第6話 死者の哲学 ⑥


 どうにも好きになれない。

 というのは、公文書館別館の資料庫の空気の事だ。静謐のみが支配するこの空間は、控えめな足音すらも、反響する。

 受付の女性に護民官IDを提示してこの空間に入り込んでから、既に二時間は経過しようとしていた。

 意識の淵が、静寂に引っ張られて曖昧になっていく。

 眠気とも違う、言葉にならない気怠さを増長させる何かが資料庫の空気にはあった。


 古い紙の匂い。

 寂寞。

 そして、薄れていく精神の輪郭。


 それら全てが、俺を。

 いや、阿方湊人という一人の男の欠落していた一つの記憶を思い出させていた。


 ◇

 母親は、幼い頃に死んだらしい。加えて、父は護民官として家に寄り付かないような暮らしを送っていた。

 だから、という訳じゃ無いが、物心がついたあたりから、15までの記憶というのはかなり曖昧だ。

 そういう意味では、父の葬儀の終わった頃から俺の人生は始まったとも言える。

 強い怒りだとか、強烈な悲しみのような、心が身体を動かすような感情という物は、既にその頃から欠落していようにも思える。

 特別なこともなく、過去を忘れ去れてしまう人間だ。そういうこともあるだろう、と思っていた。

 そんな人生だったから、俺の中にある家の記憶というのは、静寂そのものであった。父が生きていた頃も死んだ後も、恐らくその印象に変わりは無い。

 いや、たったひと月だけの間、騒がしい時間が続いた時があった。

 あの頃、俺と共に住んでいた人間は誰だったのだろうか。

 何故、俺はそれを忘れ去ってしまっていたのだろうか。

 ぼんやりと。その人間の輪郭が浮かぶ。

 同い年くらいで、一緒に過ごしていた時期は、父が死ぬ半年程前。

 地下街区に住んでいたので、住む家のない子供というのは特別珍しくもない。だが、清貧院の炊き出しすら参加していないのは相当に珍しい。清貧院を運営する組織と確執があるのか、それとも気まぐれにそうしているだけなのか。

 ああ、確かいつも楽しそうに笑う人間だった。男の様に快活で闊達で強気でヤンチャだが、女性であることを何よりも誇っていた。

 何故一緒に暮らしていたのだったか

 ああ。

 そうだ。ある日父が連れてきたのだ。面倒を見る様に、と。

 それで仕方なくひと月ほど世話をしてやり、いつの間にか、何処かへ消えていった。

 それから、俺はアイツと会ったことはあっただろうか。

 そういえば、父の葬儀の時、何処から盗んで来たのか、サイズの合わない喪服で参列していた。

 それが彼女と会った最期の記憶。

 アイツの名前は……。

 確か。



「阿方さん?」

 微睡の中で、俺は身体を揺さぶられ起こされる。

 どうやら資料を捲りながら眠ってしまっていたようだ。

 俺を起こしたのは、資料庫の受付嬢だった。照れ笑いをしながら、軽く謝ると、そそくさと資料庫を出る。

 既に目的の資料は見つけていた。

 いや、見つけてしまっていた、と言うべきだろうか。


 当然ながら、白河議員が武市護民官の邸宅から持ち出した資料は資料庫にも保存されている物であった。

 となると、やはり武市護民官は、そういう資料名を偽ってファイリングして隠した別の資料を持っていたという事だ。

 そしてそれは公にしてはならないこと。

 偽りとはいえ、その名前を模したのなら、そこに手掛かりがあると信じたくなるのも人情である。

 持ち出した資料を眺めながら事務所に戻ると、空が暇そうにテレビを眺めていた。

「そろそろ、学校とか行かせたほうがいいかな……」

 人目に触れてはいけない存在とはいえ、余りにも非生産すぎる日々を過ごしている。軟禁と言っても過言では無いだろう。まぁ、隣近所くらいなら自由に散歩しているみたいだが。

「それが出来るなら早くしてよ。こっちは暇すぎて、毎日退屈なんだけど?」

「……そこら辺はおいおい賢木に相談するよ。で、何か面白い番組でもあったか?」

「んー?よく分かんない。バラエティも笑いどころが分からないし、ドラマもイマイチストーリーが理解出来ないんだよねぇ」

「こりゃ、本格的に国語とか習わせた方がいいかもな」

「違うって!言葉の意味とかは分かるよ。なんていうのかなぁ、情緒とか?そういうのがねぇ」

 空は首を捻りながらそう言う。

「たった数百年違うだけで、恐ろしい程文化や感覚というのは変化する。記憶こそ無いが、下手をすれば数百年どころじゃない、永い時間眠っていた空なら、その感覚の隔たりを強く感じても不思議じゃ無いだろうよ」

「七緒……来ていたのか」

 生欠伸を噛み締めながら、事務所の二階から降りて来た七緒は特に不思議がる様子も無く、空言葉をそう分析した。

「ああ……。軍部から禁制品を検査するスキャナーを作ってくれっていう依頼でな。事務所なら過去に持ち込まれた禁制品の目録程度なら資料としてあるだろうって考えて」

「禁制品って……銃火器程度だろう?金属探知機じゃ駄目なのか?」

「一番流通しているのは強化プラスチック製だ。それに、最近は貿易管理局の認可を通さない食品や機器類の類が増えて来ている」

「食品……輸出物で?」

「無論、空鳴市からの不法な輸出もあるにはある。だが、それらの殆どは市内での税率が低いタバコ類が殆どだな。こちらに入って来るので、今問題視されているのは、酒だよ酒。依存性が強く、健康被害も大きい、製造元の都市も不明な酒類がここ数日で市内に流入し始めている」

 タバコを吹かしながら、七緒は言うと、手持ちのタブレットからその酒類らしき写真を見せた。

 燻んだ深い緑色のビンで、サイズは小さい。ロングコートなどの深いポケットならすっぽりと収まりそうな大きさだ。

「多分何らかの植物を発酵させた蒸留酒なんだろうけど……、生憎市内のデータベースじゃ、その植物の特定までは至らなかった。アルコール度数は45から80程度。味はお世辞にも良いとは言えないな。色は乳白色で、妙な甘みと酸っぱさがある。喉の奥から鼻に抜ける独特の味わいが特徴的だな」

「随分ばらつきがあるな……」

「ああ、だから中央犯罪情報局は正式な工業製品では無く、何処かの都市の地下組織のような団体が作っていると推察している」

 しかしそんな話聞いてないな。

 まぁ、護民官とは言え、細々した犯罪情報まで目を通すというわけでは無いが、それにしてもそこまで大ごとになっているのなら耳にしてもおかしくは無い情報だ。

「要するに密造酒って訳ですよね。ネットで見ましたが、確かにお酒は税率が高くて市の財源の大きな収入の一つとはありましたが、そんなに大騒ぎする事ですか?」

 空が話に割り込む。いや、十分問題視するべき事だろう、と思ったが、俺達とは感覚の異なる空の話の続きを聞きたいという気持ちがあり、口を挟まずにいた。

「恐らく家庭レベルでの密造酒なら、公になってないだけで平然と行われているでしょうし、この地下世界の実情を考えると、寧ろ市外からの法外な密造酒が今更入り込むことに驚きは無いですよ。というか、これまで同様の問題が無かったことに驚きです」

 大騒ぎするには十分に値することではあるが、確かに言われてみれば、これまでに貿易管理局の検査をすり抜けて来た密輸品は山程ある。それこそ、金属探知機と貿易管理局ご自慢のX線検査機があれば、強化プラスチック製の銃だろうが『本当に』市内に入れてはいけないものは弾くことができる。

 だからこそ、市民の娯楽にもなりうる食糧や飲料物の多少の禁輸品については重要視してこなかった。

 だというのに、今更それを騒ぎ立てるというのは、確かに少し違和感がある。

「いつもみたいに、未許可の食材だとか、何処ぞの美術品程度なら管理局も騒ぎ立てないさ。だが、今市内で流通し始めている密造酒は、カラブリアと名付けられ、異様な依存性を発揮している。そしてそれが初めて確認されたのが、二週間前。丁度、空鳴市が未確認都市を発見したと公に発表した翌日だ」

「カラブリア……?まさか、カラブラの?」

「何それ?」

 空は俺の方に向き直り、首を傾げる。七緒にはまだまだ他人行儀が抜けていないが、俺はすっかりぞんざいな態度だ。

「二十数年前に各都市で流行った薬物だよ。接種すると幸福感と万能感に包まれるが、その依存性は高く、何よりも薬の薬効が抜けた時の虚脱感と飢餓感は社会全体を揺るがした。各都市はそれを売り捌く地下組織を抑えることで大きな問題までは発展しなかったが……」

「結局製造元はわからず、合同会議では、社会的侵略の為に何処かの都市がわざと流通させたのでは無いかと、疑心暗鬼なまま糾弾しあった過去もある。そして今回、私達が他都市を見つけたというタイミングでのカラブリアの流通だ。当然名前の通り、中身にはカラブラの組成が検出出来ている」

「つまり……本格的にいずれかの都市が、空鳴市への侵略を始めた……ってことか?」

 それも、限りなく証拠を残さないやり方で、今度は空鳴市一つに的を絞って。


「これは、護民官の怠慢だとは思うけどな、私は」

「どういう意味だ?」

「最後に外交使節団を派遣したのはいつだ?もう十年以上も昔だろう?この手の仕事は、護民官が議員をコントロールしないと動かないぞ?平時の外交政策は市民の人気取りには不向きだからな」

 七尾はニヤリと笑う。

 そんなこと、俺では無くもっと力のある姉貴の方にでも言えばいいのに、と心の中で悪態をつきながらも、あと一週間と少しで市外の連合調査団が来るということ思い出す。

(それまでに、今抱えている件をなんとかしないと)


 他都市との交渉段階で、空鳴市が不利な立場になることは、分かっていた。

 しかし、賢木が重い腰を上げて自ら調査に乗り出した今。

(あと数日程度で、足柄紡の事件も、武市護民官の事件も、片がつくだろう)

 そういう奇妙な信頼も、何処かにあるのは確かだった。

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