第3話 平穏の終わり ③

 先生、先生。

 と、かつての私は、黒江先生にベッタリだった気がする。

 護民官資格を得てから大学を卒業した私は、何処ぞの護民官事務所に所属する訳でも無く、日々を無為に過ごしていた。

 時折目にする政治のニュースは、下らない議題に対して呆れるような議論を交わして、分かり切った結論に着地する、大げさな茶番劇にしか感じられなかった。

 とはいえ、足踏みしていることもまた、無駄だと分かっていた。

 しかし、私が護民官になった理由を、いや、ならざるを得ない意味を理解できる事務所があるとも思えなかったのだ。

 私が幼少の頃に起こった、あの不思議な存在との出会いの意味を、あの交わした言葉の数々の真意を、この世界の真実を。

 それらを知る為に、私は、この街の深部へと足を踏み入れなければならないのだ。

 そういう意味を理解してくれる人がいない以上、自分で自分の事務所を立ち上げる以外に、道はないのだと、結論づけていた。

 とはいえ実務経験無しにいきなり事務所を立ち上げたところで、仕事が舞い込んで来るはずもなく、私はどうするべきか、と頭を悩ませていた。

 そんな時に出会ったのが、黒江先生だった。



「お久しぶりです、先生」

 鐘楼区学園は、私が通っていた当時とほぼ変わりなく、妙に世間離れした空気を纏っている。

 浮ついた、というよりも、ここに通う生徒の殆どが富裕層であるが故の危機感の欠如のような弛んだ空気感が蔓延していた。

 執務室にもなっている学長室には、政界から引退して十年目になる黒江先生が革張りのソファに深く腰掛けていた。

「何畏っている、昔通りでいいのだが」

「あの頃の私は若輩、というよりも礼儀も知らぬ田夫野人の類だったのですよ。それよりも、これ手土産です」

「おお……!妙厳の和酒か。それにグレードもかなり高い。かなり値が張ったんじゃないか?」

 顔を綻ばせる黒江先生は、さっそく奥の棚からグラスを取り出す。

 切り模様の入っているそれは、確か政界を引退された当時に、引退祝いということで黒江先生の奥様がプレゼントした物だった筈だ。

 それを躊躇も無く取り出した黒江先生の私に対する愛情に、どこか擽ったい気持ちもあった。

「それで、本日は何のご用で?」

「そんなに他人行儀に話しさなくてもよい。これはプライベートの話だ。も少し砕けた口調でも構わん」

「それなら、お言葉に甘えて。で、このタイミングで、ということは先生も例の新都市のことを?」

「無論、昨晩の内に耳に入っておる。受領壁から来た少女のこともな」

「……それは、七緒から?」

「物臭な姉はどうせ報告を忘れているから、と言っていたぞ。良くできた妹じゃないか」

 報告を忘れていた訳ではない。

 電話で済ますような内容では無いと思っていたからなのだが、愛想笑いを浮かべて曖昧に濁す。

「しかし、俺がお前を呼び出したのは別の件だ。受領壁の少女——空といったか?彼女の取り扱いについてはお前に任せるし、新都市に関しても、概ねお前の描いた青写真通りの展開だろう?それより気になるのが、足柄の事件だ」

 言外に、私の計画はとうに見透かしているとでも言わんばかりの口調だった。私としても探られて痛い腹は無いのだし、特別反応はしなかったが、黒江先生は私の悪巧みともいうべき計画に一枚噛ませてもらえない所に不満があるようで、年甲斐も無く堂々と不満そうな表情で私を睨んでいた。

 そこが何処かおかしくて笑みを漏らすと、ふん、と鼻息を鳴らして私の持ってきた和酒をグラスに注いで一息で飲み干した。

「ええ、足柄紬——紬は私の学生時代の友人でした。あの頃からシステム設計の分野で頭角を表していて、まだ26の若さだというのに、空鳴市の心臓でもある食糧公社の生産ラインシステムの責任者に抜擢されています」

「ほぉ……経歴だけ見れば立派なものだな。実はお前を呼び出したのは、その足柄紬から今朝、俺宛に封筒が届いた。中にはクリアファイルに収められた数枚の書類と、俺からお前に手渡して欲しいという旨の手紙だ」

「……拝見しても?」

「ああ……俺もざっと目を通したが、どうも足柄紬は何者かに命を狙われているという事実に気がついていたらしいな」

 手渡されたクリアファイルから、十数枚の書類を読んでいく。実に細々とした字が並んでおり、印字されたインクの掠れ具合からすると、昨日今日印刷されたものでは無いことが分かる。

「……『配給食糧生産予定スケジュール』……?日付は150年以上も前ね……。それから、『栄養ブロックの過剰生産に伴う、廃棄処分申請書』……」

 そのどれもが、もはや歴史的史料と表現しても差し支えないほどの古めかしいものだった。

 これらの資料を私に渡して、何が言いたいのだろうか。

「……最後の資料なんて凄いぞ。配給券制度から貨幣経済の導入に踏み切った400年近い昔の情報だ。当時の生産力向上と余剰物資の観点から、貨幣経済への移行提言書で、当時の旧配給庁の公的資料だ」

「……これを何故黒江先生経由で私に?」

 そもそも、彼女と黒江先生は知り合いだったのだろうか。

 そんなことを思っていると、私の持ってきた和酒をグラスに注いで黒江先生は私の前に差し出した。暗に飲め、と言っているのだろう。

 仕方なく喉を通すと、ガツンと殴られたような痺れが脳幹に走る。黒江先生の好みだから和酒を選んだとはいえ、やはり私は好きになれない酒類だ。

「分からんのだよ。同封してある手紙には、こう書かれている。『是をどうか、黒江大先生の手で、私の友人である賢木道枝に渡して欲しい。願わくば、道枝には私の代わりに私の意志を継いで欲しい』と」

「意志?紬の意志とは?」

「それも分からん。だが、文面からは、近い内に何者かに殺されることは覚悟していたようだ。その上でこの資料を、投函した。消印は一昨日になっている。少なくとも、この資料だけはその何者かに奪われたく無かったのだろうな」

 ……とは言われても、ざっと読んだ程度では、単なる食糧公社の雑多な資料としか感じられない。とはいえ、社外秘ではあるのだろうけど。

「殺人事件としての調査なら、既に阿方に依頼しています。とは言っても、私の興味を引いたのは、彼女の殺害現場のみにあったのですが」

「……ドローンの不具合か」

「それもありますが、一番は天候管理局ですね。市長の威光も届かない、市政開闢の頃から特権を与えられた雨宮家の独壇場。私は常々、あの秘密主義の一家を白日の下に晒して、天候管理局そのものを解体し、健全な公的機関にしたいと考えているのですよ」

 雨宮家は、神話無きこの世界において唯一、神話じみた逸話を持つ一族である。

 遥か昔、空鳴市上空を埋めるホログラムは、時折り雨垂れの様な空を再現した。だが、それは見かけだけで、実際に雨を降らせることはなかったらしい。

 ある時、宮永某という男が、不意に思い出したそうだ。空鳴市に付与されている天候システムの存在と、その動作方法を。

 この唐突さというのは、地下世界へ移住してから200年程度が経過した頃の話だということを考えると、異様な程に神秘性を持つ。

 記憶に先祖返りがあるのか否か、という与太話は別として、実際は空鳴市の何処かで天候システムの手引書か何かを見つけたのだろう、というのが一般的な市井の冷めた見解ではあるが、兎に角、天候システムが稼働したという事実は当時の市民にとって相当喜ばしい出来事であったようで、(何しろ、当時割り当てられていた空鳴市の水道使用量の二十分の一を雨水として使用する許可すら出ている)宮永某は、名を雨宮真次郎と改め、市政府から直々に天候管理局の管理と運営を任じられた。

「いかに空鳴市に大きな影響を与えた御仁の末裔とはいえ、もう十分に報いただろう。連中の秘密主義と血族主義、そして不可侵の特権はいずれ空鳴市に不利益をもたらす——私は、そう考えています」

「市長の頃、当然俺も連中の解体を目論んだが——雨宮家は狡猾だぞ。現職だった時ですら、雨宮家に抱き込まれた議員が何人いるのか、それどころか獅子身中の虫が居るのかどうかすらさえ、判明しなかったのだからな」

 まぁ、そうでなければ何百年もの長い間、一族のみで甘い汁を独占することはできなかっただろう。

「だが、雨宮家の線から、殺人事件を追うのならば、一人有益な情報を持っていそうな人間の心当たりがある」

「……それは?」

「——法道宗光。名前位は、聞いたことがあるだろう?」

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