第二章 魔女の髪飾り

2−1 秋の移ろいと迷いの因果

 やわらかな絹のレースをかけたような、穏やかに晴れた朝だった。

 窓を開けて外の空気を吸い込めば、鈴の音が腹に溜まっていく。その涼やかな響きが増えれば増えるほど、秋風は冷たくなるのだ。

 ひとり用のテーブルにはが用意してくれた朝食がある。たっぷりとバターを塗ったトーストに、新鮮な野菜を使ったサラダ。並んだ硝子の小瓶に入っているのは木の実のジャムと干し葡萄のジャム、それから香草を浸したオリーブオイルのドレッシングだ。

 お気に入りの、溶けるような雲色をしたマグカップにはちょうど、ほこほこと湯気を立てる珈琲が注がれるところであった。

「ありがとうございます」

 魔女の他には誰も住んでいない家。しかしここには、魔女を優しく支えてくれる穏やかな気配があった。魂を宿す魔女の家。言葉はなくとも、いつだってたしかな温もりが返ってくる。

(こんな朝は、少し遠回りをして書庫へ向かおう)

 簡素で、けれどもとびきり素敵な朝食を食べながら、リヴェレークは本日の行動を決める。

 静謐の魔女は、世界が秋を深めてゆくようすを見ることが大好きなのだ。


 夜中に雨が降ったものか、濡れた葉が時折ひとんと露を落とす。どこか赤みがかった水の粒は朝日を浴びて軽やかに煌めくのが美しいが、そんな並木道で落胆したように息を吐く生き物たちの姿に、リヴェレークはくすりと笑みを溢した。

「本当にもう、ここの木々はいつになったら学習するのかしら! 朝露に色を抜かれるなと、あれほど言ったのに!」

「またぜんぶ塗り直しだわ。絵の具は足りてる?」

「絵の具はあるけど、刷毛が足りないの! 隣街から応援を呼んだから」

 慌ただしく飛び回る彼らは絵描き妖精だ。季節を育むという資質を持っており、成長途中にあるこの世界に、四季の彩りを教え込んでいるのだろう。秋を担当する絵描き妖精はとりわけ教育熱心であると言われていて、緑から黄、赤へと変化する葉の繊細な色使いが上手くいかないと、葉をびりびりに破いてしまうこともあるという。

 賑やかな会話だが、手のひらに乗るほどの小さな身体である。可愛らしいと思うことはあれ、うるさく感じることはない。それに、彼らの描く紅葉はみな美しいので、魔女は疎む気持ちすら湧かないのだ。

 並木道を抜け、朝の涼やかな風を受け、静かに、静かに歩いていく。

 秋の変化に、街全体が静謐を溢しながら影を伸ばしていくようすを堪能したところで、リヴェレークはいつもの書庫へ到着した。


       *


「……っと、君は、書の迷い路に落ちる頻度が高すぎるんじゃないか?」

「落ちるのが嫌なら書庫へ来なければよいのでは? 毎日待ち構えている意味が不明です」

 ふたりの口調から普段のまろやかさがいくらか抜け落ちているのは、彼らがちょうど謎のずたぼろ生物と対峙しているからであり、決して新婚早々に喧嘩をしたからではない。

 静謐の魔女と戦火の聖人はまだ、喧嘩をするほどの仲を育んでいない。

 びゃあっと奇怪な声を上げて襲い掛かってくるのは古びた毛布を被ったなにかで、その黒ずみが原因であろう悪臭にしかめ面をしながら剣で薙ぎ払うように応対するのは戦火の聖人だ。

 いっぽうで魔女はというと、その臭いに含まれる魔法の痕跡を分析したり、相当使い込まれているであろう毛布がそれでも毛布とわかるほどの形を残していることに感動したりと、忙しそうにしている。もちろん自損の趣味はないため、ずたぼろ生物からの攻撃はきっちりと自分で防ぎながらである。

 そんなリヴェレークの本日の装いは医者めいた白衣だ。無感情に一切の装飾もない衣服をさらりと着こなし、本物さながらの聴診器や拡大鏡を身に着けた姿は、彼女の青い色彩と相まって怜悧な印象を抱かせた。

 かなりの気合の入りようだが、恐れを知らないルフカレドはこの状況に待ったをかける。

「因果を見直したほうがいいんじゃないか?」

「嫌です。落ちにくくなってしまったら困りますから」

「……まいったな」

 ため息をつきながら髪をかき上げれば火の粉が散るように光が舞う。本能的な嫌厭か、ずたぼろ生物がびゃっと離れた。

(このままだとルフカレドに迷い路へ落ちないよう調整されてしまうかもしれない。このまま彼をここに置いていってしまおうか、でも)

 戦火を削ってしまえば、伴侶である自分にも影響が及ぶのだとこちらも息を吐く。

 その憂鬱を忘れるにはやはり、物語の世界を楽しむしかないだろう。

「ヴェラ。あまりそれに近づかないほうがいい」

「平気です。ルドが臭いを気にしているだけでしょう」

 そう呼び合うのは仲が深まったゆえの愛称ではなく、名を落とすことが危うい書の迷い路でも意思疎通が図れるようにとルフカレドが提案したものだ。

 リヴェレークという音の響きをひどく気に入っている魔女は初めその提案を却下したが、交渉ごとはてんで苦手な彼女である。略すくらいなら呼ばなければいいと突っぱねていたはずがあっというまに丸め込まれてしまった。


 陰鬱な石造りの壁はあちこちくり抜かれて棚になっており、鮮やかな発色が毒々しい液体の入った瓶や、ぎょろりと光を滴らせる竜の目玉、けたたましい笑い声を上げる手拭いなどが所狭しと並んでいる。

 今回ふたりが落とされてしまった書の迷い路は、リヴェレークが一度は訪れたいと思っていた物語の世界だ。

 医者に扮した精霊が人間の魂を身体から剥ぎ取り、お気に入りの布に包んで愛でる姿を描いた物語の大筋はなかなかのおぞましさであるが、随所に散りばめられた教訓を見れば、こういった書物が人ならざる者と共存する人間の知恵であることがわかる。

 ついでにいえば、精霊というのは成り立ちが謎に包まれているため、研究熱心な人間の記した精霊の物語は人ならざる者たちのあいだでも人気だ。

 つまりリヴェレークには、ようやく巡ってきたこの機会を逃すつもりなどさらさらないのである。

「あちらのほうに終着点があるようですから、ルドはお先にどうぞ」

「そうか。この物語は何度も読んだのだと言っていたな。……つまり君は、迷い路から抜ける方法に見当がついているということだ」

「……さて」

 書の迷い路には、その本質が物語であるがゆえの始発点と終着点が必ず存在している。

 魔法具の入手や悪者の討伐、物語の顛末を辿ること。

 書物によって内容はさまざまであるが、ある程度の傾向はあるものだ。そして書の迷い路の常連であるリヴェレークは、それをなんとなく掴んでいた。

(もう少し、ここにいたい)

 魔女が書の迷い路にこだわるのには、このどこともいえない空間が静謐という彼女の現実を曖昧にしてくれるからという理由もあった。物語の中であれば、リヴェレークは世界の理に縛られすぎずに済む。危険が伴うとわかっていてもその魅力には抗えなかった。

(静謐はわたしそのものだから、もちろん自分にだって損なうような真似を許しはしない。けれども、少しくらい揺らぎはしないかと期待してしまうわたしは、魔女としてどこか歪なのだろう)

 自分が孤独であることにすら気づいていなかった頃を考えれば、友と語らい、迷い路を楽しんでいる今は、ずっと生き物らしい日々を過ごせているのだと思う。

 しかしこうして自身の揺らぎを試すような心の動きは、まだ魔女の中であの透明な水がひたひた巣食っているということに他ならない。

 だからこそ、静謐という容れ物に穴を開けた先の、変化を期待してしまうのだ。


「ヴェラ」

 それにしてもなぜこの聖人は放っておいてくれないのかと、先ほどから何度も呼びかけてくるルフカレドへやれやれと視線を向ける。

(……ああ、そうか)

 燃えるようなその瞳の中にあるのは不安の色。そこでようやくリヴェレークは彼の懸念を理解した。

「わたしには備えがあります。あなたの領域に影響を与えるような損なわれかたをするつもりはありませんから、こちらのことは気にせずに戻ってよいのですよ」

「魔女は……いや、君はなのかな。とにかく、そういうふうに線引きををするものなんだな」

 またひとつ、汚れきった布の塊が切り裂かれる。

 びゃあっと上がる声は人間の子供だった魂の苦痛だろうか。わけもわからぬまま身体から剥ぎ取られ、この精霊の好みだという汚い布に包まれて。物語のもととなった彼らが実際にどのような結末を迎えたのかを知ることはもうできないが、少なくとも、ここが物語である以上は何度も繰り返されてきたであろう絶望。

 それを前に彼らを救おうと考えるでもなく、同伴者である聖人を気にかけるでもなく。

 ただ自分の興味に従って進む彼女の線引き。はたしてそれは、リヴェレークだけのものなのか。


 ひゅう、と物悲しく冷たい風が吹いている。

 枯れた木々が曇り空の下でなお影を色濃く縁取り、命の輝きを失った落ち葉の中に佇む。

 精霊の生態をしっかりと観察した魔女が最後に向かったのは、物語の終着点となる小さな墓場だ。あちこちが欠け落ちた墓標にはびっしりと文字が彫られ、よく見れば、それは精霊に命を奪われた子供たちの名前であるとわかる。

 一人に一つの墓でないのは、まぜこぜにされた魂をもとのかたちに戻せなかったからか。

「最後までおぞましい物語だな」

「人間の視点で言えば、そうなのでしょう」

 そう言う聖人の立ち位置が今ひとつわからないまま、魔女は伴侶を連れて墓場の中心に立った。

「この墓場に眠る、犠牲となった人間たちの鎮魂には、静謐の魔術が使われています。わたしに魔術のことはよくわかりませんが、その魔術のもととなった魔法を使うことで物語の結末を辿ることができるはずです」

 影を広げれば、魔法の風にそわりと髪が揺れる。

 青い戯れに紛れて、ため息が溢された。

「迷い路から抜ければ消えてしまうのが惜しいな……」

(子供が損なわれるのは、あまり好みではないのだろうか)

 ここにいるのは戦火をなにより好む苛烈な聖人である。彼のもたらす火は罪のない子供だって飲み込むこともあるはずだ。それにしてはやけに感傷的な呟きであると視線を上げれば、しかし、ルフカレドが見ているのは墓標でも、迷い路の景色ですらもなかった。

 髪に触れた手のやわらかさに、リヴェレークはゆっくりと瞬きをする。

「こんなに可愛らしいんだ、普段もしたらいいんじゃないか?」

「…………と」

 それはリヴェレークが迷い路にいるあいだのみ着けている小さな髪飾りたち。深い青色の髪の中に点在し、ちらちらと瞬く星の欠片。涼やかな薄青の光。

 さてどう答えたものかと思案すれば、ルフカレドはこちらの反応を面白がるかのように眉を上げた。明らかに勘違いをしているので、静謐の魔女はことさらひんやりした声で説明をしてやる。

「備えがあると言ったでしょう。これは最終手段。身を削られ、静謐に繋がるなにもかもを押さえられたとしても、わたしはこの星から静謐を引き出すことができるのです」

「……星から? 星は苛烈だろう」

「だからこそです。あの苛烈さからわたしの要素を引き出せるなどと、誰が考えるでしょう?」

「なるほどな、たしかに目眩ましにはよさそうだ」

 魔法を扱う者どうしの争いでは、とにかく相手の要素を削ることが重要だ。その点で静謐はわかりやすく在るものであり、削られやすい。

 そこで考えたのが、この髪飾りである。

 ひと目では要素を確定できないもの、あるいは繋ぎを予想しにくいものが望ましく、また結い上げるための装飾品としてではなく髪の中に散らすことで損なわれにくい。今のところは髪飾りを必要とする場面に遭遇していないが、備えがあるのとないのとでは大きな違いがあると魔女は考えている。

 リヴェレークの髪に涼やかな煌めきを添えるのは、そんなふうに静謐を引き出すための星々。

「ちなみに星に属する者でも穏やかなひとはいます。わたしの友がまさにそうです」

「……君に友人がいるのだな」

「失礼ですよ」

 そろそろ手を退けてほしいと首を振れば、しゃりんとかすかに星が鳴る。このさざめきがあるからこそ、魔女は書の迷い路に落とされてものびのびと過ごせるのだ。 

 ひらりと手を離したルフカレドが「頼んだ」と言うやいなや広がる影。

 物語が静謐に置き換えられていく。

 わずかな名残り惜しさとともに目を閉じれば、現実は、すぐそこにあった。

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