1−3 影渡りと書架の森

 書架の影を踏み分け、美しい物語たちの吐息に浸る。静謐の魔女にとって書庫というのは豊かな色彩に触れられる場所であり、そして他人にはおいそれと言えない趣味へと繋がる秘密の扉のような場所でもあった。

「やっぱり、ここにいるんだな」

 そういうわけで、さて今日の物語はどんな色だろうと表紙をめくったばかりのときにかけられた、好まない要素をこれでもかと含む昨日ぶりの声には眉をひそめるしか反応の選択肢がないのだ。

「なにか用でしょうか」

「出かけに行かないかと思ったんだ、が…………夫に対して冷たくないか」

「わたしが望んだわけではありませんので」

「俺も望んだわけではないんだが」

「なら――」

「ちょうどよかったんだ。俺はどこかの国に肩入れする気はまったくないからな」

 その言葉に、聖人というのはどこまで自分勝手なのだと魔女は嘆息する。自身の領域にあるものをなにより優先するのは魔女という生き物も同じであるが、聖人はそこに他人をも巻き込むのだ。

 彼らの性質を「寄り添ってくれる」と都合よく解釈するのは、人間や、他者との交流を好む者だけであり、静謐の魔女にとっては迷惑でしかない。

 つまり煩わしい以外の感想が浮かばなかった。

「あなたの事情に巻き込まないでください。わたしは静謐の魔女。騒がしいのは好みません。戦なんて、もってのほかです」

 そう言ってみせれば、ルフカレドは我儘な子供を窘めるような声色で「リヴェレーク」と魔女の名を呼んだ。

「悪いとは思っているが、こればかりは飲み込んでもらうほかないな」

 リヴェレークとて、もう飲み込むしかないと判断したからこそ昨晩のうちに友人へ報告と相談をするに至ったのだが、本人からそう言われてしまうとなんだか釈然としない気持ちになる。

 ここはもう読書に集中するしかないとふたたびページに視線を落とすと、しかし、今度は本の横に手をつきながら、ことさらゆっくりと名を呼んでくるではないか。

「……リヴェレーク。これは俺の妻となった君にも関係のあることだ」

 書庫では静かにという魔女の忠告に従ったものか、囁くように抑えられた声は低く掠れ、切望するような甘さがあった。

 伸ばされた腕と濃紺のケープマントの隙間から、ジャケットの上に締めた重々しい革ベルトが覗く。

 どこか男性らしい熱を持った響きに身体の奥がそわりと揺れるのを隠すように、静謐の魔女は水底のごとく凪いだ瞳を戦火の聖人へと向けた。そうすれば彼は満足そうに微笑むのだから、やはりできるだけ関わらずにいたいと願ってしまう。

「昨日、俺と一緒にいた妖精たちを覚えているか? ひとりは君が崩してしまったが……。彼女たちの住んでいる国が俺との繋がりを望んでいてな。こちらにはもう静謐の魔女という伴侶がいるのだから、そんな繋ぎは断ち切ってしまいたいんだ。君にも一緒に来てほしいと思っている」

「その話のどこにわたしが必要なのかわかりません」

「ああ、たしかに、俺ひとりでも対処はできる。だがその場合、君をよく知らないあの国の誰かが、俺の目の届かないところから手を伸ばして静謐を損なおうとするかもしれない」

 そう聞いてしまえば、どこからどう見ても静謐の魔女は巻き込まれただけの被害者である。しかし婚姻という繋ぎを得てしまった彼女はもう、舞台から下りることができないのだ。

「……なぜそのように面倒な国と関係を持ってしまったのでしょう」

「あの国が、そろそろ滅びるべきだからだ」

 静かにそう告げたルフカレドの瞳には特別な感慨などなく、ああ聖人とはこのような生き物であったとリヴェレークは思い出す。

 戦によって熾る火をなによりも愛する聖人。

 美しい戦火を求めて世界を渡り歩く国落としの神。

 そのように語り継がれてきたのが目の前にいる男なのだ。

「わたしに国落としの手伝いをさせる気ですか」

「いや、さすがにそこまで手を借りるつもりはないさ。君はただ、静謐が静謐たる所以を彼らに見せつけてくれればいい」

 戦火の聖人は優しげで誠実そうに微笑むが、その実は自分好みの戦火を見るために他人の手を加えたくないだけなのだろうとリヴェレークは考える。

 だからこそ、伴侶だからと声をかけただけに過ぎないルフカレドの誘いを断ればこちらに火の粉が降りかかることは確実で、さらに言えば、伴侶であるはずの彼が火の粉を払ってくれることはないのだろう。力ある魔女なら、多少の余波で揺らぐことはないからと。

「……わかりました。ではまずその国のことを教えてください。どのような要素の妖精が治めているのですか」

「いや。その国は人間の国なんだ」

「あの妖精だって長生きするでしょうに、人間に仕えているのですね」

「彼女たちが仕えているのは国だ。国民の気質が好みだったり、土地そのものの要素を求めたりする者は多い。あそこは色彩が豊かな海と島々の綺麗なところでな、さまざまな人ではない者たちが守護している」

 綺麗だと言いながらも滅ぼすつもりであるのだから、やはり一筋縄ではいかない相手なのだ。ならば今から動いてしまおうと魔女は頷いた。

「そのように特徴のある場所なら、本に記されているかもしれませんね。ルフカレド、あなたも行きますか?」

「話が早くて助かるが、どこへ?」

「ケンウェッタ湖水地方へ。あそこの書庫は水にまつわる書物がとにかく多いのです」

 聖人が頷くよりも早く、魔女の手には箒が現れる。一般的な持ち方とは明らかに逆向きで、彼女は地面についた柄をタンと突いた。

 魔法の光は影となり、むしろ周囲が光となったように錯覚したのもつかの間。

 しゅるりとふたりの姿が消える。

「…………箒の使いかた」

 聖人の零したつぶやきだけがあとに残った。


       *


 さらりとした風は清涼な地下水の要素をふんだんに含んでおり、夏の終わりから変わらぬ濃緑の葉々を優しく撫でていく。

 穏やかな湖の要素がぐっと濃く、しかし爽やかさを兼ね備えた森は多くの妖精が好むもの。木漏れ日のダンスにきゃっとはしゃいだり、ぴしゃぴしゃと水面に羽を浸すという不自由さを楽しみながら浮かんでみたり、樹の洞で宴を開いてみたりと、思い思いにくつろぐ妖精の姿があちこちで見られた。

 長い時を経てこのあたりを治める国は何度も変わったが、古い魔法の残る湖とその周りを囲む森の豊かさは変わらない。

 魔法というものに深く関わり生きる魔女や聖人にとっても、この地の薫りは肌馴染みのよいものであった。


 ところで、影を渡る移動方法は人ならざる者たちのあいだではさして珍しいものではない。それでも静謐という影そのものを扱う静謐の魔女の影渡りはとにかく静かで無駄がなく、正確な渡りができるものだ。

 そんな影渡りを初めて体験したらしいルフカレドは、瞬きのあいだで長距離を移動したうえ少しの渡り酔いもないことに「すごいな」と感心していたが、リヴェレークにとってはこれが当たり前であるため、その言葉を向けられたのが自身の影渡りであることには気づいていない。

 つまりリヴェレークは、目の前の聖人がこの美しいケンウェッタ湖水地方へ来たのが初めてだなんてもったいないにもほどがあるなどとずれた感想を抱いていた。彼女がもう少し世間慣れしていればここはひとつ街を案内してやろうという気になったかもしれないが、残念ながら静謐の魔女は目的を前に寄り道をしない性格であるため、その誤解が解けることはないだろう。


「……ずいぶん魔法の濃い通路だな」

 そう呟くのは、こちらは本当に初めてであるらしいケンウェッタ書庫内を歩く戦火の聖人。迷うことなくずんずんと奥へ進んでいく静謐の魔女の背中を追いかけていく。先ほど書架の隙間からこちらを覗くなにか・・・と目が合ってしまい、彼は今、妻のうなじを覆うブラウスの縫い目を凝視するという結婚二日目にあるまじき行為にいそしんでいた。

「この書庫はもともと、前の霧の聖人によって建てられたものなのです。水にまつわる書物を片っ端から収集していたために危険な魔導書なども一緒に増えてしまったらしく、こうして階層を分けることにしたそうですよ」

 当然魔女は頭の後ろにまで目を持っているわけではないため、夫の視線がどこに向いているのかを知るはずもなく、少し危険な書庫の成り立ちを説明してやる。

 ふたりの歩いている通路は、すでに人間や魔法の要素をあまり持たない妖精が入ることはできないほどの魔法に満ちていた。無味無臭の霧を象ったその魔法は見えない壁のように書庫の中を漂い、段階的にその先へ進む資格のない者の行く手を阻むのだ。

(おそらくこの霧は危険なものではない。人間がぶつかったとしても痛みを感じることはないだろうし、ただなんとなく、その先ヘは進まないようにしようと思うだけなのだろう)

 弱いものに害を与えることなく排除する魔法というのは総じて難しい。基本的に魔法を持たず生まれる人間にとって、魔法の要素というのは毒になりやすいからだ。

 それなのにわざわざ霧を複雑に編み上げ、少しでも多くの者が書庫を訪れるように、それぞれが扱える範囲の書物を手に取ることができるようにと考え実行した聖人はどのようなひとだったのだろうと魔女は思う。

(もう、会うことは叶わないけれど)

 どうせなら騒々しい戦を好む者ではなく、自分と同じように書物を好む者との繋がりが欲しかったものだ。

 そうすれば、話ができたかもしれないのに。

「毒を含む系列はこの書架に、霧に属するものはこちらですね」

 心の内に滲む感慨はつゆほども見せず、リヴェレークは目的の書架に辿り着いた。この階層は危険な力を持つ生き物について語られた書物ばかりを集めた書架の森で、記した者も強い魔法を使ったものか、本そのものが内容に則した力を持ってしまっている。

 毒や霧というものには、入り込み、滲み、侵食するという資質がある。この階層の周囲が特別に緻密な魔法で閉じられていたのはそのためだ。事実、書架からは絶えずあまりよくない魔法の薫りがしており、不用意に触れればたちまち絡め取られてしまうだろうことが窺える。

「触れてはなりませんよ」

「……っ、ああ。ありがとう。……その、これなんかはどうだ?」

「『海に魅せられた毒持ちの妖精たち』……確認してみましょう」

 ルフカレドが指さすのは魔法のモチーフを散りばめた童話本のような装丁のもの。いかにも怪しい雰囲気を醸し出しているのが演出なのだろうと思いたくなるが、リヴェレークはこのようなものこそ本当に危険であると知っている。

 書物には知識として求められるものという役割における力がはたらくため、強い魔法を持つ魔女や聖人も例外ではなく、危険なものに対してはきちんと手順を踏まねばならないのだ。

 指先で静謐の魔法を紡ぎ、そっと触れる。

 ぬめりとした毒の気配にやはりと頷いて要素を強めていくと、わずかな抵抗ののち、こちらを飲み込もうとする悪意が収まった。

「……力技なんだな」

「どれだけ愚かな本でもわかってくれますので。それにこのような内容のものは魔法に対して頑丈ですし」

 表紙を開けば、ふわりと海の香りが立ちのぼる。

 横から聖人が覗き込んでくるので一瞬、揺らぐ火のような髪によってページが燃えてしまわないだろうかと魔女は心配になったが、身体の一部が事象そのものとして顕現する竜とは異なり、どうやら聖人のそれは見かけだけのようだ。

 気を取り直して目次を眺め、戦火の聖人の意見でそれらしいページを開いた瞬間、ふたりは見知らぬ場所に立っていた。

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