅぽんと瓶の栓が開けられた。

 冬の明星黒竜がしなやかな手つきでグラスに注ぐのは星雲の祝い酒だ。感情の起伏が激しいのが星に属する者の常であり、特に群れで行動する星の精霊たちのお喋りはけぶるように凝って雲となる。怒りや悲しみを孕んだそれは劇薬だが、喜びに浮かれて吐き出された星雲は質のよい祝福を宿した酒として収穫される。

 きらりしゃわりと光りながら発泡する星雲の入ったグラスを傾ければ、贅沢な晩餐の始まりだ。本日はもうレストラン営業を終了し、黒竜たちも一緒にテーブルを囲んでいた。

 当然ながら、秋の明星黒竜の不在を受けて窓の外は雨模様である。

「パスタは秋物ですか? ソースとの絡みが絶妙です」

「小麦の竜の長が代替わりしたからであろうな。長く生きればそれだけ鱗が摩耗して食感に影響を及ぼすものだ」

「彼らにしてはかなり高齢だったものねぇ。冷製にするならぴったりだって本人たちも理解していたから、夏まではと粘ったそうよ」

「ソースが美味いな。これは踊り子鹿の舞茸か?」

 ルフカレドが関心を持ったのはパスタのソースで、秋らしい落ち着いた色合いながらも斑模様が華やかさを演出する茸を散らしたものだ。奥行きのある風味はほどよく効かせた胡椒によってさらに際立ち、パスタに絡める手が止まらない、とは静謐の魔女の弁である。

「具として入っているのはそうよ。けれど最近、彼らのお気に入りの舞台が壊れてしまったそうで、見た目はともかく、味がぱっとしないのよね」

 そこでリヴェレークがちらりとルフカレドのほうを見たが、彼は苦笑して「それは関与してないな」と首を振った。

「だからソースは森待ち茸と、うちの土地で育てた舞茸を使ってるわ」

「森待ちか。……ああ、なるほど」

 それから戦火の聖人は明星黒竜が管理しているという土地の話を聞きたがり、ひとしきり説明を受けた彼は驚嘆と呆れの混ざった息を吐いた。

(ここで、言質を取っておくべきかしら)

 今夜クァッレが戦火の聖人を呼びつけた理由の一つ、その切り出しかたに悩んでいると、話題となるべき魔女は珍しく口がなめらかに動くようで、ちょうど都合のよい話題が選ばれる。

「素晴らしい食材に素晴らしい料理。わたしが毎日通うのもわかるでしょう?」

「毎日、なのか? 魔女は取り込む要素に強いこだわりがあると思っていたんだが、自分では作らないんだな」

「ん、それは魔女に対する偏見ですよ」

「……ああ、悪い」

 こくりと祝い酒を飲みながらじっとりとした目を伴侶に向けている魔女はもしかすると酔いが回っているのかもしれないが、ここはなんの思惑もない彼女にある程度任せてしまおうと明星黒竜は見守りの体制に入った。

「でも、こだわりがあるのは本当です。わたしがいちばん欲するのは、この、トーン・クァッレの作るご飯なのですから」

 なぜか自信たっぷりとそう告げたリヴェレークに、クァッレはため息をつきたくなり、ルフカレドに至っては察したように口の端を持ち上げる。

「もしかしてだが、君は、料理が苦手なのか?」

「苦手なのではありません。わたしは静謐なので、食材から要素を引き出すことに向いていないだけなのです」

「……なるほどな」

 伴侶に欠点を知られたという意味では好ましくない状況ともいえるが、当の本人は気にしていないようである。明星黒竜にしてみれば非常にいい流れだった。

 戦火の聖人が従順な態度を見せたのはつい先ほどのことだ。しかし、それとこれは別なのだと、古の竜は知っている。

 人ならざる者は自分の要素をなにより大事にするものであると。

(今だわ)

 ゆえに、タイミングを見誤ってはならない。

「そういうわけだから、私たちの土地には手を出さないでちょうだいね」

 言外に、手を出せばルフカレドの伴侶は飢えるのだと滲ませて。


 早く、早く来てと空が啼いている。苦い笑みを浮かべながら「善処する」と答えた戦火の聖人に微笑みを返し、なんとか真夜中には雨をやませることができそうだと明星黒竜たちは頷きあった。

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