第2話 鋼鉄都市 ③

 重苦しくて分厚い鉄の扉が、阿方の手によってゆっくりと開かれる。

 何故こんなにも空に対して焦がれるのだろう。とてもじゃないが、夢で見たという理由だけじゃ到底説明のできない強い願望だ。

 心のどこかで、空を見れば記憶が甦るような気がしていた。白煙の向こう側に朧気に見え隠れする、私の記憶を取り戻せるような気がする。

 だからこそ、阿方が開け放った扉の先に私は勢い良く飛び出してすぐさま空を見上げた。

 それは、空なんかではなかった。

 成る程、あの賢木という女性の語った、空を見たいという願いが常識外れだと言う理由がようやく理解できた。

 確かに、自分達の頭上にこんな物があれば、空を見たいという欲求は、鼻で笑われてしまうだろう。

 まるで何かの舞台装置のようだ。

 街の上部には一面に黒いレールのような物が張り巡らせていて、そのレールに沿うように無骨すぎるほどに不躾な白い人工的な光を煌々と輝かせる照明がぶら下がっていた。

 視線を這わせると、その街の四方は天井まで続く壁に囲われていて、何かの冗談のように整然と立ち尽くしている。

 空鳴市は——この街は大きな空洞の中に作られた街であったのだ。

「空はホログラムで再現されてる。だから、この高さまで登らないと、どうしても本物に見えちまうんだよな」

「……そうか、ようやく分かった」

 違和感の正体に気づく。

 あの時地上から見た空には、太陽がなかったのだ。雲一つなく、青々と広がる空。なのに、太陽は無く、それでいて街は太陽に照らされているかの如く明るかった。

「私の記憶だと。いえ、記憶は喪失してるんですけど、知識だと、人は地上で暮らす生き物だったはずです」

 それが何故、こんなところに押し込められているのか。それが理解し難いし、納得するような理由があるとも思えない。

 いや、そもそも。

 何故私は記憶を失った状態でこんな場所にいるのだろう。


 この街を異常だと思える私は、明らかにこの街の異物に他ならないというのに。


 ◇




 唐突さを感じさせない程には、その疑問を抱くのは自然だと思う。

 生まれてからずっとこの街に住んでいる俺でさえ、ふとした拍子に舞い降りる疑問だからだ。

 まるで子供の頃に考える死後の世界と同じように、そのことについて深く考えると漠然とした恐怖が心を支配する。

 無垢という訳でもない。純粋さの欠片もない。この街の成り立ちを知るのに、神話の世界まで遡るほどのロマンチズムを必要としないのは、古代の人間がその漠然とした恐怖を和らぐために覆ってきたベールの恩恵なしに、その恐怖と愚直に立ち向かうことと同義であるからだ。

「……おおよそ800年前にこの街に俺たちの先祖が暮らし始めたと聞いている。当時はファウンデーション3と呼ばれていた。その意味は分かってはいないが、とにかく数世代をかけて俺達はこの街を発展させて拡張を続けた」

 記憶喪失の少女は、その800年という期間を長いと感じただろうか。それとも短いと感じたのだろうか。

 彼女の受け取り方がどうであれ、俺達が何故こんな四方を岩壁に囲まれた空間で過ごさなくてはならなかったのか、その理由を忘れ去ってしまうには十分な時間だったのは確かである。

「ただまぁ、一般的には俺達の先祖がとんでもない罪を犯して、ここに放り込まれたといわれている」

 それが真実であるかどうかは別としても、事実として、過去俺たちの先祖は地上で暮らしていたというのことは分かっている。

「罪……?」

「ま、それは御伽噺のようなものだ」

 まるで本当に罪人の街だと勘違いしそうだったので、俺は付け足すように言う。

「地上には?出られないの?」

 街の天井——彼女からすれば違和感の塊であろう——からようやく視線を外して俺を見た彼女の瞳は、不安の色が浮かぶ。

「出られる、出られないに限らず、ずっと昔から地上へ出ることは禁じられてる」

「その言い方ですと、地上へ出る方法はあるようにも思えますけど」

「まぁ、あるにはあるんだろうけど、それを探すことすら禁則事項とされているからなぁ。それに当然、ここの市民達もそれに納得している」

「……どういうことですか?」

「さっきの御伽噺はただの寓話に過ぎない。俺たちの先祖がわざわざ地下深くに街を作ってそこに住むようになったのかを現実的に考えれば自ずと予想はできる」

「……阿方さんは迂遠な物言いがお好きなようですね。出来ればもう少し噛み砕いて説明してもらえると助かるのですが」

「要するに、地上に住めなくなった理由があるのではないかって考えられているのさ。例えば核戦争で焼け野原になった、それともどうしようもない病原菌が蔓延ってしまった。環境の変化に人類が対応できなくなった。幾らでも候補はある。そしてその可能性がある以上、わざわざ閉じた蓋を開けて危険を呼び込む必要はないってことさ」

 例えば地上に致死率の極めて高いウィルスが漂っていたとして、それがこの閉鎖した空間に入り込んだらとてつもない大惨事を引き起こすことは目に見えている。

 過去何百年と俺たちはそれを恐れて、地上への夢を見ないようにしてきた。

「空鳴市ってのはさ、ここに住み始めてから200年経った頃の市長によって新たにつけられた呼び名だ。それは同時に、地上への帰還の夢を断ち切って、この地下空間で暮らしていく決意でもあったんだよ」

「それじゃあ……もう空は」

「この空で我慢するんだな。張り巡らされた電線のノイズが聞こえる、この空鳴市の空でな」

 耳を澄ますと、ジジジジ……と妙な音が聞こえる。それはここの住人をまやかす為のホログラム装置が奏でる駆動音であり、まさしくこの市の名前の由来でもあった。

「この小さな街で、何百年も……」

 彼女を除いて、今ここにいる市民は全員が生まれた時からこの環境以外での生活を知らない。だからこそ、彼女が抱くこの街の印象を推察する余地も無ければ、その逆もまた想像する術を持たないだろう。

 俺はその時彼女が俺の目の前で振り返ったときの表情を見て、改めてそう思い知らされた。

 悲しんでいるのか、はたまた絶望しているのか。少なくともポジティブな感情ではないだろうと思っていたのだが、彼女は笑っていた。

 振り返った時にふわりと空気を孕んで浮き上がった真っ黒な髪の隙間から、彼女の無垢な笑顔を見たのだ。

「じゃあ、私が空になります」

「……ええと」

「名前ですよ。自分の名前が無いのは不便ですから。この街に空がないのなら、私が空を名乗ります」

 まるで面白い悪戯を考えた子供のように、純粋そのものだけを浮かべて、彼女は笑っている。

「空か。そうだな、良い名前だと思う」

 こんな世界で、自ら空を名乗るこの少女が何を思っていたのか。

 思いがけず、俺も笑顔を浮かべていたようである。

 本物の空というものを生まれてから見たこともないが、かつて俺たちの先祖が見上げてきた真っ青などこまでも続く限りなく広い空は、彼女のように純粋そのものに見えたのだろう。

 自然と、俺はそんなことを思っていた。

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