1−2 報告と水中の夢
「……もう一度、言ってくれないかしら」
豊穣の季節らしく力を強めた深黄の瞳は内側から光を発するよう。がしかし、美しい瞳の持ち主は誰もが欲するようなその黄金色の煌めきが無駄になるほどの遠い目をしてカウンター越しにのんびりと座る魔女を見た。
言うべきことは言ったとスプーンにたっぷり掬った葡萄酒煮込みを口に含んだ静謐の魔女は、舌の上でほろりと崩れる牛肉の味と食感を楽しみながら、向かいで頭が痛そうにしているレストランの店主に首を傾げた。一年で今がもっとも忙しいはずの秋の明星黒竜がこうして夜になるぎりぎりの時間まで食事を提供してくれているのだ。疲労で耳が少し遠くなっているのかもしれないと、彼女はゆっくり口の中のものを飲み込んでから先ほど告げた言葉を繰り返す。
「婚姻を結びました」
「…………お相手を聞いても?」
「戦火の聖人です」
「………………念のため聞くけれど、これまでに彼との面識はなかったわよね?」
「ありません。あちらもわたしのことは名前しか知らないようでした」
店に立つあいだは人のかたちをとっている明星黒竜がはぁっと大げさにため息をつけば、豊かに波打つ長い黒髪が揺れる。明度を落とした店内の照明を映すそれは雷雲のようにも見え、魔女はこれ以上に鮮やかな黒を知らないと密かにうっとりした。
しかし今は、珍しく興奮しているらしい竜の話を聞かねばならない。
「名前しか……そうよ、名前! あなた、名前なんてないじゃない! 魔女の婚姻には名前が必要なのでしょう? どうしたっていうのよ」
「戦火の聖人がつけてくれました」
「つけてくれたって……。はあ、ひとまずそこを追求するのはやめておくわ。それで、どんな名前を授かったの?」
「リヴェレーク」
深い魔法を含む音に、空気がしゃわりと揺れる。それは季節柄、店内に豊穣の祝福のような要素が満ちているからだ。
魔法を持たぬ者には正しく聞き取ることすらできない音。
古の竜である店主の、明星そのものという深黄色の瞳までもがその音に共鳴してぱちぱち爆ぜるのを、リヴェレークは不思議な気持ちになりながら見つめた。
「リヴェレーク……ねぇ」
(……あ、響きが)
婚姻関係になったとはいえほとんど見ず知らずの他人である戦火の聖人が発する音よりも、昔からの友人である秋の明星黒竜が発するそれのほうがずっとやわらかいことに気づいて、リヴェレークはそっと口もとを緩める。
「トーン・クァッレに名前を呼ばれる日が来るとは思いませんでした」
「同感よ。まったく、あなたにぴったりなのが腹立たしいくらいだわ。本人も気に入ってしまっているし、これはもうどうしようもないわね」
気に入っていなければ、名前という現象を生み出した竜や名付けを司る魔女を削ってでも名前との繋ぎを切ってしまうのにと嘯く
(このひとはこういうふうにして、わたしに寄り添ってくれるのだ)
だからこそ魔女はついつい甘えたくなり、こうして毎晩のように(秋は夕方までであるが)晩飯を食べに来てしまう。
そして時には愚痴も零すのである。
「そもそも一度成ってしまった魔女と聖人の結びは解くことができません」
静謐と戦火の結び。世界はまもなく二つの因果を確かなものにしていくだろう。
無策に戦火を削れば、そこに紐づく静謐の要素も削ることになる。
「本当に、この結びが厄介なのです」
「それは……そうでしょうね」
魔女の気質をよく理解している竜は心底哀れむように頷きながら、空になったグラスに酒を注いでやる。
無色透明なそれは酒造りの過程で樽から逃げ出した酒精が、しかし造り手によって引き留められて蓋のように使われてしまうその上澄みを掬ったもので、一般に空透かしと呼ばれる。涼やかな見た目と名前からは想像できない酒精の強さが特徴だが、透明度の高い風味はさまざまな料理に合う。豊富なメニューを揃えたこの店でも人気の酒だ。
さっそく口をつけたリヴェレークも例外ではなく、静かに店主と会話をしながら強い酒を嗜む美しい魔女の姿は他の常連客たちの楽しみとなっている。
「ですから、魔法具を作ろうと思っています」
まるでこれから喋るために唇を濡らしたのだと言わんばかりに表情を引き締めた静謐の魔女は、自身の影から一冊のノートを取り出した。
クァッレがリヴェレークを哀れむことがあっても手を出すことまでしないのは、彼女のこういう部分を知っているからだ。
なんといっても古の時代より存在している魔女である。たとえ彼女の司るものが静謐という大きな事象であったとしても、揺らぎやすいこの世界で変わらず在り続けられるというのにはそれなりの理由があった。
「待ってちょうだい。冬を呼ぶわ。私も聞くけれど、細かい話をする頃にはさすがに出ないとでしょうから」
「わかりました」
ではそのあいだにと、リヴェレークは途中であった食事を再開する。
葡萄酒と野菜のソースで煮込まれた牛肉は明星黒竜の一族が文字通り目をかけている牧場産である。目指すべきものとしての明星そのものである彼らの瞳のもとで育まれた生き物は、資質を――たとえば肉牛であればその味を最大限に引き出されるのだ。
そんな肉の旨味がさらに何種類かの香草で丁寧に整えられており、よい魔法の薫りが鼻を抜ける感覚を味わう。つけ合わせの蒸かし芋や野菜も、その贅沢を彩る大事な要素であった。
――と、香草よりもさらに清涼な、しかしずしりと質量を感じる風が吹いた。
「…………なにがあったのだ」
「あら、もう冬が来たわ。早かったじゃない」
「そなたが事件だと言うから急いだのだ」
店に入ってきたのは、クァッレが冬と呼ぶ、明星黒竜の中でも最高位と言われている季節を冠した四柱の一端を担う雄竜だ。
こちらもレストランでは人のかたちをとっており、褐色の肌と無造作に束ねられた黒髪の下で青い瞳が鮮烈に光る。装飾は少ないがひと目で上等とわかる星夜布で仕立てられたフロックコートを完璧に着こなす姿は、お忍びで訪れた異国の王のような雰囲気があった。
そんな冬の明星黒竜が隣に並ぶと、動きやすいシャツ姿にエプロンを着けただけのクァッレも途端に高貴な女性に見えてきて、リヴェレークは友人のこのような一面も素敵だと思うのだ。
しかし、まだ地上にいるのかと呆れ顔のヴァヅラとお客を飢えさせるわけにはいかないものと片目を瞑るクァッレのやりとりはいつも通り。
そこに静謐の魔女も加われば、これもまた常連客のお楽しみな父娘劇場の始まりである。
「トーン・ヴァヅラ。わたしの味覚はトーン・クァッレの料理を食べるようにできているのです。あまり彼女を急かさないでください」
「嬉しいけれど、ほんとう、物は言いようね」
「……魔法具を作ることはできるのだから、静謐の在りかたというのは不思議なものであるな」
どこかからかうような竜たちの視線にこれ以上の抵抗は無駄だと判断し、魔女は最後に残してあった玉ねぎを口へ運んだ。形が残るぎりぎりまで煮込まれたそれは、口へ入れた瞬間にじゅわりと溶けて甘いスープとなる。豊穣の魔法まで使われたこの葡萄酒煮込みの演出が、リヴェレークは大好きなのだ。
もっとも、静謐の魔女が自分で料理をせずこうしてレストランへ通うのにはわけがある。
(これは世界の理で、しかたのないことなのだ)
静謐の手によって編み上げられる料理はことごとく薄味で、それは塩味が少ないだとか旨味を引き出せていないだとかそういう手順や技術の問題ではなく、調理の過程で付与される静謐の要素がそれらを潜ませてしまうもの。
食材そのものが静謐であることを選択してしまうため、あとから手を加えようにも上手く味が定着しないのだ。
いっぽうで魔法具作成の場合は、それが無駄な要素の排除や魔法の通り道の整頓に繋がる。ヴァヅラの言う通り、こちらはむしろリヴェレークの得意分野であった。
クァッレのレストランでも、彼女の作成した魔法具があちこちで活躍しているほどだ。
(トーン・クァッレは魔法具を作るのが好きでないのだから、まさに適材適所)
名を得たことでより強まった静謐の要素は、おそらく今まで以上の無味を施すことになるだろうとクァッレはひとり考えるが、幸い当の本人は気づいていないようだ。
さて、ほどなくして本題に入った静謐の魔女は、冬の明星黒竜をしっかり絶句させた。
「…………リヴェレーク」
「はい」
やはりこちらの竜が呼ぶ声もやわらかいのだと知れば、きりりと引き締めていたはずの頬を緩めずにはいられない。
世間では無感情な番人だと囁かれている静謐の魔女。冷たく凪いだ、ぞっとするほどに深い青色の瞳を持つ彼女が穏やかな温度感で微笑む。それだけで満ち足りた気分になってしまうふたりの竜は、真実リヴェレークの友なのだろう。
「はぁ、クァッレの言う通り、名と婚姻に関してはとにかく受け入れるしかないようだ。……それで、どうするつもりなのだ?」
その問いかけに出したままであったノートを開き、リヴェレークはいちばん新しいページを竜たちに見せる。
「このような物を作りたいと考えています」
「……容赦ないのだな」
「なに言ってるのよ、勝手に婚姻を結ぶような相手に容赦する必要なんてないわ! ……わ、でもこれはたしかに、すごいわね…………」
魔法具の図案を見た竜たちは初めのうちこそ恐れおののいていたが、やがて魔女の希望にあれこれと意見を出していく。
陽はとうに沈み、地平線の縁に僅かな灯りを残すのみ。
風はなく、しかし慌ただしいようすで雲の精たちが空を彩る。
「……クァッレ。そろそろ空へ上がったらどうなのだ」
「もうこんな時間でした。トーン・クァッレ、あとはトーン・ヴァヅラに見てもらいますから――」
「まだまだよ。この魔法だけでは穴だらけだもの。あなたには……こうして私たちと過ごすだけじゃなくて、魔女としても、しっかり幸せになってもらわなくちゃね。ほら、栗のムースがあるわよ」
「食べます」
秋の宵に曇りが多いのは、なにかと友人を優先させがちなこの明星黒竜の不在を隠すためだ。
*
それは、遠い日の記憶。
いつかあったかもしれない
深く透明な水の中で、静謐の影はどこまでも広がり、しかし、他のものとは決して交わらない。青い青いインクを垂らしてみても、彼女を囲むその水は透明なまま、染まることがないのだ。
(……っ、どうして)
どうして染まらないのだろう。
これほどの無色透明が織りなす拒絶に魔女は息ができなくなってしまう。静謐と、それ以外とで、溶けあうことはないのだと知ってしまえば。
その深さは影を影たらしめていて、自分が静謐であるからこそ世界は賑わうのだということをあらためて理解する。
たとえば他の魔女たちであれば、自身の色で水を染めることも、そうして世界の理を動かしていくことができるのだとしても。静謐は違う、静謐は影でしかないのだと示してやまない水の中で、魔女は途方に暮れていた。
*
ひりつくような水の鋭さを、静謐の魔女は今でも思い出すことができる。
(この話を他の魔女が聞いたなら、息ができないなら自分の要素を切り出したらよいのではと思うだろう。……けれど、あの水の中ではそんなふうに考える余裕すらないのだ)
残滓のような記憶はまだ腕に抱えたままで、静謐の魔女を脅かし続ける。
ゆえに、同じ無色透明であっても、ただ喉を潤し、穏やかな酩酊だけを残してくれる空透かしの酒を彼女は好むのだ。
(でも、こうして関わるひとが増えていくなら。もう、あんな夢を見ることはなくなるのかもしれない)
友人のかけらでもある星屑を灯した照明に酒の入ったグラスをかざせば、きらきらと黄金色の光が散らばった。カウンターの向こうでは、季節のデザートを用意してくれている友人がいる。
そんな透明を美しく思えることに、リヴェレークは安堵の息を吐いた。
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